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1: 人間七七四年 2007/02/21(水) 00:11:33 ID:E5M7anSD
三好に追われたとか、織田に騙し討ちにされたとか言っていますが、彼らもかなりえげつない事をやっています。

-被害者の声-
細川氏綱さん「父はあなたを信用していたのに・・・」

内藤如安さん「お父さんを返して下さい」

松永久秀さん「弟を返して下さい、甥が不憫です。おじちゃんがお父ちゃん取り返しといたるから、な、せやから泣くな如安」

明智光秀さん「私の唯一の肉親を殺すなんてあまりの仕打ちです」








丹波波多野氏

出自については諸説ある。一説に波多野義通を祖とする。また一説には因幡国八上郡田公氏の族とする。さらに一説には桓武平氏系の三浦氏の出自とも、丹波の豪族・日下部氏の庶流ともいわれ、前歴にはかなり不明な点が多い。

応仁の乱で細川勝元(丹波守護)方に属した波多野秀長が、その戦功により丹波多紀郡を与えられたのが丹波に波多野氏が勢力を扶植した始まりで、政元にも仕えて以後、波多野一族は多紀郡を中心に丹波国一円へ勢力を伸ばした。

秀長の子で英君といわれる波多野稙通は永正12年(1515年)、朝治山に八上城を築城し、ここを本拠として守護代である内藤氏を討ち、さらに細川氏の勢力を駆逐して、戦国大名として独立を果たした。

しかし、稙通の子・波多野晴通が暗愚であったため、波多野氏は三好氏の侵攻で衰退していき、最終的には松永久秀や守護代内藤氏を継承した松永長頼らに攻められて、服属することを余儀なくされた。

晴通の子・波多野秀治は三好氏の勢力が衰えると再び独立を果たし、永禄9年(1566年)には八上城を奪回した。永禄11年(1568年)に織田信長の上洛の際、赤井直正とともに信長に1度は降伏する。天正3年(1575年)からは反織田勢力である丹波の諸豪族を討伐するために信長が派遣してきた明智光秀の軍に加わって織田家のために働くが、天正4年(1576年)1月に突如として足利義昭の信長包囲網に参加して光秀を攻撃し、撃退してしまった。このため、秀治は信長と敵対する。

一時は織田軍を撃退したものの、天正7年(1579年)、遂に秀治は降伏した。その後、秀治は弟の波多野秀尚とともに信長によって処刑され、戦国大名としての波多野氏は滅び去った。





2: 人間七七四年 2007/02/21(水) 00:15:33 ID:0VhtcZzG
光秀の母親云々は創作と聞いた

5: 人間七七四年 2007/02/21(水) 00:26:50 ID:0VhtcZzG
松永久秀が対波多野戦で活躍しているね。
波多野が三好から完全に独立したのはいつからだろう。

46: 人間七七四年 2007/08/30(木) 21:42:43 ID:ptHtcLhw
>>5
久秀が丹波で暴れたのは、弟・長頼が戦死してから?

7: 人間七七四年 2007/02/21(水) 00:57:08 ID:MI5GTkQ/
波多野は細川に従属してたイメージが。

8: 人間七七四年 2007/02/21(水) 02:53:45 ID:E5M7anSD
>>7
ところが、高国をヌッ頃してる。

10: 人間七七四年 2007/02/21(水) 18:46:56 ID:vtut36JR
>>1
人のこといえん奴が何人か入ってるな。

12: 人間七七四年 2007/02/21(水) 22:57:51 ID:ZWc9LLm3
植通=知勇兼備
晴通=ボンクラ
秀治=そこそこ、そしてしぶとい

俺の印象はこんな感じだな。
秀尚はどうなのかは知らんが。


あと秀治、秀尚の辞世が個人的に好き。

24: 子孫♀だけどさ。 2007/04/03(火) 03:50:21 ID:hHBQlNY0
>>12
それって光栄のデータでしょ?
あてにならないよ。
秀治公はたしかに織田家に屈したけど、そのまえに当主(丹波連立政権代表)としての責任をちゃんと果たしてる。
有力家臣の通称丹波の赤鬼『赤井直正』や青鬼『籾井業成』それに『本庄兵庫』、『荒木晴綱』、『御川飛騨守』、西丹波衆筆頭『波多野宗高』をよく束ねてたし。
末期の勢力でよくある裏切りは上記の有力家臣からは誰一人いない。
秀尚公もけして無能ではない。
西波多野衆に属して転戦している。

58: 人間七七四年 2008/01/03(木) 22:53:45 ID:S90ijdGg
>>24
籾井は赤井を際立たせるための後世の創作といわれてるがどうなんだろう。
波多野家、赤井家って史料すくないんだよなぁ・・。

16: 人間七七四年 2007/02/24(土) 12:20:36 ID:Yd9yH5Re
この家って、相模の豪族だった波多野氏の一族?

142: 人間七七四年 2012/03/24(土) 05:27:28.48 ID:kziDDzlQ
>>16
>この家って、相模の豪族だった波多野氏の一族?

複数の説があるけど、元は丹波の豪族・日下部氏の庶流で、母方の波多野姓を勝手に名乗り、後裔と称したとする説が強かった筈
波多野家から嫁を貰って、その子孫が勝手に波多野に出自を変えたって事だな

19: 人間七七四年 2007/03/02(金) 14:08:17 ID:O9un9dfl
他の説もあるが相模波多野庄説もある

23: 人間七七四年 2007/04/02(月) 16:30:46 ID:ajgyAAxp
大友氏の苗字由来地の相模国大友荘は、古庄能成(大友能成)の母の生家の波多野氏の領地。

32: 人間七七四年 2007/05/04(金) 12:46:28 ID:J1kBVwU5
なんで信長の野望だと家紋が鳳凰なん?
島津に良く似た家紋だったよね
やたらと資料が少ないんでっけど、この家
史跡はいろいろあるのに

33: 人間七七四年 2007/05/08(火) 03:27:47 ID:X13oFKGY
>「島津とよく似た家紋」

この波多野氏が相州波多野氏の後裔ならば、関連あるかも。比企禅尼で有名な比企氏は相州波多野一族で、その比企氏と島津氏は婚姻を重ねているから。

34: 人間七七四年 2007/05/08(火) 16:22:41 ID:ZhuKE4Ap
>>33
丹波の波多野氏の出自はじつのところ不明
相州波多野庄の波多野氏を祖とする説もある

36: 人間七七四年 2007/05/08(火) 20:56:56 ID:VeNrOVvF
5年位前八上城跡登ったけど、今考えると野生の動物が襲ってきそうで物騒だったかも・・・
そんな田舎ですた

43: 人間七七四年 2007/06/15(金) 21:19:51 ID:dp/kKBRa
八上城あとが昔もあんなもんならこれは山賊?と言わざるを得ない

49: 人間七七四年 2007/09/22(土) 04:33:12 ID:rsbUHX8G
丹波の兵て松永の弟倒したり光秀撃退したりけっこう強いイメージだけどとても防具とかよくなさそだしなんでかな?
山育ちだから?

52: 人間七七四年 2007/09/26(水) 11:08:34 ID:TzqV0ahw
>>49
光秀が攻めあぐねたのは赤井の離反と、他戦線に使い回されて丹波に集中できなかったから。
光秀が丹波に張り付いていたら、こんなに手間は掛からなかったよ。

51: 人間七七四年 2007/09/22(土) 10:51:13 ID:GV3HYbvR
山岳地帯で責めるに難しく護るに適した地域ということもある。

54: 人間七七四年 2007/11/12(月) 09:15:10 ID:Cy8SH2vN
光秀の母を人質にして、和議・開城ってのは史実じゃないでおk?
本能寺の変の原因

天正7年(1569年)6月、丹波八上城に自身の母親を人質として出して、本目の城(神尾山城か)に招いた八上城主の波多野秀治・秀尚兄弟や従者11人を生け捕りにして安土に移送したが、信長の刺客に襲われた秀治は殺害され、秀尚以下残った者は磔にされた。これに激怒した八上城の家臣は光秀の母親を磔にして殺害してしまった。殺害された母親の死体は、首を切断され木に縛られていたと言われる。
しかしこれは他の史料とは一致せず創作である。

『信長公記』では光秀は八上城を前年より一年間包囲して責め立てて兵糧攻めで丹波兵を餓死させ、諦めて最後の出撃に出た敵を悉く討ち取ったとある。捕虜にした波多野兄弟3人は同年6月4日に安土の慈恩寺(現在の浄厳院の付近)の町外れで磔にされたが、すでに観念して神妙な最後を遂げたとある。


144: 人間七七四年 2012/08/20(月) 00:39:49.97 ID:fwYqrfeo
光秀の実母だと騙されて乞食女を串刺し刑に処した波多野家の連中は、攻め込む理由を与えた大バカ者どもじゃ。
何でも怒りに任せて事を急ぐとろくな事が無い。

145: 人間七七四年 2012/08/27(月) 15:39:36.88 ID:4y54AKJO
そもそも人質云々の話自体がかなり後世なってから出てくる眉唾物の怪しい話だけどな

70: 人間七七四年 2008/03/08(土) 04:07:08 ID:loFx5xxw
波多野より赤井のほうがすごいような。
松永長頼の丹波侵攻にも唯一勢力を守りきったよね。
丹波衆は豪族連合ながらよく戦ったほうだよね

79: 人間七七四年 2008/07/02(水) 03:42:51 ID:9xMeYvov
波多野って鎌倉の御家人から代々続く名家だと思ってたけど、どうもそうじゃないんだってな、こないだ初めて知ったぜ

80: 人間七七四年 2008/07/02(水) 12:11:18 ID:TtpNizZ9
室町幕府評定衆の波多野氏とはどんな関係なんだろうか
名字が同じだけなのかな

81: 人間七七四年 2008/07/04(金) 00:44:26 ID:pRSa27lf
波多野氏っていっても一杯いるからねぇ

幕府評定衆の波多野氏は越前の波多野家で、波多野義重が承久の乱の戦功によって、越前国比志庄を賜って移ってきたもの
この波多野氏は京都での事務職に代々就いていたことが知られている

丹波八上の波多野氏は「自称」波多野義重の流れらしいが、実際のところは応仁の乱の前後に山陰地方から移ってきたと言われてるようだ

その出自は不明で、因幡の田公氏の流れとも、日下部氏の流れともはたまた石見の吉見氏流とも言われとります

82: 人間七七四年 2008/07/04(金) 19:33:25 ID:IIxnEYRK
波多野兄弟と赤井直正は資料少ないけど評価は大旨高いよな
小説とかでも秀吉以外では光秀が唯一、苦戦した相手だしね

90: 人間七七四年 2008/11/25(火) 00:29:26 ID:SwUNIdBj
波多野は細川晴元に対して、八上城を落とされるまで忠実に従い続けた。
晴元政権崩壊以前も晴元に逆らったことはなかったはず。
松永長頼が八木城を押さえていなければ、丹波一国は晴元方になっていた可能性もある。
三好政権に対しての、晴元の戦い方も変わっていたかも知れない。

120: 人間七七四年 2009/09/10(木) 17:06:35 ID:g7+OLvf7
何かもう結構既出意見だけど赤井氏って波多野より版図広げた丹波最大の勢力だったのね。
信長の野望とかで波多野の家臣扱いになってるのは、なんかおかしい気がするわ
三好勢の侵攻に際して波多野は一度降ってるけど赤井氏は独立を唯一保ってたみたいだし

130: 人間七七四年 2010/08/17(火) 13:56:25 ID:cbQ1uAp3
現在の尾張に波多野さんが多いのは何でですか?

139: 人間七七四年 2012/03/23(金) 00:22:49.57 ID:D6MS0n5b
>>130
http://ameblo.jp/aichioshiromeguri/day-20120203.html
大沢城(おおさわじょう)
>南北朝時代 (1336~92)頃に築かれた波多野氏の居城。
>鎌倉時代の御家人・波多野義重に始まり、子孫は足利尊氏に属し、三河を与えられ、代々森下村(現在の豊沢)を拠点としました。
>戦国時代は一色城(豊川市)の一色氏に使えましたが、波多野時政(全慶)が主君・一色氏を討ちましたが、牧野古白に倒されます。
>それ以後も波多野氏は森下村の小領主として存続しました。

http://kanehatano.web.fc2.com/setaisuuooiiken.html
>★第一位 愛知県
>世帯数1位の春日井市(141)と3位の小牧市(96)や密度3位の宝飯郡御津町(1.73)など堂々の一位を誇る。
>御津町は、4049世帯に対して70世帯あるということである。
>>web歴史上の人物; 波多野全慶  
>波多野氏は御津荘森下に住した有力土豪であるそうな。
>1493年没の戦国を生きた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/波多野全慶
波多野全慶
>波多野 全慶(はたの ぜんけい、生年未詳 - 明応2年(1493年))は室町時代の武将である。
>全慶は入道名であり、俗名は時政(ときまさ)。三河国二葉松では、秦野全慶になっている。
>一色時家の被官になったが、文明9年(1477年)に応仁の乱末に西軍であった時家を討つ。
>享徳の乱の和睦の都鄙合体(とひがったい)の10年後に、灰野原の戦いで、同じく時家被官の牧野成時(古白)に敗れて戦死。
>概要
>波多野氏は征夷大将軍となった足利尊氏より三河国に所領を与えられ、宝飯郡に大沢城(愛知県豊川市御津町豊沢)を構えた。
>波多野時政(全慶)は、三河国の有力氏族の一色氏の一色時家の被官となった。応仁の乱の末期の文明9年(1477年)、西軍に所属していた宝飯郡牛久保の一色城(同県同市牛久保町)主の一色時家に乱を起こし、討ち滅ぼしてしまう。
>乱では丹波国で波多野秀長が東軍に属していた。
>同じ頃、関八州では、下総国葛飾郡古河(こが)御所(現、茨城県古河市)の古河公方の足利成氏が、関東管領の上杉氏や京の足利将軍家と戦い享徳の乱となっていたが、1483年1月(文明14年11月)に征夷大将軍足利義尚側と古河公方足利成氏の和睦(都鄙合体)がなり、関東公方の足利持氏・成氏の名誉が回復された。
>一色家の没落は鎌倉公方足利持氏の残党を一色義貫が引き受けたことによるが、都鄙合体により持氏・成氏側に正統性が出て来て風向きが変わる。
>明応2年(1493年)、波多野時政(全慶)は同じく故一色時家の被官であった牧野成時(古白)と灰野原の戦いを行う。
>時政(全慶)はこのいくさで敗れて戦死する。しかし、波多野氏は全滅せず、この地域に残った。

141: 人間七七四年 2012/03/23(金) 00:42:00.02 ID:D6MS0n5b
>>130
補足する必要はないと思うけど、この波多野全慶の奮戦によって、その子孫達が尾張に根付いたらしいよ
尾張地方に住んでる波多野さんは家系図が残ってない家系でも大抵は全慶の子孫
余所から越してきた人でもない限りはね

131: 人間七七四年 2010/08/17(火) 14:07:31 ID:Y3y32b7/
そういや俺が名古屋で送った中学時代の学年主任の先生も波多野だったな。

北陸からすとーんと降りてきたんじゃねえの?
名古屋は福井とか富山の出身者が多かったし。

134: 人間七七四年 2011/08/20(土) 02:05:50.76 ID:nGSUGsM4
丹波の波多野家って細川政元が連れて来て、丹波に領土与えたらしいじゃん。

138: 人間七七四年 2011/10/05(水) 13:39:03.21 ID:Ja+MqAxF
People In The Boxの波多野さんも辿っていったらこの家系かもね。

140: 人間七七四年 2012/03/23(金) 00:37:05.56 ID:D6MS0n5b
>>138
波多野姓は異流が非常に少ない
昔読んだ旧字体の姓氏録によると、藤原北家秀郷流(これが例の波多野義道の家系)、他には漢字では秦野と当てる桓武平氏があり
残るもう一つ、羽田野という漢字を当てる出自不詳の家系が三河にあったはず(神職だっけか?)
波田野は波多野の字違い
「ハタノ」姓は基本的に藤原氏系の波多野氏か、桓武平氏系の秦野氏の二つに大別される

http://home.k00.itscom.net/acss/social/name/name_ha.html
>波多野 25.3  相模国餘綾郡波多野邑発祥の藤原氏秀郷流ほか清和源氏 宇多源氏 熊野別当族 新羅帰化族など

波多野姓で清和源氏、宇多源氏、熊野別当族、新羅帰化族の出自であるのは多分少数派


引用元: ・【極悪】波多野家【非道】