Harusada_Tokugawa



1: 日本@名無史さん 2007/09/27(木) 00:06:21
極悪非道の策士、一橋民部卿治済






Harusada_Tokugawa


徳川 治済(とくがわ はるさだ / はるなり)は、江戸時代の御三卿の一つ一橋徳川家の第2代当主。江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の孫で、第11代将軍徳川家斉の実父である。一橋徳川家初代当主・宗尹の四男として生まれたが、兄の松平重昌と松平重富が越前福井藩を継いだため、宝暦8年(1758年)に嫡子(一橋家の継嗣・次代当主)となる。

田沼意次が幕政を指揮する中、一橋家には意次の弟意誠や甥意致が家老となり、一橋家家臣とも縁戚関係を築いていた。しかし治済は松平定信ら反田沼派の黒幕として運動し、天明6年(1786年)、将軍・徳川家治が亡くなり長男の豊千代改め家斉が11代目の将軍職に就任すると、意次の罷免、田沼派の一掃を行わせた。

天明8年(1788年)に家斉は治済を大御所待遇にしようと幕閣に持ちかけるが、当時朝廷で光格天皇が実父・閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしてこれに反対した老中の松平定信と対立する尊号一件が発生していた。その結果、治済の「大御所」待遇もできなくなり、治済・家斉父子の怒りを買った定信は失脚した。

従一位准大臣まで昇進し、将軍実父として権勢を誇り、没するまで幕政に隠然たる影響力を持った。



4: 日本@名無史さん 2007/10/10(水) 22:55:19
准大臣従一位まで昇りつめたおえらい方ですぞ。

6: 日本@名無史さん 2007/10/23(火) 22:58:32
田沼意次を葬ったのは実はこいつ

7: 日本@名無史さん 2007/10/28(日) 03:07:56
つまり一橋治済が極悪人かどうかは、田沼意次をどう評価するかによる。

10: 日本@名無史さん 2007/11/04(日) 23:32:08
田沼意次も松平定信もこの男には使い捨てにされた

96: 日本@名無史さん 2010/03/20(土) 23:47:21
>>10
田安定信は三卿筆頭家田安家出身。1橋は田安はおろか第三位格の清水家も潰し 御三家はおろか御ニ卿にも将軍位を継がせないよう全力を注ぎ 事実そうなたが 水戸に母屋乗っ取られた哀れな権力亡者だた(´~`;)

99: 日本@名無史さん 2010/03/31(水) 01:26:49
>>96
清水家は潰されたの?
初代の重好の時点で後継ぎが出来なかったんだから単なる自滅じゃね。

108: 日本@名無史さん 2010/04/29(木) 14:52:53
>>96>>99
「有徳院様(吉宗)思召」をタテに、御三卿に嫡子がない場合は、その家を明け置いて、将軍に庶子が出生した場合に限り、その家を継がせるべきだと主張し、清水家を収公(中絶)しようとした御三家に対して、一橋治済は反対していますね。

これは、治済本人は否定していますが、実は彼の七男亀之助(のちに高須松平家に入った義居)を空家となった清水家へ送り込もうとしていたからだと言われています。

9: 日本@名無史さん 2007/11/02(金) 23:49:41
尊号一件
尊号一件

江戸後期、光格天皇が生父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして幕府に拒否された事件。

1789年(寛政1)朝廷は尊号宣下の承認を幕府に求めたが、老中松平定信は、本来太上天皇は天皇退位者に贈られる尊号であるのに、皇位を踏まぬ典仁親王に贈ろうとするのは、名誉を私するものだとして反対した。しかし、朝廷側も譲らず、その後繰り返し交渉が行われたが、幕府の断固たる拒絶にあってついに実現せず、93年に武家伝奏の正親町公明、議奏の中山愛親の二卿が江戸に喚問され、愛親は閉門、公明は逼塞の処罰を受けて一件は落着した。

当時、11代将軍徳川家斉も生父の一橋治済を江戸城西の丸に迎えて、大御所の称号を贈ろうと計画しており、これに反対の松平定信は、その先例的事実となる尊号宣下に強硬に反対したともいわれている。


11: 日本@名無史さん 2007/11/09(金) 00:25:25
尊号一件って上皇はダメといったら大御所もダメで、定信の老中職があぼーんしちゃった件?

30: 日本@名無史さん 2008/01/11(金) 22:52:01
>>11
そうそう。
光格天皇に父君(閑院宮典仁親王)への太上天皇尊号は罷りならんといった手前、将軍家斉にも父君(一橋治済)への大御所尊号は罷りならんといわざるを得なくなって、松平定信は失脚した。

31: 日本@名無史さん 2008/01/12(土) 10:54:52
松平定信は「公家諸法度」に規定がない、といって反対したんだよね?
むしろ、一橋治済が大御所として幕政に口だしするのを封じるために将軍実父に大御所の称号を与えず、将軍実父ですら大御所を与えられないのだからといって天皇の実父にも太政天皇号を拒否したんじゃなかったっけ?
松平定信は血筋的には将軍にもなれる出自であったから、一橋治済から目の敵にされていたとか。

33: 日本@名無史さん 2008/01/12(土) 17:08:12
>>31
時系列的には逆のように思う。つまり、上皇NGが先で大御所NGが後。
ただし、定信が上皇NGと言った時点で一橋治済の存在も念頭に置いていた可能性はあるね。
天皇とか上皇は幕府や征夷大将軍よりも以前からあるから、大御所NG=上皇NGは説得力にはならないような気がする。
しかしその逆なら説得力がある。
治済は定信については家斉擁立とその後の政局運営に利用したに過ぎないと思っていたからいずれは排斥したかっただろう。
定信は田安を追われたものの、田沼意次を排斥して政権を取りたかったから、当初は利害が一致していた。
しかし自分の改革政治運営上治済は邪魔。それを抑える為には「大御所」みたいな存在にしてはならなかった。
そんなところかな。

14: 日本@名無史さん 2007/12/01(土) 17:05:20
一橋家始め御三卿は部屋住みに近い存在。
十万石の賄い料はあるものの、一国一城の主とはいえない。
例えば御三家は尾張60万石、紀伊55万石。外様の大大名にも引けを取らない待遇を受けている。
水戸は25万石前後で少し小さいが参勤交代が免除され江戸在住。世評は天下の副将軍。
つまり、彼等は将軍嗣子がない場合の血統のプールで後継問題には絡んでくるが、例え後継者になれなくても大大名として、かつ藩主としての生涯が約束されている。
決して不遇の存在ではない。
水戸光圀、また井沢氏の好きな尾張宗春が、それぞれ綱吉や吉宗の政策に異議があった場合に自分の藩ではそれに対抗するような政策を採って反骨を示したけれど、それが出来るのは一国一城の主だから。
これが一橋家だと、やりたくても出来ない。制度上は将軍家の家族。藩を持っている訳でもない。
それと、何代か経た後の御三家には「譜代の家臣」も存在している。
しかし御三卿の家臣?(用人と呼ばれる)は言ってみれば幕府からの出向。だから田沼意次の係累も一橋家にもいる。田沼意次の意向もそのまま反映される。
また末端の用人はいわば子会社に出される出向者なので幕府からすれば窓際以下の扱い。喜び勇んで赴任するものなどいない。
かつて松平定信は、田沼意次に贈賄してまで幕閣入りを運動したが、辞令は「溜間詰」。つまり表の公職ではない裏役だったので大いに落胆したという話があるが、一橋家用人の辞令を受けるという意味も同じような受け止められ方だっただろう。
幕府での出世の道が断たれる。
一橋家などの御三卿は、だから党首もやりたいことが自由にできない、田沼の権力は浸透している。そして多くの用人はやる気なし。
資本と役人のほとんどを親会社に占められ、出世から外れた出向社員で構成される子会社と同じような境遇なんです。
こんな境遇に不満を抱いた子会社の社長、いや一橋家の党首である治済にとって、何か可能性を考えるとしたらそれはただひとつでしょう。
それは、「一橋家から将軍を出す」こと。
これだけが、まさに唯一の現状打破への望みとなったはずです。こんな境遇に置かれたら、やる気を出すとしたらそれしかない。
治済があのような存在になったのは、治済の個人的資質もあるでしょうが、やはりそのような立場のなせる業ということになりますね。

23: 日本@名無史さん 2007/12/16(日) 20:04:15
>>14
それを言っちゃうと諸悪の根源は吉宗になるんだよなあ

おかげで家治や家基が暗殺されるし

24: 日本@名無史さん 2007/12/18(火) 01:07:19
家基はハンミョウの毒による暗殺説があるけれど、家治は暗殺???

54: 日本@名無史さん 2008/07/06(日) 12:25:03
>>24
家基の死はおそらく偶然。
吉宗が将軍になった経緯を見れば、別に珍しくもない。

25: 日本@名無史さん 2007/12/29(土) 21:58:42
家治は病死だよ
ただ、田沼意次が薬を差し入れして、その後危篤になったから意次のせいではと勘ぐられた。

39: 日本@名無史さん 2008/02/11(月) 00:47:44
『江戸城・大奥の秘密』読んでるが
いやー、ひどいやつだな治済
これの参考文献らしい「松平定信の入閣を巡る一橋治斉と御三家の提携」高澤憲治(『近世国家の支配構造』所収)には、他にも治済の悪事が紹介されてるようだが

40: 日本@名無史さん 2008/02/11(月) 05:50:17
お富の話が有名だが、お富の実家である岩本家も結構策謀の家。
田沼も結構策謀家で、田沼意致が一橋家に入っているが、岩本家もなかなか寝業師で一橋と結びついた。

43: 日本@名無史さん 2008/04/09(水) 14:35:35
田沼家転封の時の将軍家上使が岩本だったっけ?

47: 日本@名無史さん 2008/05/19(月) 22:37:21
何気に家康以上に長生きしている

48: 日本@名無史さん 2008/05/20(火) 10:16:58
大御所以外で存命中に将軍の父になった唯一の人物。

50: 日本@名無史さん 2008/05/25(日) 14:39:03
一橋治済策謀三昧
日本の歴史でも稀有な謀の達人
どういう生い立ちで、どういう育ち方をした結果ああいった考えに達するか、この人の人物を掘り下げた伝記みたいなの読んでみたい。

52: 日本@名無史さん 2008/05/26(月) 20:16:58
確かにこの一橋治済という人物、史実のみに着目しますと悪役・謀略家っぽい。
ホントに実際そうだったのでしょうか!

田沼と組んで定信を三卿筆頭の田安家から追い出し、田沼用済みと見るや田沼を追放し、定信を幕閣に登用し、尊号事件などで定信用済みとみるや定信の老中職を解任、大御所でもないくせに将軍実父として勝手放題。
しかし、この人物を悪役として「大河ドラマ」などを作れば面白いとは思います。

66: 日本@名無史さん 2009/02/14(土) 18:23:11
昔のNHKドラマ「天下御免」では、平賀源内が主人公で、田沼意次は、源内と親しく庶民にも理解があり、開明的で立派な政治家として描かれていた

で、家治は治済に毒殺され、意次も失脚。
源内の友人の浪人がそれに怒って治済を斬ろうと押しかけるとかいうトンデモ場面もあった。

68: 日本@名無史さん 2009/02/14(土) 21:20:31
田沼は今でこそ再評価されてるけど、治済が肯定的な評価をされる事は全然無いな。

69: 勝手掛老中格水野出羽守忠成 2009/02/14(土) 21:52:43
水戸以外の御三家御三卿を一橋系で乗っ取り、治済、家斉、家慶三代で大臣を独占したり、大御所待遇にしろと画策したりなど、治済は一橋王朝を作ることしか考えていなかったからな。

70: 日本@名無史さん 2009/02/15(日) 13:24:29
越前家へ行った2人の兄がカイソス

71: 日本@名無史さん 2009/04/08(水) 22:33:27
早死にした重昌はともかく重富は悔しかろうな

81: 日本@名無史さん 2009/09/08(火) 16:58:04
>>14が言っているように治済の兄たちにとっては大名家の養嗣子になれたほうがむしろ幸福だったんだよ。
幕府(親会社)に何もかも手足を握られた御三卿(子会社)の当主よりかは越前家の当主のほうがまだまし。御三卿の当主が存在感を示せるのは唯一徳川宗家の後継者を決めるときしかないだから。

86: 日本@名無史さん 2009/09/28(月) 14:13:27
妾腹の一橋治済には正妻腹の兄がいたけど兄が越前に養子に行ったお陰で一橋を継げたんだよな

90: 日本@名無史さん 2009/12/27(日) 19:22:35
権勢欲はあっても政治理念のない人

95: 日本@名無史さん 2010/03/20(土) 22:52:34
政に興味無しの将軍家治
コテコテの朱子学の徒の定信
権力欲はあるが政治理想は無しの治済

吉宗の孫たちは皆困ったやつらだw

97: 日本@名無史さん 2010/03/21(日) 10:29:36
権力への飽くなき執念といい、執拗なライバル潰しといい祖父様にそっくりw

98: 日本@名無史さん 2010/03/21(日) 13:30:03
2人の兄は越前家へ養子に出されるオマケ付き。
祖父様の場合は2人の兄は死んだから少し違うが。

103: 日本@名無史さん 2010/04/25(日) 21:46:33
治済の「大御所」問題については、最近、そのような事実はなかったという見方があります。
たしかに『文恭院殿御実紀 付録巻二』や、その典拠にされた『文恭公実録』をソースとする有名な治済の「大御所」問題は、年代が合わないなどその記述に致命的な欠陥があることから、信憑性を疑うべきで、事実は以下のような顛末だったとする学説です。

つまり、一橋邸が手狭になったので、寛政2年田安門外の飯田町に新たに邸地を拝領したが、更地のため自力では建設が困難として、城内二ノ丸か三ノ丸の空き屋敷に入りたいという意向を家老林忠篤らの意見として御側御用取次加納久周、西郷貞綱に申し出た。
しかし相談を受けた老中松平定信が在府中の尾張宗睦、水戸治保と協議したところ、
三人とも不同意だったので、翌3年2月に飯田町の新邸建築への補助金として3千両を支給するとともに、城内居住をあきらめる代償として、同年3月治済を中納言に昇進させた――というものです。
これが将軍家斉の孝心を表す挿話として脚色され、さらには朝廷の尊号一件に対して取った定信の強硬な態度や、その後の老中罷免に関連付けて、実父の治済を西ノ丸に迎え入れ、「大御所」に奉じたいとする家斉の意向を定信が拒絶したとする創作にすり替えられたらしいのです。

104: 日本@名無史さん 2010/04/25(日) 21:54:20
陰謀家の印象が強い治済について―――
財政逼迫に伴う倹約令や家政改革、天明の大飢饉の際の窮民救済策など領知との結びつきが薄い御三卿当主にしては、珍しく領知行政にも強い関心を持ち、邸臣や領民に細かい気配りをする人物でもあったようです。
もともと治済が幕府政治、特に人事に積極的に介入したのは、天明6年家治危篤の際に尾紀水三家や清水重好と共に、幼い家斉を補佐すべしとする家治の遺命を受けてのことで、尾張宗睦、紀伊治貞、水戸治保も、この時期、前代までより目立った幕政への関与が見受けられます。

100: 日本@名無史さん 2010/04/01(木) 12:08:23
そもそも御三卿を「家」と呼んでいいものかどうか

101: 日本@名無史さん 2010/04/09(金) 20:12:46
将軍の家族という扱い
幕府の米蔵から10万石を与えられている
家臣はすべて幕府からの出向

102: 日本@名無史さん 2010/04/25(日) 21:37:35
御三卿の邸臣は、幕府からの出向である「付人」と、幕府からの移籍というべき「付切り」と、邸独自に召し抱える「抱入れ」の三種類あります。
幕臣の身分であるにもかかわらず、「付人」と「付切り」の役料は、幕府単独の負担ではなく、御三卿側も折半して負担させられていました。

106: 日本@名無史さん 2010/04/29(木) 09:10:11
現代でいえば、
御三家は、大手の株式会社。御三卿は、独立行政法人のようです。

107: 日本@名無史さん 2010/04/29(木) 11:47:53
家治のあとは、まず実弟の清水重好が継いで、
それから史実どおりに家斉が継ぐという選択肢はなかったのかな。

将軍の実弟なのに、後継者候補にあがらなかった重好が不憫すぎる。

109: 日本@名無史さん 2010/04/29(木) 15:06:23
>>107
家治が没した天明6年当時、清水重好は36歳でしたが、よく言われるように病気がちだったようで、
「あはれともいふべき人はなかりけり 身が病身で成らぬかなしさ」
と当時の落首で皮肉られる有り様でした。

ただ『実紀』にはちゃんと登城の記録もあり、寝たきりではなかった。
なんの病気であったか?気になりますが・・・

もっとも家治の実弟とはいえ、家基が大納言となり西ノ丸に入って世子と決したのち、彼の病死を受けての世継ぎですから、親等は近くても世代の順逆でいえば、重好や治済自身より、たしかに家斉の方がふさわしい――という結論になるのかも知れません。

引用元: ・【極悪】一橋民部卿治済【非道】