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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/05(木) 02:15:30 ID:+gAdXv3J0
歴史が変わったかな?
それとも変わらない?









2: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/05(木) 02:43:50 ID:MdTVys1g0
あの外国嫌いでちゃんと開国できたかどうか。
最悪の場合、鎖国維持路線をとって外国と戦争になってたかもな。
聡明で自分の意見をはっきり持った人だから、周りにとってはやりにくかったと思う。
でも、幕府を維持しようとしたから天皇親政を望んでいたわけではなさそうだし、分からんな。

3: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/05(木) 19:22:44 ID:izj0wo9GO
孝明天皇と慶喜の関係は上手くいったのかしら?

6: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/06(金) 09:24:21 ID:IlruNaxD0
no title


孝明天皇って写真が1枚も残ってないんだな。いや、ひょっとしたら撮ったことがないのかも。
西洋画なら1枚のみあるが。

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/06(金) 12:09:11 ID:MP7cCIoj0
気性が激しかったときく

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/06(金) 21:19:28 ID:KYx+0zED0
あの天皇が長生きしたら、幕府だろうと薩長だろうと関係なく植民地でしょ
だって御所から外に出た事もない世間知らずの上、外国人は妖怪か何かと信じ込み、とにかく攘夷希望。
むしろ死んで良かったんでないの。
生きていたら、まず薩長が勝とうが幕府が勝とうが関係なく勝った側が天皇家を滅ぼしてしまうだろうな

40: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/13(金) 04:02:42 ID:9odIyC0e0
>>8
滅ぼしはしないだろ。特に大政奉還の後だと。
ただ、幕府が勝とうが新政府が勝とうが、さっさと禅譲!だったろうな

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/08(日) 09:33:36 ID:j/vND3leO
慶喜公は尊皇家だし、孝明天皇も民衆思いの徳高き方だったから案外うまくいったかも知れない。

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/08(日) 09:52:20 ID:jJpH8eyZ0
んで天皇悲願の攘夷やるの?
慶喜は西洋通だけど、孝明天皇は御所から外に出て事のない世界知らずどころか、日本知らずでもあるのに?

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/09(月) 00:21:29 ID:PrFTgl80O
明治天皇は孝明天皇の事をどう思ってたんだろ?

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/09(月) 08:38:46 ID:kbjf5bOZ0
たくさん歌を残したそうだから、お父さんのことも詠んだかも知れない

でも明治の天皇さまは、自分の心を押し殺していたと言われるよね
重臣と言われる人達との関係はどうだったんだろう
表情にとぼしいように思う


28: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/09(月) 16:37:16 ID:u8yZs5kQ0
>>26
何年か前、1冊だけ孝明天皇と明治天皇の京都時代の私生活について詳しく書かれた本を
読んだことがある。タイトルや著者は忘れたけど、覚えている内容を列挙してみる。

・孝明天皇は酒は赤いものだと思い込んでいた。理由は、何度も毒見を経て変色したものしか飲んだことがないから。

・たまに鯛が献上されると、一度に全部を食したりせず、片側だけ食べて残りは次の日にとっておいた。それだけ貧しい生活だったらしい。

・孝明天皇は子煩悩で、睦仁親王が御所に参内すると大喜びして自分の膝の上に乗せて漢詩や和歌を自ら教えた。

・睦仁親王は、豆腐売りの言葉を真似て「オーフィ、オーフィ」と言うのが口癖だったため孝明天皇は側近に「あれは王風、王風と言っているのか?」と不思議がっていた。

・孝明天皇が崩御すると、睦仁親王は何日も塞ぎ込んで落ち込んでいた。

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/09(月) 17:26:34 ID:lsQZkCo/0
>>28
非常に興味深い話をありがとう
二人の人柄が垣間見えるエピソードだ

93: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/09(木) 11:11:00 ID:WHhrhuFa0
>>28

>・孝明天皇は酒は赤いものだと思い込んでいた。理由は、何度も毒見を経て変色したものしか飲んだことがないから。

スレの主旨と外れるが、酒が古いとどうして赤くなるの?鉄分?発酵?毒見の薬品?
孝明天皇は絶対にワインは飲まなかったと信じたい。

97: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/25(土) 14:43:15 ID:dAd4uOEC0
>>93
身分の高い人が「何度も毒味を経た料理」を食べていた所までは正解。

>酒が古いとどうして赤くなるの

天皇家は貧乏なので「にごり酒(白色)」。
しかも、新しい酒はストックされ古い方から消費していくのが「習わし」なので、異常に古い(赤に変色した)お酒が、さらに毒味を経て出されるのだ。

98: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/25(土) 14:57:16 ID:dAd4uOEC0
あ、ちなみに将軍家も同じ習わしなので、大奥にいた篤姫も「古びた酒」を飲んでいた人だ。
ただ、将軍家は「今のような透明な酒」だけど。


33: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/10(火) 11:47:57 ID:xJ/klBcCO
仮に80歳まで生きてたら、崩御は1910年か。明治は3年で終了だね。

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/10(火) 15:41:36 ID:QHw1LHVGO
そうなったら慶応の次は公武合体にちなんで元号を改めるのかな?

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/15(日) 10:34:43 ID:Ie9CNgBQO
公武合体がすすめば薩長は大義をなくすから武力討幕は難しいかな

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/24(火) 14:28:45 ID:cR3/YkAM0
>>41
公武合体による諸侯体制は薩摩にとっての念願だぜ。
倒幕の大義を無くすのが長州の方。
まぁ薩長同盟は長州の復権がメインだけどね。

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/21(土) 22:23:42 ID:fRyv+sXI0
欧米では暗殺説も出てるよね。恐らく長州藩がやったんだろうけど

51: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/24(火) 19:48:18 ID:c7XrRN0sO
蛤御門の変のあとの長州派一掃政策によって、京都の長州系人脈や工作機関は壊滅してたから。孝明天皇暗殺なんざ無理。

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/24(火) 09:48:01 ID:8kAOoHLpO
岩倉は孝明天皇が邪魔だったの?
二人の関係は悪かったの?

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/24(火) 14:28:45 ID:cR3/YkAM0
>>49
慶喜にとっても開国の足枷になる攘夷馬鹿の孝明天皇は邪魔だったのよ。
孝明天皇が崩御して後、大政奉還が突きつけられる前までは
事が優位に運んだのは慶喜の方だがね。
水を得た魚のように開国策を打ち出しまくってるよ。
この状態に相当焦ったのが岩倉の方。

58: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/25(水) 21:15:28 ID:RS4XO03B0
孝明天皇が長生きしたら会津の悲劇はなかっただろう
しかし、救いようのないほど外人嫌いだからな~

61: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/26(木) 20:26:16 ID:WRDnJCj+0
>>58
会津の悲劇はないかもしれないが、攘夷決行で日本中が悲劇になっただろうw

67: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/28(土) 11:48:29 ID:7KPWZmo50
孝明天皇のキャラは偉大
長生きしてもっと支離滅裂に騒いで欲しかった

70: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/29(日) 17:22:44 ID:aVCwhDdaO
孝明天皇が長生きしたら公武合体が進み、倒幕が遅れただろう。

71: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/30(月) 00:03:58 ID:l1yBpUW30
いや、むしろ一橋会津桑名に大名会議制を潰された福井、土佐、宇和島、薩摩が長州を助け、薩長土福宇討幕同盟に発展するだろう。

72: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/31(火) 19:19:13 ID:gZpUFjxwO
そんな同盟なぞ無意味だ。
孝明天皇ご存命ならば錦旗は幕府方に翻るのだぞ。

73: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/31(火) 20:15:50 ID:Zkg7ULiK0
いやどうかなあ?
ガチガチの攘夷論者だぞ、幕府よりだったのは、幕府が攘夷しますから、と騙したからだし。
それに天皇なんて、拉致監禁して勅許を出してしまえばいいだけ。

74: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/31(火) 20:23:24 ID:gZpUFjxwO
無茶苦茶言うなよ。
孝明天皇は攘夷派というより保守的な人物で、幕府を倒す気などまったくない。
当時の国体=「徳川幕府と鎖国」を守ることこそ天皇たる自分の役目と思われていた節がある。

78: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/01(水) 20:23:24 ID:f9Kj2BDJ0
>>74
いやだたの異人嫌いだよ
幕府を守りたいわけじゃなくて、日本を守りたいだけ
それが出来るのが幕府だと思っていただけだよ。

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/31(火) 21:44:17 ID:MiKvqPop0
孝明天皇がどんなに望んでも開国せざるを得ない。
幕府が孝明天皇の権威で斃れなかったら、外国から入ってきた「人権」という思想と「自由と権利」という思想が蔓延し、尊王討幕運動は自由民権運動へと変化するだろう。
行き着く先は「欧米式の革命」
つまり、天皇幕府将軍皆殺しによる民主革命路線でしょ。
そっちの方が健全だったかもしれんがな

79: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/01(水) 21:25:38 ID:+25KSoQO0
>>75
人権も革命もへったくれも19世紀中に近代化してなかったら、植民地化一直線です。
宗主国になるのは、フランスかイギリスかロシアかアメリカかは分からんけど。

81: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/03(金) 00:57:54 ID:hVhRhH4Y0
孝明天皇は、無力な存在ではなかったし、親幕府でもなかった。
彼は自らの周囲の伝統を正当と考え、新奇なものをすべて邪悪と見なし、この観点で自らの意志を国政の場で通した。
そのため、孝明天皇の干渉を受けた幕府は彼の意思に翻弄され、国政に孝明天皇の承認を得るために右往左往することとなる。

孝明天皇は、自らの意思を幕府に押し付けることで、幕府に対する朝廷の優位を作り上げた張本人なのだ。
彼が「親幕府」だなんてとんでもない間違いだ。

82: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/05(日) 09:42:48 ID:S3s5aB+ZO
理由はどうあれ孝明天皇は親幕府派であったと思いますが。
和宮降嫁は孝明天皇の意志なければ実現できないでしょう。

83: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/05(日) 11:41:48 ID:iHCkmnYd0
>>82
和宮降嫁を勧めたのは岩倉具視。

孝明天皇は、その後「岩倉具視にだまされて天皇家の者を野蛮の手に送った」として岩倉具視を深く憎んだ。
朝廷内で公武合体派が勢力を衰微させたのは、孝明天皇の意思によるもの。

102: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/27(月) 20:51:01 ID:l5UN6F9v0
http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=538317&start=11&log=200807&maxcount=31

このサイトに医史学者の故・佐伯理一郎が孝明天皇毒殺説の根拠に堀河紀子の日記にあると書いてあるが
この佐伯理一郎博士が書いた論文ってのを読んだことある人いる?

103: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/27(月) 21:26:16 ID:w1w/aeGG0
少なくともそのサイトに書いてある事は嘘だな。
毒殺説を否定する学説は無いと書かれてあるが、実際には原口清が「毒殺説否定」の論文を出し、「毒殺説」を取っていた佐々木克先生が持論を取り下げて「毒殺否定論」支持に廻った。
以来、学会は「孝明天皇は病死」を定説としている。
中公新書「戊辰戦争」の後書きで、佐々木先生は自己の毒殺説の誤りを認め、病死が真実であると訂正まで加えている。

112: 國學院大學卒 投稿日:2009/05/04(月) 12:44:07 ID:qr9ZxucWO
孝明天皇の死因は症状の記録から見て天然痘で間違いない。

暗殺説の根拠は三つ。

一、老女浜浦の手紙
一、医師石黒忠のりの医師山崎佐にたいする談話
一、山本正文の孫山本正英が作家村雨退二郎に語った話し


うち下二つは後世の創作。
一番上の浜浦の手紙は当時のものだが、手紙にあるような「天然種を起こす毒薬」は現在においても存在しない。

117: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/05/10(日) 07:59:50 ID:tVn65uwr0
>>112
そもそも病気と見紛うような死に方をさせられる毒薬なんて今でもないだろ?
てか仮に暗殺しないと困る位孝明帝がジャマだったらその前に退位させられてたんじゃないの。
あの時代の天皇なんて実権なんてないんだから追い込んでいけば自分から辞めさすのは難しくなかったろう。
たとえやれたとしても暗殺が露見した時の不名誉を考えたらね。
子孫代々逆賊の汚名を受ける可能性を思えば当時の日本人・・・特に宮廷の人間には心理的にも不可能だったと思う。

122: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/05/18(月) 01:19:24 ID:MH+0Anoe0
逆にもっとはやくしんでも変わったんじゃない?

123: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/05/19(火) 21:04:28 ID:VGLMeRYSO
ペリー来航の時あたりに死んだと仮定すると…

124: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/05/19(火) 21:09:56 ID:ORRumZRZ0
明治天皇は幼少すぎなので、五摂家の中から摂政が天皇を代行。
詔が「多数派工作」でどうにでもなる状態になり、勅許の朝令暮改や濫発になって、孝明天皇が生きていた場合より政局が混沌として予測不可能。

137: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/06/14(日) 14:12:10 ID:D7sVpSO80
あまりよい人間とは思わないが、自らを日本国の中心と考え、自らの権威を高め、政府(幕府)に譲らず、彼の一連の行為が、結果として明治の、天皇の権威を掲げた近代国家創りへと結びついた。

140: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/06/15(月) 22:38:16 ID:ZLv5+9ex0
孝明天皇が現実を知らないから
みんな振り回されて大変だっただろう

142: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/06/18(木) 21:25:46 ID:x8nxUWvr0
孝明天皇ほど現実を知らない人はいなかったと思うが
孝明帝の認識
「ペルリは赤鬼。人間じゃない」
「外国人は生き血を飲む。(本当は葡萄酒)」

144: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/06/19(金) 23:50:19 ID:VrrviiBTO
>>142
天皇と謁見出来たのはごく一部の人間だけ。考明天皇が世間知らずと言うより当時の側近や公家連中がかなりの世間知らずだったって話。

166: 國學院大學卒 投稿日:2009/09/02(水) 22:55:03 ID:cJP7ZL4dO
>>140>>142>>144
これはどうやら誤り。
左大臣近衛忠ヒロに送ったシンカン(変換できず)には、老中堀田は戦争になったら必ず負けるといってきているが本当に勝てないかどうかを婚姻関係にある大名に聞いて欲しいと頼んでいる。

152: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/07/19(日) 17:50:53 ID:DNnNEcj00
孝明天皇に
「異人の姿は漢書などに出る胡人とさして変わりませぬ。東晋の明帝や、かの坂上田村麻呂も胡人の血を引き、髭が黄色かったということです。」云々と典拠を示して諭す人はいなかったのだろうか?

それだけでもだいぶイメージが違うと思うんだが。

153: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/07/19(日) 18:28:20 ID:fTkwdBh00
戦国、江戸初期は普通に交流あったのに、つかの間(二百年強だが)の鎖国でそこまでなるのか。

154: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/07/19(日) 19:21:48 ID:DNnNEcj00
孝明天皇は鎖国を「神武天皇以来の祖法」と思われていた。これは近侍の公家の責任だしそういう教育方針にさせた幕府の責任でもある。

「天子御学芸」を事実上和歌に限定したからだ。
天皇に偏狭な教育を強制しながら、その天皇の権威にすがろうとしたから自滅したんだな。

158: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/07/21(火) 23:44:23 ID:M7+/4Zv+0
>>154
>「神武天皇以来の祖法」と 思われていた。

出典は?

159: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/07/23(木) 19:42:14 ID:4lVx1JUS0
>>158
幕府に賜った勅書「海防勅書」。
天皇が江戸の幕政に介入された最初の事例となっている。

167: 國學院大學卒 投稿日:2009/09/03(木) 21:57:46 ID:/cQ1kTjwO
よくよく調べてみると孝明天皇はたしかに攘夷主義者だが、まったく盲目的に言い続けたわけではないとわかる。

安政六年十二月には

(条約調印の)やむを得ざる事情を了解し、攘夷の猶予にも了解されているのである。

慶応元年には通商条約を勅許さえしているのだ。

このように孝明天皇は時代が下るにつれ、国の内外の事情を考慮されて現実的な対応をされるようになっているのである。

169: 國學院大學卒 投稿日:2009/09/04(金) 21:29:00 ID:iMvkw6nEO
孝明天皇は、当時の時代状況から、外国人が日本の平和を乱すものととらえていたので攘夷を唱えたのであって、その本意はただただ国の平和と民の平穏を祈ってのことである。

弘化四年四月、天皇は岩清水八幡宮に勅使を派遣し、異国船を退け、「天下静謐に」「黎民快楽に護り幸い給い、あわれみ助け給うべし」と祈られています。

170: 國學院大學卒 投稿日:2009/09/06(日) 00:47:09 ID:yRdu5ovJO
「今神州を興隆し四夷を撻伐するは仁道なり。これをさまたぐるは不仁なり。」(吉田松陰、講孟サッキ巻の四第十八章)

孝明天皇の攘夷主義は当時の時代としては間違いではないのである。

176: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/09/12(土) 21:13:22 ID:RyBbtenuO
幕府に対して憧れにも似た感情を抱いていたらしい
侍臣に「自分の一生のうちに将軍が京都に来てくれるだろうか」と無邪気に問われた『歴代天皇100話』林 陸朗・立風書房より

引用元: ・孝明天皇が長生きしてたら…


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