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1: 世界@名無史さん 2005/07/31(日) 14:25:08 0
【霍去病】(紀元前140年 - 紀元前117年)は前漢の武帝時代の武将である。父は、霍仲孺。異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。

衛青の姉、衛小児の子である。同じく衛青の姉であり、霍去病の叔母にあたる衛子夫が武帝に寵愛されて戻太子を生んだことで皇后に立てられたため、親族にあたる霍去病も武帝に寵愛された

騎射にすぐれており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いている。その後も何度も匈奴征伐に功績を挙げ、紀元前121年に驃騎将軍に、更に紀元前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬とされた。
大功と武帝の寵愛により権勢並ぶ物が無くなった霍去病だが、紀元前117年、わずか24歳で病死


【衛青】少年時代に奴隷であった経験から人にへりくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。
その一方で霍去病は物心付いた時には既に一族は外戚であり、叔父が匈奴討伐に大功を上げていた。その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分達は豪華なテントの下で宴会を開くような事をしていた。
しかし宮廷でも兵士の間でも霍去病のほうが人気が上であった。衛青はへりくだりが度を過ぎて媚を売るような所があったらしく、また霍去病の傲慢も頼もしい勇壮と見られていたようだ。武帝も自身の性格から積極果敢な霍去病をより好んでいた。

2: 世界@名無史さん 2005/07/31(日) 14:27:43 0
【衛青】
武帝に仕えた将軍。小役人の父が主家の下婢と密通して産ませた子で,正妻の子供たちから奴隷扱いされた
ところが同腹の姉衛子夫が武帝の愛妾となったおかげで,彼は武帝に目をかけられた
(前129年)衛青は車騎将軍に取りたてられて匈奴討伐に出撃。この緒戦で大功を立て一躍その名を知られるようになる。
以来匈奴としばしば戦って戦果を上げ,その功によって大将軍に昇進する。だが,その後は彼の甥にあたる霍去病が華々しく活躍し,常に衛青を上回る軍功を上げたため,武帝の信任は次第に移っていった。
やがて大司馬の官位が設けられ,大将軍衛青と,その下位にあった驃騎将軍霍去病は,ともに大司馬に任命されて同列となり俸禄まで等しくされた。このときを境に,衛青の権威は日に日に衰退した

3: 世界@名無史さん 2005/07/31(日) 14:39:25 0
武帝と衛青は男色関係にあったとか聞くが、歴とした事実なのでしょうか?
時には武帝と霍去病との関係も「念契」だったとか。
まことでありましょうや?

6: 世界@名無史さん 2005/07/31(日) 19:20:00 O
確実に武帝と男色関係にあったのは匈奴帰りの韓嫣。(韓王信の子孫)
衛青とは知らない。それらしい記述はなかったと思うが。

それより親子で太僕を牛耳り続けた公孫賀親子にもっと注目しよう。

9: 世界@名無史さん 2005/08/01(月) 12:43:58 0
霍一族は宣帝の代に滅ぼされてしまうんだよな。

10: 世界@名無史さん 2005/08/01(月) 19:08:38 0
霍去病は若くして亡くなったから、美男子で天才肌の悲劇の将軍として描かれる

ぜひぜひ映画化してほしい
衛青と霍去病、武帝の絡みはカッコイイ
ちょっと遡って李広も登場すれば尚良い

11: 世界@名無史さん 2005/08/01(月) 19:12:33 0
衛子夫の弟と甥だから美形だろう

54: 世界@名無史さん 2005/11/27(日) 20:44:10 0
>>11
霍光は美男子
ヒゲが美しかったらしい。

12: 世界@名無史さん 2005/08/01(月) 19:33:43 0
異母弟の霍光は有能な人間だったが、他の一族がダメダメだった為に霍光の死後、元は庶民でしたたかな宣帝にあっさり潰されてしまった。
霍 光(かく こう、? - 地節2年3月8日(紀元前68年4月21日))は、前漢の政治家。字は子孟。昭帝・宣帝の2代を補佐し政治を取り仕切った。

霍仲孺の子で霍去病の異母弟。武帝亡き後の漢の政治を速やかにまとめた霍光の功績は大であったが、彼自身はひたすら身を慎み、僭越な振る舞いや専横を避け、徒に目だって身を滅ぼすことはなかった。しかし一族は霍光の威勢を恃んで傲慢であり、宣帝の皇后の許平君を毒殺して代わりに一族の娘を皇后に立てるなど、暴慢な振る舞いが目立った。彼らは霍光ほどの人望も無かったことから、霍光亡きあとは宣帝に実権を奪われた上、最後には謀反を計画したため、宣帝の勅命により子の霍禹は腰斬に処され、その生母や姉妹など一族皆殺しに処された(上官皇后はこのときも無事に済んだ)。

13: 世界@名無史さん 2005/08/02(火) 17:59:18 0
せっかく有能な人物が出て来ても家族がダメダメで自滅の典型だよな。
霍光だけに頼ってた一族が百戦錬磨の宣帝にかなうはずがない。

14: 世界@名無史さん 2005/08/03(水) 11:09:58 0
霍光自体にそれほど能力があったとは思えない。
根回し能力だけはあるが
王莽と近い感じがするのだが

15: 世界@名無史さん 2005/08/04(木) 01:16:31 O
つか霍光たちが遺詔を偽造した疑いが濃厚。
いきなりあんな連中がトップに出るのは不自然。

16: 世界@名無史さん 2005/08/04(木) 08:45:40 0
霍光は少なくとも20年近くの間、漢の政治を牛耳っていたのだから偉大とは言わなくともそれなりに有能な人間だろう。

20: 世界@名無史さん 2005/08/14(日) 22:14:07 O
そもそも霍光が昭帝の輔政となった経緯が怪しすぎる。
燕王を後継者とする遺詔を霍光が握りつぶしたんじゃないかと思えてならん。

25: 世界@名無史さん 2005/08/24(水) 00:57:12 0
霍光は武帝時代の財政を回復させて、前漢の中興に一役買ってるのに日本じゃあんまり有名じゃない。

29: 世界@名無史さん 2005/08/24(水) 14:09:55 O
>>25
塩鉄論議の展開から考えると、財政状況の回復は主に桑弘羊のおかげなんじゃないかと思う。
塩鉄論(鹽鐵論、えんてつろん)は、前漢の始元6年(紀元前81年)に当時の朝廷で開かれた塩や鉄の専売制などを巡る討論会(塩鉄会議)の記録を、後日に桓寛が60篇にまとめた著作である。

前漢では、武帝による匈奴との対外戦争の影響で急速に財政が悪化したため、桑弘羊らの提案によって、塩・鉄・酒などの専売や平準法(市場価格が下がった物資を国家が買って、高騰した時に市場に払い下げる)・均輸法(市場価格が下がった物資を国家が買って、その物資が不足して価格が高騰している地域に輸送してその地域の市場に払い下げる)などを行って、その収益をもって財政を立て直すこととなった。
これらの政策によって財政は立て直されて、その功績で桑弘羊は御史大夫に昇進した。

ところが、こうした方針に儒学者は「国家が民間と利益を争うことは卑しいことである」と批判し、国家権力の参入によって「民業圧迫」の状態に陥って大打撃を受けた商人たちも不満を強めていった。武帝の死後、政権に参加するようになった外戚の大将軍霍光は、こうした批判を受けて政策の修正を図ろうとした。だが、桑弘羊らがこれに強く反対した。このため、昭帝の始元6年(紀元前81年)に、民間の有識者である賢良・文学と称された人々である唐生・万生ら60名を宮廷に招いて、丞相・車千秋、御史大夫・桑弘羊ら政府高官との討論会(塩鉄会議)が行われた。

法家思想に基づいて「価格の安定によって民生の安定を図っている」と唱える政府側と、儒家思想に基づいて「国家の倫理観の問題に加えて、政府の諸政策の実態は決して民間の需要にかなっているわけではないために、かえって民生の不安定を招いている」とする知識人側との議論は、財政問題から外交・内政・教育問題にまで及ぶなど激しい議論が続けられた。
議論自体は知識人側の優位に進んだものの、具体的な対案を出せなかったために結果的には現状維持が決められ、さらに翌年、桑弘羊が別件で処刑されて霍光が政権を掌握した後も、実際の財政状況が深刻なものになっていることが判明したためか、酒の専売を廃止した他は、そのまま前漢末期まで維持されることとなった。


27: 世界@名無史さん 2005/08/24(水) 02:26:07 0
霍去病って若くして病死しただけに、そのまんまな名前だなw

28: 世界@名無史さん 2005/08/24(水) 12:10:31 0
去る病って書くのに病は去らなかったわけか

30: 世界@名無史さん 2005/08/24(水) 14:11:13 0
衛青、霍去病とも単なる侵略者に過ぎない。

33: 世界@名無史さん 2005/08/24(水) 17:34:30 0
>>30
遊牧民族は遊牧民族故に、国家意識もなければ国境意識もなさそう。
特に中華世界となれば、近代に入るまで西洋的国境意識はないからな。
その中華世界の内の連中である。
侵略者とは呼べないんじゃ。

42: 世界@名無史さん 2005/10/24(月) 01:10:24 0
>>33
>その中華世界の内の連中である。
さすがにそれは無理があるんじゃないか?
国家意識は無かったかも知れないが、明らかに文化が違う。

34: 世界@名無史さん 2005/08/27(土) 01:17:02 0
衛青に子はいなかったの?

36: 世界@名無史さん 2005/08/27(土) 18:41:04 0
確か衛青には衛抗という子がいると聞いた。
でも従兄の戻太子・劉拠の乱に巻き込まれて連座されて武帝に誅殺されたらしい。
一方、武帝の封禅に共したのは霍去病の嗣子。
間もなく病に倒れて、亡父よりも早世したらしい。

38: 世界@名無史さん 2005/08/28(日) 21:31:43 0
衛氏は巫蠱の乱に連座して滅び、霍氏は霍光の死後、宣帝に滅ぼされた。

44: 世界@名無史さん 2005/11/07(月) 19:53:54 0
霍去病って軍事的な才能っていうより武帝に個人的に気に入られて精鋭を率いさせてもらったから連勝できたって感じがしないでもない

45: 世界@名無史さん 2005/11/15(火) 23:58:55 0
そういや司馬遷と同時代を生きた人なんだよなあ。

48: 世界@名無史さん 2005/11/21(月) 21:39:24 0
霍去病って何で人気あるんだ?あんな嫌な性格なのに。
衛青はちと卑屈だが、まだこちらのほうが共感できる。

50: 世界@名無史さん 2005/11/22(火) 19:48:32 0
つまり霍去病は信長で衛青は家康みたいな性格だったから、人気によるその差が出たのだと思う。

52: 世界@名無史さん 2005/11/26(土) 07:20:18 0
霍去病の方が華があってよいな
挙げた功績で言えば彼と並ぶ人間はいなかったし

まぁ、武帝に最高の兵士と装備を与えられてたのも大きいのだろうけれども・・・・
それにしても空腹で死にかけた兵士がいるってのに、武帝から送られてきて、食べ切れなかったご馳走を捨てるなんて
だから罰があたって夭折したんじゃないか
今頃地獄で永久の苦しみを受けている最中だろう

57: 世界@名無史さん 2005/12/18(日) 08:52:24 0
この二人が死んだ後は、遠征もふるわくなったなあ

63: 世界@名無史さん 2006/02/06(月) 00:27:42 0
霍去病の戦果は誇大宣伝の一面がある。

84: 世界@名無史さん 2006/09/24(日) 14:27:07 0
霍去病が、B.C.125年の戦役に従軍したのは、わずか18歳のときであった。
衛青麾下で、騎兵800を率い、本隊よりも数百キロ前方まで進出して、偵察と掃討を行い、2000名を殺害した。これにより、霍去病は軍功第一とされ、冠軍(軍功第一)侯に封じられた。

B.C.121年、霍去病は驃騎将軍に任じられ、河西回廊を制圧しシルクロード交易の利を匈奴から奪い返すために、一万の兵を率い、隴西より出撃した。

85: 世界@名無史さん 2006/09/24(日) 14:27:39 0
休屠王を襲い、焉支山を経由して、渾邪王を破り、その王子を捕らえ、酒泉にまで至った。
匈奴軍は約8000人の損害を出したが、漢軍の損害はわずかなものだった。
しかし、霍去病の進軍が直線的過ぎて、大部分が戦禍を逃れており、河西回廊における匈奴の勢力はいまだ健在であった。このため、同年の夏、再び攻勢を発起した。
当初の予定では、公孫敖が河西回廊の正面を突き、霍去病が武威・居延を経て河西回廊の裏口から攻撃をかけ、挟撃するということになっていたのだが、
公孫敖が道に迷ってしまったため、この作戦は破綻した。しかし霍去病は単独による作戦決行を決意した。
休屠王と渾邪王の部族は、酒泉より約15キロのところに集結し、東側を、漢の攻撃に備えて警戒していたが、西側は無防備で、霍去病は捕虜・戦死あわせて30000以上の戦果を上げた。
単于に出頭を命じられた渾邪王は、敗戦の責任をとらされることを恐れ、部族ごと漢に投降した。

86: 世界@名無史さん 2006/09/24(日) 14:28:09 0
霍去病は捕虜・戦死あわせて30000以上の戦果を上げた。
単于に出頭を命じられた渾邪王は、敗戦の責任をとらされることを恐れ、部族ごと漢に投降した。
霍去病は、土壇場で降伏をためらった8000名に突撃してこれを殺害して、この降伏を成功させ、領邑7000戸を加増された。
かくして、河西も漢の支配下に加えられたのだった。

なお、この戦役においては、"飛将軍"李広と、かつて西域に派遣された張騫とが、河東方面に攻勢をかけていたが、合流できず、李広の軍などは半数の損害を受けて敗北した。

87: 世界@名無史さん 2006/09/24(日) 14:28:41 0
霍去病の強さの秘密は、まず、精兵を優先的にまわされていたことである。
人によっては、このために霍去病が勝利をあげつづけたことを当然だと考える人もいるが、これは誤りであり、精兵がいれば必ず勝つということは無く、かつあのような鮮やかな戦果を必ず挙げることができるというものではない。
霍去病の強さの秘密のもう一つは、古来の兵法に基づかないことである。
砂漠という特殊な状況における思考には、中国の地における戦いで築き上げられてきた古来の兵法では対応できないところもあった。
霍去病の強さの秘密のさらにもう一つは、機動力の高さである。
彼は、兵士の装備を軽量化し、輜重を置き去りにして、食料は略奪して奪い、強行軍しつづけた。
このため、霍去病の部隊の機動力は、匈奴軍の機動力をも上回っていた。

霍去病は衛青と同じ扱いとされるようになって、名声は大いに衛青を上回り、かつて衛青を取り巻いていた人々は霍去病につかえるようになった。

引用元: ・【中国史】衛青・霍去病【武帝】【別格】