41CwZygHmwL._SL500_



1: 日本@名無史さん 2012/10/05(金) 10:49:22.63
鎌倉執権北条氏専用スレッドです。
多くの門流が派生し、同族間の争いも絶えなかった。
このスレッドでは出自、幕府内での各門流の動向
幕府滅亡後のその各門流の子孫の動向や御内人・被官についても同じように語るスレッドです。








7: 日本@名無史さん 2012/10/13(土) 08:59:49.11
もともとの家格が高くなくて、勢力も大きくなかった北条氏が
多くの武士を抑えることができて、権力の中心でい続けられたことが不思議でならない。
他の武士たちは「何こいつら? こいつらがなぜ権力持つの?」とは思わなかったのだろうか?

8: 日本@名無史さん 2012/10/15(月) 00:36:03.32
挙句の果てには得宗家の重臣にすぎず御家人ですらない長崎高資あたりが実質的な最高権力者になっちゃうしな

9: 日本@名無史さん 2012/10/16(火) 22:48:19.59
>>8
身内人は平頼綱が幕府最高決定機関の寄合のメンバーだったようにその後も長崎一門から何人も寄合メンバーになっているから成上がりというほどのことはない。
鎌倉幕府は得宗の家政機関が幕府の機関として機能しているように家政のトップが重鎮になるのはむしろ当然だろ。足利の高や上杉のようにな。

90: 日本@名無史さん 2013/10/17(木) 22:34:11.50
>>7
政治手腕があって御家人たちから敬意を払われてたというのが大きいと思うよ
足利氏が建武式目で、北条義時泰時父子を手本にする、といってるぐらいだし
時頼もあれこれ逸話が語られるぐらいに尊敬された人物だった

生まれ変わり伝説もあるこの三代が強力で、その余韻であと半世紀もった、という感じだ
元寇がなければもっともったろうが

10: 日本@名無史さん 2012/10/17(水) 00:45:23.40
あれだけ一世を風靡したのに、子孫が大手舞台に出て来る事がないのは、族滅したに等しいんだろうな。

11: 日本@名無史さん 2012/10/17(水) 21:58:51.04
室町時代の守護大名と違って所領に赴かず鎌倉という都市に住んでいたから所領の掌握力が弱くて鎌倉が滅ぶと消滅せざるを得なかった。
(少数だが規矩や糸田のように地方に土着した一族もいたが、南北朝の争乱でいつのまにかいなくなった。)

21: 日本@名無史さん 2013/01/09(水) 15:24:57.07
あれだけの門流が全て族滅したとは考えられないな
ハブられていた支流とかが幕府に殉ぜずにどっかで生き残ったとか
でも史料に書き留められるほどではなかったろうから
それを明らかにするのは大変だと思う

23: 日本@名無史さん 2013/01/19(土) 18:31:11.39
>>21
族滅は武家社会では普通。族滅したら、綺麗に消え去るのもまた普通。
中国の三族皆殺し並に、日本の滅びた武家は綺麗に消え去っている。

例えば、平清盛、武田信玄、豊臣秀吉、陶晴賢、菊亭晴季など、綺麗さっぱり族滅された系譜は少なくない。

27: 日本@名無史さん 2013/01/23(水) 09:10:58.63
>>23
平清盛・・・・頼盛の池流

武田信玄
弟の河窪信実・・・・子孫は旗本
次男・海野信親・・・子孫は高家      
五男・仁科盛信・・・子の信基・信貞の子孫は現存
七男(六男とも)・信清・・・上杉家に仕える(上杉家一門・高家衆筆頭)

陶晴賢
祖父・弘護の弟、弘詮の孫・元弘は毛利氏に仕える
系譜関係は不詳なれど一族の隆満も毛利氏に仕える

菊亭晴季
子の季持以降、明治維新まで今出川は公卿として続く

33: 日本@名無史さん 2013/02/02(土) 09:34:01.32
鎌倉北条氏って時政以前の系図なんかは良く判らないらしいが、案外伝承どおり、平直方流じゃないのかな?と思える。

平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流であり、従五位下の京の軍事貴族として公卿の警護みたいな仕事をしていた。

平盛方が活躍する時代は、同族伊勢平氏(貞盛流)の平忠盛(清盛の父)が台頭し活躍し始める時期でもある。当然、平盛方と平忠盛はライバル関係に有り新興勢力の忠盛は、平貞盛流の嫡流の座を狙い始めていた。

平盛方の子供と言われる熊谷氏の伝承によると朝廷で平忠盛襲撃事件があり、その一味に同族である平盛方が加わっており、その罪により処刑されてしまう。

事実、平忠盛は当時は異例の高待遇である内昇殿を許可された。
『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たちによる闇討ちが企てられるが、忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す機転によって彼らの襲撃を防ぎ、鳥羽上皇から賞された事(殿上闇討事件)が有った。
それ以外でも武士でありながら出世を重ねる忠盛に対して公家による襲撃事件が多数あった。

この平盛方処刑により盛方流は没落、これで貞盛流嫡流だった直方流の都での評価は地に落ちたと思う。盛方流は、都に居られなくなり、盛方の弟である阿多美聖範の家筋に平直方流の当主の座は移ってしまう。そしてこれが伊豆北条氏の直接の家祖として考えても良いのではないだろうか。

34: 日本@名無史さん 2013/02/02(土) 09:35:03.19
>>33の続き)

処刑された盛方の弟の阿多美聖範は伊豆阿多美郷に土着し開発領主としてこの地域を開発した。
阿多美四郎を名乗り伊豆北条氏の通字である四郎が始めて登場する。罪人となった平盛方の実子は聖範が引き取り、阿多美郷の領主を引継ぐ。

聖範の実子である平時方は、当初は阿多美郷和田里に居住して和田太夫四郎と名乗っていたが、処刑された盛方にかわって直方流を継いで都に上がり宮仕えを始める。
平時方は、処刑された盛方とは違い、順調に出世し上総介や肥後守を勤めた。そして晴れて伊豆守に任命され伊豆の国司となる。この時期の国司は国元には赴任せず代理人を派遣して
国司業務を代行させたが、平時方は父の聖範や盛方の子らが居る伊豆に赴任して在国の国司として三島の国府庁舎で国司業務をこなした可能性が高い。またその方が地元の事情が判り国元での影響力を行使し易く、国司業務がはかどる、という事もあったであろう。

国司任期終了後の平時方は、都に帰らず三島国府庁舎の直ぐ近くにある北条郷に土着し氾藍原の開発領主となってしまう。俗姓も平から北条に改め、都での平直方流軍事貴族としてのキャリアを捨て東国武士として伊豆北条氏の歩みを始める。また、平忠盛の意向を呑んだ可能性もある

もっとも自分の故郷の近くであり、任国として実際に数年間統治し、父や盛方の実子が居る伊豆でのんびりやっていた方が、都での軍事貴族として出世競争にあせくせするよりマシだ。 と言う判断が、時方に有ったのかもしれない。

また平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流の地位を継承してきたが、盛方の忠盛襲撃事件関与により直方流の没落が決定的となり、忠盛-清盛流が貞盛流の嫡流の座を引継ぐ事になった。
その為に盛方処刑後に直方流を継いだ時方は、貞盛流の嫡流の座を忠盛に明け渡し平の姓ではなく北条を名乗り伊豆に土着し東国の御家人としての歩を始めたのだろう。

36: 日本@名無史さん 2013/02/03(日) 16:53:40.61
>>33>>34
いい線いってるんじゃないの?
ただ一つ疑問がある
それは、そんなに由緒正しい家柄ならはっきり系図に明記すればいいのにね。
時政以前のは系図が何であんなにぐちゃぐちゃんなんだ?
時政の父親さえ系図によってバラバラ。いやしくも鎌倉幕府執権の父親がだぜ。

69: 日本@名無史さん 2013/03/29(金) 23:02:05.32
>>33>>34
>忠盛は、平貞盛流の嫡流の座を狙い・・・・・・・・・

継承すべき父祖伝来の身分も領地もない平安期に嫡流・庶流という意識が、そもそもあったのかね?
摂津源氏,河内源氏,大和源氏と枝分かれした当人たちが己が才覚で勢力拡大を図った際に、嫡流・庶流なんぞの区別はなかったろ。
嫡流・庶流という家格は、才覚無用の太平の世の江戸期以降の代物だろうな。

70: 日本@名無史さん 2013/03/29(金) 23:21:29.88
>>69
>嫡流・庶流という家格は、才覚無用の太平の世の江戸期以降の代物だろうな。

織田信秀の嫡男は織田信長であり、長男は織田信広である。
足利尊氏の嫡男は足利義詮であり、長男は足利直冬である。
源頼朝の嫡男は源頼家であり、長男は島津忠久である(結城朝光、という説もある)。

嫡子、庶子の区別は昔からあるし、厳密に区別されているよ。

72: 日本@名無史さん 2013/03/31(日) 00:11:14.49
>>69
>嫡流・庶流という家格は、才覚無用の太平の世の江戸期以降の代物だろうな。

鎌倉時代からある

73: 日本@名無史さん 2013/03/31(日) 02:53:55.81
>>69
有名な例だと
嫡子だった源頼朝は13歳で右近衛将監(平治の乱直前の段階)だけど長兄の源義平は関東に置かれていて無官
次兄の源朝長は任官していたものの頼朝よりも昇進が遅い

37: 日本@名無史さん 2013/02/03(日) 21:17:35.99
北条時政の系図はばらばらなのは確か。
http://blog.goo.ne.jp/ryuzojiryuzoji/e/3bbdfe7c6e217076ecd60722e9ab6dd9

でも、これ見たらわかるけど、桓武平氏のほうでも家督相続はすんなりいかず、直系で継承されてないということですな。

45: 日本@名無史さん 2013/02/05(火) 00:21:46.73
>>37>>33>>34あたりが真相だと思う。
北条氏の家系も直系で継承されてはいないから系図に混乱が出ているんだろう。
あと、北条氏は自身の家の初代の人物に熊谷氏の先祖である平維方を入れている。
そこから、代数をカウントしている。
北条氏自体は、平維方の弟で僧籍に入っていた阿多見聖範の男系子孫なんだけど。

熊谷氏の自身の家の初期の伝承でも、同族としての北条氏とのことや伊勢平氏六波羅流(平家)との対立についても、詳しく残っている。

46: 日本@名無史さん 2013/02/05(火) 00:34:19.98
>>45
勘違いなのだが、平直方を初代にすれば問題ないね。
北条氏は、平直方を自身の家の初代にしている。
で、直方、維方、盛方と直系で継承されていたが盛方が伊勢平氏六波羅流との抗争で不祥事を起こして処刑されあわてて先代の維方が、弟で僧籍に入っていた聖範の子の時方を養子として家督を継承させたと。
時方-時家-時政と北条時政までつながる。
一方、盛方の遺児たちは本流を外れその中では嫡流だったものが熊谷氏になった。

62: 日本@名無史さん 2013/02/17(日) 10:03:30.33
平直方は、平忠常の乱を収束できなくて、面目をうしない、中央での勢力を無くし、その系統は歴史の面舞台から姿を消したと思ってた。
正盛流の伊勢平氏の隆盛と入れ違いに没落してゆくほうが、流れとしてすっきりするのだが。
わざわざ直方流の子孫が中央で活躍したかのような印象操作は要らない気がする。
伊豆の土豪として、勢力が小さく、頼朝挙兵当時の時政の子飼いの郎党たちが、名のある武士が皆無で、半分農民みたいな名前の連中しかいなかったことを考えると、直方以降の子孫が勢力あったと考えるのは、不自然すぎるな。

64: 日本@名無史さん 2013/02/17(日) 15:11:30.03
>>62
>わざわざ直方流の子孫が中央で活躍したかのような印象操作は要らない気がする。

平忠盛と平盛方が、平貞盛流の嫡流の座巡って対立していたのは事実でしょう。
で、平盛方が「殿上闇討事件」やら、なんやらで負けたんでしょう。

平忠盛(清盛)流が、盛方と入れ替わる形で、出世していったのは、間違いないと思う。

盛方流は、没落して熊谷氏として武蔵に土着。
盛方の弟の聖範流(時方)も、都での出世を諦めて、北条氏として伊豆に土着した。

66: 日本@名無史さん 2013/02/17(日) 17:40:33.01
こんだけバラバラだと何を信じて良いのやら。。。

貞盛-維将-維時-直方-聖範-時直-時家-時方-時政尊卑分脈
貞盛-維将-維時-維方-直方-時方-時家-時政前田本
貞盛-維将-維時-維方-直方-時方-玄承-時忠-時家-時政前田本イ
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政群書類従
貞盛-維将-維時-直方-雲範-時直-時家-時方-時政野津本
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-聖範-時家-時兼-時政野辺本
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時範-時直-時家-時兼-時政野辺本イ
貞盛-維将-維時-直方-維方-聖範-時家-時兼-時政中条本
貞盛-維時-直方-維方-俊則-時家-時方-時政山門本
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時兼-時政入来院
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政入来院イ
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時政桓武平氏
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時家-時政系図纂要
貞盛-維将-維時-直方-雲範-時直-時家-時方-時政古系図
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時方-時政正宗寺本
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時兼-時政内閣文庫
貞盛-維将-維時-中方-聖範-時方-時兼-時家-時政内閣文庫イ
貞盛-維衡-政度-維時-直方-維方-時方-時家-時政 熊谷氏系図
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時兼-時政 妙本寺本
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時兼-時家-時政 指宿氏系図
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政 延慶本平家物語
貞盛-維衡-維度-維盛-盛基-貞時-時家-時方-時政 平闘諍録
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時家-時政 千葉大系図

67: 日本@名無史さん 2013/02/19(火) 02:15:48.21
>>66
盛方が抜けている系図が多い。
やっぱりナンカ有った感じがする。
それと熊谷直貞の位置づけで、系図が混乱している感じがする。
直貞は、盛方の実子では有るが、熊谷家祖なので、そもそも北条家の系図に入れるのはオカシイ。
それで直貞の位置づけを如何するかで混乱している感じがする。

87: 日本@名無史さん 2013/10/12(土) 16:11:02.51
>>66
なんかこれだけ見ると
系図の混乱はあるけど北条氏が貞盛流に祖を求めるのはそれなりに裏づけ理由あってのことなんじゃないかと思えてくる

68: 日本@名無史さん 2013/02/22(金) 11:34:22.25
北条氏は、あくまでも直方系、いや、平貞盛系の嫡流を自称している。
それが彼らのプライド。
しかし、この家系の当主には、当初は熊谷氏の先祖のほうにいっていた。
それが、途中で脱落、弟の家系の北条氏のほうに嫡流がいった。
だから、北条氏としては、盛方の位置づけに困っている。
一応、自身の家系の歴代当主なのだが、自分たちの先祖ではなく、熊谷氏の先祖だから。

76: 日本@名無史さん 2013/04/01(月) 19:29:09.73
北条氏の極楽寺って家格的には得宗の次?
それとも名越が次?
極楽寺流北条氏(ごくらくじりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一族。「極楽寺殿」と称された北条重時の子孫を極楽寺流と称する。
北条氏内部で家格は高く、得宗家に継ぐ家格を持ち、その子孫は執権・連署・六波羅探題をはじめとする幕府重職に就き、また得宗家正室にも入っている。


77: 日本@名無史さん 2013/04/01(月) 21:52:00.19
時政は嫡男政範が亡くなった後義時の嫡男の朝時を本家の後継者に決めてたんだろう
朝時が時政失脚後に名越邸を譲り受けてるところを見ると
時頼就任前までは名越の方が極楽寺より上だったと思う

93: 日本@名無史さん 2013/10/23(水) 19:23:09.58
>>77
細川重男氏は、朝時が時政の名越邸を継承→時政は朝時を後継に考えていたと推測しているけど、名越邸相続が時政失脚後なら時政の意向は全然関係なくて

義時 「丁度空家になってるから、お前に名越邸を与えよう」
朝時 「ははー、有難く頂戴いたしまする」

という流れもあり?和田合戦や承久の乱での朝時の活躍を見ると義時・朝時父子の関係がそれほど悪かったようには見えないんだよね。
朝時がハブられるのは泰時の執権就任後じゃないかな。

101: 日本@名無史さん 2013/10/25(金) 00:35:38.53
>>93
朝時は比企家が管理していた北陸の権益を引き継いでいた可能性は無くはないか?
承久の乱では北陸軍担当だったし。
そんで、時政義時も朝時を完全無視はできなかったのではないかと。

102: 日本@名無史さん 2013/10/25(金) 08:32:52.85
>>101
>朝時は比企家が管理していた北陸の権益を引き継いでいた

どうして引き継ぐことができたの?

103: 日本@名無史さん 2013/10/25(金) 08:50:50.21
>>102
北条朝時の母親が比企朝宗の娘だからだろ

104: 日本@名無史さん 2013/10/25(金) 09:40:00.95
母親が比企朝宗の娘だから引き継ぐことができる。。。
というのが分からない。
母親が「おじいちゃんの守護国お前にやるよ」と朝時に与えたわけか?

105: 日本@名無史さん 2013/10/25(金) 10:09:09.28
北条が没収して自分のものにする口実に使ったんだろ
義時が息子に遠慮するはずない

106: 日本@名無史さん 2013/10/25(金) 11:09:48.04
>口実に使ったんだろ

そんなことが口実になるのか?
「北陸は朝時の母親の実家が守護職してますんで朝時に引き継がせます」と義時が言ったら「なあるほど、さようでございますか」と御家人は納得するんか?

107: 日本@名無史さん 2013/10/25(金) 12:45:08.01
御家人はもちろん納得するだろ
分け前しっかりもらえば
比企と正面衝突したのは北条だしとるなら朝宗んとこもらうわ、舅だし、みたいな

義時が生前息子に分け与えたのがはっきりしてるのは、泰時への山内の別邸だな
あのあたりの所領を泰時に与えるつもりだったなら、やっぱ跡継ぎは泰時のつもりだったんでね

112: 日本@名無史さん 2013/10/25(金) 15:03:12.04
>>107
>義時が生前息子に分け与えたのがはっきりしてるのは、泰時への山内の別邸

初耳だがそんな史料あったっけ?

113: 日本@名無史さん 2013/10/25(金) 19:17:02.46
吾妻鏡に記述があったはず
北条家の鎌倉での館を分析した本にのってた
承久の乱の前には譲られてた

108: 日本@名無史さん 2013/10/25(金) 12:58:09.79
>母親が比企朝宗の娘だから引き継ぐことができる。。。
というのが分からない。
母親が「おじいちゃんの守護国お前にやるよ」と朝時に与えたわけか?

比企氏そのものが比企の乱で滅亡している。
外祖父朝宗は消息不明、朝時母は義時と離縁。
そのときに、比企氏の所領を没収した義時が理由をつけて自分の息子に分配することなど簡単な事だろう。

109: 日本@名無史さん 2013/10/25(金) 14:01:37.10
>比企氏の所領を没収した義時

問題はそこですよ。
義時が没収できる権限を持っていたかどうかですよ。
当時の義時にそれほどの政治的権限があったかどうか疑問でつ。

110: 日本@名無史さん 2013/10/25(金) 14:03:02.39
>>109
現実に比企氏が持っていた北陸の所領は北条氏の管轄になってるよね

115: 日本@名無史さん 2013/10/25(金) 20:52:17.97
義時の権限というか北条の権限では
政子や時政も含めたさ
もっとも、実際に比企をうった軍を指揮してたのは義時だからそれなりのパワーはあったんじゃあ

116: 日本@名無史さん 2013/10/26(土) 13:31:38.16
時政の失脚が元久2年(1205年)閏7月で、朝時の元服が(朝の字は実朝の朝?)
建永元年(1206年)10月。元服前の幼児を守護に任じるとは思えないから、朝時が北陸方面の守護になったのは父の義時による人事だろうね。
ただ、比企氏がかつて北陸地域を管轄していたからといって、引き継ぐのに有利に働いたというのはどうだろう?

比企氏は御家人から総スカンを食って族滅した訳で、御家人の憎悪の的になった比企氏の血統というのはハンデにしかならないような気がする。

129: 日本@名無史さん 2013/10/26(土) 21:05:34.68
>>116
奥州合戦の後、頼朝は秀衡未亡人を保護して在地勢力の反発を回避しようとしている。
戦国大名も滅ぼした相手の家族を保護したりする占領政策をとる場合もある。
もし比企氏と北陸豪族とつながりがあったとしたらその縁者朝時を押し出すのが北陸豪族を北条反発させない効果的戦略だったのでは?

117: 日本@名無史さん 2013/10/26(土) 13:45:36.22
北陸の正守護は義時。朝時は守護代的な存在だろ
基本比企の乱は北条と比企の私闘だろ。
時政が比企を名越屋敷で謀殺したことといい、比企が頼家と北条追討を画策したことと言い、仁田が義時を襲ったことといい、御家人そっちのけで頼家乳父の比企と実朝乳父の北条が権力闘争繰り広げただけ。
ひと昔前の歴史学者が将軍独裁派対執権派の戦いとか屁理屈つけていたが。

引用元: ・【鎌倉北条氏】~その門流・子孫・残党・被官~