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1: 日本@名無史さん 2005/10/20(木) 21:31:13
徳川歴代の将軍は、どんな贅沢をしていたんだ・・・








520: 日本@名無史さん 2007/07/08(日) 14:42:08
大奥で生まれた文化ってなんかあるの?
女流文学的なものとか

521: 日本@名無史さん 2007/07/08(日) 23:01:08
>>520
ない。
いかなる意味でも生産的でないもの
それが大奥。

523: 日本@名無史さん 2007/07/10(火) 00:27:35
>>521
大奥での浪費が江戸の経済を活性化させていたのは有名な事実。
女中たちの家具や衣類が中古品として出回り、高値で取引された。
京や地方の文化を江戸に持ち込んだのも大奥。
華道や香道を庶民まで広めたのも大奥。

一概に非生産的とは言えないし、子作りと将軍の世話以外にも大きな役割を持っていたのに、性的なイメージがつきすぎている。

525: 日本@名無史さん 2007/07/16(月) 01:54:43
大奥は文化こそ生まなかったが250年以上に渡る、将軍家の継嗣を育てた。
それだけで、源氏物語以上に価値がある

526: 日本@名無史さん 2007/07/16(月) 10:00:28
日記とかは残って無いの?

529: 日本@名無史さん 2007/07/16(月) 12:32:43
経済・文化発展に貢献したが、特定の何か(日記や物語など)を残したわけじゃない。
まあ、天皇家の後宮とはちょっと違うわな。

530: 日本@名無史さん 2007/07/16(月) 12:38:32
徳川将軍で、大奥生活をエンジョイできたのは12代家慶までだろうな。
家慶は死の前年に最後の子供をこしらえてるから、存分に大奥を満喫したようだ

一方、家定は虚弱で不能だったとか言われてるし、側室と伝えられてるのもお志賀の方だけ。
家茂は、皇女を嫁にもらった上、多事多難でそれどころじゃなかった。
慶喜は一橋時代からの愛妾はいるが、ずっと京都暮らしで大奥に入れなかった。

思うに、家慶没後の大奥は、年増の後家ばかりで華やかさに欠ける世界だったろうな。

531: 日本@名無史さん 2007/07/16(月) 12:44:22
考えてみたら、歴代将軍に年頃の姫がいる状態というのも、意外と少ない。
家斉以前の徳川将軍の子女で成長したものは、圧倒的に男子の方が多い。

姫がゴロゴロしてたのは家斉のときくらいで、それもとっとと嫁に出すから、子女があらかた夭折した家慶以降は江戸城に姫はいなかった。
田安慶頼の婚約者だった姫が十代前半で夭折したのは惜しい。

535: 日本@名無史さん 2007/07/16(月) 23:25:32
徳川将軍のうち、自分の子に後を継がせることができたのは半分くらいしかいないわけだが。
大奥、効率悪すぎ

536: 日本@名無史さん 2007/07/17(火) 09:20:23
なんか勘違いしてるのかもしれないが、大奥は将軍家族の住居、奥女中はお手伝いさんたちだぞ。
奥女中の公的な目的は将軍家族のお世話であって、世継を残すことではない。

538: 日本@名無史さん 2007/07/17(火) 19:47:06
家茂時代の大奥って、溥儀が退位した直後の紫禁城に似てるな。
幼君と先代、先々代の夫人たちの居住空間。

家茂=溥儀
天璋院=隆裕皇太后(光緒帝の皇后)
本寿院・実成院=光緒帝や同治帝の側室たち

563: 日本@名無史さん 2007/11/02(金) 13:34:29
将軍家定などは大奥に泊まらず中奥に泊まることも多かったらしいしね
ちなみに中奥は将軍の居住空間で男しか詰めてない

565: 日本@名無史さん 2007/12/07(金) 18:08:36
大奥構成員の中で御台所や生母が将軍の家族だということはわかるが、側室はもともとは大奥構成員の一女中にすぎないよね。
お手つきとなって中ろうに格上げになっても、女中の一人に過ぎず、大奥全体の序列から見ればたいしたことのない地位で。
将軍生母に力があったのは分かるけれども、側室程度では真ん中程度の女中、というだけ。
子は将軍の子として扱ってもらえるだろうが、側室は将軍ファミリーの一員というほどのことではないだろう。

568: 日本@名無史さん 2007/12/07(金) 19:53:14
>>565
当然ながら子女を生まない御手付、子女を生んだ御部屋様は一介の奥女中に過ぎない。
が、世継などを生み、御内証の御方の称号を得た者は御付女中を付けられた。
奥女中は将軍、あるいは将軍の家族と見なされる者にのみ付けられる。

573: 日本@名無史さん 2007/12/09(日) 20:22:27
まぁ最大の贅沢は、江戸城の修築だろうな。
失火で焼けすぎ。
最後には修築費すらない有様。。。

575: 日本@名無史さん 2007/12/23(日) 10:17:57
明暦の大火後に再建した万治度の本丸御殿は1840年代まで使用された。
その後、火災が連続して弘化度、安政度の造営と続いた。
安政度の御殿が文久3年の火災で焼失した後は、ついに再建されなかった。

576: 日本@名無史さん 2007/12/23(日) 11:37:03
保科肥前守は天守閣消失後は富士見櫓を天守閣に代行したらしいね

577: 日本@名無史さん 2007/12/25(火) 23:16:19
何度も消失しているのにしつこく木造にこだわるのはなぜ?
石造りにしろよ。

578: 日本@名無史さん 2007/12/27(木) 10:31:02
石造では土台はともかく、地震に耐えられない

585: 日本@名無史さん 2008/01/26(土) 18:07:38
料理作る→毒見→冷たくなる→暖めなおす(風味吹き飛ぶ)→毒見→冷たくなる→将軍の口へ

586: 日本@名無史さん 2008/01/26(土) 19:01:27
料理人は10人分の食事を作り、まったく同じ鍋や釜から器によそう。
10人分のうち2人分は毒見用。
まさか、毒見が箸をつけた食べ残しを将軍が食べていたわけではない。
将軍の食事は冷たかったというわけでもない。

588: 日本@名無史さん 2008/01/26(土) 20:51:33
作って膳に移されてから口に入るまで2時間くらいかかるの

589: 日本@名無史さん 2008/01/26(土) 22:42:23
毒見で死んだ人っていたの?
いなかったら相当美味しい役目だなあ

592: 日本@名無史さん 2008/01/30(水) 22:58:56
毒殺の検出だけではないからね。

腐っていたり変質していたりも当時はある。
食あたりの死者もいたのでは?

600: 日本@名無史さん 2008/05/28(水) 17:52:52
将軍が食べる米は一級品をさらに一粒ずつ女中が選んでたんだと。
でもご飯は炊くのではなく蒸したもの。
中奥で作る→毒味→お錠口へ運ぶ→温めなおす→毒味→盛り付けなおす→将軍のもとへ運ぶ
すっかり冷めて美味しくないだろうね。
将軍が食べた量は秤できっちり計って医者に報告するんだって。健康管理の為。
将軍と御台所の食事は広さ二百坪の御膳所で30人の調理人と40人の下働きが作ってた。
当時のメニューを再現した写真とかないかな?
見てみたい。

602: 日本@名無史さん 2008/05/30(金) 20:15:59
贅沢といっても長生きになる健康的な贅沢とそのときの欲求を満たすだけで寿命を縮める贅沢の二つがある
質素な精進料理や和食を適量食べるとかいうのが前者
ビーフステーキやフランス料理のようなものを満腹するまで食べ酒もたくさん飲むというのが後者
家康は前者の究極を極めた(だから豊臣家滅亡まで長生きして徳川の世を200年以上続かせた)といえる
元禄あたりから後者の贅沢になっていったんではないか?
大名も贅沢食やアルコールが原因で短命というのが多くなってくるし

604: 日本@名無史さん 2008/05/31(土) 18:33:05
健康的な贅沢をしたのは徳川家康と昭和天皇が双璧だと思う

605: 日本@名無史さん 2008/05/31(土) 19:13:31
皇帝やツアリーの贅沢から比べたら、何もいえないよな
これは将軍に限らず、道長なんかもそうだが

607: 日本@名無史さん 2008/06/01(日) 00:25:14
贅沢って食欲性欲以外にもあるだろう?
美術品の収集、建築物の構築など
そういう観点から眺めると、日本の権力者は地味と言うかかわいいというか
欲がないと言うか
世界の権力者とは比較になりませんな
秀吉くらいかな

609: 日本@名無史さん 2008/06/01(日) 01:29:05
権力というもの自体が欲望の対象だからな、手に入れてしまったら、それを保全することにしか関心がいかないのかも。

610: 日本@名無史さん 2008/06/01(日) 03:23:08
でも考えてみれば名古屋城だってあの時代の家康だから天下普請で短期間にできたんだろうね
現在本丸御殿再建するのにも四苦八苦しているから

そう考えると城をポンポン建てたり破却した秀吉はすごいな
それでも短期間にやりすぎて、耐久性が今ひとつだけど

やはり何十年かけて建造物を造る外国の権力者に比べたらおとなしいか

612: 日本@名無史さん 2008/09/16(火) 23:36:17
将軍は三食昼寝付き

一日のスケジュールも好き放題でうるさく説教したり口答えする奴はその場で切り捨て御免
些細なことが気に障ると それだけで一存で諸大名を改易し近づくものみな 指先ひとつでダウンしてたらしい

勉強も仕事もせずかんに障れば周りを粛清し性欲と食欲を満たしながら怠惰な生活をむさぼる
これが将軍の真の姿であった

613: 日本@名無史さん 2008/09/17(水) 18:18:56
>>612
家光までなら、そうかもしれないがそれ以降、将軍もしきたりに支配され好き勝手ができたわけではない。
スケジュールも朝起きて→医師の診察→朝食と喰いながら髷を結い→大奥へ向かい御台所の挨拶・共に
仏壇に拝礼→政務と概ね決まっている。
大名の改易も評定所に諮った上での決定し老中人事も勝手に罷免はできなかった。
吉宗は宗春をすぐに処罰できかったことや、家斉は松平定信をすぐに罷免できなかったのがいい例。

620: 日本@名無史さん 2008/12/07(日) 11:47:35
>>613
逆に家光まではいつ他大名に滅ぼされるか知れずまさに将軍になるのも命がけだったがな
現実に徳川家康なんてあれほど何度も窮地に立たされて大往生できたのが奇跡に近いだろう

634: 日本@名無史さん 2008/12/18(木) 19:31:01
将軍の鷹狩って、大層費用が掛かったそうだが…。
…準備も大変そうだったし…。

635: 日本@名無史さん 2008/12/18(木) 19:53:35
鷹狩りが無事に終われば取り仕切った旗本は褒美に御加増されるし

637: 日本@名無史さん 2008/12/18(木) 21:54:39
江戸時代初期の将軍の遊びは、
城内では能等の興行等、

城外では、鷹狩・鹿狩・猪狩等の狩猟、船遊び等、軍事演習を兼ねた遊びが主流だったが、経費が掛かる為に、次第に軍事演習を兼ねた遊びが行われなくなり、江戸時代後期になると、大人しい遊びが主流になったそうだ。

649: 日本@名無史さん 2009/06/17(水) 02:05:34
朝起きたら弓射百本、柳生流の師範から本気で絞られ、国学者から最新の学問を詰め込まれる。
政務をサボると山積みになるので夜遅くまで残業三昧。
毒味をされすぎて冷めた味気ない食事。
残すと料理人が切腹するので好き嫌いできない。
女を抱くには形式に則り山ほどある手続きを時間までに申請しないと抱けない。
日本の将軍は気苦労が多く、責任の重い役職だった。

653: 日本@名無史さん 2009/08/19(水) 01:05:32
そうかねえ?

656: 日本@名無史さん 2009/11/12(木) 00:23:57
>>653
典型化した将軍の日課を追ってみると
六ツ時(午前6時)起床
洗顔の後袴をつけて御仏間で代々の位牌を拝す。
先祖敬崇の後御休息次いで朝食。
ちなみに毒味の後ですっかり冷めてるし、内容も質素で一汁二菜くらい。
食後は医者の健康診断。
その後一時間ほど自由時間で学問か武芸。
十時に老中達が登城してきて、執務時間となる。何事もなければ午後早い時間に終わるが、火急の時は「即下げ」といい、大奥にいようと酒宴中であろうと夜中だろうと引っ張り出されて処理する。
夕方には入浴。
大奥に入れば夕食はそこでとる。
これ以外に諸大名旗本と対面したりなど儀式は多い。
儀式と慣例に縛られて好き勝手できないのは現代の皇室も江戸の将軍家も同じだ。

657: 日本@名無史さん 2009/11/12(木) 00:32:21
それから誤解してる人が多いけど大奥はハーレムじゃない。
御台所の居住空間でそこの女性は皆御台所に仕える従者。
側室も同じで既出のように同衾する時は脇に二名、室外に数名必ず見張りがつく。
もちろん御台所にはつかない。
好きな時に好きな女を抱ける訳でなく、代々の命日等の忌日は無理だし相手の女性は原則お目見え以上の身分。
将軍も結構辛いものがある。だから体が弱いのは早死にする。

668: 日本@名無史さん 2009/11/18(水) 21:15:07
そもそも将軍の権力は絶大だがそれは地位に由来するもので、そのために儀式や慣例に縛られまくり。

所を弁えて大奥で励んでいても房事がすぎれば注意される。松平定信が徳川家斉にしたみたいに。
もちろん疎かにしても注意される。春日局が家光に、田沼が家治にしたようにね。
家臣を直接罷免することもない。

徳川で家臣を手討ちにしたのは水戸光圀と紀伊重倫だが、彼らもそれなりの制裁を受けている。

引用元: ・徳川将軍の贅沢について・・・




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