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1: 世界@名無史さん 2010/09/15(水) 21:54:17 0
貴族vsブルジョワvs労働者 






フランス復古王政

復古王政は、フランス史上、1814年のナポレオン没落後、1830年の七月王政成立までの時代を指す。

フランス革命(1789年–1799年)でブルボン朝の国王ルイ16世が廃位・処刑された後、第一共和政(1792年–1804年)、第一帝政(1804年–1814年、1815年)が続いたが、第六次対仏大同盟がナポレオンを破って第一帝政が終わり、ルイ16世の後継者による王政が復活した。復古王政期のブルボン朝はアンシャン・レジームのような絶対王政ではなく立憲王政であったため、その権力には制限が課されていた。この時代の特徴は極端な保守反動にあり、その結果として漠然とした社会不安や騒擾が蔓延していた。また、政治におけるローマ・カトリック教会の復権もみられた。



フランス第三共和政

フランス第三共和政は、普仏戦争さなかの1870年に樹立したフランスの共和政体。1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻によるヴィシー・フランス成立まで存続した。

初期は議会で君主制の復権を掲げる勢力が多数だったが、君主の性質などをめぐりボナパルティスト・王党派など様々な対立があり機を逃した。最終的にレジティミストの推すシャンボール伯アンリが1883年に没すると世論は共和政容認が大勢となり、選挙でも共和派が多数を占めた。結果として、王政復古の望みは潰えて「共和政」の名が公的に現れるようになった。

第一次世界大戦以降、特に30年代後半に急進党を中心にした左派との政治的対立が激化した。第二次世界大戦によるナチスドイツによる占領、フィリップ・ペタンを主席とするヴィシー政権が誕生したことでフランス第三共和政は終焉を迎えた。フランス第三共和政は70年で歴史を終えたが、1789年のアンシャン・レジーム崩壊以降の政体としては現在のフランス第五共和政も含めて最長のものとなった。




2: 世界@名無史さん 2010/09/16(木) 01:19:01 0
地主vs金融資本vs労組って感じかな?

3: 世界@名無史さん 2010/09/16(木) 22:21:49 0
まっ貴族とブルジョワジーって仲悪いよね、元々敵同士。

4: 世界@名無史さん 2010/09/16(木) 22:25:04 0
変態首相ティエール。

母子3人と関係していた。

5: 世界@名無史さん 2010/09/16(木) 22:54:03 0
>>4
majd!?

6: 世界@名無史さん 2010/09/16(木) 22:59:02 0
>>5
まじ。最初人妻と関係してその人妻が自分のもとにティエールを繋ぎ止めようと若い自分の娘とティエールを結婚させてさらにティエールはその妹ととも姦通。

7: 世界@名無史さん 2010/09/16(木) 23:26:08 0
ワロタ!
元々チキンなティエールなのに、アッチだけはお盛んだw
モテタと言うべきなのかな?

普仏戦争の敗戦処理でパリで労働者と国民軍兵士を武装解除しようとして正規軍を派遣したのに、逆にその正規軍が武装解除され、指揮官や将軍が処刑されたのを聞いて一目散にベルサイユ宮殿に逃げ込んだのがティエール首相

ティエール首相はオルレアン派の政治家で当初は王党派主導のボルドー議会で首班指名され、対独講和、パリコミューン弾圧、オルレアン朝復古で動いていたが、途中で日和って第三共和制を目当てに動き出した為に、オルレアン派だけでなく正統王党派まで怒らせてしまい、議会で解任され失脚、政治生命を失う。

追い落とす過程で王党派やオルレアン派がティエールのS○Xスキャンダルを大げさに暴露したのでは?

8: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 01:03:31 0
ティエール首相は、シャンポール伯爵率いるレジティミストとパリ伯爵率いるオルレア二スト双方を裏切る形で第三共和制初代大統領に就任したからな。

そもそもレジティミストとオルレア二ストは、ティエール首相をガンベッタらの共和主義派に対抗しうる人物として見ていたから、首班指名したのに、ティエールは首相になってから「共和制は、民主主義者から革命の流れをそらす為の運河の役目を果す政体である」と言う口実で第三共和制の樹立に動きついには自分が初代大統領に就任したから、そりゃ怒るわなw

25: 世界@名無史さん 2010/10/15(金) 18:14:01 0
>>7-8
さんざんな言われ方をしているティエールだが、その頃、岩倉使節団の副使としてフランスを訪問した木戸孝允(だったと思う)は、ティエールのことをなかなかの傑物と高評価している。

26: 世界@名無史さん 2010/10/15(金) 18:43:23 0
ティエールは屑。
王党派の雇われマダムのような大統領のくせにアンリ5世とパリ伯を裏切った悪党。
ジャコバンは何年たってもジャコバンてこと。
とっとと始末してればよかったのに!

28: 世界@名無史さん 2010/10/16(土) 23:32:27 0
>>26
ティエールは、ジャコバンではないですよ、元オルレアン派の日和見の共和派ですかね。
ブルジョワジーに近いようですので、イデオロギーだけを見ればジロンド派に近いと思います。

10: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 07:07:47 O
なんでルイナポレオンを迎えたの?

11: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 16:38:16 0
迎えたと言うよりも、ボナパティストの支持を得て自分から出てきた。
当初は、王党派と連携し、一部のレジティミストとオルレア二ストも支持に回った。
第二共和制が始まると新山岳派が台頭し労働者運動が盛んになった為にそれを抑える、という公約にブルジョワジーと貴族の支持が集まった。また王党派が内紛で正統派とオルレアン派に分裂し、ルイ・ナポレオンを押えられなかった。
また、大統領の時に既に人事権を行使し王党派や王族の将校・将軍を排除しフランス軍要職に自分に近いボナパティストの軍人を配置し、事実上フランス軍を自分の私兵化していたのも大きい。

ルイ・ナポレオンのクーデターの時にティエールは逮捕されている。
大方の王党派政治家はこの時に身柄を拘束されている。
逮捕を免れたビクトル・ユーゴーと新山岳派は、パリで抵抗委員会を組織し、パリ市民にバリケードを作って軍に抵抗するように呼びかけたが、思ったほど集まらず、結局バリケードを巡って3日間の市街戦でフランス軍はパリを制圧した。新山岳派議員も逮捕された。ユーゴーは、ベルギーに亡命する。

また、大地主貴族はこの時期にイギリスを真似て囲い込みを開始しており、その為に苦しい競合関係に有った、地方の小土地所有農民にはナポレオン崇拝が残っている事もあり、これも地方からの支持を集めるのに役立った。

12: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 18:42:57 0
ナポレオン一世の長男が子供をつくらないうちにが死亡し、ボナパルト本家が事実上断絶した為に、ナポレオン一世の甥っ子であるルイ・ナポレオンがボナパルト家の当主と成り、ボナパティストの先頭にたった。
7月王政打倒を目差して2度反乱を起こすが、失敗する。1840年に終身刑となり牢獄に入れられたが、1846年に脱獄してイギリスへ亡命した。2月革命勃発後は補欠選挙で当選、議員としてフランスに復帰した。

1848年12月、対抗馬カヴェニャック将軍に圧勝して大統領に当選する。
六月蜂起の際、カヴェニャック将軍が陸相として戒厳令を布いて労働者の蜂起を弾圧。
3千の死者、2万5千の逮捕者を出した。これが原因で同年12月の大統領選挙ではパリ市民から反発され、対抗馬のルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)に敗北した。

13: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 01:35:11 0
レジティミスト、オルレア二スト、ボナパティストは今でもフランス右翼の三大派閥と言われている。その中で現在の最大派閥はオルレア二ストである。
当初は、レジティミストが最大の右翼派閥であったが、シャンポール伯アンリダルトワが1883年に死亡してブルボン家直系が断絶した事により、支持者がオルレア二ストに合流し、この派閥が右翼最大の勢力と成った。

シャンボール伯には子供がおらず、サリカ法に基づき、スペイン・ブルボン家のモンティソン伯フアン・カルロスをブルボン家男系の長系継承者として、シャンボール伯の後継者に選んだ。
しかし、モンティソン伯はスペイン人であり、この相続に納得できないフランス人の王党派支持者が多く、結局多くのフランスの王党派はレジティミストから離れてオルレアン派に合流してしまう。この為に現在では、レジティミストは少数派の王党派の右翼派閥に転落してしまっている。

現在のボナパティストは政治勢力としては、ほとんど実体がない、とされている。
フランス国内で政治運動としてのボナパティストの動きはほとんど無い。

14: 世界@名無史さん 2010/09/21(火) 04:44:27 0
アンシャン・レジーム末期に王政改革が始めると、王権に寄生する宮廷貴族はも反対したが、さらに地方貴族が、強固な王政改革の反対派になった。このアンシャン・レジーム末期に王政改革には、貴族の免税特権の剥奪や徴税効率のアップなど更なる王権への権力集中が図られており、王権拡大に対する貴族達の反発によってナカナカ進まなかった。

このようにフランスの貴族は、近代的で開発独裁的で中央集権的な啓蒙君主制には反対する傾向があった。それと同時にイギリスなどと比較してフランスでの革命期の反革命領主層の抵抗が極めて頑強でもあった。これらはフランスにおける地方の領主権強固さと領主の財政的な基盤の強さを現わしている。
王権にせよ、革命政権にせよ、現行を変更する施策に対しては地方の貴族層の反対により、その実施には大変な抵抗があった、特にフランス革命の特徴には国内の反革命勢力の武力的な抵抗と外国軍の侵入が、挙げられ、これらがフランス革命の激しさを特徴付けている。

ナポレオンが退位し王政復古がなり、エミグレが帰国し始めると、革命政府とボナパルト帝政期に確立されたブルジョワ支配体制を覆そうとする、当然貴族とブルジョワの対立となるわけだが、王政復古期の貴族層の中でも特にユルトラは、ブルジョワや労働者と激しく対立しつつも、絶対王政の再建も望まないといった不思議な政治傾向を見せる。むしろ貴族層の中でもブルジョワとの連係により労働者を抑えつつ立憲王政を軌道に乗せる事を企む勢力の方が王権の近代化と強化に乗り出す傾向を見せる。

15: 世界@名無史さん 2010/09/21(火) 04:53:12 0
ユルトラは、爵位復活に満足せず、アンシャンレジーム期の特権復活を目論み、革命期に競売に付された自己の資産や土地を取り返そうと古証文を持ち出して新しい所有者に迫った。
これらユルトラの行動は問題だが、さらに問題なのは、ユルトラ主導の下院議会が王政復古開始時に成立しており、彼らは議会主権を振りかざして国王と対立してしまう。
なぜなら彼らユルトラの理想の政治体制は、近代的かつ中央集権的な絶対王政では無かったからだ。かれらは自己の理想の体制を中世的な「分権的」王政に求めており、この事からのユルトラは、アンシャン・レジーム末期の王政改革に反対する貴族層と同じ政治傾向を持つ事がハッキリ判る。
この弱体化した王権を求めるユルトラ貴族層の政治傾向は、アンシャン・レジーム末期から王政復古期にかけて一貫性を持って堅持され、新国王のルイ18世やナポレオン戦争後にフランスを占領した連合国をも悩ませる事になる。

16: 世界@名無史さん 2010/09/22(水) 20:26:28 0
王政復古期のユルトラは、自分に敵対するブルジョワジーや労働者階級に対して徹底的な抑圧を求めているくせに、王権の近代化や強化にも反対する姿勢。
ユルトラの2重の政治的請求は、無理な話。
王権が強化されると、貴族階級の既得権も王権に収奪される事への不安と不満が有るのだろうが、それではブルジョワジーや労働者階級には勝てない。

はっきり言って無い物ねだり。

18: 世界@名無史さん 2010/09/24(金) 04:39:47 0
復古王政期には、貴族階級は政治的に2つの派閥に割れていた。ユルトラと立憲王政派である。
ユルトラは、アルトワ伯がリーダーで、フランス革命を完全否定し、アンシャン・レジームと貴族の封建的特権の復活を目論んだ、特に1815~16年にはユルトラの政治的攻勢が激しかったが、ブルジョワ支配は覆せなかった。
そしてこの時期にフランスを占拠している欧州各国軍の占領軍もユルトラの政策には反対した、ユルトラの反動的な政策を強引に実行した時には、フランス全土で農民の反乱や反抗を呼び起こし、占領軍が内乱に巻き込まれる事を心配したからである。

またルイ18世も>>16の理由からユルトラに対抗した。アンシャン・レジームの復活を求めるくせに、絶対王政にも反対するユルトラの2重のアナクロ二ズムには国王自身も呆れ返っていた。占領軍は、ルイ18世に対し「ユルトラ議会解散が占領軍撤退縮小の必要条件である!」と迫り、国王も早急に国王大権の拡充を図る必要性を感じた為にユルトラ議会を解散した。

その後国王政府の反撃もあり、ユルトラは選挙戦に破れ政府派である立憲王政派が議会の多数を占めた。この立憲王政派は、(憲章)<シャルト>の示す方向性、つまり貴族とブルジョワを妥協・協調させ社会秩序安定を実現しようとした。
また、立憲王党派は、経済的には、大土地所有者と銀行・大企業などの大ブルジョワジー双方の利益を擁護する為に高関税政策を実行しており、この経済路線は7月革命直前まで上手く行っていた。

17: 世界@名無史さん 2010/09/24(金) 03:22:03 0
意外と知られていないが、王党派による虐殺(白色テロ)がナポレオン失脚時に発生している。有名なのは山岳派による恐怖政治やヴァンデ地方やナント市やブルゴーニュ地方での王党派反乱鎮圧時の革命軍による地元住民の虐殺などであるが、虐殺は革命派ばかりが行ったわけではない。

フランスでは、比較的遅れた地域とされる南部と西部に王党派の勢力が強かった。
ブルボン家も南部の貴族の出であるし、ブルゴーニュ地方とヴァンデ地方は王党派反乱が最も強かった地域である。7月王政下でもブルボン家による反乱がヴァンデ地方へのブルボン家王族の潜入と共に開始されている。

フランス南部と西部は、貴族の大土地所有形態の農地が点在し、中小の農民との混在地区であり、なおかつ教会・修道院がかつて所有していた農地が多い処である。ちなみに先進的な地域とされるフランス北東部は、貴族の大土地所有は少ない。

そのフランス西部と南部で、1815年6月にワーテルローの戦いが負けた事により、ナポレオン百日天下が終わる時期にユルトラによる元ジャコバン派やボナパティストへの白色テロが大規模に発生した。
貴族階級に雇われた元軍人や犯罪者、盗賊などが気ままな放火・暗殺・逮捕を行いナポレオンの部将であるブリュッヘルやネイが虐殺された。全国で2000人近くが殺され、カトリック住民によるプロテスタント住民への虐殺も併行して行われた。この王党派白色テロで逮捕者7万人、政治犯9000人とも言われ、すざましい報復リンチが行われた。

この時期に併行し1815年に下院の選挙が行われ、王党派による白色テロが吹き荒れ捲っている時期に合わせて王党派が大量に議員に選出された。およそ議席の9割が王党派と言う状態でエミグレやユルトラも含まれており、「王様よりも王党派的」といわれる「またと見い出しがたい議会」が選出された。

19: 世界@名無史さん 2010/10/02(土) 14:07:16 0
アルトワ伯が早死にして、ルイ18世がもう10年くらい生きてたら、7月革命は防げたかもしれない。
7月革命が起こらなければ、立憲王政派主導で君主制が安定してたかも。

20: 世界@名無史さん 2010/10/02(土) 21:19:01 0
マジレスするとルイ18世は太りすぎだった。
あの太りようは病的。肥満のせいで亡くなったようなもんだし。
余りの太鼓腹で普通の食卓に就くこともできず、腹に当たるテーブルの部分を丸く切ってようやく座れたらしい。

21: 世界@名無史さん 2010/10/02(土) 21:24:59 0
クラウゼヴィッツはパリに帰還するルイ18世を目撃して
「あんな醜く肥満した国王が威信を保てるのだろうか?」
とか妻への手紙に書いたそうな。

23: 世界@名無史さん 2010/10/11(月) 18:12:57 0
大土地所有者で農業の貴族と金融や製造業中心のブルジョワジーの経済的利害の対立もあるからな~
関税率だけでも双方の意見はなかなかまとまらなかった。
ましてや相続法となると全然まとまらない。
それに結局ブルボン家は、支持基盤を貴族以外にあまり広げる事ができなかった。

24: 世界@名無史さん 2010/10/12(火) 14:09:51 0
>結局ブルボン家は、支持基盤を貴族以外にあまり広げる事ができなかった。

これは少し誇張され杉
一部のアンシャン・レジーム以来の特権大商人系のブルジョワジーや貴族階級ではないが、古くからの地主などの地方の名望家は、王党派に主体的に参加している。
ジャコバン派政権~ナポレオン時代に台頭した軍需系産業ブルジョワジーは確かに共和派よりの姿勢ではあるし、金融系ブルジョワジーもアンシャン・レジーム期から存在した連中でさえもオルレアン派か共和派が多い。
パリやリヨンなどの大都市部では、革命派(ジャコバン派)が多いとされたが、リヨンでは、フランス革命期に王党派とジロンド派の妥協が成立し、ジャコバン派のリヨン市長が市議会により弾劾解任されギロチンで処刑されている。
パリでもヴェンデミエールの反乱の時は、王党派貴族の秘密結社(全仏で会員約2000名) ある“聖ルイ騎士団”が大量の現金をパリ市内の貧民街でバラマキ、2万5千名の叛徒のリクルートに成功している。
ルイ16世処刑時にもこの“聖ルイ騎士団”がルイ16世の身柄を奪回する計画を立てており、それを警戒したジャコバン政府は、国民衛兵隊2万人を動員し、処刑場に集結させ、戒厳体制下でルイ16世の処刑を実施した。

27: 世界@名無史さん 2010/10/16(土) 20:16:22 0
もしブーランジェ事件が成功していたら君主制は復活したのだろうか。

ブーランジェ事件

1889年フランス第三共和政を動揺させた事件。クリミア戦争などで戦功を立てた G.ブーランジェ将軍は,議会政治に不安と不満をもつ民衆に熱狂的な人気を博し,右派からは対ドイツ報復の英雄に祭り上げられ,同年1月下院のセーヌ県補欠選挙で大勝したとき,その独裁へのクーデターが待望された。しかし,ブーランジェは機会を逃し,陰謀企画のかどで政府に喚問される直前ベルギーに亡命した。


28: 世界@名無史さん 2010/10/16(土) 23:32:27 0
>>27
いや、ブーランジェが独裁的な大統領になるだけでしょうね。
この頃は、シャンポール伯爵アンリ5世も死んだ後で、王党派運動も沈静化していました。

29: 世界@名無史さん 2010/10/17(日) 11:21:51 0
ブーランジェ本人は、軍隊から王族(ルイ・フィリップの息子)を追放したりして、「共和派将軍」として名声の高かった人だしね。
この人物をカリスマとして担がざるをえなかったところに、王党派の人材難がうかがわれる。
王党派は、マクマオンの失脚以後、選挙のたびに議席を減らしているジリ貧状態で、90年代に入ってすぐの選挙では、とうとう元の王党派が全滅状態という打撃をこうむった。
教皇も王党派を見限って、フランスのカトリック勢力に共和派への「加担」を命じている。
だから、20世紀にモーラスがアクシオン・フランセーズで王政復古を主張しだしたときには、右翼の内部ですら王政支持はほとんどなく、モーラスは時代錯誤と見なされていた。

30: 世界@名無史さん 2010/10/18(月) 06:30:31 0
>>29
王党派も一応ブーランジェ将軍を担いでいたのですね。
王党派が人材難とされますが、基本的に王家子孫が王党派リーダーですから、人材は限られます。
ですが“五月十六日事件”を仕組んだブロイ侯爵なんかはナカナカの策士だったようです。

>王党派は、マクマオンの失脚以後、選挙のたびに議席を減らしているジリ貧状態で、90年代に入ってすぐの選挙では、とうとう元の王党派が全滅状態という打撃をこうむった。

首相であり政界の仕掛け人と言われたブロイ侯爵主導の王党派クーデター未遂事件
“五月十六日事件”以降、選挙のたびに議席を減らしているみたいですね
これは何でなのでしょうか?

>教皇も王党派を見限って、フランスのカトリック勢力に共和派への「加担」を命じている。

王政復古の時以来実はフランス王党派(貴族勢力)と教会は実はあんまり上手く行って居ない。
例のカトリック教会・修道院の土地を国有化した後に貴族も大量にカトリック資産を買収している。で王政復古時にそれを貴族は教会には返していない。まだ売却していない残りのカトリックの資産も結局教会には返さずに、主に貴族が購入している。
こんな事があり、革命以後はカトリックと貴族はそれほど良い関係ではない。

31: 世界@名無史さん 2010/10/25(月) 00:15:44 0
>王党派の人材難がうかがわれる。

ティエール、ギゾー、ブロイ侯爵、レミューザ、オディロン・バロ 等々
それなりに居るだろ、王党派の政治家。

34: 世界@名無史さん 2010/10/30(土) 21:58:36 0
七月王政の宮廷には貴族は余り出仕しなかったようだ。
貴族達の邸宅街、サン・ジェルマン街では鎧戸を閉ざして「ブオナパルテよりはましだが、やはり簒奪者」であるルイ・フィリップ王に抗議、舞踏会では醵金を募って亡命先のブルボン家に送金していたとか。

36: 世界@名無史さん 2010/11/16(火) 00:27:35 0
>>34
>七月王政の宮廷には貴族は余り出仕しなかったようだ。
>舞踏会では醵金を募って亡命先のブルボン家に送金していたとか。

七月王政は、ブルジョワ政権だからね、特にロスチャイルドが政権のど真ん中にいて産業ブルジョワや非ロスチャ系金融業者(ペレールやラフィット)らですら不満状態。
1883年にシャンポール伯爵アンリ・ダルトワが死ぬまでのフランス貴族のほとんどが、正統王党派だから、この時期の貴族は、オルレアン家を支持していない。オルレアン派の貴族は少ないし、オルレアン派はむしろ金融業者たちが支持していた政治勢力。
七月王政の宮廷に出仕しているのは金融業者ばかりで、おかげでオルレアン朝は“株屋の王”とパリ市民に言われてしまう。

この時期のフランス貴族は、復古王政が革命で崩壊したという事もあり、地方の大土地所有者としての性格が強かった。
10億フラン法で旧体制時代の先祖代々の所有地を取り戻したり、革命期の国内残留組の貴族は国有地(教会・修道院所有地)を安く買い占めて更に所有地を拡大した世代の子弟にあたる世代の貴族が多く、旧体制下の様に都市部のパリやベルサイユでの宮廷生活よりも英国貴族型のカントリーハウスに住む生活スタイルだった。
また、政治的にも保守的風土が強い地方の方が貴族達に合っていたとも言える。

60: 世界@名無史さん 2011/02/26(土) 22:12:09.40 0
何の証拠もなかったアルフレッド・ドレフュスを逮捕した理由って何なの?
ユダヤ人に対する偏見があるんだろうが、さすがに無理筋だろう。
そして本当の売国奴を庇い続けた軍やその支持者たち。
なぜあんなあり得ない展開に発展したのであろうか。
ドレフュス事件とは、1894年にフランスで起きた、当時フランス陸軍参謀本部勤務の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件である。

62: 世界@名無史さん 2011/02/26(土) 23:41:25.51 0
>>60
組織防衛じゃなかろうか。
ドレフュスを一旦冤罪で投獄し軍から放逐してしまった以上 今更「あれは間違いでした謝罪して撤回します」なんてなったら国軍の威信が崩壊するという怯えと、自分達首脳部が責任追及されるという自己保身。

パリ・コミューンで活躍した女性闘士(名前忘れた)までが「愛国者」ぶりを発揮してドレフュスを攻撃しまくったんだっけ。

63: 世界@名無史さん 2011/02/26(土) 23:48:55.59 0
ドレフュス事件では自殺者も出たけど映画で知ったその遺書の内容がショックだった。
ドレフュスはあくまで真犯人であるのだと。
全部内情を知っていたアンリという佐官の遺書。

「人の将に死なんとするやその言善し」というが
実際は人間、死に際しても体面のためなら嘘を付くんだなあ、って・・・。

64: 世界@名無史さん 2011/02/27(日) 23:43:49.91 0
体面のためなら死ねる人が結構いるみたいですねえ

66: 世界@名無史さん 2011/03/07(月) 18:54:00.22 0
復古王政で活躍したリシュリュー公爵って、あのリシュリュー宰相と関係あるの?

67: 世界@名無史さん 2011/03/07(月) 19:10:24.13 0
子孫(というか爵位の継承者)です。

72: 世界@名無史さん 2011/09/01(木) 02:50:25.28 0
普仏戦争後ティエールが執政となり新たに選出された議会はブルボン派とオルレアン派を合わせると王党派が優勢
しかし王政復活では一致したものの国家理念では鋭く対立(主に大革命の評価)
結局オルレアン派と共和派との妥協でとりあえず共和国として出発
その後ティエールは失脚、ブルボン派のマクマオン元帥が大統領に就任
それでも揺り戻しはあったにせよ王政が復活することはなかった

近代的法制度が定着し権威的政府を必要としなくなってたからでは?

75: 世界@名無史さん 2011/12/14(水) 18:21:55.31 0
1871年選挙で王党派が大勝したのは、元ボナパルト派だったが厭戦感情が高まっていた農民層の票を丸ごとゲットできたからでしょう。
大ブルジョワ層も王党派を支持していたけど、どちらもその後ティエール=ガンベッタ路線のオポルチュニスムに取り込まれてるんだから、シャンポール伯が三色旗認めたって王政復古の芽なんて最初からなかったんじゃ?
仮に王政復古となれば必ず国民投票か武力クーデタが必要になる。どちらにしろ成功する公算は高くなかっただろう。

「革命の芽を削ぐには共和政体が一番」というティエールの言はまさに至言だと思う。
七月革命、二月革命、ボナパルトのクーデタ、パリコミューンと50年近くに渡って政治の第一線で見てきた彼だからこそ言える至言。

76: 世界@名無史さん 2011/12/29(木) 01:32:38.15 0
>「革命の芽を削ぐには共和政体が一番」というティエールの言はまさに至言だと思う。

この革命は、ブルジョワ革命ではなくて社会主義革命を予防したかった、と言う意味だろ。
この頃には、社会主義や労働運動が盛んになった事で、地主貴族とブルジョワジーが対立している状況ではいられなくなり、ブルボン本家の断絶もあり、両者は手を組んで左翼と対立し始めた。
それまでは一部の王党派や地主貴族には、左翼と手を組む“王朝左翼”が居たぐらい。
ブルボン本家は断絶して、一応レジティミストとオルレアニストは統合された。
個人的には大変残念だけどね、今だったら人工授精やら試験管ベイビーやらの技術でブルボン本家を継続させる事が出来ただろう。
一応レジティミストは絶対王政派(農業・大地主重視)で、オルレアニストは立憲王政派(ブルジョワ・金融重視)と言う色分けだった。

19世紀後半の第3共和政期には、ブルボン本家の断絶もあり、政治勢力としてのオルレアニストは消滅、かつての支持者たちの多くが共和国体制に順応していった。
1899年に急進的な右翼組織「アクシオン・フランセーズ」が創設され、オルレアン家こそはフランスの民族統合を救う唯一の存在であるとして、支持基盤の崩壊した同家を支持した。こうしてオルレアニスムは新たな生命力を得たが、その主導権は穏健かつブルジョワや金融を重視する王政など眼中にない別の組織に渡ってしまった。
本来のオルレアニストのもつ、正統王朝と共和主義者という両極端の間に存在する穏健王党派やブルジョワ王政派という性格は失われ、フランスの極右とナショナリズムのシンボルてしまったのである。

77: 世界@名無史さん 2011/12/29(木) 01:55:59.98 0
>シャンポール伯が三色旗認めたって王政復古の芽なんて最初からなかったんじゃ?

王党派が、フランス軍を押えていれば、何とかなったよ。
そもそも王党派主導の議会が共和派に転向したティエールを大統領から解任し、後任は王党派のマクマホン元帥な訳でこの事が既に王党派のクーデターに近かった。

7月革命だってフランス軍が国内に居なかったから成功したんだし、その逆のルイ・ナポレオン大統領のクーデターだって、ボナパティストを軍の要職に就けていたから成功したんだし、軍のクーデターで王政を復活させる事は不可能じゃなかった。

その為には農民層やブルジョワジーの暗黙のクーデターの了解が必要だった。
それにはシャンボール伯は、クーデター実施前後は、三色旗を受け入れ、その後政局が安定したら白旗(フランス王国旗)に戻せばよかった。

もたもたしていたんで王党派の支持層も共和制支持に移行してしまったって事でしょうね。

78: 世界@名無史さん 2011/12/29(木) 02:18:04.59 0
王政復古工作は、首相のブロイ公が行った様だが、彼はもう少しレジティミストと上手くやれば良かった。

王党派の極右、超保守主義者として共和主義者や労働者運動へ激しい憎悪を抱くのは別に構わないが、あそこまでレジティミストと対立してしまうとシャンボール伯の死後の王党派合同に差しさわりがあるし、どうせブロイ公とシャンボール伯の人間関係は上手く行っていなかったんだろう。

ブロイ公が、うまくシャンボール伯を説得して三色旗を受け入れさせれば、第三共和制の初期に王党派の軍事クーデターで王政を復活させる事は難しくなかった。王政による労働運動や社会主義運動抑圧をブロイ公がもっとアピールしていれば、ブルジョワジーも農民層も王政復古の軍事クーデターを支持したと思う。戦後にGHQが皇室を残した理由をよく考えるべきだね。

79: 世界@名無史さん 2011/12/29(木) 23:13:42.29 0
1877年の5月16日にマクマオン大統領が、共和派のジュール・シモン首相を強硬に批判しシモン内閣を総辞職に追い込んだいわゆる「5月16日の危機」に乗じてマクマオン大統領、パリ伯爵フィリップ、シャンボール伯爵の三者が手を組んで王政復古の軍事クーデターを起せば、この時にブルボン王朝は復活しただろう。

当面は、シャンボール伯爵が、フランス国王アンリ5世として統治しその後にオルレアン家のパリ伯爵フィリップか、その息子が王位を継げば良かった。

王政復古の軍事クーデターでパリで労働者や学生が蜂起してもフランス軍を集中すればパリコミューンの様に鎮圧できるし、鎮圧後に議会選挙を行えば王党派議員がもっと選出されたであろう。

80: 世界@名無史さん 2011/12/29(木) 23:20:23.53 0
1877年の5月16日にマクマオン大統領が、共和派のジュール・シモン首相を強硬に批判しシモン内閣を総辞職に追い込んだいわゆる「5月16日の危機」に乗じてマクマオン大統領、パリ伯爵フィリップ、シャンボール伯爵の三者が手を組んで王政復古の軍事クーデターを起せば、この時にブルボン王朝は復活しただろう。
当面は、シャンボール伯爵が、フランス国王アンリ5世として統治しその後にオルレアン家のパリ伯爵フィリップか、その息子が王位を継げば良かった。

王政復古の軍事クーデター勃発後にパリで労働者や学生が蜂起してもフランス軍を集中すればパリコミューンの様に鎮圧できるし、パリ国民軍の一部が反乱に同調しても正規軍の集中投入で鎮圧が可能だ。ルイ・ボナパルトのクーデターと同じだ。
鎮圧後の新国王政府の下で国民議会選挙を行えば王党派議員がもっと選出されたであろうし、王党派主導議会が国王新政府を承認して新憲法を制定していたであろう。

81: 世界@名無史さん 2011/12/29(木) 23:35:29.11 0
俺もパリコミューンの時にブランキがパリにいて指導力を発揮して、選挙とか下らないこと後回しにして即刻ヴェルサイユの共和政府を攻撃してれば、あとは対独戦争とか何もかも上手くいって第四共和政はソヴィエトに代わる労働者政権の代名詞になったと思ってるけど
あなたも俺と大差ないぐらいの妄想家のようだね

引用元: ・■フランス復古王政~第三共和政■





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