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1: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/11/08(月) 21:31:47
251年・・・司馬懿vs王凌(曹彪擁立)
255年・・・司馬師vs毋丘儉・文欽
257年・・・司馬昭vs諸葛誕・呉軍(朱異)
260年・・・曹髦、司馬昭誅殺失敗

司馬家に抗い散った彼らについて語るスレ








3: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/08(月) 21:43:43
夏侯覇が抜けてるよ

4: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/11/08(月) 21:46:12
おう、夏侯覇が抜けたか。訂正ども。

249年・・・郭淮vs夏侯覇
251年・・・司馬懿vs王凌(曹彪擁立)
255年・・・司馬師vs毋丘儉・文欽
257年・・・司馬昭vs諸葛誕・呉軍(朱異)
260年・・・曹髦、司馬昭誅殺失敗

5: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/09(火) 00:43:47
鐘会... 名分はともかく本音は独立したかっただけかな

7: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/09(火) 18:26:23
鐘会は野心で動いただけ

8: 人公将軍 可児興@可児家当主 ◆KD7tNaIDaY 2010/11/09(火) 19:11:04
毋丘儉と文欽の反乱なんだがなぁ
何故わざわざ反乱起こす必要があったんだ?
あの頃のあいつらはそこそこの身分じゃなかったか?

文欽は呉に逃げたんだったかな?
毋丘儉は確か知り合いの所で酒のませてもらってその知り合いに殺されたんだよな

10: アンジェ ◆YI1yrpC6Lo 2010/11/09(火) 19:34:55
>>8
毋丘倹は司馬師に排された夏侯玄や李豊と親しかったし、文欽は曹爽の寵臣だったんだよ
司馬氏が政治の中枢に入り込んでいった当時の魏では、誰も彼も政治的な立場が不安定で、いつ何かに巻き込まれて命を奪われるかわからなかったわけ
だから中枢から距離を置いて、老荘に耽る奴が多かったの

11: 人公将軍 可児興@可児家当主 ◆KD7tNaIDaY 2010/11/09(火) 19:37:37
>>10
なるほど
つまり、両者とも司馬氏には敵意があったということだな
結局は不安、敵意この二つが混ざりあっての反乱だったわけだ

13: Jominian ◆Henri9gNlM 2010/11/10(水) 00:28:29
毋丘倹の場合、その上表において排除の対象があくまで司馬師に限定されていた事に注目すると、何か見えてくるかもしれない。
司馬昭、司馬孚、司馬望を絶賛し、司馬師を排する代わりにその後釜に司馬昭を据えようとしている。

この上表がどういう意図を持ってなされたのかは興味深いところだろう。

160: ◆EuREka5F1Q 2010/11/14(日) 02:45:04
>>13
毋丘倹の上表のころの、司馬師以外の3人の官職を調べてみたけど何も思いつかないもんだね。

司馬孚――太尉、尚書令
司馬望――中護軍
司馬昭――行征西将軍(都督、持節とかは郭淮もち)


ちょっと気になるのは司馬昭。
司馬師が東征するのを受けて、長安から中領軍として召還されていて、中護軍・中領軍を司馬氏によって占めるとは抜かりないというか。
そして年明けに兄の見舞いのため許昌へ向かい、すぐに衛将軍を拝している。
そんなに司馬師の状態が悪いのなら、傅嘏や鍾会、王粛は何だって無理して行かせたんだろうか?

161: Jominian ◆Henri9gNlM 2010/11/14(日) 21:03:25
>>160
あの頃は要職が司馬氏とそれに阿る一派で占められていたので、はっきり言って司馬師だけ廃しても効果は小さい気がする。
なぜあんな上表をしたのか分からない。

司馬師の命数が尽きかけているのを知って、司馬師のみを悪とする事で早期の決着を図ろうとしたのだろうか?

162: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/14(日) 21:27:09
>>161
司馬一族の内部対立を煽るためとか。

163: Jominian ◆Henri9gNlM 2010/11/14(日) 22:39:54
司馬師と司馬昭が仲違いするようには見えないし、司馬孚は司馬孚で温厚すぎて対立しそうに無い。

司馬望はよく分からんが、司馬氏に権力が帰していく中で曹髦の側に侍する事に不安を覚えて関中に出てったような奴だから、一族内で思い切って対立しようとする人物ではないだろうな。

まぁ、毋丘倹が司馬氏の内実をどれだけ知っていたかは分からないけど。

167: ◆EuREka5F1Q 2010/11/15(月) 20:19:09
>>161
兎も角司馬師の軍権を取り上げることが第一だった、とか?


249年に曹爽らが誅殺されて、まず文欽が不安を抱く。(裴注の王沈『魏書』)
東関の敗北(252年12月)の後に、毋丘倹が督揚州としてやってくるからコンタクトを取ったり、反乱の下準備を始めたりするのはこれ以降。
254年2月、李豊や夏侯玄も誅殺。
そして255年1月に挙兵、ねえ…。

このタイミングをどう考えたらいいのやら。
司馬師が目の手術を行ってた事は、上奏文からすると毋丘倹は知っていたようだし、動けないのをチャンスと見たのだろうか。
待ってるうちに、(連絡を取っていたらしい)郭淮も死んでもうたがな(´・ω・`)

164: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/14(日) 22:53:12
晋書読めばわかるけど、司馬孚と司馬望は司馬氏の権力掌握に非協力的。
司馬懿の子孫による簒奪を望んでいないとしか思えない。
毋丘倹は司馬師を失脚させる事によって、司馬昭を孤立させて、保守派の司馬孚と司馬望のラインが権力を掌握する事を望んでいたのでは?

165: Jominian ◆Henri9gNlM 2010/11/14(日) 23:58:57
司馬孚はともかく、司馬望は別段そうも感じないが。
親子だから何か通じるものがあってもおかしくないが、積極的に司馬師や司馬昭と対立しようとする動きは無かったと思う。

司馬孚の魏室への忠誠は疑いようが無いし、司馬望も曹髦の寵愛を受けていたから、毋丘倹からどう見えていたかは考慮する必要があるだろうね。

司馬師が死に、司馬昭へ権力が移行するわけだけど、この時には、司馬昭を許昌に留め、中軍の指揮権を皇帝に帰そうという動きがあった。
傅嘏と鍾会の働きで事なきを得たが。

司馬師も司馬昭も、その権力掌握過程では結構綱渡りな部分もあって、
確かに、司馬師を廃すという事が、連鎖的に何か大きな作用を起こした可能性も無きにしも非ず、かもしれない。

166: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/15(月) 20:15:26
ところで司馬氏死後に傅カに軍を率いて中央に戻るように曹髦が命じたわけだけど、当時15歳の曹髦にその策を吹きこんで、司馬昭の権力継承を妨害しようとした黒幕は誰なんだろうね?

168: ◆EuREka5F1Q 2010/11/15(月) 20:45:01
黒幕、末期と晋の再評価スレで検討されてたね。
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1236483420/118-128


ここの部分、鍾会伝だと”中詔”になってる。
なんか引っ掛かるから調べてみたけど、司馬師の出征中、尚書台の機能が許昌にあったなんて事はないよね…?

(許昌)
録尚書事  ――司馬師
守尚書僕射 ――傅嘏

(洛陽)
尚書令   ――司馬孚
尚書僕射? ――盧毓(大将軍司馬景王出征、毓綱紀後事)

170: Jominian ◆Henri9gNlM 2010/11/15(月) 23:28:51
中詔ならば詔勅を起草したのは中書ではないか?

当時の中書は恐らく中書監韋誕と中書令孟康が中心だろう。
時期的に韋誕が官を辞し、中書監に孟康、中書令に虞松だった可能性もあるが。
鍾会伝の注に引く世語において、司馬師が中書令虞松に上奏文を書かせる件があるので、やはり虞松が中書令だった線も濃厚ではあるが、この逸話は裴松之によって否定されている。

孟康は曹丕の皇后であった郭皇后の親族であり、特に司馬氏との関連は見られない。
虞松は司馬懿の遼東征伐に付き従い、司馬懿によって引き立てられた人物と言える。

当時の皇帝である曹髦は曹丕の孫であり、孟康の思惑も何かしらあったかもしれない。
漢晋春秋では郭皇后は曹叡によって殺されているが、郭皇后の死亡時期や本伝の記述を見れば、漢晋春秋の記述は眉唾物である事が分かる。
孟康と曹氏の関係が冷え込む事がなかったのなら、孟康と曹髦の繋がりもやはり考えられる事だろう。

孟康の後、恐らくは中書監は朱整へと遷る。
彼の任官時期は不明だが、晋陽秋によれば魏晋禅譲の頃には中書監だった。
孟康が司馬昭と軍の切り離しを画策した事で失脚し、代わりに朱整が中書監となった可能性も考えられる。
しかし、晋書武帝紀には太康九年に朱整が尚書から尚書右僕射に遷った事が書かれている。
この二つの朱整が別人の可能性もあるが、朱整については一考の余地があろう。

271: ◆EuREka5F1Q 2010/11/17(水) 21:57:04
>>170
ああ、中書のほうまで考えが及ばなかったな。
毋丘倹の2年後になるが、諸葛誕の乱のときに出された詔勅で、皇帝・皇太后の奉戴、行台の言及があったから、尚書ことばかりが頭にあったorz

172: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/16(火) 02:18:15
王粛と傅嘏が病み上がりの司馬師自ら出陣するように勧めたってのは
残っているとやばい、という状況だったからだろうか

271: ◆EuREka5F1Q 2010/11/17(水) 21:57:04
>>172
司馬師のとこって息子いなかったからなあ。
跡継ぎとして司馬攸が入っているけど、生まれが248年だから幼すぎる。
司馬師から司馬昭へとスムーズに権柄が渡るよう、前もって申し合わせなり何なりがあったのかもしれない。

しかし病気をおして出てきた司馬師は、毋丘倹伝によると長期戦の構えでいた。
陣没しますと言わんばかりで更に訳が分からない。

276: Jominian ◆Henri9gNlM 2010/11/20(土) 11:10:25
>>271
毋丘倹への対応は単なる持久戦ではなく、戦略的な包囲を行っている。
王基や王粛の言葉通りなら、戦闘を交えないとしても早晩瓦解するように処置している。

傅嘏らは司馬師の死をある程度覚悟していたかもしれないし、それに合わせて司馬昭への権力移行の計画は練っていただろうけど、それはやはりもしもの時の保険のようなものだったろう。
実際にも司馬師は死んでしまい、その保険を使う羽目になったが。

272: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/18(木) 00:11:14
>>271
淮南三叛の際は、いずれも司馬氏の当主が魏の主力軍を率いて鎮圧に向かってる。
強大な中央の軍事力は司馬氏の当主が常に掌握してないと、危険だと思ってたんじゃないかな?
司馬昭を総司令官にしても、当時の官位なら権威が軽すぎるしね。

276: Jominian ◆Henri9gNlM 2010/11/20(土) 11:10:25
当時の司馬昭は行征西将軍ではあったけど、本来は単なる安東将軍。
>>272の言う通り、全軍を統率して反乱鎮圧に当たれる程じゃない。

当時の議論としては司馬孚を行かせるという意見があった。
司馬孚を行かせるという処置は諸葛恪や姜維相手に行われた事で、毋丘倹の乱をそれらと同様に考えていたなら至極順当な意見。

しかし、司馬孚を生かせて成功すれば、魏に忠誠を誓っている司馬孚の権威はまたも強化され、失敗すれば司馬師の権威は失墜する。
蜀や呉の賊に負けるのと、司馬師に反旗を翻した都督に負けるのとでは影響が違うだろうから。
どちらにしても司馬氏による大業を願っている人には不都合となる。

後に控えた禅譲という大業を鑑みれば、病気だろうと何だろうと宰相である司馬師が行く以外に方法は無かったのだろう。


279: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/20(土) 21:01:59
王凌があの時点で皇帝廃立考えた理由と、司馬懿が来ると一戦もしないであっさり降伏した理由が理解できないな。
叛く時期もあきらめるタイミングも中途半端すぎんだろ?

280: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/21(日) 08:20:02
>>279
臣下の専横を避けるために幼主から年長者に代えようとしたのでは。
60前の曹彪じゃ年取りすぎな気もするけど。

281: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/21(日) 08:50:58
>>280
じゃあ、なんで曹爽専横の時に事を起こさなかったのさ?
司馬懿が曹爽を除いた後に起とうとしてるじゃない?
それに政権を握ってた期間や好き放題に振る舞ってた期間は曹爽の方が長い。

282: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/21(日) 17:33:22
>>281
権力を握った曹爽はせいぜい図に乗って司馬懿らを冷遇しただけだから,政敵を族誅までして権力を握った司馬懿とは一緒にできないだろう。

288: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/23(火) 04:22:35
>>282
史曹爽附伝に
『何晏らと謀議を交わし、兵を訓練して、3月になったら挙兵しようと計画していた』
ってあるが?
寧ろクーデターを企んでいたのは曹爽って話しだな

291: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/24(水) 19:20:26
>>288
司馬懿がクーデターを起こしたのは正始十(嘉平元)年の正月,
曹爽が3月に挙兵するつもりなら既に準備に入っていて覚悟もできていただろう。
でも曹爽は全く抵抗しないで司馬懿に降伏している。
桓範が言うように抵抗するだけの戦力のあてがなかったわけでもなく,ましてや皇帝本人を確保していたにもかかわらず。
これだけで曹爽にクーデターを行う意志がなかったのは明らかだろう。

312: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/25(木) 01:11:19
>>291
>司馬懿がクーデターを起こしたのは正始十(嘉平元)年の正月,
>曹爽が3月に挙兵するつもりなら既に準備に入っていて覚悟もできていただろう。

簒奪する覚悟はできていても、司馬懿に挑む覚悟はできていたとは限らない。
司馬懿に挑む覚悟ができていなかったからこそ、司馬懿の様子を伺っているんだろ?

>でも曹爽は全く抵抗しないで司馬懿に降伏している。
>桓範が言うように抵抗するだけの戦力のあてがなかったわけでもなく,ましてや皇帝本人を確保していたにもかかわらず。


本当に司馬懿のクーデターであれば、皇帝に一言、司馬懿を断罪する勅を発してもらえばよいだけのこと
それだけで司馬懿は逆賊であり、状況は一変する。
それすらしなかった、できなかったのは、なぜか?
と考えないの?

>これだけで曹爽にクーデターを行う意志がなかったのは明らかだろう。

クーデターを起こして皇帝になるき満々だったが、ボケたと思い込んでいた司馬懿に先手を打たれてとてもかなわぬと意気消沈して降伏した。
と云う可能性がある。
クーデターの意思がなかったとするには明らかと云えない。

314: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/25(木) 07:29:17
>>312
>簒奪する覚悟はできていても、司馬懿に挑む覚悟はできていたとは限らない。

司馬懿に挑む覚悟すらない奴に簒奪する覚悟なんてあるはずないだろう。

303: Jominian ◆Henri9gNlM 2010/11/24(水) 21:41:26
まぁ、曹爽が司馬懿排除の為に挙兵の準備までしていたなら、司馬懿のクーデターを察知した時点で、それに応ずる動きはしていただろう。
だが、実際には曹爽は何の抵抗もなく陳泰らの説得を受け入れている。

しかしながら、一方で曹羲の方は色々と動いていた様子が見受けられるので、曹羲らが下準備はしていたものの、肝心の曹爽がそれを実行できなかっただけとも考えられる。

305: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/24(水) 21:55:51
>>303
曹爽が今さら司馬懿を排除するために挙兵する必要はないだろ?
司馬懿との政争に勝って、司馬懿を圧倒する権力を持ってるんだから、皇帝動かして勅命を出させて、罪に落とせばいいだけのこと。

306: Jominian ◆Henri9gNlM 2010/11/24(水) 22:02:23
>>305
司馬懿ほどの功臣を、何の落ち度も無いのに罪に落とすには相当な力が必要。
何晏や曹爽の引っ張り上げた連中以外からの支持も必要だろう。
当時の曹爽が権力を握っていたとしても、多くの廷臣に不満を持たせていたなら、朝廷の望と言われていた司馬懿を排除する必要も出てくるだろうし、それが武力を伴う必要もあったかもしれない。

状況証拠的には曹爽自身がそういった考えを抱いていた可能性は皆無。
だが、曹爽の周辺の人物までそういった考えを全く抱いていなかった、と結論付ける事はできないというだけの話。

309: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/24(水) 22:39:37
>>306
武力を用いて排除したら、もっと危ないんじゃ?
司馬懿の人望を考えると、曹爽を打倒すべく挙兵する都督や刺史や将軍や太守が出てくるかもしれない。
曹爽は中央の要職と関中の夏侯玄の軍を握ってるに過ぎないからね。
一番いいのは、普通に罷免することじゃないかな?

311: Jominian ◆Henri9gNlM 2010/11/24(水) 22:47:19
>>309
罷免にするにしても理由が必要だろうし、年齢を理由に引退を迫っても、周囲の希望が司馬懿に集まっていたら反対の声も多いし強行もできない。

武力についても、大義名分があれば可能だろう。
司馬懿らが曹爽を妥当する為に何か行動を起こしたなら、それに対するリアクションとして武力を用いるなら、十分大義名分は立つ。

仮に、そういった事情を以ってしても曹爽打倒の兵を地方の都督レベルの連中が挙げるならば、曹爽の権力基盤は異常なまでに脆弱であるという事になるし、それならば何れにせよ、司馬懿打倒の意志はともかく、有事に備えて軍備をしておく事も当然の事だと思うが。

そしてその防御の為の軍備を、勝者である司馬懿が自身の正当化の為に用いても何ら不思議ではない。

313: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/25(木) 03:31:35
曹爽がクーデターを起こすとして、武力で排除する対象がなんで司馬懿なるんだ?
すでに引退して、しかもボケたのを確認してる(擬態だったが)からには司馬懿のことなど眼中にあるとは考えられない。
と云うより、司馬懿が健在ならクーデターを起こそうとは考えないだろう。
当時、それほど武名が郡を抜いていたはず。

曹爽が権力を握っていたとは云っても禅譲を望めるほどの権力に在らず
曹爽が皇帝になることを目論めば、当然、中央でも反発する勢力が現れる
何晏らと協議したのは、それら抵抗勢力を先んじて排除するため、兵を鍛えたのだろうと考えるのだが?

317: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/25(木) 16:21:46
なんか、曹爽に簒奪の野心があったって仮定で話が進んでるけど、そうだとしたら、司馬懿のクーデターを正当化するために、史書でもっと大々的に曹爽を大逆の罪人として書きたてると思うんだ。

でも、史書が強調してるのは曹爽の権力濫用ぶりと無能ぶりばかりで、ダメな政治をしていて朝廷の信望が無いのに権力を握ってるから、クーデター起こされて当然って書き方で、簒奪という大逆の野心家という顔は、史書の曹爽からは見えてこない。

319: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/26(金) 01:52:24
>>317
史曹爽附伝
『何晏らと謀議を交わし、兵を訓練して、3月になったら挙兵しようと計画していた』

320: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/26(金) 12:16:17
曹爽は呉における孫楙と同じ立ち位置だろう。
独裁者・専横者ではあるがあくまで皇族のひとりでしかない。
そしてその立場のままでじゅうぶんな権力は握っていられるんだから、司馬懿のようにクーデター起こして権力を増大させる意義が見当たらない。
史曹爽附伝の記述は常識的に考えて後世司馬氏に諂うための捏造としか思えないんだが。

325: 無名武将@お腹せっぷく 2010/11/27(土) 11:09:45
>>320
曹爽を孫綝に準えるなら話しは早いが良いのか?

孫綝は、孫亮を廃した後、自らが皇帝にならんと文武百官を招集して意見を求めている。
そして、反対の声が挙がるとしぶしぶ孫休を推戴した。
また、荊州で独立を目論んでいたとある。

クーデター起こして権力を増大させる意義が見当たらない。と云うが、位人臣を極めたら次に帝位を望むのは、別段不思議なことではない。
それこそ、歴史上、この手の出来事は腐るほどある。

引用元: ・【魏国】~司馬家に抗った男たち~【忠義】