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1: 張春華 ◆Shunka/GUM 2006/10/24(火) 01:16:57 ID:S4L2WEFX0
中国前漢の建国の経緯~王莽の簒奪までの人物達の総合スレです!

建国の経緯:項羽と劉邦が激しい戦いの末、劉邦が前漢を建国
劉邦死後:皇后呂后と呂氏一族が権力を握り専横を奮ったが、呂后死後陳平や周勃などにより呂氏全滅
文帝・景帝時代:この二人の皇帝は文景の治と呼ばれるほどの治世を行う
7代目武帝時代:霍去病、衛青、李広利ら中国を代表する名将が匈奴討伐に。さらに西域・南越・朝鮮なども征服、内政も充実し全盛期
宣帝時代:武帝が悪政をするようになり、宣帝になってからも霍光が権力を握ったりするが宣帝の治世が光る
滅亡:しかしその後は暗愚な皇帝が続き、最後は外戚の王莽によって簒奪されて滅んだ


何年も続いた中国の王朝、その中には英雄達が大勢います!
彼らを語りましょう!!








2: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/24(火) 01:26:28 ID:rYha7Oy40
とりあえずは衛青

東漢の対匈奴戦争の英雄

3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/24(火) 02:12:01 ID:MrQnEw320
悲劇の英雄・李陵(?~前74)
 
字は少卿。李当戸の子。李広の孫に当たる。若くして侍中・建章宮監となった。匈奴と度々戦って、騎都尉に登った。李広利の下につくことを厭い、武帝に奏上して歩兵五千で別働隊を率いることとなった。匈奴の本軍に遭遇して善戦したが、ついに降伏した。
李陵が匈奴の単于に漢軍に対抗する戦術を授けていると、誤って武帝に伝えられたため、武帝は李陵の家族を誅殺した。漢への帰参の道を絶たれたため、単于の女婿となって右校王に立てられ、匈奴で重用された。
昭帝の時代となり、霍光・上官桀らが任立政を遣わして、漢に帰参するよう求めたが、李陵は応じなかった。匈奴にいること二十余年で没した。

4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/24(火) 10:12:03 ID:x/hU9IuZ0
霍去病(かく きょへい 紀元前140年 - 紀元前117年)は、前漢の武帝時代の武将である。父は、霍仲孺。異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。
 
衛青の姉、衛小児の子にあたり、同じく衛青の姉であり、霍 去病の叔母にあたる衛子夫が武帝に寵愛されて戻太子を生んだことで皇后に立てられたため、親族にあたる霍去病も覚えが良く武帝に寵愛されていた。
騎射にすぐれており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いている。その後も何度も匈奴征伐に功績を挙げ、紀元前121年に驃騎将軍に、更に紀元前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬とされた。大功と武帝の寵愛により権勢並ぶ物が無くなった霍去病だが、紀元前117年、わずか24歳で病死した。
 
霍去病と衛青は同時代に活躍し、血縁でもある事から良く比較される。衛青は少年時代に奴隷であった経験から人にへりくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。その一方で霍去病は物心付いた時には既に一族は外戚であり、叔父が匈奴討伐に大功を上げていた。
その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分達は豪華なテントの下で宴会を開くような事をしていた。しかし宮廷でも兵士の間でも霍去病のほうが人気が上であった。衛青はへりくだりが度を過ぎて媚を売るような所があったらしく、また霍去病の傲慢も頼もしい勇壮と見られていたようだ。
武帝も自身の性格から積極果敢な霍去病をより好んでいた。

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/28(土) 10:04:47 ID:BavDBui30
周亜夫は若い頃から、父と同様に軍人として活躍し、匈奴が漢の領域に侵攻してきた際には、文帝から、一軍を率いてその防衛の一翼を担うように命じられる。

それから間も無く、情勢が安定すると、文帝は国の守りに力を尽くしてくれた将兵を慰問したいと、各陣営を訪問・閲兵した。どの陣営も和気藹々とした雰囲気で、文帝を迎えたが、周亜夫の陣営のみが

「ここは戦陣なので、皇帝陛下にもそれなりの作法で閲兵して頂きたい。」

と言って、文帝にも陣中の作法を守らせて、陣営内でも下馬をしたうえで通行させるほどであった。

後でこのことを知った、文帝の側近達は、

「なんと無礼なやつだ。」

と、周亜夫を非難したが、文帝は、

「あの男こそが、真の将軍たる人物だ。」

と、彼を褒め称え、死に際しては皇太子(後の景帝)に、

「もし大がかりな戦争が起こったならば、周亜夫を軍の総帥にして事態を解決しろ。」

と遺言したと言われる。

7: sleepknot ◆r4HwcKQwNE 2006/10/24(火) 14:29:29 ID:RP1DHPdZ0
浅学ながら、前漢の人物なら張騫が好き。
あの時代に匈奴を超えて遠く離れた月氏に行こうなんて男らしいじゃないか。

張 騫(ちょう けん、? - 紀元前114年)は、中国前漢の政治家・外交官。漢中郡城固県の人。
武帝の命により匈奴に対する同盟を説くために大月氏へと赴き、漢に西域の情報をもたらした。


9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/24(火) 15:27:51 ID:WJXOjL0Z0
>>7
あの時代に、あれだけの行動力を見せた張騫は凄い。

13: sleepknot ◆r4HwcKQwNE 2006/10/24(火) 22:58:31 ID:sV4hr95NO
>>7
だよね! あの頃は今みたいに正確な地図もなかったろうし、匈奴って言ったら昔から遺恨があった危険地帯だったんだから、そこを越えて未開の、遠く離れた国の文化に触れた彼は本当に凄いと思う。

横山とKOEIの三国志から中華の歴史に興味を持った人間だから、そんな時代に既に遠くまで旅した人が居たなんて思うとアツい歴史の探求ロマンを感じるんだよ。

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/29(日) 01:07:46 ID:7wwVhlbE0
文帝(劉恒)も英雄だろう

租税完全免除なんて羨ましすぎる
文帝は、前漢の第5代皇帝(恵帝の子とされる2人の少帝(前少帝・後少帝)を除外し、第3代皇帝とする場合もある)。諱は恒(こう)。高祖劉邦の四男(庶子)。
紀元前180年に呂雉が死去すると、呂氏一族は陳平・周勃ら建国の元勲、および高祖の孫である斉王劉襄・朱虚侯劉章による政変で誅滅され、劉恒が新皇帝として擁立されることとなった。

文帝の基本的な政治姿勢は、高祖以来の政策を継承するもので、民力の休養と農村の活性化にあった。そのため、大規模工事は急を要するものを除き停止している。宮中で楼閣を設けようという計画が出された際にも、その経費が中流家庭10戸の資産に相当すると知って中止を命じたり、自らの陵墓を高祖や恵帝に比べて小規模なものとしている。
また、文帝の在位期間は減税が数度実施され、一切の田租が免除された年もあった(ただし他の税や労役については実施されていたと考えられる)。
法制度の改革では、斬首・去勢を除く肉刑の廃止を行っている。

文帝の政策は、父の高祖や嫡母の呂雉、あるいは孫の武帝の時代に比べれば、目立った業績は欠如しているが、民衆にとっては社会が安定して歓迎すべき時代が創出された。文帝の治世は次の景帝の代と合わせて「文景の治」と賞賛され、食料が食べ切れずに倉庫で腐敗したり、銭差し(銭の間に通す紐)が腐って勘定ができなくなった、などの逸話が残されている。

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/29(日) 01:12:33 ID:/C8v3riaO
細かい事だが免除は田租だけだな
人頭税や徭役や兵役はそのまま

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/29(日) 16:06:15 ID:Pf/hn7KC0
文帝は経済政策は散々だったけどな

42: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/29(日) 17:02:51 ID:/C8v3riaO
散々というほどかな?
貨幣問題のことを言っているのかもしれないが。

まあ文帝、景帝の「垂拱の治」は豪族による兼併を放置した側面などもあるから、よく言われるような手放しの賞賛は妥当じゃないとは思うけどね。

あと前の補足だが、租の免除は田を捨てて末業に走った者や豪族の庇護下に入った者を帰農させるための政策。
損して得取るみたいな感じ。

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/02(木) 22:17:38 ID:aHEW/nXuO
皇帝の能力では
武帝、宣帝、哀帝が三強
名君かどうかとは別だけど

43: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/02(木) 20:52:46 ID:z5SLeeYr0
呂后は有能な政治家だったみたいだね

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/02(木) 20:57:13 ID:nrXcAcAA0
有能な権謀術数家であったが具体的に何かしらの政策をした訳じゃない。
まあ匈奴の挑発に乗らなかったのは賢明と言える。

48: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/03(金) 11:48:06 ID:qcYHtY3f0
張良って政治家としての才能はあったのかな

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/06(月) 14:59:32 ID:1fYhM/hGO
言っちゃ悪いけど張良も隠遁後は戴けないよ。何故韓信や英布、ハンカイなどの功臣討伐を諫めなかったのかな。他の事には手出ししといて。それをしなかったが為に謀反は続発した。

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/06(月) 15:20:49 ID:JiEmqUdw0
漢が長期政権だったのは結果的に初期の荒治療というか静粛があったからだと思う
日本史を例に挙げてごめんなさいだけど
足利尊氏は気前よすぎて外様が力をつけて後に応仁の乱とか起きたし
人は一代、御家は万代みたいな考えはあったかどうか分からないけど

53: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/06(月) 19:26:22 ID:1fYhM/hGO
張良は漢作った後は知らんぷりしてたらしい。この辺が責任感無いよね。自分の理想を実現出来るような奴はいないと絶望して匙を投げたのか、面倒だったのか。この人は多分凄いインテリであらゆる意味で理想主義者だったんだろうな。

54: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/06(月) 19:47:41 ID:JiEmqUdw0
張良は項羽に韓王を殺されたから復讐として劉邦に手を貸してただけじゃないの
統一後の国家運営なんて興味なかったとか

55: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/06(月) 19:55:32 ID:1fYhM/hGO
そう考えると張良の好感度下がるよね。なんだか利己的に人殺しに励んだ天才って感じ。まぁ無私の役人などいないということか

56: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/06(月) 21:34:27 ID:OcgIM3MR0
韓王信が冒頓単于に帰順してしまい、同じ韓の出身の張良は猜疑を受ける立場になってしまったのかもしれない。

57: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/06(月) 21:38:48 ID:9AjiD4XmO
そういう点では漢の社禝を守った陳平の方が張良より上かもね

60: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/07(火) 01:17:56 ID:kwp1zpVwO
功臣粛清の状況を考えたら下手に進言して手柄をたてたりして警戒されるより、我関せずの方が賢いと思ふ。

封地に留を自ら選んだ様に粛清されない為に気を使った張良…乙

61: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/07(火) 02:24:21 ID:Rr26z8E50
>>60
劉邦に3万戸やろうって言われたのを「陛下と初めてお会いした留の町をいただければ十分です」
とやんわり断ったあたり、大きな領地を持ったらいずれ警戒されるのを見通してた感じだな。
実際、劉邦に仕えて以来、他人に警戒されたり嫌われたりした形跡が全くないもんな。
蕭何ですら功績第一位に推された時、前線で戦った武将たちの不満を買ってるのに。
他人に全く警戒されないってのは策士として超一流の証だ。
67: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/20(月) 22:46:34 ID:E48TbY9qO
老子の言葉に「功遂げ身退くは、天の道なり。」「足るを知れば辱められず、止るを知れば殆うからず。」という言葉があるが、老荘の徒の張良は正にこれを実践したのである。
また若い頃からの夢である仙人に本気でなろうとして穀物断ちを行い心配させる事により呂后の猜疑の目をも躱している。
張良の一連の行動は始めから計画されていたのだ。

68: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/21(火) 02:22:33 ID:s34TCRik0
> 老子の言葉に「功遂げ身退くは、天の道なり。」「足るを知れば辱められず、止るを知れば殆うからず。」という言葉があるが

そう考えると儒教は大変だよな。
死しても忠を、それよりも孝を果たせだからな。

78: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 13:07:32 ID:ru5o6rh90
劉邦登場以前って、劉という姓は珍しかったの?

80: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/28(水) 23:58:53 ID:VrroZAlQ0
劉<りゅう>【氏】

①帝尭の子孫が名乗った。祁姓。
②晋の士会の子孫が秦に残って劉氏を名乗った。祁姓。(春秋)
③周の頃王の子が劉に封じられ、封地名をもって氏とした。姫姓。(春秋)
④その他にも劉氏があり、漢代以降さらに増える。

82: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/14(水) 23:01:26 ID:AfLa1Gt70
前漢末期で、確か劉姓の皇族が数万人に達していたんだよね。

83: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/09(月) 10:58:13 ID:pOag7Fkq0
劉秀にしても、田舎の豪族という感じだったでしょ。

84: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/09(月) 14:04:53 ID:0U9nnT6P0
陰麗華は美しかったのか

85: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/12(土) 12:14:31 ID:w8Tsxxw+0
そりゃあ、標準以上の美人だったと思われ。
客観的に見て絶世の美女だったかどうかは疑問としても、劉秀があれだけ寵愛したんだから、容姿も平均以上と思われる。

86: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/12(土) 19:17:00 ID:ILldww7z0
劉秀という人物像が、かなり庶民的な感じだから麗華さんも絶世の美女という類ではなくて、かわいい感じだったと妄想する。
あまり笑わないそうなので、人によっては冷たいイメージを受けるかも。

133: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/17(木) 15:46:41 ID:dN3T6fED0
孝恵帝や孝武帝の「孝」ってなに

134: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/17(木) 20:15:35 ID:JJS18O/p0
親の跡を継いで頑張った!親孝行!の「孝」

だから実質的に初代となる高祖と光武帝と昭烈帝にはつかない

135: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/17(木) 20:36:32 ID:5Se+ktZl0
>>134
ほんと?
時代が下ると、長ったらしい諡号の中に「孝」が入ったりしてるけどね。
太祖・啓運立極英武睿文神徳聖功至明大孝皇帝

136: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/17(木) 20:58:23 ID:JJS18O/p0
>>135
疑うなら漢書恵帝紀注でも読んでみて

137: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/17(木) 21:05:24 ID:5Se+ktZl0
>>136
うい~。手持ちのは注記がないわ…
なんて書いてんの?

138: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/17(木) 21:12:37 ID:JJS18O/p0
師古曰:「孝子善述父之志,故漢家之諡,自惠帝巳下皆稱孝也.

139: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/17(木) 21:22:22 ID:5Se+ktZl0
お手数をおかけした。
ゆえに漢家の諡号には恵帝以下みな孝がつく、ということか。
べつの王朝はまったく関係なかったな…

149: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/02(木) 22:21:10 ID:bK8rCdXr0
前漢中期以降の著名人たち
こいつらは英雄っぽくはないけど、なかなか個性的な面子が揃ってる

・公孫賀
丞相就任の時のヘタレエピソードが印象的だが、丞相在任最長記録保持者。

・スイ弘
堂々と「漢はおしまいなので有徳の士に禅譲しなさい」って主張して処刑された。

・蘇武
20年近く匈奴に抑留されて生還した根性の人。自殺したが単于に助けられた逸話もある。

・常恵
蘇武と一緒に抑留されたが、生還後は蘇武より出世した。

・張安世
前漢で一番栄えた張氏の始祖。地味な大物。張湯の子。

・張賀
張安世の兄。幼い宣帝を育てた忠義の宦官。

・魏相
宣帝親政期最初の宰相。硬骨漢。

・丙吉
赤子の宣帝を助けたと言う功績を隠した謙虚な人。

・趙充国
「百聞は一見に如かず」が有名な老将。

・石顕
趙高、司馬遷以来の大物宦官。悪く言われるが司馬遷も同じ中書令だったことはあまり語られない。

・劉向
錬金術師。

・陳湯
最高の軍事的能力と最低の人格的評価が同居。上司も脅す大物。

・テキ方進
占星術と儒学双方に通じ、政治では外戚を敵に回しつつ丞相を長期間務めた怪物。

・何武
三公制度や州牧制度の提唱者。

・孔光
丞相に2回就任するなど、物凄くめまぐるしい官歴を持つ。孔子の子孫。

150: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/02(木) 22:50:12 ID:gPdRzox+0
公孫賀は前任者が三代も続けて不幸な末路って事で泣いてまでして丞相に就くのは嫌だって拒んだんだよね
それでも結局は丞相となって、そして本当に自分の末路も散々といふ…

この時代なら張釈之が好きだね
気骨もある本当の忠臣って印象

151: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/02(木) 23:48:32 ID:x7g09OxS0
袁おうが好き

152: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/28(金) 23:27:33 ID:qk8j3RSlO
劉邦→劉備、劉表、献帝
曹参→曹操
夏侯嬰→夏侯惇
張良→張翼
司馬仰→司馬イ
エンオウ→エンショウ

となるわけか
何だかんだで先祖同士は面識あるんだな

153: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/28(金) 23:55:07 ID:qk8j3RSlO
例えば司馬仰が二十万秦兵とともに生き埋めにされていれば晋王朝は存在せず、劉邦が鴻門あたりで死んでいれば後漢もショク漢も存在しなかったわけだ
そう考えると不思議な気持ちにならないか?

154: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/29(土) 00:00:25 ID:fK3n2yNP0
>>153
司馬ゴウは秦の人間じゃないから生き埋めになる可能性は無い
むしろ、司馬ゴウが劉邦に先んじて関中に入る可能性があったことを取り上げるべきだ

160: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/06(土) 21:48:49 ID:Sx67lDfJ0
大昔に図書室で手塚治虫が監修してた中国の歴史だったとおもうのですが。

劉邦と項羽が始皇帝の大名行列?みたいなのを遠くから見てて項羽が「倒してやる」劉邦が「いつか俺もあんなのに乗りたいな」

みたいな事を言うシーンがとても格好よくて好きだったんですがこれって元ネタはどういうのなんですかね?

161: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/06(土) 21:50:27 ID:xTYjwaws0
>>160
ほとんどそのとおりのことが史記に書いてあるんです
項羽と劉邦は別々に始皇帝を見てますけど

162: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/06(土) 21:57:20 ID:Sx67lDfJ0
そうなの?史記見たことないけど司馬センはなんで知ってるんだろう?
歴史家だから自分で脚色なんてしてないよね?

163: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/06(土) 22:48:04 ID:A93WXRpJ0
史記に脚色というか創作というか、とにかく司馬遷が「つくった」部分が皆無かといえばそうでもなくて、例えば始皇帝が死んだ車中で趙高と李斯と胡亥が交わした密談の内容は絶対に知られないはずなのに史記に詳細がバッチリ書いてある
この密談の内容は想像で埋める他ないもので一言一句全部が事実ではないかも知れんがそういう意味の会話が交わされたに違いない、だから司馬遷は真実を伝えてるんだ、と吉川幸次郎か誰かが言っていた

項羽と劉邦が始皇帝を見たときの感想がつくられたものかどうかは知らないよ

165: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/08(月) 22:02:04 ID:IpJ44iZP0
むしろ、密談だから司馬遷が知るはずがない、という前提が間違ってるんじゃないかな
密談といいつつ人間扱いされない奴婢や下役はいたかもしれない
その時点では密談でもどちらかが後に漏らしたかもしれない
密談に聞き耳立ててた奴がいたかもしれない
現に漢成帝と王章の密談や、孫権と楊竺の密談はそうして漏れている

181: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/05(火) 17:59:24.43 ID:pkA0HJoa0
陳平、韓信を手放した項羽って

182: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/05(火) 21:59:54.24 ID:I+es4RY50
韓信はともかく陳平の自己申告が正しければ、陳平を追いつめちゃったのはマイナスな対処だよなあ

189: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/26(火) 10:51:49.67 ID:3uWeGt410
さすがに韓信が斉王になった頃は項羽も実力を認めて講和しようとしてたけどね
しかし韓信が斉王で独立してたら歴史は変わってたなぁ
漢VS楚VS斉の三国志

190: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/26(火) 15:02:14.15 ID:+5x1uMkF0
韓信には張良、陳平みたいな参謀が居ないからなぁ
戦には強いが戦略で負けた項羽と一緒の末路のような
ただ韓信は兵站に対する理解があったからやっぱ強いか

191: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/26(火) 16:06:43.32 ID:PlQsl79KO
カイ徹「確かにある程度未知数な所もあるかも知れんけどさぁ」
李左車「俺たち存在自体なかったことにされてるん?」

192: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/27(水) 20:24:17.63 ID:Bd4xK/WDO
独立って簡単に出きるのか?
張耳や曹参がお目付役のように

193: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/28(木) 15:52:52.40 ID:mMpMQ5160
韓信は独立しても暗殺される予感しかしないわ

引用元: ・【項羽】 前漢時代の英雄達総合 【劉邦】