1: 世界@名無史さん 2021/01/24(日) 23:36:24.29 0
五胡十六国から南北朝にいたるまでの、中国が混乱を極めた時代の歴史について語りましょう。








151: 世界@名無史さん 2021/03/30(火) 09:48:50.65 0
北魏の太武帝は長生きがしたくて熱心な道教の信者になった
太武帝が欲したのは難しい理論ではなく、食物をとらないでもつねに健康で、体が鶴のように軽く飛べるようになるという、超人的な能力を獲得したかったのだとか

中国の皇帝にはこういういかがわしい道士にだまされるというパターンが多いね

152: 世界@名無史さん 2021/03/30(火) 10:25:20.80 0
まあ、現代でも新興宗教にハマる人がいるんだからな

5世紀の中世人じゃ迷信に染まるのも仕方ない

155: 世界@名無史さん 2021/04/01(木) 00:01:02.82 0
ほぼ10年におよんだ永嘉の乱では大量の虐殺をともない、中原の人口は「百に一、二無し」と記録されている
八王の乱を合わせると、二十数年にわたった二度の動乱によって、ながく政治と文化の舞台だった中原の地は壊滅状態に陥った

この時代は庶民にとっては苛酷な時代だったんだろうな

164: 世界@名無史さん 2021/04/04(日) 07:23:23.70 0
>>155
それは中央政府の権力低下による課税人口の減少だからな
庶民は有力な豪族の庇護下に入って都まで労役や兵役を負担しなくてよくなったのだから反って喜んでたのかもしれない

北魏の時代の話だが定州刺史の韓均が不課税者の摘発を行ったところ一気に十万戸も増えたという

160: 世界@名無史さん 2021/04/02(金) 23:01:12.87 0
魏晋南北朝時代に大勢の漢人が南に移ったが、おそらく北の進歩した農業技術も江南の地に伝わったらしい

165: 世界@名無史さん 2021/04/04(日) 10:43:07.79 0
江南の貴族文化の話だけどさ、謝霊雲、王義之、顧愷之などはみな一流の貴族だった
フランク王国の貴族たちは無教養だったのとは対照的
西欧中世と違って、この時代の中国は暗黒時代とはいえないと思う

169: 世界@名無史さん 2021/04/04(日) 19:43:05.69 0
>>165
同じことは西洋史にも言える
西欧の文明は大幅に後退したが、東ローマ帝国は存続して文明を維持した

173: 世界@名無史さん 2021/04/05(月) 16:53:10.21 0
長江以南は統一王朝のインセンティブなんてほとんどない気がするんだよな豊かで海にもでていける地域
華南だけって王朝は何度も成立してるわけで

178: 世界@名無史さん 2021/04/17(土) 08:58:21.22 0
北斉の文宣帝は、即位の後東魏の廃帝を殺したのをはじめとし、ついで東魏の一族を片っ端から殺した
しかし帝位を窺う心配があるというので、今度は自分の一族を殺しだした
ことに人望があって役に立ちそうな二人の弟を土牢に閉じ込めて、最後にこれを焼き殺した

五胡十六国・魏晋南北朝時代にはこういう異常な君主が多いな

180: 世界@名無史さん 2021/04/20(火) 19:05:49.54 0
>>178
文宣帝はこの時代の異常揃いの皇帝どもの中でも別格に最凶

179: 世界@名無史さん 2021/04/19(月) 16:11:16.15 0
武こそ正義っちゅう遊牧気質が抜けきらんかったんか
血族すら信頼できんというのはアラブ部族とかぶるな

181: 世界@名無史さん 2021/04/20(火) 19:17:31.82 0
北斉で比較的まともと評されてるのが廃帝殷とか孝昭帝の在位1年しかない連中なことを考えると、単に残虐行為の事績や犠牲者の数が在位の長さに比例してるだけかもしれん

190: 世界@名無史さん 2021/05/08(土) 09:03:08.48 0
符堅臣下の呂光も人傑やな
呂氏の猛将というと呂布に並ぶとか
後涼も建国するし
内政はからっきしだが

193: 世界@名無史さん 2021/05/08(土) 22:34:20.78 0
五胡十六国時代で優秀な人物というと、慕容恪はどうかな?
恪は常に慕容皝に頼りにされ、ほとんどの戦いに参加している
性格は沈着にして度量があり、物腰は謹厳だったという
慕容儁と扶余戦に出かけたとき、身を矢で射抜かれながら突撃して勝利を得たとあるように勇猛な人でもあった

194: 世界@名無史さん 2021/05/10(月) 11:24:07.50 0
>>193
Wikiで斜め読みさせてもらった
麻秋という人物が前燕にも前涼にも攻めてて興味持ったわ
前涼の歴史読んでても麻秋出てきたから
ここらの小説あったら面白そうだ

195: 世界@名無史さん 2021/05/10(月) 22:28:43.30 0
慕容恪は、彼自身の短慮によって人を殺した例は一つもなかった
彼は捕らえた捕虜は兄の慕容儁のもとに送って賞罰を任せていた
彼は軍略にも長けていたので、皝も儁もしばしば恪の意見を採用したし、彼も部下の意見を尊重した
恪が遼東に鎮するようになると、高句麗は彼を憚って攻めてこなかった
史書においてこれだけ良く書かれている人物は珍しい

196: 世界@名無史さん 2021/05/11(火) 10:05:12.68 0
前燕の人口は1000万ほどとWikiに書いてあった
一方三国時代の戸籍人口が三国全部合わせても1000万
総人口は推定でも2000万ほど
華中からの避難民と異民族混入度合いが多かったのかな

197: 世界@名無史さん 2021/05/11(火) 18:04:52.94 0
いや乱世の三国時代はまともな戸籍調査ができてない逃散した農民流民を補足できてないだけでは

199: 世界@名無史さん 2021/05/12(水) 11:15:50.00 0
>>197
それだけではない
もし流民を捕捉できてないだけだったら西晋の統一時にもっと増えてる

200: 世界@名無史さん 2021/05/12(水) 14:52:35.04 0
時代違うけど四川に関しては明清代に虐殺で言語が変わったこともあった
成都の人口激減に伴い移住者により方言が変わった

下はWikiの抜粋
多くの記録で張献忠は残酷な殺戮を好み、「屠蜀(中国語版)」もしくは「屠川」と呼ばれる無差別殺戮により、四川の人口を著しく減じたとされている[1]。1578年(万暦6年)に人口310万2073人[2] だった四川は、1685年(康熙24年)には1万8090人となった[3]。

201: 世界@名無史さん 2021/05/12(水) 15:39:19.59 0
この時代の事について書いてある本を読むと「徙民」とか「流寓」といった普段聞き慣れない用語がよく出てくるな

202: 世界@名無史さん 2021/05/12(水) 18:55:01.88 0
八王の乱は中原地方を荒廃させ、自然災害と疫病も加わって農地は荒土となった
「百姓また寇賊に殺され、流屍は河に満ち、白骨は野を蔽う」と史書は惨状を記録している
生活の場を失った農民たちは安住の地を求めて流民となり、多くは開発途上の南方に移動したが、その数は約30万戸と推定されている
こうして一時、華北に真空地帯が出現すると、これを埋めるように、北辺の遊牧民が南下を始めた

203: 世界@名無史さん 2021/05/12(水) 19:08:06.92 0
前涼も初代が良い統治をしたから長安辺りから沢山移民が来たようだな

204: 世界@名無史さん 2021/05/12(水) 19:15:11.61 0
石勒の史伝を見ると何遍も同じ城を落としてる
そして地盤を固めるのが相当後になってから
これは占領地には略奪で一定時期だけ滞在出来たものの補給が維持出来ないから別の土地に移動してるように見える
おそらくは元の占領地は放棄してるのだろう
これが異民族の強さであり弱さのように見える

205: 世界@名無史さん 2021/05/12(水) 19:34:46.21 0
ただ全体的に三国時代や西晋時代より把握されている人口は上昇している

207: 世界@名無史さん 2021/05/12(水) 22:29:07.37 0
漢の時代の人口は、一桁まで把握されていた
当時の統計に、5959万4978人という数字があって、とても細かいが、そういう体制が維持できなくなったのだろう

217: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 07:38:14.11 0
もし江南というフロンティアがなかったら、中国の文明はシュメール文明みたいに滅亡していたのかな

219: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 09:54:32.80 0
16国は直ぐに皇帝を宣言してる(天王に留まるものもいるが)
三国時代と趣を異にする感はある
そして二代目が無事に継承出来たことは殆ど無く簒奪して殺害されることはざら
また新たな有力者が王朝を立てることの繰り返し
ここまで血なまぐさいのも文化的なものが失われたみたいなものかな

221: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 10:04:54.78 0
>>219
漢の文化を継承したとされる南朝でもそれは同じだから、関係ない
四百年つづいた漢朝の終焉は、日本でいえば天皇がいなくなったも同然
力さえあれば、誰でも皇帝になれる時代が到来した

220: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 10:04:00.77 0
日本では天皇を名目的最上位とし独立国家は無かった(実質独立国はあったが名目的には天皇の許可を受けている)
西洋もキリスト教文化により各王国は神から許可を受けた体を取ってる
中東もカリフから統治委託を受けた体を取ってる
どこも戦いはあったが小さな領土争いに留まる
王位の継承戦争レベルでも祭祀的上位者から追認を受ける必要があった

五胡十六国は別
天に2つの皇帝なしなため宗教的に敵となるため互いを殲滅するしか無くなった

222: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 10:06:33.31 0
南朝でも、宋の八代の皇帝のうち、暗殺されなかったのは武帝、孝武帝、明帝の三人だけで、皇子たちも十中八九まで犠牲となる異常事態の連続だった
さらに体制を支える重臣も多くは不慮の死を遂げた

224: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 11:32:34.00 0
東普は内実はともかく国としては比較的長命だった
皇帝はお飾りだが兎に角も生きていられたのは天命という宗教的文化的要素が生き残っていたからだろう

225: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 11:35:58.55 0
中国の皇帝は世俗権力を持つ文化だからなあ
祭祀的存在に甘んじていれば天皇やカリフみたいに存在だけは出来ていたかもしれないが
だが北方異民族から見ればそんな文化は合わなかったんだろうな(祭祀的権威のメリットを理解出来なかった)

226: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 14:25:44.70 0
周王朝がずっと生き残っていて、祭祀王みたいになっていればと思うときがある
でも秦によって滅ぼされてしまった

227: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 14:45:23.48 0
周王室はいうまでもないが、漢朝だって、遥かな古代から400年も続いてたんだからなあ
当時の人々にとっては、天壌無窮の存在だっただろうよ
曹丕も思いきったことをしたものだ

228: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 16:01:01.38 0
>>227
こう考えると曹丕の簒奪は後世にまで尾を引いたのかもなあ

229: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 16:04:48.56 0
漢王家に本当に祭祀的な権威があったのであれば、再興されたはずだよ
現実にはそうならなかった
漢王家はその程度の権威でしかなかったってこと

231: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 16:28:42.06 0
日本の皇室だって中世の一時期は凋落著しかった。
皇居の屋根は穴が空き即位式を行うカネもない。
毛利や織田からの巨額な寄付があってなんとか建て直せたが。

権威と権力は分けておいた方が便利という共同理解がもう少しあれば、中国でも漢室再興の道はあったろう。

233: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 16:39:47.71 0
>>231
でも中国の場合、皇室の権威が日本よりは格段に低いよな 周代ですら夏商二代の後の三代目王朝だし、漢の高祖劉さんの家柄は大した事ないのに秦滅亡後に皇室となった
日本の皇室には姓がないけど、漢の皇室は劉さんの子孫でしかないから元々権威は中国共産党の国家主席レベルだろ

235: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 17:42:51.18 0
祭祀的トップは他の文化から見ると価値が分からないからな
むしろ滅ぼす対象でさえある
多文化の土地では難しいだろうな
皇帝専制になる方が自然な流れではある

236: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 17:46:34.67 0
その点古代ローマ文化圏がキリスト教を残しローマ教皇が存続出来たのは対照的ではあるか
五胡は受け入れず(自分たちがトップになり)ゲルマン人は受け入れたということになる

237: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 17:55:42.88 0
磔刑にされた石工の息子を神格化することで民族集団間の上下関係を取り払う民族浄化ツールとして機能したからだろ

238: 世界@名無史さん 2021/05/13(木) 18:30:20.98 0
>>236
ビザンツ帝国にはローマ教皇に相当する存在はなかったんだが
コンスタンティノポリス総主教はいるけど、ローマ教皇のような力は持っていなかったし
それに対し、ビザンツ皇帝は「神の恩寵によって」帝位に就いた「地上における神の代理人」「諸王の王」とされていた

240: 世界@名無史さん 2021/05/14(金) 09:47:27.67 0
多民族の古代ローマが採用したツールなので文化圏をまとめるために利用したのは間違いないな
ゲルマン人を取り込んだことにより西洋全域はカバーできた
同宗教間では宗教道徳的にも虐殺は起きにくい

247: 世界@名無史さん 2021/05/15(土) 18:34:12.02 0
南朝宋の前廃帝は、大叔父にあたる劉義恭はじめ、柳元景、沈慶之などの老将を次々に殺した
彼はさらに弟らを殺し、さらに三人の叔父をも殺すつもりで宮中に幽閉しておいたが、その一人、劉彧が後園で夜遊びにふけっている前廃帝を襲撃して殺害した
劉彧がその母太后の命で帝位についたが、これが明帝である
廃帝の弟、劉子勛が江州で反乱を起こしたが、明帝は江州をおとしいれ、劉子勛を殺した際、その兄弟がまだ13人残っていたのを、ことごとく殺戮した
孝武帝の子は元来28人いたのだが、ここにいたってただの一人も残らなくなった
東晋の時代には、さすがにこんなことはなかった

248: 世界@名無史さん 2021/05/15(土) 19:18:56.20 0
八王の反省かね

引用元: ・五胡十六国から南北朝