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1: 世界@名無史さん 2010/09/10(金) 19:20:57 0
三国時代を統一した晋の生き残りについて。

テキスト 大唐帝國 宮崎市定著








2: 世界@名無史さん 2010/09/10(金) 19:42:49 0
司馬懿って幾多の群雄が争った挙句に曹爽一味を始末しただけで天下とった糞だよね。

3: 世界@名無史さん 2010/09/10(金) 19:56:13 0
石虎がいっているな。

劉邦なら直ぐに馳せ参じ家来になる
劉秀なら一戦してみる価値はある。
曹操なぞ、漢室の衰えたのを見越して乗っ取っただけ
司馬懿に至っては、曹一族と皇帝が子供なのを見越して押しのけたネズミだ

6: 世界@名無史さん 2010/09/10(金) 23:59:32 O
>>3
石勒じゃなかったかな?

4: 世界@名無史さん 2010/09/10(金) 21:40:28 0
司馬一族の晋建国してからの劣化具合は異常。
士大夫階級だったというのになんであんなにひどい事になったんだろ。

5: 世界@名無史さん 2010/09/10(金) 21:56:04 0
市定氏の推測は、多分に異民族の血が混ざっている軍人階級に問題がとかあったな。
まあ、それは西晉以後の話しだけど。

9: 世界@名無史さん 2010/09/11(土) 02:08:04 0
>>4
3世紀はまだまともな奴も多いよ。
でも3世紀の末に絶滅する感じだな。
あとはやっぱり権力構造が狂ってた(恵帝)ってことだろう。
政権が安定してれば、皇族もそれなりにまともに役割を果たしたと思う。

17: 世界@名無史さん 2010/09/11(土) 21:05:30 O
王導・陶侃・ユ亮・祖逖・謝安とか名政治家・名将が引っ切りなしに出てくるんだけどねー
あと桓父子も


何もかも司馬道子が悪い

22: 世界@名無史さん 2010/09/13(月) 17:39:26 0
司馬道子=秦檜

謝安=岳飛

26: 世界@名無史さん 2010/09/13(月) 21:22:28 0
恭帝は最期は確かに悲惨だが劉裕に「自分に王室恢復の野心なんかないよ」と媚びるために自分の后妃が妊娠すると中絶させていたって本当なの?

なんか同情する気を無くした。

27: 世界@名無史さん 2010/09/13(月) 21:34:24 0
宋の創作にきまっているだろ
前政権の正当性を否定する為に池沼だったとか、淫虐だったとか、まじないかけたとかよくあるパターンじゃん。

28: 世界@名無史さん 2010/09/13(月) 21:37:12 O
劉裕の誕生時の瑞祥って何だっけ?

どの権力者もこんな話が出てくるよね

30: 世界@名無史さん 2010/09/14(火) 03:42:55 0
>>28
「始生之夜、有神光照室、其夕、甘露降于墓樹」
宋書符瑞志ね。南史だと武帝紀に載ってる。とくに珍しい内容でもない。
万能薬もってたっていう方が珍しいかなーとか思う。

31: 世界@名無史さん 2010/09/14(火) 14:08:09 O
南朝ではあまり異民族出身者は出世しなかったのかな?

陶カンの他には段氏の一族がいるくらいかな

33: 世界@名無史さん 2010/09/14(火) 15:04:14 0
>>31
武陵蛮は長裙苗族か果雄苗族であるらしいな
長裙は西楚の末裔らしいので、陶カンは項羽の流れをくむ西楚旧王族かもしれぬ

43: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 09:56:02 0
南北朝最後の陳までいくとなんでそれまで南朝が漢族正統政権っぽくみられてきたのに隋唐になると漢族政権ぽく捏造されるのだろう。政治的事情なんだろうか。どう見ても鮮卑系拓跋氏が支配階級なのに。

44: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 10:24:42 0
鮮卑族政権を前面に押し出した北周との差別化、旧北斉に多かった漢族名家への配慮、旧南朝も含めて圧倒的多数の漢族や他の胡族等、支配下の民衆の統合のため・・・隋唐政権が漢族政権を名乗る理由は色々考えられる。
漢族というよりは中華正統政権を看板にするには、漢族出身としたほうが都合がよかった。

48: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 17:30:48 0
>>44
唐王朝は、その辺のしがらみを武后の粛正で取り除いてスッキリしているからな
大唐帝國 367頁 身軽になった王朝

46: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 14:42:48 0
所詮東胡というか、楊貴妃を息子から奪った玄宗皇帝の故事をみても、塞外民族っぽいティストは後世になっても残しているよね。
子の妻妾を奪うなんて事は生粋の漢族ではちょっと有り得ない発想だと思う。

曹魏の曹丕が曹操の死後に後宮の女性を自分の後宮に移して生母が人倫に背くと批判したような事はあったけれどもね

47: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 17:18:20 0
舅が息子の嫁と通じることをパーフイと言って、よからぬ事とされながら春秋の昔からあること
王安石にもそんな醜聞が
http://www.hudong.com/wiki/%E6%89%92%E7%81%B0

49: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 18:19:57 0
漢は儒教国家だったこともあってか近親相〇にはとても厳しかった模様。

http://d.hatena.ne.jp/chincho/20100408/1270730647

張家山漢簡『二年律令』191簡
同産相與奸、若取(娶)以為妻、及所取(娶)皆棄市。
漢初、近親相〇すると棄市(斬首して市中にさらし者にする)に処せられた。
実際に、漢代には近親相〇で国替えされた王もおり、かなり厳しいものであった。

63: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 07:19:25 0
晋が好きってどういう感覚してんだ?

64: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 07:38:31 0
駄目な子ほどカワイイ

66: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 14:54:42 0
晋は戦乱の始まりの王朝だから重要

68: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 15:14:21 0
呉を滅ぼした280年から司馬倫が賈皇后を殺して即位する300-301年までわずか20ー21年しか戦乱がおさまってないよなあ。
実質黄巾の乱から589年の陳滅亡までずっとずっと戦乱のターンだったような・・・。

69: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 15:35:43 0
なあ、仲達の子供たちーつまり、司馬師、司馬昭の同母弟に当たる、平原王 司馬幹って司馬師、司馬昭生んだ後に仲達が側室の伏貴妃に寵が移ったあと、何年もご無沙汰で春華が42の時に生まれた子だから古女房と久しぶりに義理でやったら子が出来た!とい感じアリアリだよな。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%98%A5%E8%8F%AF

張 春華  189年 - 247年とあるが、司馬幹が生まれたのは

子女

1. 景帝 司馬師 (母:宣穆皇后)
2. 文帝 司馬昭 (同上)
3. 汝南文成王 司馬亮 (母:伏貴妃)
4. 瑯邪武王 司馬? (同上)
5. 清恵亭候 司馬京 (同上)
6. 扶風武王 司馬駿 (同上)
7. 平原王 司馬幹 (母:宣穆皇后) →231年出生)42歳の時の子
8. 梁孝王 司馬? (母:張夫人)
9. 趙王 司馬倫 (母:柏夫人)

つまり、42歳の時の子なんだが

70: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 15:44:26 0
ちなみに、231年というと・・・・

http://www15.atwiki.jp/soutoku/pages/118.html

九年春二月、諸葛亮はまた軍を出して祁山を囲む。初めて木牛を以って運搬する。魏の司馬懿?張?は祁山を救援する。《三国志蜀書後主伝》
夏六月、諸葛亮は食糧が続かず軍を還す。張?が追撃してきて青封で交戦となり、矢に当たって戦死した。《三国志蜀書後主伝》
秋八月、都護の李平が廢され、梓潼郡に流される。《三国志蜀書後主伝》

とあるから、蜀漢の第4次北伐の祁山攻防戦の時だよな。
おそらく、第3次北伐後、久しぶりに家にかえるや否や伏貴妃と臥所を共にしていると、古女房がヒステリー起こしてなだめすかして久しぶりに致したら子が出来たと謂う所だろうか。
それとも、第3次北伐撃退でまたしても諸葛亮を破ったと意気軒昂と凱旋した勢いで久しぶりに作ったものかと想像してみるテスト

71: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 15:49:12 0
ちなみに司馬駿は伏夫人の腹だが。232年に産まれているらしい・・・・ちなみに230年頃司馬懿は50前後。
孔明と北伐戦っていた頃は公私共に気力充実しているのが伺える。

73: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 16:22:19 0
司馬懿は子11人成した。
脂ぎったオヤジだったんだろうな。

74: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 16:34:41 0
司馬駿で終わりにしておけばな。
下の二人は余計だったろ。

81: 世界@名無史さん 2010/09/21(火) 17:44:13 0
東晋って司馬懿の子孫が立てた王朝だけど、諸葛誕の娘が皇后だから諸葛氏の子孫(孔明の族弟I)の王朝でもある。
諸葛誕自身は司馬師にぶち殺されたが。

84: 世界@名無史さん 2010/09/21(火) 21:50:27 0
>>81
皇后ではないよ。

82: 世界@名無史さん 2010/09/21(火) 20:43:06 O
諸葛誕の外孫か何かにあたる宗室のひとりは、誕を裏切った文オウを殺させたりしてるからそんな意識が微妙にあるのかも知れないね…

83: 世界@名無史さん 2010/09/21(火) 21:13:32 0
諸葛誕の三族は皆殺しになったはずだが、東晋の元帝は誕の孫だよな。

84: 世界@名無史さん 2010/09/21(火) 21:50:27 0
当時の三族皆殺しは結構例外が多い。
賈充の前妻(李豊の娘)も配流→復活してる。
その娘は斉王・司馬攸(司馬炎の弟)に嫁いでるほど。

>東晋の元帝は誕の孫だよな。
曾孫だと思う。
85: 世界@名無史さん 2010/09/21(火) 23:44:19 O
晋書見ると辺境の部将クラスでは正史にアザナが記されてない人がいるが、混乱期とかで資料が残らなかったりしたんだろうか?

異民族出身者でも記載してるから、わかれば記載したんだろうけど…

86: 世界@名無史さん 2010/09/22(水) 00:07:41 0
八王の乱、永嘉の乱で猫もへちまも殺されまくったからな。 
つか、華北は塞外民族だらけになっただから漢人より異民族出身者の方が記録そりゃ残るだろうな。

87: 世界@名無史さん 2010/09/22(水) 19:06:07 0
残っただけマシだったと言うべきか。

88: 世界@名無史さん 2010/09/22(水) 21:19:33 0
劉禅や孫亮の子孫などもほとんど殺された。晋の国家崩壊状態がどれだけ凄まじいモノかわかろうというもの。
貴族層ですらこれだから、華北に残った漢族はかなりすりつぶされたんじゃないか。
塞外の連中が野蛮から抜けだして次第に漢化=文明化していく過程はローマ帝国の崩壊に相通じるものがある。
華南では六朝文化が花開いたけど、華北は漢人にとっては地獄だったろうな。

96: 世界@名無史さん 2010/09/23(木) 01:31:55 0
>>88
貴族層ですらっていうか、貴族層だからじゃないの。
それにその二つはただの貴族ではなく、君主に擁立されうる貴族だろ。

98: 世界@名無史さん 2010/09/23(木) 01:41:09 0
>>96
司馬氏も琅邪王家以外は一族ほぼ殲滅されている。
陸遜なんかの子孫もほぼ絶えた。
長江をこえられた貴族層はほんの一握り。
おそらく難民も何十万もでてかなり悲惨な事になっていたろう。
東晋という形で復興したの奇跡といってもいいぐらいだ。

104: 世界@名無史さん 2010/09/23(木) 13:25:05 0
>>98
司馬の王族なら、五胡の侵入より以前に、八王の乱で絶滅した系統も多い。
陸遜の孫が死んだのも八王の乱。
あとは、行軍中に司馬越が死に王衍が率いた軍(皇族多し)が石勒に一網打尽にされたこと、洛陽から逃げた皇族一団が石勒に捕獲されたことが大きいだろう。
でも、東晋まで続いた血筋もそこそこあるよ。
それに石勒は君子営という漢人主体のスタッフチームを作ったし、慕容鮮卑を頼った漢人も多い。

94: 世界@名無史さん 2010/09/23(木) 01:05:48 0
何も難しく考える必要はない。司馬一族が政争、戦争に熱中せずに塞外民を国内に引き入れる愚をおかさなげれば歴史は大きく変わっていた。
まあ、とどのつまり、指導力皆無の恵帝を更迭できなかった司馬炎に遠因があるのだろうが。

102: 世界@名無史さん 2010/09/23(木) 02:06:21 0
洛陽とか鄭州のあたりって輪作障害や気候変動の影響で草木性の雑草草原になってしまって牧畜兼業で畜乳を得られた胡族以外は餓死したんじゃね?
それにあんまり羊や牛を増やされると疫病が流行ってえらいこっちゃになったのでは?

胡族は遊牧専業ではないから、民牧草撒いたり、牧草のサイレージやったり何とか洛陽・鄭州に踏みとどまれるし、疫病に対する耐性がありそうだ。

107: 世界@名無史さん 2010/09/27(月) 19:32:17 0
質問スレで


505 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 19:13:14 0
東晋の北府軍のルーツは祖逖の軍団、西府軍のルーツは劉弘から陶侃に引き継がれた軍団と考えて正解ですか?


と質問がきているぞ 答えてやれや。

109: 世界@名無史さん 2010/09/27(月) 21:59:10 0
後世、過去ログを見る人用に答え転載しておく

507 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 20:14:23 0
>>505
祖逖系の軍団は後に反乱を起こしてるから、直接の北府軍の起源は郗鑒の軍団になる。
西府軍は劉弘から陶侃に軍団が引き継がれてるかどうかはなんとも言えないが、陶侃が劉弘の元部将である以上、陶侃軍に劉弘系の将兵はいただろう。
陶侃の軍団が西府軍の元なのは間違いない。

陶侃も郗鑒も東晋政府に軍団の後継者の選定を委ねていて、そこから北府、西府が出来てくる。

110: 世界@名無史さん 2010/09/27(月) 23:29:47 0
劉弘死後、陶侃が赴任するまでに荊州・江州の権力構造が何度も変わっているから、劉弘はルーツとは言えないだろうな。

111: 世界@名無史さん 2010/09/28(火) 00:22:26 0
良く解らんのだけど、なんで北府、西府で別々に軍作戦するんだ?
両軍協力しあえば中原奪還できたんじゃねえの。
西は四川再制服して北上し、華北の政権とも戦ってきたんだろ。北は泗水の戦いなど100万とも号する軍勢を撃破する力あったのにね。
ま軍閥みたいなものだろうけど。

112: 108 2010/09/28(火) 05:29:23 0
>>111
西府は成立からしても東晋政府とは一線を画していて政府内政府みたいな所があるからな。北伐は桓温の個人的政略によるもので、この頃はもう東晋も南方政府として固まっちゃっていて北伐を積極的に行う意思がなかった。
それに桓温はあくまでも西府の頭であって、北府を統括する権限がなかった。

北府は東晋末までは何とか建康政府のコントロール化にあったけど、上述のように政府に積極的に北伐を行う意思がなかったから動かなかった。

あと、東晋は西府、北府、地元豪族、北来貴族と色々なパワーのバランスの上に立っていて、そのバランスを取るだけで一杯一杯で、北府・西府双方を統合させる力はなかったんだな。

113: 世界@名無史さん 2010/09/28(火) 09:15:27 0
全くその時代はおもしろいねえ。

今とあんまし変わらん構造な気もするから特に。

引用元: ・東晉のおはなし