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1: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/10(水) 22:09:28
詳しい人教えて








5: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/10(水) 22:14:54
とりあえず、宦官が権力もって、魏に攻め込まれて終わりましたよ。
蜀滅亡後、2年後に晋ができて、280年に呉が滅んで天下統一万歳。

8: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/10(水) 22:29:43
実際のところさ姜維があんなに力もてたのはなんで?
元魏の武将がありえないぐらいの出世でしょ?

しかも孔明の息子を差し置いてなぜ実権握れるんだ?

19: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/10(水) 23:35:29
>>8
ヒイの腰ぎんちゃくになったから
諸葛亮の子諸葛センはまだ若かった
しかし実質的な蜀の主諸葛亮の子は領民に異様に慕われていたので、滅亡せずにあと5年もしたら最高権力者になってただろう

23: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/11(木) 09:49:58
>>19
諸葛亮の息子は無能だからな~
食糧不足で袋の鼠のトウガイにコテンパンにやられている
もし最高権力者になっても蜀滅亡は免れなかった

24: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/11(木) 11:15:59
蜀きっての名将・姜維でも苦戦する鄧艾相手に実戦経験のない御曹司がぶつかる状況で勝てと言う方が無茶だろ。
それと軍才に乏しいのと内政担当者としての能力は別物だし。

26: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/11(木) 11:31:52
実際に諸葛瞻が関わってなくとも何かしら善政があれば民は諸葛瞻のおかげだと噂したようだし、周囲からの期待も集まってたようで、諸葛瞻自身は重責で薬漬けだったって記述があるしなあ。
最高責任者になったらそれこそ長生きできなそうだな。

30: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/11(木) 20:31:46
>>26
>重責で薬漬けだったって記述があるしなあ

どこのどんな記述かkwsk

31: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/11(木) 21:52:31
蜀末期って

何もしない劉禅
非戦派の諸葛セン、カンガン
好戦派の姜維、カコウハ

って解釈でいいんだよね?

33: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/11(木) 22:48:57
>>31
キミは姜維の対抗勢力として諸葛瞻に重きを置きすぎているのではないかな?
諸葛瞻が平尚書事となってトップ(それも董厥とのツートップ体制)となったのは261年、つまり最後の2~3年だけだぞ。

34: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/11(木) 23:17:50
ああそうなの?
蜀末期って「英雄いけるべきか死すべきか」でしか見てないんだよ。
あれもかなり端折っていたし。

後ネットで人物評とかちらっと見たぐらいなんだが。
姜維無能論ばっかなんだよな。個人的には姜維は立派でいて欲しいんだが
やっぱ前線を下げたってのが一番の無能ポイントなんだろうか?
諸葛瞻も無能っぽいけど。

諸葛瞻が負けた最後の戦いって具体的にどんな戦いだったんだろう?
姜維の最後も曖昧なんだけど

敵のトウガイとショウカイが攻めてきて姜維が食い止めてたんだけど、諸葛瞻がまけちゃって蜀に入られて劉禅降伏みたいな流れはわかるんだけど。

38: Jominian ◆Henri9gNlM 2008/09/11(木) 23:36:51
>>34
流れとしては、
諸葛瞻フ城に入る→黄崇が敵の平地への侵入を防ぐよう進言するも、諸葛瞻は逡巡して容れず→諸葛瞻軍の先鋒が鄧艾に撃破される→諸葛瞻緜竹に退き、鄧艾を待ち受ける→鄧艾は子の鄧忠を右翼、司馬の師纂を左翼として諸葛瞻に攻撃をかけるが、鄧忠らは撃退される→鄧艾は鄧忠と師纂を叱咤し、攻撃を続行、諸葛瞻を破り、諸葛瞻、諸葛尚親子は戦死→鄧艾成都に至る
となる。

62: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/15(月) 21:41:58
なぜ鄧艾ではなく野心家鍾会の方と共謀しようと思ったのだろう?頼りになるという点では圧倒的に前者でしょうに・・・。

64: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/16(火) 09:11:59
後世に創作された「孔明の弟子」というキャッチコピーとは裏腹に姜維は北伐遂行の意志以外には何一つ孔明から受け継いでない。
少なくとも、残された事績からは

こと、北伐に関する準備や交渉については(成否は問わない)積極的に関わったが、直接に北伐に影響がないと判断した内政や宮廷の根回しには無能ですらなく、無為であった。
この内側に対する姜維の無関心と無策が北伐の遂行の妨げとなっているのでお世辞にも知者とは言えない。
さらに加えて言うが、穿った見方をすれば、姜維の北伐の意志が燭や孔明とは全く無関係の天水人としてのごく個人的な動機でしかなかったのではないかそう考えれば、姜維の言動に説明がつく

だいたい、燭復興のために鐘会に荷担したというのは嘘臭くないか?

77: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/19(金) 10:54:01
>>64
元々魏の武将で、蜀漢へ参与したのがかなり後。
後ろ盾と言えるのは、実戦で付き従った諸葛亮位。
諸葛亮死後、魏延に行われた仕打ちをみれば、宮中での影響力が無く、軍主流派とは言えない姜維は、いつ難癖付けて処断されるか解らない立場だった。

ひたすらに諸葛亮の遺徳を継ぐ、という他者から非難されず、自己の正当性を喧伝できる行為で自己保身を図る必要が有った。

65: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/16(火) 09:57:05
僻地へ逃げてまで徹底抗戦したわけでもなく、自らが蜀帝であり続けることには固執しなかった劉禅だが、姜維が蜀復興を企み失敗し(それも劉禅を迎え入れるつもりだったとのこと)、その巻き添えで嫡子や旧臣が命を落としたことを耳にした時どう思っただろうか。

66: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/16(火) 11:58:24
劉禅を呼び込むつもりだなんて史料にあるのか?
姜維にそんな意図が本当にあったのか?
後世のファンが勝手に言っているだけじゃないのか?

もし姜維が本気でそんなつもりなら、あまりにも杜撰で行き当たりばったりな計画だ。
まず、そういう計画なら事前に劉禅となにかしら連絡があって然るべき、そうでないと事が成った後で劉禅を招くのは遅すぎる。
劉禅の身柄を抑えられているのをどうやって連れてくるつもりなのやら。
むしろ人質にされてもおかしくない。
そしてもし、なにかしら手だてがあって事前の段取りまで準備できていたなら、事が露見して乱が失敗したときに、劉禅が無事ですむわけはない。

劉禅が無事だったのは姜維の行動が劉禅とも漢の最高とも無関係だった、少なくとも当時の当局はそうみなした、からであろう。

188: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/03(金) 15:12:19
>>64>>66はまず正史を読めよ。「日輪を取り戻す」っていってるだろ。
最後の最後まで蜀漢再興の為に動いてたんだよ。孔明と同じく財産を残すこともなく。
鐘会のほうが野心を持ってて独立の意志を持ってたんだから利用するのが当たり前。
何でもかんでも姜維を批判、疑えばいいって物でもない。

姜維は漢中の防衛ラインを下げたのが最大の失敗。致命的ミス。
これがあるからしょうえんも川を下り上陽側から上る策を検討できた。
内政面でなぁ

189: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/03(金) 19:48:22
防衛ライン下げたってのは
姜維の致命的ミスとして良く聞くけど人材がいないから下げざるをえなかっただけじゃないの?
防衛ラインを下げただけでそこまで劇的に変わるとはおもえん。
あのでかい中国大陸で数キロライン下げたってただの誤差みたいなもんじゃん。

190: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/03(金) 20:27:23
だったら姜維は何の意味も無く誤差の範囲程度防衛線下げて何がしたかったんだろうな?

191: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/03(金) 20:34:50
>>190
敵を誘い込んで一網打尽にする気だったんじゃね。

193: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/03(金) 22:47:05
防衛ラインを下げたって言うよりは防衛戦力を分けた。
一挙大勝を得るためってのが姜維の思惑なんだけど、そこら辺は正史を。
筑摩版正史が見当たらない…

194: Jominian ◆Henri9gNlM 2008/10/03(金) 23:12:14
「姜維が国境の戦力配置を変更し、その後に国家が滅びた」という結果はあるが、国が滅びたのを戦力配置の変更に求めるのは乱暴だろうな。

そもそも、漢城と楽城に集中させるはずの戦力が黄金囲などに残っていたし、敵の前進を抑えるはずの関城では軍の半分が敵に降伏している。
また、機動戦力として敵の後方に位置すべき姜維は、鄧艾によって西方に拘束されている。

姜維のプランそのものを批判するのではなく、方針が徹底されなかった事、隴西の急速な策源化というイレギュラーな事態への対応がとられなかった事を批判するべきだな。
そしてそれらの殆どは、姜維と、成都を掌握する黄皓、諸葛瞻らとの間の信頼関係が喪失した事が原因だろう。

195: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/03(金) 23:14:46
>>194
結局、あの時代に長くまとまった勢力を維持するには徹底した独裁政権が必要なんだよな

196: Jominian ◆Henri9gNlM 2008/10/03(金) 23:18:13
>>195
独裁とまでいくかは分からないが、国家を一つに纏める強力な指導力は必要だと思う。
まぁ、それは古代中国にかかわらず、乱れた時代にはいつでも必要な事だと思うけど。

197: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/03(金) 23:45:29
魏も呉も晋も後継者問題で揉めたけど、蜀だけずっと安泰だったの?
そんなに劉禅って名君だったの?

198: Jominian ◆Henri9gNlM 2008/10/04(土) 00:37:52
部下に強く干渉しない皇帝なら、部下もどうかしようとか思わないだろう。
後継者の問題は、太子やその候補者の意思もあるが、それを担ぐ事によって利益を得ようとする者の思惑も大きい。
幸い、そういった奸臣がいなかっただけだと思う。
劉禅の弟の劉永は黄皓と反目し、黄皓の讒言によって劉禅に遠ざけられたが、それくらいだな。

そういう事を以って名君としたいのなら止めないが、受け入れられる考えかは知らん。

199: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/05(日) 16:25:46
2代目はおとなしくしてろってのが、良くも悪くも昔からの処世術だな。

201: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/11(土) 21:36:13
孔明は人材を発掘しようとは思わん買ったのかな?
学校ぐらい作って人材増やせばいいのに。

209: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/12(日) 09:05:41
孔明の政治学とかいろいろな物を文章にして残してたら後々便利だったと思うんだよな。やってたんだろうか?
弟子もあんま居ないみたいだし。

211: Jominian ◆Henri9gNlM 2008/10/14(火) 00:27:57
学校はあったけどな。
三国志に記述があるだけでも、田疇、王烈、孔融、劉馥、楊俊、王基らが学校を建てた事が分かり、虞翻が、「鄭玄の行った注釈の内、間違いの甚だしい百六十七条が学校でそのまま教えられている」と上奏してる。

南陽に建てた楊俊、江夏に立てた王基以外は、空っぽの城を再建した時とか、郷里の村落だとかに建てている事を顕彰されているので、実際そこまで珍しいものでもなかったと思う。
教えてる内容は、書や易、詩などの儒の経典が専らだろうね。

241: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/28(火) 21:39:45
費緯の暗殺さえなければ後20年くらいはもったかもな
魏は上手くやったと思うし、人材不足でなければ費緯の暗殺は防げた

242: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/28(火) 22:14:22
暗殺がなくてもその時点で費イは60歳くらいだったはず。
そう長い時期国政を担えたかどうか…。
それに突然死でなくても後継は仲良しの陳祗だった可能性が高いからねぇ。

243: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/28(火) 22:19:50
それまで国政、軍事両面のトップは荊州関係者だけだったのに、なんで姜維はそこに割り込んでるんだろうね

245: Jominian ◆Henri9gNlM 2008/10/29(水) 01:53:45
姜維が大将軍・録尚書事となった理由は分からないが、そもそも簡単に「荊州」でくくる事ができるのだろうか、という疑問はある。

面子を見る限りは、諸葛亮死後の宰相人事は、諸葛亮にどれだけ評価されたかの方が大きい気がする。
仮に本貫を荊州に持っている事が一つの条件だったとしても、むしろ最大の異端は陳祗だろう。
彼は、本貫が荊州でもなければ、諸葛亮との関わりも薄く、確認できるのは費禕、許靖との繋がりだけだしね。

246: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/29(水) 01:58:44
>>245
陳祗は軍事のトップじゃないな
あえて言うなら、姜維とのツートップか

247: Jominian ◆Henri9gNlM 2008/10/29(水) 02:09:11
軍事と政治の両方のトップを兼務したとなると、費禕の死後では姜維しかいないような。
敢えて言えば、中都護・衛将軍・平尚書事の諸葛瞻となるけど、彼がどれだけの戦力を掌握していたかは不明だな。

姜維以前の蒋琬と費禕に限定するならば、これは諸葛亮の遺言によるもので、仮に諸葛亮に荊州に本貫を持つ人物を引き立てたかったという意思があったとしても、この二人を後継とする事しか述べていない以上、それ以降の人物まで荊州という要素が必要になる理由にはならないと思うので、姜維の就任が、少なくとも荊州云々という点ではそこまで不自然にはならないと思う。

248: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/29(水) 02:15:14
姜維の出世がどうもおかしく感じるのは、
・降将であり、厚遇される余地はあっても、常識的に考えれば大権を握る可能性が低い状況
・他の権力者とのコネが無い
・大権を握るまで、特別に大きな功績があるわけでもない
といった点

249: Jominian ◆Henri9gNlM 2008/10/29(水) 02:30:20
姜維は、
・諸葛亮に高く評価された
・諸葛亮の後継者である蒋琬に重用された
という事くらいかな。録尚書事を帯びるまでは。

この話になると避けて通れない、東征中止の詔勅に関わっていたという件も、権力交代劇のキーパーソンの一人として影響があったと見るべきかもしれないが。

諸葛亮の遺言において、麾下のあらゆる将軍を差し置いて、魏延が遺命に従わなかった場合の、対魏軍及び対魏延を想定した殿軍の指揮を執る事を任され、実際にも楊儀と共に司馬懿の追撃を退けている事を考えると、軍事に関して言えば、諸葛亮幕下では位階以上に重要な存在だったのかもしれない。

250: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/29(水) 02:43:50
費禕の後継者って誰だったの?
そんなに人材いなかったの?

251: Jominian ◆Henri9gNlM 2008/10/29(水) 03:00:44
>>250
権力を握った順番で言えば姜維だけど、彼は費禕と並び立つ形で権力の座に着いているので、費禕の後継者という言い方は少し相応しくないかもしれない。

費禕が自分の後継者と考えていたと思われる人物で言えば、これは陳祗になる。
陳祗が後継者だった事を以って人材がいなかったとできるかは分からないが、政権を安定させるという点で言えば陳祗の手腕は相当なものだと思う。

253: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/29(水) 07:49:26
とはいえ陳祗では小者だ
並び称された蒋エン、董允でさえ費緯に比べれば格段に落ちる

254: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/29(水) 08:23:45
陳祗の役職名は?
蜀が滅びるまで内政の主導は陳祗たったの?

255: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/29(水) 09:32:01
>>254
陳祗は蜀滅亡の5年前に死んでる。
最終的には侍中守尚書令・鎮軍将軍。

256: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/29(水) 09:54:24
陳祗の死がもたらした影響としては、
・姜維の北伐を後方で支える人がいなくなった。(成都と姜維との間で意思の疎通に問題が出るようになった)
・彼が引き立てた黄皓が権力の中枢に食い込む状況を残して逝ってしまった。

ってとこなのかな。

257: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/29(水) 09:57:30
しかし費緯以降、姜維は別として、笑える程人材いないな蜀末期

259: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/29(水) 13:16:43
>>257
よく出てくるけど霍弋や羅憲なんかは蜀滅亡後でも晋将として活躍してる。
あと、何を以って人材がいないと断じてるのか知らんが、それをいうなら呉だって陸遜以降は強いて言えば陸抗くらい。
基本、両国(あるいは魏を含めてもいい)においては国力に応じた結果しか出せない程度の人材しかいなかったとも言える。
魏の人材に至っては司馬懿以降、司馬氏の簒奪を防げなかった程度の連中しかいなかったという言い方も出来なくはない

265: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/29(水) 22:17:16
人材がないってたださ、正史に書かれてなかっただけで優秀なのは揃ってたのかもよ。
盛り上がりに欠ける後半は正史書いた奴もまともに書く気なかっただけかもしれんし。

267: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/29(水) 23:07:05
>>265
いちおう記録なんだからそこら辺はきちっとすんじゃね?
可能な限りで

269: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/30(木) 08:50:17
>>267
活躍の場がなくて地味な仕事ばかりしてたから記録に残らなかったとかあるんじゃないかな。

三国志前半なんかは戦争が多くていろいろ活躍の場があるけど後半は北伐しかないし。

271: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/30(木) 09:23:02
>>269
とはいえ、陳寿が自分の目で見ているのは蜀末期だから、信憑性があるのはそちらのはずなんだよね。

268: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/30(木) 02:50:27
蜀出身で後の時代も活躍して名前残した人物って羅憲とその一族の羅尚くらいなんじゃないの。
晋王朝で出世した蜀将が全く出てこないんだから本当に人材いなかったんだろ。
呉は陸雲・陸機兄弟とか結構いるんだが。

281: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/30(木) 21:12:16
三国時代の末期のように国力の差がはっきりとしてきた時点で一人一人の能力はさほど関係なくなってくるな
小さい勢力がうごめきあってる時点では違うが

引用元: ・蜀末期ってどうなんだったの?