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1: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/11(土) 05:45:16
「常山の趙子竜、一身すべて胆なり」と称された趙雲の功績、蜀内でのポジションなど多角的な角度から再考してみよう。
「劉備の親衛隊、ボディーガード・・・以上」は無しで。

真面目で真摯な議論をお願いします。








2: クマッタ ◆WWFG.4qrvQ 2008/10/11(土) 05:55:54
五虎将の中ではなんか扱い悪いよな

3: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/11(土) 09:33:48
>>2
むしろ演義や後世の創作で縦横無尽な扱いされてるじゃん。
演義で最も下駄履かせてもらってるんじゃね?

しかし改めて字面見ると厨センスに見えるくらいカッコいいというかキャラの立った名前だな(褒めてる)

7: クマッタ ◆WWFG.4qrvQ 2008/10/11(土) 13:57:31
>>3
ゲームだとチート並の扱いだが、劉備3兄弟含め蜀軍の武将はほとんどがそうだからなぁ
意図的に陳到とかが抹消されてる分活躍がクローズアップされてるような
>>2で書きたかったのは正史の話ね
初めて正史を読むとあれ、こんなもんなの?って印象が一番強い人

30: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/18(土) 08:11:16
北伐の敗戦で鎮軍に左遷されてるのはなんでなんだろ?
箕谷での敗戦は囮だから織り込み済みだろうし、その撤退も本伝・別伝ともに褒められてるし
なんかやらかしてるなこりゃw

34: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/21(火) 20:38:49
>>30
連帯責任では?

36: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/21(火) 20:56:14
諸葛亮は自分自身も三階級降格して丞相から右将軍になったが、蜀を運営していける人材は他におらず、引き続き丞相の職務を執行した。

37: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/21(火) 20:59:57
張コウ相手に奮戦した王平のみ例外的に昇進だったはず。
王平はここから出世街道にのったイメージがある。

38: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/21(火) 21:04:29
王平だけはこの時の功績により、参軍・討寇将軍の地位を与えられている。

51: 30 2008/10/23(木) 19:59:57
諸葛亮伝になんかないか見てみたんだけど、箕谷の敗戦も自身の三階級降格の理由の一つとして街亭と並べて挙げてるんだよね

その部分を抜粋(ちくま蜀書)
街亭では命令にそむかれるという誤ちを犯し、箕谷では不謹慎のため失策を犯すことになりました。

ということは箕谷の敗戦は織り込み済みじゃなかった
あるいは想定外の大きな被害を出したわけか?
自分も>>34さんと同じ意見だったけど「不謹慎のため失策を犯す」が意味するところによっては、趙雲やらかして降格説もまんざらありえなくもないかも?

52: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/23(木) 20:52:07
丞相が自らを三階級降格するにはそれだけの理由付けが必要。
その理由、つまり敗戦の事実として列挙できるのは街亭と箕谷。
街亭については敗戦・命令違反の咎で馬謖以下の諸将を処刑。
箕谷についても敗戦の責任を取らせて大将たる趙雲を降格。
その上で統括者として自らを異例の三階級降格。
そうしないと説得力に欠ける…それだけのことじゃないかな。

54: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/23(木) 22:11:56
「不戒之失」は「不謹慎のため失策を犯す」じゃないんじゃない?
「ちゃんと戒めを与えておかなかったので失敗した」監督不行き届き、だな

42: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/23(木) 14:33:40
正史で、趙雲は甘夫人を保護したとあるのに、甘夫人の伝では劉備は甘夫人や息子を見捨てて趙雲を護衛につけて逃げたとあります。これは一体どういう事なのでしょう?

43: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/23(木) 14:56:06
妻子を置いて逃げる劉備の護衛として帯同していたが、追っ手が迫って来たために劉備に若干の戦力をつけて先に逃し、自らは追っ手を撃退する手勢の指揮を執った。
で、一息ついて劉備を追いかけようとしたところへ阿斗&甘夫人情報を入手したので、とっさにそちらの救出に回り、無事救出してから劉備の下へ駆けつけた。

辻褄を合わせようとするとこんな感じになるのかな。
ただ、正史の記述が相反する箇所はいくつか散見されるから仕方ないのかも。

46: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/23(木) 15:17:43
>>42-43
劉備は甘夫人、劉禅のことはさして大事なイメージないから
こんな大変なときに二人のことなんか気にかけてられるか!って感じだったのかね
二人の保護は趙雲の独断だろうねー。

67: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/26(日) 01:43:31
>>42-43
二主妃子伝の原文では「棄后及後主、頼趙雲保護、得免於難」となっている。
劉備が趙雲を護衛につけていたのではなく、甘夫人と阿斗が趙雲の保護を頼ったという意味であり、趙雲伝の記述との矛盾はないと思っていた。

88: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/02(日) 13:51:11
劉備が、趙雲が救出した阿斗を地面に叩きつけたっていうのは正史の記述でしたっけ?
情報をお願い致します。

89: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/02(日) 14:02:59
正確には正史の注釈、趙雲別伝の記述
趙雲が演義張りの大活躍をする

57: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/24(金) 01:03:32
趙統とかは結局実子なの?養子なの?

58: Jominian ◆Henri9gNlM 2008/10/24(金) 01:09:30
>>57
養子だったって話は聞いた事が無いけど、そんなのあったっけ?

59: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/24(金) 18:37:50
嫁取り拒否→女嫌い→子供は養子→アッー!

みたいな解釈がまかり通ってる
趙範のエピソードの時点でおそらく40過ぎで、側室勧められて断ろうが自由だと思うがな

61: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/25(土) 11:59:02
>>59
趙範のは仕方ないにしても、そのあとずっと嫁をとらなかったのはやっぱりちょっと不自然だよなあ
趙雲の息子らしき人達はイキナリ出てきた印象があるからやっぱ養子???

63: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/25(土) 21:23:11
そもそも養子を2人取る必要あるわきゃないだろ。

65: Jominian ◆Henri9gNlM 2008/10/26(日) 00:15:49
母親の記述の無い子供を全て養子にしていたら、殆どが養子になってしまうしな。
養子と書かれてない以上は実子とした方が良いだろうね。
113: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/11(火) 19:49:13
なんか三国志末期の武将でその武勇を趙雲にたとえれた猛将ってのがいた気がするが
名前が思い出せない誰か知ってる人いたら教えてくれ

115: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/11(火) 19:57:52
陳泰じゃね?

116: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/11(火) 20:24:05
文欽かその子の文鴬がそうだったと思う

117: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/11(火) 20:55:30
陳泰と文鴬で合ってると思う

118: Jominian ◆Henri9gNlM 2008/11/12(水) 00:56:22
趙雲に比されたのは文鴦だけだぞ。陳泰は違う。
後、これは俺の知る限り史書には無く、演義第一百十回の話。

98: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/05(水) 11:00:51
こうそんさんの配下だったのは創作じゃないんだよね?
演義では劉備の人柄に惚れてってなってるけど、配下になった経緯や時期が作品によってバラバラでどれが真実に一番近いかわからんな

108: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/07(金) 23:21:53
>>98
趙雲が劉備配下になる時期は正史でも異説がある
一般的なのは公孫サン配下の時代に劉備付きの部将になり、劉備があちこち援軍として出向く内に事実上の配下になった説
もう一つは兄の死を理由に趙雲が故郷に戻ったが、趙雲の故郷は袁紹の勢力下にあったので劉備は「こりゃ逃げやがったな」
色々あって劉備も袁紹を頼り趙雲と再開、ここで配下になる

119: 108 2008/11/12(水) 09:13:47
追記しとくと、個人的には趙雲は200年頃に正式な劉備配下になったと考えている
つまり192年までに公孫サン配下になったが公孫サンが劣勢または素行不良なのを見て理由を構えて去ったが、陳寿が履歴上の汚点になると考え記述を削ったと思っている
途中ほとんど趙雲の記事がないことや五大将の中では一段低い扱いになってる説明がつくと思う

120: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/12(水) 10:25:43
でも劉備と言うか蜀には誠心誠意貢献したと思うから決して薄情なわけではないんですよね

122: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/12(水) 20:49:06
>>120
「趙雲別伝」を信用した場合の仮説だから気にするほどのレスでもないいんだけど

公孫サンは193年に劉虞を捕らえて殺すが、事の良し悪しはともかく劉虞は非常に評判のいい人物で、そのうえ殺し方が北斗の拳の悪役みたいなやり口だったため人望を失ったと思われる
上で劉備が「こりゃ逃げやがったな」と書いたけど、劉備自身も193年に陶謙の援軍に出たまま独立勢力になり、一時曹操よりの人間になって公孫サンとは無関係に見える
ちなみに劉備は劉虞に助けてもらったことがある

趙雲は非常に儒教道徳に忠実な人物なので、実際に服喪のため帰郷したかも知れないが、
それにしても公孫サンが敗死する199年まで一切登場しないし、袁紹に仕官したようでもない
使えるべき主が見当たらず故郷で牢人していたのでは


125: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/12(水) 22:22:54
公孫サンってただの外道だったんだな

128: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/13(木) 12:08:37
白馬長史がこうも悪し様に言われるとは
時代かねう

130: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/13(木) 19:51:20
公孫サンは確かに勇猛で果断に富む一方、指揮した戦闘のほとんどが戦果を拡大しようとして攻め過ぎかえって危機に陥るというケース
また劉虞殺しについても、劉虞の人徳に心服していた異民族まで袁紹についてしまい自らの首を絞めた
軍事面に限っても瑕の多い人物で、本来一軍の将以上になるべきではなかったと思われる

132: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/13(木) 22:46:14
趙雲が見限った可能性も大かな?

134: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/14(金) 21:11:11
>>132
この時期、漢王朝が空洞化して群雄割拠時代に入る過渡期なので、劉虞と公孫サンの不仲が表面化するまでは幽州牧の劉虞配下のつもりだった者も多かったと思う
実際、両者が対立すると劉虞やその支持者の袁紹についた者が多く、劉備や趙雲も似たような感覚だったかも知れない

135: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/15(土) 17:49:20
袁紹よりマシに見えた公孫サンもろくでなしだったから、滅ぼされる前に適当な理由をつけて離れたのであれば、先見性があったんだろう

136: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/15(土) 20:32:00
袁紹は冀州乗っ取り以外は疑い深いとか決断力に欠けるなどの性格面以外これといった悪事はしていない
劉虞擁立は微妙だが、それでも劉虞が断ると無理強いはしていない

沮授の振る舞いなどを見る限り四州を取るまでの袁紹は冀州乗っ取りがかすむほど理想的な君主だった可能性が高い

139: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/16(日) 03:38:40
もしかして人を見る目が無いんじゃないかって話をしてるんだが
嫁とかじゃなくて主君レベルのな

140: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/16(日) 07:08:23
人を見る目というより、この時代は土地と人の繋がりが強くて出身地の有力者に仕えるのが普通だった
また、191年ごろまでは地方軍閥の割拠という様相には至らず、地方公務員になったつもりがいつの間にか公孫サン派・袁紹派に色分けされたということもあるだろう

たとえば劉備は劉虞のとりなしで登用されてるが公孫サンに付いている
この時期は劉虞・袁紹と公孫サンが深刻に対立していなかった傍証になるだろう
また、趙雲と少し似た経歴の田豫は劉備の最古参の一人だったが、徐州まで付いて行きながら母親の看病のため幽州に戻り、その後地元勢力の公孫サンに仕えている
当時の人は地縁に縛られており「浪々月下主を求む」というような人はまれ

188: 無名武将@お腹せっぷく 2008/12/06(土) 20:21:13
公孫讃の所にずっといたら鞠義あたりに殺されていたかも?

190: 無名武将@お腹せっぷく 2008/12/07(日) 00:10:33
麹義も連戦連勝ってわけでも無いがな
彼も同盟する人物を間違えたね。
彼の下にいた兵は袁紹に吸収されて利用されたんだろうな

193: 無名武将@お腹せっぷく 2008/12/08(月) 23:19:07
長坂で曹操に生け捕られてたら、降服したかな?

194: 無名武将@お腹せっぷく 2008/12/08(月) 23:44:45
小男の曹操を懐に入れて脱走するに決まってんだろ

195: 無名武将@お腹せっぷく 2008/12/11(木) 19:13:48
(゚∀゚)ナルホド

引用元: ・【今一度】趙雲子龍を再考