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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/05/31(月) 20:44:46.61 ID:aJ1I5xjg0
この辺が一番面白かった








2: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/05/31(月) 21:32:55.06 ID:aJ1I5xjg0
龐統が死ななくても諸葛亮を呼ぶ予定だったらしいけど何で?

3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/01(火) 06:19:44.34 ID:Rp8O574v0
>>2
蜀が予想以上に強かったから

4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/01(火) 09:47:14.04 ID:5duz1dMA0
張飛や趙雲はともかく、諸葛亮はそんなに期待されてたの?劉備に、実際簡単に平定してるけど
魏延や黄忠を連れていったのは無名だから?

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/01(火) 18:56:00.09 ID:Rp8O574v0
>>4
数年かけてやっと落としている
被害も大きく、軍師の龐統が戦死するレベル
それに呉への備えもある

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/03(木) 04:08:00.59 ID:LM5XzloJ0
>>5
そもそも劉備が劉璋から兵借りるのに孫権への援軍を口実にしているぐらい劉備と孫権の関係は劉備が益州制圧するまでは共同軍といってもいいぐらいの蜜月の関係
それが破綻するのは劉備が益州制圧して孫権からの荊州返還要請を反故にしてから
なので当時は劉備が呉の備えなんてする筈がない

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/03(木) 05:54:24.78 ID:0M3ug9Er0
>>15
そこまで信頼していないかと
末期の羅憲の時は守る兵はわずか二千とかだったけど、諸葛亮、関羽、張飛、趙雲とかなりの兵を残しているからなあ
ロシアが条約破って攻めたのを非難する人いるけど条約なんてむしろ守られないのが前提

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/01(火) 18:58:12.45 ID:J6/iqqyy0
成都の包囲に時間かかってるだけじゃね

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/02(水) 10:44:33.22 ID:RRD80lhr0
長江遡って蜀攻略したのってこれ除いて前後3例あるが
成家は35~36年に討伐、成漢は1ヶ月、譙蜀は413年に討伐
劉備一味は212~214年
他と比べて劉備一味だけ時間かかってるのは幕僚にたいした人物がいないのが分かる

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/02(水) 11:55:52.25 ID:BTdL39740
ではその時に攻略側が率いていた兵力と守っていた側の兵力も書いてみ

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/02(水) 20:12:19.44 ID:qsRvkAEe0
>>11
不明だけど、北伐前に魏が推定していた蜀の総兵力は九万
漢中に三万とかいるとすると益州だけでは六万ぐらいかと、荊州軍も五万で足りなかったみたいだし

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/02(水) 20:08:34.58 ID:qsRvkAEe0
光武帝の頃は最後の敵を全力でって状況で重臣が何人も死んでいる
防御に徹すればかなり守れる
魏の蜀滅亡戦も、楽城や黄金居は最後まで落とせなかったし、剣閣に籠る蜀の精鋭も敗れず兵糧問題で撤退を検討
諸葛瞻でないまともな将軍が1万の兵で徹底的の防御に徹すれば勝てはしなくても破れなかった
もちろんトウガイの挑発にのって打って出たら諸葛瞻以外でも敗れただろう

トウガイ軍は敗れたらもう撤退できず全滅するしかないのだから必死で戦うので蜀は勝てない

16: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/03(木) 05:52:02.23 ID:0M3ug9Er0
秦が蜀を滅ぼせたのも騙し討ちや裏切り者の利用だったし、光武帝の後漢も他を滅ぼして全力で攻めて幹部が何人もやられているレベルだし、劉備の時も呉への備えの荊州本国から諸葛亮張飛趙雲をってことは、残っていた軍のかなりの割合を追加しなければいけなかったということだし、険しい蜀の内部に既に入り込んでいて軍師の龐統が戦死するレベルで国力や兵力的には劉備軍より益州軍の方が上だったのだと思う
もし騙し討ちでない正攻法で攻めたら勝てなかった

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/03(木) 10:49:56.52 ID:45uHPceT0
蜀が手ごわいから張飛や諸葛亮を呼んだのかもしれないけど軍事面で諸葛亮を信用してないなら
呼ばなきゃいいのに
そうすりゃ関羽の悲劇はなかったのでは?

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/03(木) 12:50:31.18 ID:Ocs5JvTU0
>>19
長期間攻めてた葭萌が落ちた後に諸葛亮呼んでる
むしろ蜀平定の目処がついたから戦後処理したり
その後の内政のために呼んだのがメインの理由じゃないか?

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/03(木) 14:34:04.57 ID:FMsRYUsj0
>>19
諸葛亮は事後処理だと思うよ
軍権を持ってたのは劉備だし諸葛亮はそもそも軍事面を担当してない
演技ではこの頃から既に軍権持ってたけど
関羽の悲劇は諸葛亮がいたら回避できると思う

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/03(木) 22:35:42.46 ID:guhI3Duv0
>>23
蜀書の諸葛亮伝に益州の郡県を平定したと書かれてるんだから事後処理ではないだろ
普通に戦力として諸葛亮を援軍に呼んでる

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/03(木) 15:24:39.60 ID:Ocs5JvTU0
・龐統戦死より諸葛亮の荊州出発が先
・龐統戦死より張任処刑が先
この辺りは前後を逆に認識してる人がが多いところ

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/03(木) 17:25:22.86 ID:45uHPceT0
龐統は劉備とうまくやってたのかなぁ生きてたら法正以上の活躍はできたろうか

32: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/04(金) 06:51:28.61 ID:uuwLW4CG0
龐統が死ぬと、劉備の前から、孫権が送った目付け役はいなくなった。蜀攻めは、劉備軍みずからの戦いに変わる。劉備は張り切り、張飛、趙雲、諸葛亮を益州に招いた。
http://3guozhi.net/c/ht2.html

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/04(金) 07:28:25.20 ID:WhJw4Ysu0
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします

と書いてあるからいいんじゃないの
龐統呉臣説は龐統が周瑜の元配下とか、呉臣の陸績・顧邵・全琮らと仲良しとか、劉備が龐統をクビにしようとして魯粛が人事に介入とか、色々根拠があるので話題にされるのはある意味仕方ない
それよりも諸葛亮は蜀随一の親呉派で魯粛とツーカーの親しい仲なのはあまり語られない不思議

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/04(金) 07:56:01.11 ID:uuwLW4CG0
>>33
諸葛亮や趙雲がイリョウに行かなかったのは親呉派だったから外されたのかな
反対していたからとも言えるけど
フランス外人部隊も出身国への戦争は拒否できるらしい

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/04(金) 08:17:38.22 ID:WhJw4Ysu0
>>36
あまり語られないけど諸葛亮は魯粛(217年没)の喪に服していたので、それ以前は蜀科制定などの治績が確認できるのに217年~220年辺りの活動は漢中王の上表に名前連ねている等ぐらいで、劉備の漢中制圧(219年)や関羽の荊州失陥(219年)では特に目立った活動が確認できないという・・・
関羽や張飛が死んだ頃の諸葛亮は喪中もしくは喪から復帰したばかりなので、親呉派でも劉備の東征などの呉との対立を止められるほどの影響力発揮できなかったかも

47: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/04(金) 21:35:15.27 ID:heZyEepE0
>>38
楊洪伝に劉備と曹操が漢中を争っている時に兵を送れという催促がきて、諸葛亮は楊洪にどうするか聞いたら楊洪はその通りにすべきというエピソードがあるので、普通に考えたら諸葛亮は劉備に援軍を徴兵して送ったのだろう

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/04(金) 07:57:55.66 ID:uuwLW4CG0
>>33
独立勢力か配下かを問題にして議論している人もいるけど、形式的には末期前は王を名乗らず、公式には漢の官職だから上司部下や同僚ではあっても王と家臣ではないんだよね

39: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/04(金) 08:30:01.00 ID:WhJw4Ysu0
>>37
形式的には漢臣だけど、やはり孫権と劉備との間には主従まではいかないまでも一種の雇用関係(孫権が劉備を傭兵として飼う)があったのは劉備が荊州の支配権容認してもらうのに京城の孫権に会いに行ったり後々まで荊州借用問題が存在するのが蜀側呉側両方から伺わせることなどでわかるが、雇い主孫権(討慮将軍・会稽太守)よりも雇われ側劉備(左将軍・豫州牧・宜城亭侯)の方が漢臣として格上なのがいつ見ても面白い
まあ主従の関係がねじれなのでいずれ関係破綻するのはある意味仕方ない

51: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/16(水) 20:28:31.43 ID:eKSIEjP30
本当に孫権が上位の雇用関係があったとしたら劉備が孫権の益州攻めを軍動かして邪魔した時点で破綻してるだろ
そもそもそういう行為さえできなかっただろって思う

正直、孫権が上位の雇用関係があった説は怪しいと言わざるを得ない

52: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/17(木) 01:54:30.64 ID:+BQ5BMrh0
>劉備が孫権の益州攻めを軍動かして邪魔した時点で破綻してるだろ

210年の時は劉備の反対もあるが益州攻め中止の最大の理由は周瑜の死
主将が孫瑜では実現ほぼ不可能で時節に適っていない
孫呉ばかりでなく春秋時代の呉も楚を攻めようとして時節に適っていない時は孫武が反対して中止しているので別におかしい事ではない
211年の時は劉璋からの要請で益州に兵を入れれるという奇跡的展開
益州制覇する戦略は孫権劉備共通の認識なので、孫権は劉備の蜀入りを容認して邪魔せず呂岱を別軍として派遣までしている
孫権と劉備の関係は劉備の蜀入りの時点では特に関係破綻していないよ
そもそも関係破綻しているなら呂岱は荊州通過して張魯の近くまで到達できない
明らかに関係破綻したのは劉備の益州制覇後の荊州返還問題

53: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/17(木) 03:37:22.86 ID:lUm1GWra0
その辺は魯粛の考えに基づいていると思われ、孫権は後年魯粛が劉備を助けたことを批判している。

55: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/17(木) 23:39:05.57 ID:tiJasD0U0
荊南の地が全部、孫権に領有権があり劉備は借りてるだけとするなら劉備が荊州牧になるのを許すとは到底思えんな
劉備が孫権に借りたのは一部だけとするのが自然だろう

56: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/18(金) 07:25:42.89 ID:DRNNRev30
>>55
そうかな?
曹操が上奏して劉備を豫州牧にしたり劉備が上奏して孫権を徐州牧にしたのと同じで領有権と官位は一致しないのでは?
それに本当に劉備に荊州の領有権があればわざわざ京口の孫権の所に赴いて荊州借用を申し出たりしない
孫権はそれに応えて妹を劉備に嫁がせたりしてたのでこの当時の孫権の劉備観は極めて好意的

59: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/19(土) 08:29:14.71 ID:YFklxz7t0
「須得涼州,當以荊州相與。」

劉備の言葉だと借りてるのは荊州全部ともとれる
一つ言える事は孫権は荊州全部(支配外の南陽郡除く)貸してるつもりで劉備は荊州を返すつもりが無かったという事
その齟齬のおかげで最終的に関羽は死に荊州は結局呉のものとなった

61: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/20(日) 02:12:54.45 ID:mxoqlx6e0
相與って与えるって漢字が使われているけど意味は「お互い」。
劉備は涼州を手に入れたら荊州はお互いにしましょう、つまり割譲しますよ返答したわけ。

62: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/20(日) 09:38:43.13 ID:/dTEtiYP0
https://cjjc.weblio.jp/content/%E7%9B%B8%E8%88%87
「相與」の言葉はいくつかの意味あるな
主に分けて3つ
1:【動詞】つきあう,交際する.
2:【副詞】相互に,互いに.
3:【名詞】知り合い,なじみ.
>>61氏は2の意味で解釈したようだが、それだと「荊州相與」ではなく「相與荊州」と書かないとしっくりこない
1で解釈して「涼州を手に入れたら荊州を返すので今後も仲良く交際しましょう」
3で解釈して「涼州を手に入れたらなじみの荊州を返します」ともとれる

63: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/20(日) 10:55:23.47 ID:mxoqlx6e0
>>62
まさに荊州を以て相与せん

相与してどうするのかの部分が書かれていないだけで文法上おかしいわけではない

65: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/20(日) 19:58:53.48 ID:Xrr8QKE30
単純に荊州を以て相與せんとと気を持たせるような言い方でぼかしただけではそれこそ相與荊州だと言質になっちゃうから

98: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/09/02(木) 08:07:26.99 ID:+qk8g6J30
劉備は、呉の兵が三万しかいないことを聞いてショックを受けたらしいけど、逆に言えば三万しかいなかったから一万の劉備と同盟してくれたのであって、劉備が納得・満足するような兵力、例えば十万とかいたら同盟してくれない
だから、劉備が満足するような相手と同盟なんて根本的に有り得ないこと
完全に臣従するなら配下の一部将あたりにはしてくれるかもしれないけど

99: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/09/03(金) 15:54:35.76 ID:kTC1pJZc0
それはつまり自分より少し上ならしぶしぶ同盟するが大きな相手は簒奪の対象になるということ?

100: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/09/03(金) 18:16:38.68 ID:2IM8JpKj0
>>99
呉に十万、二十万の兵がいるのならば、劉備の一万なんかいらない
あるいは配下の武将の一人として臣従するならってことかと
劉備に呉以上の兵力があるのならば、その兵力で荊州のどこかにこもって曹操と戦うかと
仮に劉表が生きているか、次が降伏しなければずっと敵対していた呉楚の同盟はあるかもしれない
劉璋に家臣が言ったように、低く扱えば劉備は不満を持ち、高く扱って住まうと1国に2人の主君、というか確実に劉備が上になって乗っ取られてしまう

101: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/09/03(金) 22:30:53.46 ID:kTC1pJZc0
ああそういうこと
正直誰でも劉備は持て余すよな

154: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/11/30(火) 18:22:07.99 ID:lHIze0lh0
三国志の借荊州問題を語る上で最初に勘違いしちゃいけない事は「荊州を貸した」という記述があるのは呉書(主に魯粛伝)と注に用いられている江表伝という呉側の記録だけという点
蜀側の記述には先主伝に「須得涼州、当以荊州相与。」と有るぐらいで貸し借りについて書いてない
ここがスタートだわな

160: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/11/30(火) 20:15:09.95 ID:68GF2pV40
>>154
両者で認識違うのなんて日韓の歴史問題とか古今東西普通にあるわな
だから現代でもこのスレみたいに平行線なのに当時で折り合える筈はない

視点変えて決闘裁判的荊州問題判決でみると最終的に呉の勝訴でFAだったという…

161: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/11/30(火) 20:16:57.29 ID:49zohaVp0
最終的には曹操=献帝から承認された孫権が権利の上で正当ということで

163: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/11/30(火) 20:54:19.52 ID:PIkwDqnL0
だから魯粛が言い分の違う両者を取り持って荊州分割したんだけど
主に孫呉側が全く納得しなかったというオチ

164: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/11/30(火) 21:04:01.55 ID:TAyIq2ni0
だから領土分割時に魯粛は蚊帳の外だって。あれは劉備が和睦案を示して孫権が承認している。

165: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/11/30(火) 21:33:59.46 ID:Gsk610ip0
ほぼ独断で劉備との同盟を取り付けて赤壁から南郡攻略に至るまでの外交状況を整えた人物が蚊帳の外は考えにくいけどね

166: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/11/30(火) 21:47:48.58 ID:wrgWSyXf0
そもそも借荊州に関する記述の殆どは魯粛伝のもの
本当に貸したのかどうかはともかく荊州の領土分配に関して魯粛が主導してたと考えるのが自然

167: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/11/30(火) 22:24:26.74 ID:cmNCNLy90
単刀赴会での強面発言を理由に魯粛は実は強硬派みたいな事を言う人がいるけど、呉書を通して読めばそんな事はなく魯粛の生前から明確に強硬論を主張する呂蒙との微妙な対立が見て取れる上に孫権は呂蒙寄りだったりする
(単刀赴会での発言は史書に良くある「史書で言わされてる」感が極めて強い)

そして建安20年の荊州動乱において荊州南部を攻略した呂蒙は魯粛と連携してる感じが伺えない
それじゃあ呂蒙は誰の意図でもって攻略を進めていたのか
そんな中で零領を返還し荊州を東西に分割する様な妥結点に至る事の出来る人物は誰か

そんなところかな

168: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/11/30(火) 23:16:50.03 ID:TAyIq2ni0
呉主伝
「與孫皎潘璋并魯肅兵並進拒羽於益陽」
no title


これはこう読む
(呂蒙)と孫皎潘璋とは「魯粛の兵を并せて」並進して益陽で関羽を拒んだ。

初期には呂蒙に魯粛を助けさせた孫権だが、最終的には呂蒙が主導しているばかりか兵をとりあげられている。

ゆえに魯粛は蚊帳の外なのである。
以降死ぬまで蚊帳の外である。

169: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/11/30(火) 23:22:25.95 ID:TAyIq2ni0
>>168
とはいえ同盟を結び直した後には兵は返されていた(もともと周瑜から引き継いだ兵だけだろうが)だろうし、劉備陣営との緩衝材として荊州に留め置かれていたのだが、魯粛が死ぬ直前には孫権は曹操と和平しているのでその頃には最早利用価値はないと判断されていたのたろう。

170: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/11/30(火) 23:49:30.62 ID:xoLoo8RF0
蜀進攻にも呉が援軍だしたりして荊州分割してくれるならと行動してたが取ったけど分割さえしねえーよってなって話違うじゃねーかとなる
そのつもりなら呂蒙使って占領するわ
魏も攻めてくるわで慌てて劉備が魯粛にやめさせろと連絡
魯粛が関羽と会談して一部返すからと劉備に有利な分割する
しぶしぶ承諾するが豪族から弱腰すぎると反発が起こって上奏が相次ぐ
劉備たちはこれで一件落着と油断して対魏進攻へ

こういう流れかね?
って>>168兵を持っていないのが勝手に領土の交渉はできないということなら魯粛の関羽とのあれは一体?

173: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/12/01(水) 04:43:23.72 ID:dLg1tFFW0
>>170
劉備と孫権が出てきた時点で関羽と魯粛でまとめる話ではなくなっている。
いづれにせよ和平交渉は劉備と孫権の間で行われている。

174: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/12/01(水) 10:01:02.13 ID:m3xeLzua0
領土の画定なんて関羽と魯粛だけで決定できるもんでもないだろうな
魯粛はともかく関羽にはそんな権限ありえんだろうし

175: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/12/01(水) 10:46:59.21 ID:LgaRMkkL0
なるほどそれは確かに
魯粛も本来ダメだろうけどこいつは独断専行事後報告多すぎるからなあ

176: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/12/01(水) 11:08:47.72 ID:lA6ZhsC40
決定権は劉備や孫権に有るのは当然だけど魯粛に関してはその伝に書かれてる通り外交に深く関わってるから蚊帳の外なんて事は考えにくいな
上に書かれてるけど魯粛の死の間際まで曹操との講和を行わないぐらい大きな影響力を持ってたと考える方が自然

しかも建安二十年の動乱は三郡要求したところから始まって呂蒙を動かし奪ったのに一転零陵と長沙西部返還による東西分割という不自然な決着で終わってるからね

178: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/12/01(水) 11:38:36.52 ID:LgaRMkkL0
劉備と魯粛で勝手に呉不利な分割領土取り決めやったんならそりゃ呉の国内情勢には逆効果だわな
荊州失洛はむしろここから必然だったろ全然呉のガス抜きできてないし

179: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/12/01(水) 11:48:36.14 ID:piP2ZXZQ0
言うて魯粛が劉備との同盟をまとめてなきゃ江夏すら得られなかった(どころか滅亡してた)だろうから生きてる間は方針変えるほど文句言えなかったと思う
おそらく三国志における一番のキーパーソンは魯粛で一種ビスマルクみたいな存在だったんやろな

引用元: ・劉備の入蜀 益州争奪戦