51RrWyaq+cL


1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/02(金) 21:13:01 ID:lMNW1vBJ0
晋の正卿
先しん、先且居、趙盾、げきけつ、荀林父、士会、げき克、欒書、韓けつ、知おう、荀えん、士匂、趙武、韓起・・・






(しん、紀元前11世紀 - 紀元前376年)は、現在の中国山西省に西周代、春秋時代にわたって存在した国家である。

春秋末期、晋は事実上、范氏・智氏・中行氏・趙氏・韓氏・魏氏の5氏6家系(中行氏と智氏は、元々同じ荀氏。また、韓氏のみ公族)の当主によって動かされるようになった。この6家系は他の有力大夫を排除して、六卿を世襲するようになっていた。さらに出公のときに范氏、中行氏の領地を智、趙、韓、魏氏が分割しようとしたため、出公は怒り、斉や魯と同盟して四氏を討とうとしたが失敗し、斉へ亡命しようとしてその途中で亡くなったために(紀元前457年)、晋室は全く力を失った。

四氏のうち智氏が最も強大で、当主の智瑶は韓氏・魏氏を引き連れて、趙氏を滅ぼそうとした。趙氏の当主趙無恤は、韓氏の韓虎・魏氏の魏駒に「智氏は強欲なので私が滅ぼされた後は貴方達の番だ」と寝返りを促し、これに成功する。紀元前453年、三家に攻められた智氏は滅亡し、晋の領土を趙、韓、魏の三者が分け合い、それぞれ独立した(晋陽の戦い)。

しかし晋は曲沃と絳の2都市を中心とするわずかな領土(魏に取り囲まれる形だった)を守りながら哀公以下5代に渡って存続した。紀元前403年、周の威烈王によって趙、韓、魏の三氏が諸侯に列せられたため、晋の公室と三家はこの時点で名目上の君臣関係ですらなくなった。紀元前376年、晋は韓魏の連合軍に攻められ陥落。この時晋は難攻不落で攻撃軍はかなり手間取ったという。最後の君主・静公は城を出て庶民となり、晋は滅亡した。なお、趙、魏、韓の三国を三晋と呼ぶ。





6: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/03(土) 00:10:12 ID:cVdMXS3Q0
知・趙・魏・韓・范・中行

欒氏や郤氏、胥氏や羊舌氏などはスレ違いかな。

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/03(土) 00:41:22 ID:5X+gS4j20
春秋末期は晋の六卿といえばその六氏のことかもしれないが、それまでは単に晋の大臣(大臣は三軍の主将と副将を兼ねるから定員六人)、という言葉通りの意味であろうから別に問題ないのでは。

8: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/03(土) 00:42:20 ID:cVdMXS3Q0
三軍三行ね。

3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/02(金) 22:52:30 ID:+x7QAcJ50
晋の六卿と言えば真っ先に趙盾が思い浮かぶ、父親の趙衰が文公の腹心だが、趙盾を立てたのは義母の君姫であり、義母の恩に報いようと腹違いの弟である趙活を趙家の頭領にして、趙同には最大の領地を与えるが趙盾の思いとは裏腹に、郤缼は下軍の将に最も使いやすい趙朔にして実質的に趙家の主に趙朔がなる。
趙 盾(ちょう とん、生没年不詳)は、中国春秋時代の晋の政治家。趙衰の長男。趙氏の祖。晋で長く政権を執り、趙氏の存在を一躍大きくした。

父の趙衰は驪姫の乱後、重耳に従って諸国を放浪していた。やがて、趙衰は亡命先の狄で族長の娘、叔隗を娶り、趙盾を儲けた。その後、重耳は晋に帰還して文公となり、趙衰も高位に上った。さらに趙衰は文公の娘、趙姫を娶り、新たに趙同、趙括、趙嬰斉の三人の子を儲けた。
本来ならば、主家の娘の趙姫が正妻であり、趙盾は嫡子になれないはずだった。しかし趙姫が、叔隗と趙盾を呼んで正妻と嫡子にするよう、趙衰と文公に進言し、これが受け入れられた。

紀元前621年、文公の跡を継いでいた襄公により、狐射姑が中軍の将になった。趙盾は中軍の佐になったが、襄公の太傅(公子に付いて教育する役)であった陽処父の推薦で、趙盾が中軍の将にされた。同年、襄公が没したが、太子の夷皋はまだ幼かったので、群臣は襄公の弟を立てるべきだと話し合い、趙盾の意見で、秦に仕えていた公子雍を呼び戻すことになった。しかし、狐射姑が陳にいた公子楽を呼び寄せようとしていたので、趙盾は刺客を放って公子楽を殺してしまった。
狐射姑は亡命したが、このことで反対派の動向を恐れるようになった趙盾は考えを変え、夷皋を晋公に立てることにして、秦軍に護衛されてきた公子雍を軍を出して追い払ってしまった。このとき、公子雍を迎えにいっていた先蔑と士会は秦へ亡命した。
秦は当然、晋に対して不快感を持ち、攻撃してきたが、これは撃退した。しかし趙盾は、士会が秦にいることを憂い、策を使って呼び戻した。

翌年、夷皋は即位して霊公となった。当初は趙盾の言うことをおとなしく聞いていた霊公だが、長ずるに従って逆らうようになり、趙盾が諌めても聞こうとしなかった。
霊公と趙盾の対立は日に日に深まり、紀元前607年、霊公は趙盾を殺すために鉏麑という刺客を送った。 しかし、趙盾の屋敷にやってきた鉏麑は、趙盾の身の修め方を見て、殺すことは正しくないと考え、自ら頭を木に打ち付けて自殺してしまった。霊公はそれでも諦めず、宴に刺客を潜り込ませて、趙盾を殺そうとした。趙盾は人の助けでこれを逃れ、亡命しようとしたが、従兄弟の趙穿が怒って霊公を殺してしまった。このとき、趙盾はまだ国境を出ておらず、慌てて宮殿に戻り、襄公の弟の公子黒臀を迎えて晋公に立てた。これが成公である

霊公の死に関しては、太史(史官)の董狐によって、晋の国史に「趙盾、その君を弑す」と書かれてしまった(弑すは目上の人間を殺すこと)。 趙盾は「自分が弑したわけではない」と抗議したが、董狐は「あなたは霊公が殺された後、国境を出ずに帰ってきた。すなわち、その時点であなたはまだ晋の正卿であるのだから、反逆者である趙穿を誅する義務があった。それをしなかったのだから、自らが弑したのと同じだ。」と答えた。

この後、趙盾はこのことに関して一切反論しなかった。


5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/02(金) 23:18:18 ID:+x7QAcJ50
襄公の死後、次の君主には、幼い後の霊公は無理だろうと秦から公子雍を迎えに、士会らを秦へ送るが霊公の母の必死の懇願に折れ、霊公の擁立をする。
何故か霊公は趙盾と犬猿の仲で、趙盾の暗殺を謀るようになる。
その時暗殺者は趙盾に正義を見たのか自殺して、趙盾に自らの危機を伝える。

112: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/18(水) 21:22:28 ID:zerRbvCm0
春秋時代で一番好きな話が、士会が秦に亡命して晋を攻撃するようになった時、士会の重要性を郤缼が説き、趙盾が受け入れる事なんだよな。
苗賁皇・伯州犂・伍子胥など亡命して活躍する人物は多いけれど、再び戻って活躍したのは、士会ぐらいかな、その場を与えた趙盾が評価されて欲しいな。

113: 出勤中 2007/04/19(木) 08:22:50 ID:vEGVQm4jO
趙盾の場合、突っ込みどころも多いもんね。
いくら暗君とはいえ主君殺しの汚名は消せない。
趙括を公族に見立てて公室の基盤を決定的に弱めている。
趙穿を処分せずにいたら悼公の代で卿になってしまっている。

そら反感も買うわなと。

114: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/19(木) 20:27:00 ID:TWcFXWKa0
趙盾は器が大きい反面、鈍感な感じがする。
趙穿を処分しなかったのも、あえて汚名をきたのかと。
仮に士会があのまま秦に残れば伍子胥並に活躍してたかも。
趙盾ひいきの意見だけど。

115: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/20(金) 23:50:19 ID:dVSNYLgL0
趙盾の悪い面は霊公・趙同・趙括を指導する事ができなかったことか。

118: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/04/22(日) 22:03:57 ID:tKBuCAcV0
趙盾自身の述懐で「自らは夷狄に生まれ育ち云々」てのがあって、文公の子ふたり(趙盾の従兄弟でもある)は狄に残っている。
文公の義理の甥であったとしても、屏季括は文公の外孫。

趙家の中では意外と発言力がなかったのではないかと。

119: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/23(月) 01:10:14 ID:cIv8Po3N0
賢夫人とされる君姫は、文公の亡命時のいつごろの娘だったのだろう。
趙盾よりは若いはずだが狄を出てからか、案外趙盾の従妹という事はないだろうが。

120: 妄想半分すまぬ 2007/04/23(月) 15:25:11 ID:xeNUynt+O
蒲城にいたころは舅犯の娘が妻。これは夭折して子がない。
文公の滞在期間が長いのは狄と斉。狄では2公子を儲けるも晋に入国せず。
んで重耳の亡命に付いて他国に出た妻子は太子歓とその母・杜祁以外に記録がない。
鄭を通過するときに趙衰が60才。享年が76だったとして君姫が子を産める年齢を逆算。
こう考えると君姫は斉以降に生まれた可能性が高いね。

121: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/23(月) 15:38:56 ID:3E4KNfDW0
紀元前
655年 重耳が80人の従者と共に狐氏の邑へ行く。
654年 趙衰と(隗氏の族長の娘)叔隗の間に趙盾が出生する。
651年 献公死去。里克・丕鄭乱を起す。
650年 恵公夷吾即位する。
645年 恵公、秦軍に敗れ捕虜となる。子圉を人質として、恵公帰国する。
斉の管仲死去
644年 趙盾10歳の時、重耳は狐氏の邑を去る。
637年 懐公圉即位する。
636年 文公重耳帰国し即位する。
635年 文公の妻、季隗は二人の子を狄に残し晋へ行く。
634年 叔隗・趙盾のもとに文公・趙衰からの迎えの使者が来る。
君姫は趙盾に才能ありと認め、文公に固く請うて、趙盾を嫡子として自分の生んだ三子の地位を下げ、叔隗を嫡妻として自分はその下位についた。
622年 趙衰死去。趙盾が33歳で趙氏の総帥となる。
621年 董の蒐により、趙盾が晋の正卿となる。

君姫が趙盾より年上でないと合わないかな、趙朔と趙同が同じ年だったかな。

122: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/04/23(月) 20:58:58 ID:bZEDHWvb0
君姫≧趙盾でも君姫≦趙盾おかしくないではないね。
ただ>>120を読んで重耳が子供を連れて亡命していないなら君姫≦趙盾じゃないかね。

124: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/25(水) 06:56:59 ID:Hsn1BkmC0
重耳が亡命した年に、晋に虞国が滅ぼされ、重耳の異母姉穆公夫人が秦に高齢で嫁ぐというケースもありますね。

136: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/11(金) 03:49:32 ID:tuXsk1oOO
晋では難を避けるために隠れたり、亡命したり、捕虜になったりと困難を経験した人から名臣を輩出することが多い。
例えばゲキ欠、士会、知武子、趙武など。
これも逃げの重耳を生んだ晋のお国柄かな。

139: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/11(金) 21:19:10 ID:jbtxnQwQ0
>>136
困難を以って名臣になったというと、郤缼・士会・趙武は必然かなっと思った。
知罃は商人が楚からの脱出の誘いを断った事が案外、楚の共王に見込まれ評価が上がったかも。

137: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/11(金) 14:37:31 ID:p4UCwFI8O
公族や卿大夫の亡命は後継者争いの副産物だからねえ。どこにでもある話だろうけど、晋の場合は卿大夫の家々が他の国の公族並みの力があるからではないかと。

141: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/12(土) 01:15:49 ID:uq4xvIe+0
范・中行両氏が斉に亡命してからの資料がなかなか無いんだけど、亡命後は斉で客卿待遇とかのままでフェードアウトしちゃったのかな。

142: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/05/12(土) 01:19:54 ID:s4txPzbe0
漢に仇なす笵増と中行説

144: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/12(土) 03:57:21 ID:ppGsdmMd0
士から范へと変わったように范氏のその後は姓を変えたという事はないですかね、
斉は田常の頃から有力な大夫は田氏以外であまり知らないな。

143: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/12(土) 02:32:15 ID:ppGsdmMd0
欒氏は斉に残らなかったのですか?

146: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/13(日) 21:55:28 ID:WHdUb29M0
>>143
欒盈が晋に戻ったときに、残らず付いていったんじゃない?

147: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/14(月) 16:21:40 ID:KlzqL74G0
欒盈は范氏さえ倒せば、晋に復帰できたんだろうか、
仮に魏氏が味方に付いた場合、中行氏は范氏に付きそうだし、趙・韓氏を交えて結局復帰は無理ぽいか。

148: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/20(日) 13:52:26 ID:5CKfy9BMO
六卿と括って言い習わしも六卿の時代は意外と短いよね

149: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/20(日) 16:38:37 ID:BPDRuYK40
趙氏に限って言うと、趙武ー趙成ー趙鞅の三代ですか、
この頃の六卿は国主と考えられるのかな、家宰が宰相と呼ばれていたり。
中行・范氏亡命後も傍流の人物が卿になってたみたいですが、知遥が政権を執った時には、まだ六卿だったのかな。

150: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/05/20(日) 19:25:18 ID:5291+4e/0
六軍に当てはめりゃ范・趙・知・中行・魏・韓なのは当然なんだろうけど、欒氏や胥氏、あるいは鞏朔を卿に数えないのはたしかに不自然だよねえ。

154: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/26(土) 17:42:55 ID:UcNy2xpY0
献公はもっと評価されてもいいと思う
献公(けんこう、? - 紀元前651年)は、中国春秋時代の晋の君主(在位:紀元前676年 - 紀元前651年)。

西虢・虞・魏等の国を攻め滅ぼし、「十七の国を併呑し、三十八の国を服属させた」とある。
晩年は愛妾の驪姫(異民族の驪戎の娘)の讒言を信じ、太子申生を殺し、公子重耳(後の文公)・公子夷吾(後の恵公)などを遠ざけたために、晋は大きく混乱した。これを『驪姫の乱(中国語版)』と呼び、これ以後晋は太子以外の公子を国外に出す伝統を守り、このため公族の力が非常に弱くなっていった。

155: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/05/26(土) 21:03:25 ID:lUKD1J1T0
マイナスの部分が大きすぎるから・・・

164: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/29(火) 22:18:01 ID:dmFNzotc0
>>155
マイナスとプラスならはるかにプラスの方が大きいよ
武公の頃の領土のままなら文公も覇者にはなれなかったと思う
愛妾の子供を太子にってそんなに珍しいことじゃないし、死後の争乱なら桓公も同じ

156: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/26(土) 22:15:59 ID:eJlQ9Dd+0
前685年 斉の桓公即位、管仲を補佐とする。
676年 献公即位
669年 献公は桓・荘の族を滅ぼす。
667年 斉の桓公、王命により、覇者となる。
666年 献公は大子申生を曲沃に、重耳と夷吾を捕と屈の守り手とする。
661年 晋は二軍を作り、耿・霍・魏を滅ぼした。
658年 荀息は名馬と壁を虞へ贈り、虢を攻める道を借りる。晋と虞は虢の下陽を滅ぼす。
656年 驪姫の陰謀により、申生自殺する。
655年 晋は虢と虞を滅ぼす。
651年 献公死去。

献公というと、晋の領土を急拡大させた全盛期と斉の桓公の活躍する時期はダブってますね。。
献公の時には晋<斉だみたいでけど、国土では晋>斉のような。

157: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/05/26(土) 22:22:30 ID:lUKD1J1T0
斉はその間に鄭や魯、衛という姫姓を配下におさめてるからねえ。
威信では敵わない。

158: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/27(日) 18:01:37 ID:M9Qw5rLq0
そう考えるとやっぱ桓公と管仲は凄いな

159: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/05/27(日) 21:56:13 ID:YxQOAkWo0
斉に話を広げていいのなら。
管仲が執政しているのを大夫家の鮑叔が支持していたとしても、卿たる国氏・高氏が全く不満を現さないのが不自然かな。

160: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/28(月) 05:50:11 ID:x79IsScD0
>鮑叔が支持していたとしても、 卿たる国氏・高氏が全く不満を現さないのが不自然

鮑叔がいなければ国君に立てなかったのでは、
重耳の時の晋に例えると
鮑叔=狐偃・趙衰で国氏・高氏=欒枝・郤穀といった感じかと想像するけど、狐偃・趙衰が自分より遥かに勝る人物として推せばどうですかね。

161: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/05/28(月) 20:58:47 ID:fl42JC2U0
>>160
管仲以前に管氏の卿大夫を知らないんで。
国策顧問として一代限りの師傳だったのかな。

162: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/29(火) 16:47:48 ID:Ml6fXh0sO
管仲以後(シャレじゃないよ)にも管氏は出てこないよね

177: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/03(日) 01:06:12 ID:JiqB0Fdy0
管中の上卷まで読んだが、晋の話はほとんど出ないな、
鄭の荘公が有る意味、覇者だったとしても鄭より西の国にはほとんど影響を与えてないですし、西国の虢は鄭と同レベルの国だったのですかね。

179: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/08(金) 11:28:24 ID:r03uYUdVO
周王室が大諸侯を封じるときにはそれぞれ軍事的な役割をあてがわれてるように思う。
異民族をそのまま国にした斉、北狄には晋、西戎には秦と梁、南蛮(楚)への予備役にカク。
時代が下って王室守護のために鄭を置いたものの、王室を分割して封じたために相対的に王室の権力が低下してしまった。

180: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/11(月) 16:49:33 ID:pgThTTWxO
春秋通しての晋のライバルといえば楚だけど見事に対照的だね
晋は大夫の権力が強く楚は王族の権力が強い
晋は勤王につとめ楚は周王にとって変わろうとする
軍事的にも晋は三軍が皆各自独立して動くことができ楚は王の中軍に戦力を集中している
方角も南北と対照的だし他にもいろいろありそうだ

181: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/06/11(月) 21:41:18 ID:79osOWmb0
周王室の実質的な敵が楚だもんな。

182: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/14(木) 11:06:46 ID:h4nHjx8IO
卿は周から見ると陪臣だが、諸侯は周の許可なく卿を任命できないんだよな

184: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/15(金) 04:13:35 ID:P8biSz6u0
>>182
知らなかった。
斉では高・国氏がかなりの力を持ってたみたいだけど
晋だと武公以降、ゲキ穀以前の正卿は周より認められていなかったとか。

186: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/15(金) 15:49:25 ID:Agvlvs+o0
>>184
管仲が上京した際の例がいちばんわかりやすいというか有名だと思われ。

187: ぷ@携帯 2007/06/15(金) 16:25:36 ID:O46aDw+TO
六卿になったはずの鞏朔が上京したときもおすすめ。
左伝だとかなりひどい扱い。

引用元: ・】【春秋時代】晋の六卿について語ろう



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