1: 人間七七四年 2009/12/03(木) 20:25:19 ID:EPnbP4lG
一国すら統一していない大名が一万人動員したり
一国しか領有していない大名が数万人動員したり
と戦国時代の動員戦力は誇張が激しい時があります。
このスレでは合戦の動員兵力や大名の動員兵力を検証したりしましょう。







5: 人間七七四年 2009/12/03(木) 23:01:21 ID:0mNDe8PM
軍記物語の兵数は120%デタラメと思って間違いない
江戸時代になると騎数と全動員数の区別もつかない著者が多い

6: 人間七七四年 2009/12/03(木) 23:46:23 ID:36HeejxT
明智光秀の家中軍法以外に石高と軍役が明確になってる史料って存在するの?

7: 人間七七四年 2009/12/04(金) 00:42:29 ID:rAiR0wW/
>>6
「小田原衆所領役帳」

8: 人間七七四年 2009/12/04(金) 12:21:09 ID:a2UWCYIT
旗持ちとか馬の口取りとか戦力になるんかどうか分からん。

11: 人間七七四年 2009/12/04(金) 14:42:00 ID:kmgOAQ7B
>旗持ちとか馬の口取りとか=完全武装で戦場に出て行く戦闘員。
例えば5万石の場合、騎馬武者70+歩兵戦闘員で1000、それに非戦闘員500で、計1500がMAXと普通言われている。

桶狭間では今川本隊5000に織田2000(全員戦闘員)が突っ込んだが、戦力は今川3000対織田2000で、状況から織田の楽勝も当然。

12: 人間七七四年 2009/12/04(金) 15:15:10 ID:k/HX5l/6
一万石あたり250人から300人
石高は経済力と同時に人口も表す

13: 人間七七四年 2009/12/05(土) 11:55:35 ID:qDFyKcFE
東では北条、西では毛利が異常に大軍を動員するイメージがあるわ。

15: 人間七七四年 2009/12/05(土) 12:36:45 ID:ZGLV2CJC
>>13
毛利は10万を動員したって記述がウィキかどっかにあったな。
周りの豪族、宇喜田とか従えての数字だろうね。
一方北条は5万がマックス。石高の割りに少ない感じだね。

18: 人間七七四年 2009/12/05(土) 16:21:14 ID:gkg6SbTB
>>15
北条が5万がマックスって何の史料なのさ?北条領を殆どそのまま引き継いだ家康は関ヶ原の時に8万前後が出陣して、更に上杉の抑えとして結城秀康の軍が下野に駐屯してたわけだが

19: 人間七七四年 2009/12/05(土) 18:33:48 ID:irZ/5Kbc
小田原陣の時の北条の動員数は、トータルで8万ほどだな。

29: 人間七七四年 2009/12/07(月) 22:14:22 ID:FqPkBoaE
>>19
小田原の時は15~60歳の男を徴兵したんだっけ?
あれは極端な例だとしても通常時はどの程度の年齢の民が徴兵されたんだろう

14: 人間七七四年 2009/12/05(土) 12:04:53 ID:oI1e1TE4
時代は下るがこういう数字がある。
尾張徳川宗春が大掛かりな鹿狩りと称して(謀反のシミュレーションという噂)藩内総動員令を出して、侍1万人、百姓町人1万5千人を動員した。
この時代は藩の隅々まで支配が行き届いているから、計2万5千も動員できたと考えられる。

戦国時代なら、豪族・国人を完全支配できている大名は殆どいないから50万石で2万5千は無理だろう。

17: 人間七七四年 2009/12/05(土) 14:42:53 ID:44Aq17q5
軍役状は上杉は全体的のが残ってるし、北条武田明智と豊臣の小田原朝鮮時のも有名。
西国大名のいい史料ってあるかな?軍制が未発達なせいかあまり見ないけど。

21: 人間七七四年 2009/12/07(月) 00:39:01 ID:lAxouRbB
西国と言えば船岡山合戦の動員人数は多すぎるように思えます。
この戦いはあまり教科書では取り上げられませんが、長引いていたら応仁の乱のような扱いになっていたかも。

23: 人間七七四年 2009/12/07(月) 14:06:40 ID:GS74ZGa3
日向(12万石)の全域を支配してるわけでもない伊東氏が飫肥城を2万の大軍で攻めたのは不思議だ

30: 人間七七四年 2009/12/08(火) 07:06:32 ID:16VQ9zuP
戦国時代は時代が下るにしたがって動員数が増えてるね。

もともと兵力に入らなかった農兵や雑兵がいつからか防衛兵力や予備兵力として運用されて、戦力価値を期待されるようになり、小牧長久手の徳川や秀吉の小田原城包囲の時には総動員体制になったように思う。

31: 人間七七四年 2009/12/11(金) 00:36:51 ID:b02yI4Yu
従属勢力って動員には含むの?
それとも単独動員力?じゃないとダメ?

34: 人間七七四年 2009/12/11(金) 03:21:47 ID:cBqAkqSd
基礎的な動員力と外部勢力を含めた動員力は分けた方が良いかもな。

35: 人間七七四年 2009/12/11(金) 21:12:07 ID:KPuNyXXX
んじぁ毛利の6万は嘘っぱちだな。
だいたい中国地方全部足しても280万石もいかないだろ。

36: 人間七七四年 2009/12/11(金) 21:53:49 ID:xENFi1Yl
小牧・長久手の合戦の織田信雄と徳川家康の連合軍の兵力が2万足らずという信じがたいほど少ないのは何故だ?
信雄は大国の尾張と伊勢を支配し、家康は今川氏や武田氏の領国を併せるほどの大大名だったのに

38: 人間七七四年 2009/12/11(金) 22:43:43 ID:b02yI4Yu
三方ヶ原も8000でしたよね

39: 人間七七四年 2009/12/11(金) 23:19:22 ID:zWhXdcrn
推測するだけだけど、信濃から三河にかけて防衛ラインを築いていたから、実際の指揮兵力が少なかったとか?

40: 人間七七四年 2009/12/11(金) 23:26:10 ID:bQuIdNrC
武田の領国を全て手に入れたわけでもないし、上杉、北条にも抑えが必要だから小牧・長久手に全軍動員できるわけじゃないよ

44: 人間七七四年 2009/12/12(土) 11:56:01 ID:SdwKXVWU
門司城攻防戦といえば1561年が有名ですが1554年にも戦いがあったんですね。
厳島の戦いが1555だからそれ以前になりますが陶との戦いを前に2万も動員できる訳ないと思うのですが。

http://bungo79.hp.infoseek.co.jp/newpage4.nenpiyou.1550.html

45: 人間七七四年 2009/12/12(土) 21:47:11 ID:NF0/lZXv
三好之長は永正十七年に二万を率いて上洛しているな。
まあ、半数が京周辺の兵で、あくまでも動員権は細川氏にあったので、細川澄元がいない中では、あっさり瓦解してしまったが。

48: 人間七七四年 2009/12/13(日) 22:51:31 ID:lObP5YPR
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq22t.html#09399
このサイトによると兵農分離前と後では動員数に大分差がある
兵農分離がしっかりしてない時代や大名ならば大兵力を動員出来てもおかしくはない
そもそも戦国期の動員数は20人に1人とかいう異常な割合のようだ

51: 人間七七四年 2009/12/14(月) 04:02:22 ID:4/bigeqD
つーか戦国期に兵農分離なんて行われていない。
兵農が分離したのは江戸期に入ってから。

よくある「兵農分離したから信長は動員が~」っていうのは根拠の無い幻想。
単純に畿内の人口が多かったから多く動員できただけ。
信長の動員体制は、他の戦国大名に比べてむしろ遅れている。

60: 人間七七四年 2009/12/14(月) 13:18:19 ID:KkYJ2Qbe
兵農分離は豊臣からだな。きっちりわけれたのは江戸時代だが

65: 人間七七四年 2009/12/14(月) 18:02:54 ID:0e4YcYvq
江戸期に入ってから戦役がほとんどないんだから兵農分離が完成したというのはちょっと違うだろ

66: 人間七七四年 2009/12/14(月) 19:21:39 ID:4/bigeqD
>>65
兵農が一致していたのは、村落にかかる「軍役」の存在のため。
軍役は江戸期になって消滅なんかしていない。

兵農分離には、農村が軍役に対して代銭で対応できるほどの経済力の向上と安定、金銭によって軍夫として雇い入れられる都市の余剰人員の存在、およびそういった労働者を組織し安定して供給できる業者の存在、さらにそれらを運用する仕組みの成立、こういった諸条件が整って、初めて兵農分離とい状態が出現する。

これらの諸条件が成立したのは江戸も徳川家光の時代あたりでようやく。
少なくとも信長の時代には、兵農分離などカケラも存在しない。

68: 人間七七四年 2009/12/14(月) 20:12:44 ID:ouL5lA0h
小荷駄とかの陣夫などの動員は、兵農分離の範疇からは除外するべきだと思うけど
通常、兵農分離の対象とされているのは、侍とか足軽とかの直臣クラスの戦闘員と自分は考えている

69: 人間七七四年 2009/12/14(月) 20:25:14 ID:4/bigeqD
>>68
陣夫、軍夫がいないと合戦なんて出来ないんだが。

あと足軽が農村から離れて都市居住が始まったのも徳川期。
多少早く取っても豊臣末期。

52: 人間七七四年 2009/12/14(月) 04:15:23 ID:xbnKzwWg
この板でも戦力分析や比較をするときには1万石あたり250人って数値で計算してるけど、これゼッタイってもんでも無かったみたいだな。
やろうと思ったら500人ぐらいまで行けたんだろう?

53: 人間七七四年 2009/12/14(月) 05:43:37 ID:YpmLWRqW
1万石250人は何処からきた数字なんだっけ?豊臣政権の軍役?
なんにしてもあくまで目安にしかならないよな。
信長の甲斐遠征の時に
「遠征なので兵糧がつづくよう人数は少なくすること、但し多いのと変わらぬよう粉骨するように」
みたいな意味の書状が信長公記にあったと思ったけど、状況により必ずしも最大動員でなくても良い場合もあったようだし。正確な動員数は分りよう無いよ。

57: 人間七七四年 2009/12/14(月) 11:07:53 ID:Qvsh8AuD
でも朝鮮や関ヶ原大坂みたいな動員って政権が最低限のノルマを指定した数だから、動員数=全兵力ではないよね
戦国時代も銭や現米での支給があったし、合戦になると傭兵を雇い入れた
つまり田畠以外の各産業の収入や毎年の収穫量で兵力も増減する
支配者の采配次第で兵力も変わって来るという事だ
後は攻戦か防戦でも違ってくる
徹底防戦ともなればもはや軍役だとか言っている場合ではなく、女子供や隠居の老人を問わず動ける者は皆武装して防戦にあたる
幕末にもこれらの事例が確認できる
要するに状況次第で変化するものであって石高だけから兵数をはかる事は出来ない

58: 人間七七四年 2009/12/14(月) 11:15:20 ID:6DakR+nd
もしも仮に一戸1人の動員として
50戸=一里
3里=1郷
20郷=1郡
10郡=1国

ぐらいだと1国あたりの最大動員数は3万くらい

61: 人間七七四年 2009/12/14(月) 15:13:33 ID:1oCPmocF
システム(決まりごと)上定められた動員数と、実際にかき集められた兵数とを同列に扱うから混乱するんじゃないかなぁ……

”金”さえあったら、所領石高に無関係(例えば大坂の役の豊臣側)に、また動員後でも(関ヶ原の黒田如水とか)兵は集まったわけだし

”所領に対して最大限の兵数を決めて計算”は戸籍と徴兵制が整った以後には確実だけど、それ以前には”あくまで仮定”という前提を忘れちゃいけない気はする

62: 人間七七四年 2009/12/14(月) 15:26:09 ID:nLAWTNgn
まあ状況によりけりなのは確かでしょう
昭和に入っても総動員みたいなことをしてるし

ただし石高はそのまま人口をあらわすといっても過言ではないので、石高から動因可能数を割り出すことは見当違いではない

74: 奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/12/14(月) 21:08:47 ID:5HLbpR2A
例えば飛騨のような辺境を例に挙げてみる。(検地後40石で1人とする)
・天正14年に金森長近が飛騨一国38000石を拝領。40石で1人として一国挙げても1000人の軍役が不可能。
(1000人で外敵にあたると国がカラになる)
・元禄八年、大垣の戸田氏が検地を実施したところ860石だった。40石で1人として軍役は22人。

以前もどこかで書いたけど、
・飛騨だけで見ると、三木氏とか江馬氏は運動会の騎馬戦程度の規模で戦争していたことになる。
・大大名とされる織田武田上杉は、たかだかこの程度の地域勢力を競り合って支配下におさめようと躍起になった。

支配体系が未編成な戦国期に、ざっくり考えて>>58でもまだ動員量は多いと感じる。

75: 人間七七四年 2009/12/14(月) 21:17:31 ID:4/bigeqD
>>74
> ・大大名とされる織田武田上杉は、たかだかこの程度の地域勢力を競り合って支配下におさめようと躍起になった。

織田武田上杉が飛騨を争ったのは、飛騨がそれぞれの勢力圏がちょうど接する場所に存在してしまった地理的理由からだと思う。

76: 人間七七四年 2009/12/14(月) 21:22:39 ID:CdorzkZN
飛騨(益田郡・大野郡・吉城郡三郡)は元禄5年の時点で60000石。
38000石から増えた分は全て開墾と言う事になってるが、これの評価次第だね。
実際に開墾したのか、最初の検地の時点で過少に見積もっていたのか。
どちらにしても少ない事には変わりなさそうだが。
戦国時代は6人役をしいたのかもしれない。
当時にしては非農業人口が多い地域だろうし。
コレくらいならなんとか合戦らしい合戦になるんじゃなかろうか。

82: 人間七七四年 2009/12/15(火) 12:35:03 ID:aVVzfVhd
確か飛騨の動員兵力は2、3000程度
飛騨は、近江を通した交易の中継地に当たり
しかも金山もあった
食料は輸入頼みだが石高よりもはるかに人口が居た

78: 人間七七四年 2009/12/15(火) 10:58:58 ID:jAcHofsl
下国の飛騨三郡が総動員して千人だとしても、大国の動員力がその十倍あるだろうか?
万単位の兵力がほとんど軍記物の誇張なのかと疑いたくなってきたわ

79: 人間七七四年 2009/12/15(火) 11:26:49 ID:QpszLopU
>>78
姉川の時、近江の四分の一程度の領主でしかない浅井が八千
しかもこれは横山城の守備兵などを除く主力部隊にすぎない
近江一国でかるく三、四万はあるだろう
浅井の旧領の六割くらいを支配した(四割くらいは丹羽)
長浜領主時代の秀吉が姫路へ侵攻したときの兵力で七千五百くらいだし(黒田勢含む)
近江は最大級の大国だが、周辺の越前、美濃、伊勢、尾張もそこそこ巨大

83: 人間七七四年 2009/12/15(火) 12:38:12 ID:QpszLopU
関ヶ原合戦時の石田一族は関ヶ原本戦とそれに続く佐和山籠城でほぼ最大動員だと
思われるが、関ヶ原に出撃した三成とその父兄(父兄とも三成とは別に領土が与えられていた)
の合計戦力は六千七百、三成の父兄が指揮した佐和山籠城兵二千八百といわれている
併せて九千五百だが、このときの石田一族の支配地、北近江四郡は浅井長政の支配領域
とほぼ一致している

84: 人間七七四年 2009/12/15(火) 12:44:16 ID:aVVzfVhd
江間氏などは日本海と琵琶湖を結ぶ商売をやっていたようだ
つまり、単なる中継地にとどまらず中継商売そのものを行っていた
動員された兵は、他国から臨時に集めた傭兵が極めて多かったようだ

85: 人間七七四年 2009/12/15(火) 12:59:06 ID:QpszLopU
>>84
北近江と飛騨の守護は佐々木京極氏
室町初期の佐々木道誉以来、商工業を積極的に保護してきた家柄だから飛騨も近江と似たような非農業人口の多い地域だった可能性はあるな

86: 人間七七四年 2009/12/15(火) 14:50:33 ID:bFIPVDYi
江馬は越中にも領地があったと思う。
武田が越中の影響力を失ったときに全部失ったかもしれんが

89: 人間七七四年 2009/12/15(火) 19:26:49 ID:ciRPC5X3
後日談としちゃ水増し人数でもいいけど
実際の戦闘するとなると物見(偵察)の人数認識能力は、必要となるけど
どんなもんだろうね

91: 人間七七四年 2009/12/15(火) 19:47:23 ID:2JstD308
関ヶ原の軍記物なんかは西軍の兵数は東軍の偵察値を載せているんだと思う
だから諸本によって数値のばらつきが大きい

108: 人間七七四年 2009/12/16(水) 13:53:43 ID:B5/5AIFu
俺なりに大雑把な数字を出そう。

北条氏は大体永7貫あたり一人。北条氏の当納法ならば永一貫あたり一石四斗。
7貫なら手取り9石1斗、馴染み深い江戸期の表記に直せば四公六民で22.75石に一人。
大体100石あたり4.4人役。
ただし、足軽隊に対しては3貫1人の割合で軍役を課しているなど例外事項は多い。
しかし、7貫1人役以下の事例は鉄砲(10貫1人)などを除けば少ないので平均すれば4.4人よりも多いことになるだろう。
加えて北条氏はイザというときに農村から臨時に兵を集める事があった。
これは城を空にするほど(実際に空にしたとまでは思えないが)の兵力を動員したときに城の留守を守る非常設部隊。
この臨時徴兵は上記の軍役義務の範囲外。

以上から、北条氏は100石あたり低く見ても4.4人程度の動員が可能であると判断する。
しかもいざと言うときはその大半を一戦場に動員できた。

武田二万五千は上洛スレみてもわかるとおり決して非現実的な数字ではないし(あそこは100石あたり2.5人計算)、北条氏の事例に照らし合わせても現実的な数字。
三千というのはどの辺で整合性が取れたのだろうかね。
講談が正しいとは決して言わないが、十分の一は無茶がありすぎる。

引用元: ・戦国時代の動員兵力を語るスレ