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1: 日本@名無史さん 2010/09/16(木) 15:53:04
語れ








4: 日本@名無史さん 2010/09/19(日) 14:49:06
一時的とはいえ畿内を席巻した松永彈正大弼久秀の信貴山城も入れていいですか?

5: 日本@名無史さん 2010/09/19(日) 17:06:13
米倉が空を飛んだという信貴山城ですか

7: 日本@名無史さん 2010/09/20(月) 14:18:07
これか。ほほぅ

信貴山縁起

信貴山縁起(しぎさんえんぎ)は、平安時代末期の絵巻物で、2016年現在、日本の国宝に指定されている。『源氏物語絵巻』、『鳥獣人物戯画』、『伴大納言絵詞』と並ぶ四大絵巻物の1つと称される。

通常の寺社縁起のごとく、開山の縁起を記したものではなく、平安時代中期に信貴山で修行して当山の中興の祖とされる命蓮に関する説話を描く。山崎長者の巻、延喜加持の巻、尼公の巻の3巻からなる絵巻で、作者は不明ながら、人物の表情や躍動感を軽妙な筆致で描いた絵巻の一大傑作であり、『鳥獣人物戯画』とともに、日本の漫画文化のルーツとされる。

山崎長者の巻(飛倉の巻)
命蓮が神通力を行使して、山崎の長者のもとに托鉢に使用する鉢を飛ばし、その鉢に校倉造りの倉が乗って、倉ごと信貴山にいる命蓮の所まで飛んできたという奇跡譚である。空を飛んでいく倉、驚いて見上げる人々などが絵巻特有の横長の画面を駆使して描かれる。

11: 日本@名無史さん 2010/09/22(水) 13:34:38
とりあえず安土城天守復元想像図は立派すぎると思います
史書には秀吉の大坂城天守の方が格段に立派だと書かれているのにこれでは大きさはともかく
派手好みの秀吉の作った大坂城天守よりも立派に見えるぐらい

12: 日本@名無史さん 2010/09/22(水) 15:49:12
安土城て籠城戦に向いてない気がするんだが

13: 日本@名無史さん 2010/09/22(水) 22:22:34
安土城の元の姿は琵琶湖に突き出た山城なんだな。
陸岸の平地側は濠で遮断してあり、残る一方は尾根。
即ち三方を水に囲まれた鉄壁の構え。

15: 武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s 2010/10/06(水) 23:04:39
城めぐりにはまったく興味なしの私が去年旅行ついでにひょんなことから、安土城に立ち寄った。
素晴らしいお城でした。眺めも抜群。
ただ気になったのは間近にたたずむ観音寺城です。
世の中には安土城に来て、観音寺城が気になる人とならない人の二種類の人間しかいません(うそw)。
まあ周知ですが安土城は防御というより物流その他を意識した城で観音寺城はそうではない?湖に近いのは水運のためだろうけど。
私は観音寺城についてまったく調べてねえや(笑)
ていうか暗くて面倒くさいから観音寺城は一生登らないだろうなw

18: 日本@名無史さん 2010/10/20(水) 00:20:25
安土城には実質「詰めの城」というべき存在の観音寺城がある
でも正直そもそもそれ以前に籠城しなければならなくなってしまった地点でもう終わってますね

343: 日本@名無史さん 2011/09/19(月) 00:05:48.79
安土城にあった大手道を上ったところ突き当たりの石垣が綺麗に撤去されたが、昭和時代にはあれを信長時代の遺構と看倣していたの?

344: 日本@名無史さん 2011/09/19(月) 11:24:48.58
>>343
安土城を代表する石垣と考えられていた。階段復元のため撤去されるまでは摠見寺の境内だった。摠見寺がそこの場所に移ったのは江戸時代末に火災にあってから。
摠見寺が移る以前からあったものかは分らない。この石垣を作るために、手近にあった大階段の石材を利用した、ということは考えられると思う。石垣を築く作業のかなりの部分は石を集めることだから。

346: 日本@名無史さん 2011/09/19(月) 21:54:07.27
>>343
本格的な発掘調査は平成のが初。
それ以前は表面的な調査と石垣の積みなおしだけ。
総見寺の敷地だった事もありみなすも何もないだろう。
当時の事は知らないが、まぁ、考えられるとしたら、後世の石垣は積み方が違っていたはずだから遺構だとは思っていなかったかもな。

347: 日本@名無史さん 2011/09/19(月) 22:10:51.86
>>343
いろんな本の紹介写真で安土城を代表する石垣として知られていた
日本初の石垣造りの城!織田信長の安土城の石垣!てな感じでな
現地で見て石材の小ささにビックリしたもんだ

349: 日本@名無史さん 2011/09/23(金) 15:06:50.86
>>347
そうそう

大手道だって狭くて雑草が伸びていて獣道を歩くようなワクワク感があったわ

348: 日本@名無史さん 2011/09/23(金) 07:21:06.04

380: 日本@名無史さん 2011/10/01(土) 10:02:34.93
天主倒壊説が本当だとしたら天主は2バージョン存在した可能性がなくね?

最初に倒壊したのが天守指図バージョンの奴で、本能寺の変で焼けたのが、ウインゲの木版画バージョンとか
 安土城、焼失は2代目? 炎上の4年前「倒壊」の古文書2007年09月15日11時40分

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200709150079.html
信長の研究家で、関係資料を収集している奈良県大和高田市の和田裕弘さん(45)が今春、加越能文庫の「松雲公採集遺編類纂(るいさん)」を撮影していて気付いた。
その中の「東大寺大仏殿尺寸方并牒状奥ニ私之日記在之」のくだりに、天正6(1578)年5月の項目があり、「アツチ之城天主タヲレ畢 人民死畢」(安土城の天主が倒れ、人々が死んだ)と書かれていた、同史料館蔵。

和田さんは「信長公記」「多聞院日記」などの往時の記録が、天正6年5月に京都などに大雨が降り、三河で地震があったと書いていることから、もし倒壊したのなら、原因は大雨や地震ではないかと推測する。

20年計画で続く「特別史跡安土城跡調査整備事業」で発掘に携わった、滋賀県文化財保護協会の木戸雅寿・調査整理課長は、文献と考古学の双方の見地から、「(倒壊は)あり得ない。記述は誤記と言わざるを得ない」と話す。


384: 日本@名無史さん 2011/10/01(土) 19:19:16.65
信長が天主に移渡した天正7年の5月11日を太田牛一は吉日と記しており、従来はそれを信長の誕生日と考えていたが、最近では同28日が有力とされており、倒壊説を発表した和田裕弘はその「一周忌」だとしているがどうだろう?

385: 日本@名無史さん 2011/10/01(土) 20:01:02.95
とりあえず、「忌」むべき日が何故「吉日」なのかが理解できないなあ

386: 日本@名無史さん 2011/10/01(土) 20:06:37.53
倒壊したのが(天正6年の)5月12日ということで、その前日の11日なら吉日ということなのだろうか?

387: 日本@名無史さん 2011/10/01(土) 20:46:35.10
倒壊して設計からやり直したならば、そんなに早く完成しないって。
安土城は、天主着工から落成まで、ほぼ2年と10カ月ばかり。
一つの建物ならば建造に必要な時間はそんなものだろうが。

388: 日本@名無史さん 2011/10/01(土) 21:22:55.77
安土城天主が公記の様な仕様ならば現在の様な工場でパーツを完成させておいて現地で組み立てると言う様なクレハブ工法や移築でない限り2年以上はかかりそうだな。

389: 日本@名無史さん 2011/10/01(土) 22:34:35.41
たしか、地震で倒壊した伏見城天守(指月)は驚異的な速さで再建(木幡山)されているハズ。

390: 日本@名無史さん 2011/10/01(土) 23:16:07.30
それは指月の部材を再利用したのでは?

391: 日本@名無史さん 2011/10/02(日) 01:04:09.43
安土と他の天守を比べるのは無理がある。
安土は内部が御殿相当以上の造り。
柱一本取っても漆を幾重にも塗った豪華な造り。
伝統工芸品が一つ作るのにひと月かかる様なもの。

392: 日本@名無史さん 2011/10/02(日) 07:21:41.23
天正7年の正月には内部の装飾を含めほぼ完成していたとみられるが、となると倒壊したとされる時点から7ヵ月ほどでほぼ再建されていたことになり、その豪華さを考えると速過ぎるのは否めない。
ただ、津田宗久が信長の案内で天主を見物したのがやはり11日であり、11日に何か意味があり、誕生月のその日に正式に移り住んだということではないかな。

413: 日本@名無史さん 2011/10/27(木) 17:36:03.31
やっぱこれが豪壮華麗で一番好きだわ

no title

420: 日本@名無史さん 2011/10/31(月) 17:00:06.16
豪壮華麗な安土城

no title

432: 日本@名無史さん 2011/11/14(月) 10:54:04.38
安土城って北半分くらいはまだ全然発掘作業されてないんでしたっけ?
湖から見た側にも気を遣っていただろうから、北側にもそれ相応の石垣や建築物があったんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか?

433: 日本@名無史さん 2011/11/14(月) 21:43:27.81
遺構があるのは周知の事実だが発掘調査の予定は無し

434: 日本@名無史さん 2011/11/19(土) 15:42:46.67
安土城の天守閣を含む城山の全城郭を復元して欲しい。
ちなみに、佐和山城や坂本城、大津城も復元してだな、琵琶湖と古城を滋賀県の観光資源とするべきでは?

後は、屋形船で琵琶湖~瀬田川・宇治川~鴨川~京の都へと至るクルージングを実施すれば観光客大喜び。

439: 日本@名無史さん 2011/11/23(水) 07:57:46.52
シャルルヴォワ「安土城下の図」

no title


内藤案断面図

no title


この2つはどこか共通するものがありはしまいか?

440: 日本@名無史さん 2011/11/23(水) 08:28:29.40
>>439
モンタヌス日本誌の平戸城には、七層の天守と、
ウインゲの木版画と同じ玉虫屋根で桁行4間の櫓門が描かれている。
天守の周囲の景観もシャルルヴォワ「安土城下の図」 に近い。
http://www.yushodo.co.jp/pinus/60/montanus/img/3-4.jpg


ウインゲの木版画

no title

441: 日本@名無史さん 2011/11/23(水) 08:44:56.87
>>440
おお、サンクス!

この木版画の天守と城門が真壁なのが、どうにも引っ掛かるな
内藤案や宮上案のような大壁ではなく、佐藤案のような真壁だったのか?

442: 日本@名無史さん 2011/11/23(水) 08:50:33.81
>>441
ウインゲの木版画
no title


この木版画の板貼箇所は佐藤案のような縦板貼とは別で、丸岡城や彦根城、宮上案の最終案にみられる雨避けの庇じゃないかと思う。

444: 日本@名無史さん 2011/11/23(水) 09:04:40.18
>>441
ルイス・フロイスの証言
「(安土城天主は)木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには【見えず】、むしろ頑丈で堅固な岩石(天主台)と石灰(白漆喰壁)で造られているかのようである」

もし兵頭案・西ヶ谷案・佐藤案のように真壁造りだとすると、一目で木材でできているように【見えた】だろう。
ここはやはり森俊弘氏が指摘しているように、少なくとも下層部の外壁は白漆喰の大壁仕上げであったと思われる。

450: 日本@名無史さん 2011/11/23(水) 17:31:45.17
大壁でも下部の板張り自体はあってもおかしくないよね

あと、今「日本史」を読み直してみたけど、フロイスは確かに

「(安土城天主は)木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには【見えず】、むしろ頑丈で堅固な岩石(天主台)と石灰(白漆喰壁)で造られているかのようである」

こうは言ってるけど、前後をちゃんと読んだら日本の軸組み建築について理解した上で「そうは見えない」って言ってるんだね

だから柱が見えないとも言ってないし、内部については階層によって様々な色の柱や壁らしいもの(訳文に主語が無いから不明)の事を書き残してる

この文章だけでは内外ともに真壁か大壁か自分は判断できないなあ

498: 日本@名無史さん 2012/01/23(月) 19:13:38.29
件のブログで信長廟が考察されてゐた。
http://castles.noblog.net/blog/f/11293578.html

やはり、信長廟の頂上石は「盆山」ではないのではないか?

499: 日本@名無史さん 2012/01/23(月) 21:54:52.90
信長廟は蛇石を割って作ったんだよ。
「安土城を築くため信長は石仏など多くの石を集めました。記録によると大きな石を上げるために数千人の人が必要であったといわれ、なかでも「蛇石」と呼ばれる銘石は7千人の人が昼夜を問わず引き上げたが、上がらず150人もの人が下敷きになり死んだそうです。今この石がどこにあるかわかっていません」

安土城築城と蛇石の話

500: 日本@名無史さん 2012/01/24(火) 07:01:48.92
現在の信長廟は切り込みハギだから、その築造年代は江戸時代以降に限定される。
本能寺の変後、秀吉が最初に作った供養塔が地震で崩れたり長年の風雨で磨耗したりして悲惨な状態になっていたため、100回忌などを切っ掛けにして江戸時代に整備しなおしたという説には賛同できる。
信長廟の最上石は名石と呼べるような石ではないことからして、梵山ではないだろう。
四角四面の豆腐みたいな廟では趣に欠けるゆえ、単に形式的な鎮め石として、天主中心にあった礎石を引き抜いて置いただけではないか?

501: 日本@名無史さん 2012/01/24(火) 22:07:08.85
では、蛇石を加工して廟を作ったと言う説も有りえるな。
あれだけ有名な巨石が消えて無くなるはずが無い。

503: 日本@名無史さん 2012/01/25(水) 09:02:37.37
蛇石を加工して作った説には説得力がある
二の丸前にあるテーブル状の大きな石も蛇石の残骸という可能性も高い

504: 日本@名無史さん 2012/01/25(水) 21:06:52.75
どこに説得力があるのか?
二の丸前の石が蛇石の一部で有る可能性が高いのか?

可能性は否定できないかもしれないが、何に基づいているのか示されていないのに説得力があるとか可能性が高いとかなんて、とても不思議な話だ

517: 日本@名無史さん 2012/01/28(土) 14:13:01.08
>>514
伝二の丸には、焼失以前には御殿があったと考えられる。黒金門から天主下まで行くと、右手の伝本丸にあったのは御幸御殿。ここは天皇行幸のための御殿だから普通の来客には使えない。
天主は信長自身の住居だから、特別な人しか上がれない。とすると、客を迎えるための御殿があったのは伝二の丸、現在信長廟がある場所ということになる。
ここに御殿が建っていたとするならば、蛇石が置かれていた可能性はない。焼失後に運び込まれたとしても、それまでどこにあったのか、ということになる。

519: 日本@名無史さん 2012/01/28(土) 19:59:14.01
>>517
御幸御殿がどこだったかはまだ特定されていない訳だが、本丸の礎石の上に立っていた御殿が天皇行幸の際に使われる予定だった事は良いとして、行幸専用と言うのはどうだろうか。
御殿の一部に熊本城の昭君の間の様な部屋が有ればいいわけで全部が専用である必要はないと思う。
或いは普段信長が家臣に謁見する間の上段に天皇を座らせても事足りるのでは?

一般的に天主が信長の住居と言う表現がされているけど、生活の場で有ったかは怪しいと思う。
天主が後の一般的な天守と同様に窓が小さな構造で有れば内部は光が届かない薄暗く、常に灯りが必要な部屋ばかりのはず。
天守は家臣などに見せるための装飾品であって、少人数の謁見や考え事をする等の時に使用されたと思うが昼のプライベートの時間は奥で家族と接していたはず。
で、奥がどこになるかと言えば、考えられるのは伝二の丸か伝三の丸しか主格部には無く、天主と隣り合わせの二の丸が有力なのではないかと思うがどうだろうか。

521: 日本@名無史さん 2012/01/29(日) 00:10:41.64
>>519
岐阜城において、信長はあの高い山上にある建物を普段の生活に使っていた。このことはフロイスの記述などでも確認できる。信長に面会を希望した貴族が、山頂まで登って会いに行くか、降りてくるまで麓で待つか聞かれて待つ方を選んだ事実もある。
ちなみにフロイスによれば山頂には、100名以上の少年たちが詰めており、信長の息子たちや女性の家族もそこにいた。麓には別に四階建ての建物があり、ここを使うこともあったようだ。
安土城天主は、岐阜城の山上の建物(天主とよんでよいのか)に相当する建物で、その役割を引き継いだと思われるから、当然使っていたのではないか。

509: 日本@名無史さん 2012/01/26(木) 20:08:17.15
蛇石は引き上げ途中にルートから転落し、再度ルートに乗せることが不可能だったため砕かれて普通の石として石垣建設に使われたんだと思う。
斜面を引き上げるのも困難な巨石が谷底へでも落ちれば、現代の高性能クレーンを使わない限り持ち上がらない。

510: 日本@名無史さん 2012/01/26(木) 22:06:49.32
秀吉・一益・長秀が3人がかりで曳き上げ作業を指揮しながら、蛇石が摺り下がって150人以上が圧死した地点として考えられるのは、伝徳川家康邸を過ぎ、大手道の突き当りを左に折れた伝武井夕庵邸前の大手道七曲だろう。あそこは軽装でもキツい。

513: 日本@名無史さん 2012/01/27(金) 13:05:32.68
>>510
安土城建設のため山上に物を移動させるルートは、旧摠見寺の跡地の北側の谷から上がる道、七曲道だったと思う。
傾斜は頂上に近づくに従って急になるが、大手道よりは緩やか。この部分は麓まで当時内湖が広がっており、すぐ下まで船がついた。
大手道も麓まで内湖が続いていたことは同様だが、百々橋の部分で狭くなっているため大きな船は入れなかった。
この七曲道が、石垣用の石材を山に上げるために開かれ、その後建物の用材を上げるためにも利用されたと思われる。

515: 日本@名無史さん 2012/01/28(土) 03:15:31.96
>>513
搦め手道ルートも有るんじゃないか?
普請をするとしたら主格部から順に行っていくと思う。
途中に平坦地が有ればそこに石材等を貯めておくことも出来るので一気に上まであげる必要もなく引き上げるチームを幾つかに分けることができる。
それから一番傾斜が緩やかなのは搦め手側だよね。
八角平との接続部までは傾斜が比較的緩やかだし広さもある。
各曲輪が造成された後は各曲輪が資材置き場等にも活用できる。
むしろ種各部や八角平を担ったのは搦め手と言う事も・・・

516: 日本@名無史さん 2012/01/28(土) 09:17:58.06
安土城の主要4ルート(大手・七曲・搦め手・百々橋)のうち、瞬時に150名以上の圧死者を出すような巨石を引き上げるのに適しているのは、

①コロが使えるような緩やかな傾斜で、②直線に近く、③交代要員が擦れ違える道幅のある大手道だけ

安土城独特の一直線の大手道は天皇行幸のために造られたと説明されるが、実は蛇石を引き上げるための道だったと思われ

信長公記の記述から途中で動かなくなったことが窺えるが、「信長公御巧みを以って輙(たちまち)御天主へ上させられ」とあるのは、現在の大手道つきあたり~本丸までの郭を一旦切り崩して直線の坂道を作り、一気に引き上げた後に塞いだ、ということではないか

大手道つきあたり~伝本丸までの、斜め右に伸びる延長線に注目されたい
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1508490/img_1508490_56996089_62?1247324314

518: 日本@名無史さん 2012/01/28(土) 19:42:24.62
>>516
>安土城独特の一直線の大手道は天皇行幸のために造られたと説明されるが、実は蛇石を引き上げるための道だったと思われ

そんなわけない。ルートとしては十分考えられるが蛇石をあげるために作ったと言うのは言いすぎだろう。
蛇石をそこから引き揚げたかはわからないが可能性は十分考えられるとおもう。
しかし、その突き当たりの本丸南側石垣下まではそのルートだとしても、そこから上は本丸を切り崩す等することは無く、単純にそこから東に向かって伝堀邸跡の前まで進み本丸南虎口へと進むルートが南側からのルートとしては一番簡単な道筋。


>「信長公御巧みを以って輙(たちまち)御天主へ上させられ」

この一節はそのまま読み取るのは間違いと思う。
そもそも「信長公記」は太田牛一の日記の中の信長に関したエピソードを拾い出して再編集し、大名とか多くの人に見てもらうために配布する目的で作られたもの。
そのため信長が偉大だった事を誇張している感もある。
実際に信長が引き上げを視察した事を伺わせるが、秀吉らが信長の訪問に合わせて引上げて見せたと言う、言わば「信長にいいところを見せた」と言うだけの事を信長の威光で成し遂げられたかの様に書いているだけだと俺は思っている。


引用元: ・【安土城】天下人の黄金大天守【大坂城】


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