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1: 日本@名無史さん 2010/10/08(金) 15:50:21






雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、日本の第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。考古学的に実在がほぼ確定している最初の天皇とされる。
雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の第五皇子。母は誉田天皇(応神天皇)の孫の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。木梨軽皇子・穴穂天皇(安康天皇)の同母弟。

「記紀」によれば反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せて帝権を飛躍的に拡大させ、強力な専制君主として君臨したとされる。養蚕の推奨、新羅への出兵、呉への遣使などの政策を積極的に実施した。

兄である穴穂天皇(安康天皇)の崩御後、帝位継承の邪魔となる兄弟や従兄たちを粛清した後即位した。このとき誅殺した葛城円大臣の娘の葛城韓媛を妃とし白髪皇子(清寧天皇)を得た。また吉備上道臣田狭から妻の吉備稚媛を奪い磐城皇子・星川稚宮皇子を得た。皇后は大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の皇女である草香幡梭姫皇女で血縁上は伯母にあたり、間に子はない。

『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭にその名が掲げられていることから、雄略天皇の時代が歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたことが窺える。
それまでの日本列島は各地の有力豪族による連合体であったが、雄略天皇の登場により大王による専制支配が確立され、大王を中心とする中央集権体制が始まったとする見方もある。




2: 日本@名無史さん 2010/10/08(金) 19:14:11
中国の南朝は頼りにならなかった。

3: 日本@名無史さん 2010/10/09(土) 05:26:03
かといって北朝にはパイプがなかった。

4: 日本@名無史さん 2010/10/09(土) 08:12:04
南朝の皇族虐殺の風潮に感化された

5: 日本@名無史さん 2010/10/09(土) 08:23:26
>>4
> 南朝の皇族虐殺の風潮に感化された

それは違うと思う。邪魔なやつは消そうとするタイプだろ。

7: 日本@名無史さん 2010/10/10(日) 06:58:19
南朝ではなく北朝と接近したほうが良かったような気がするが。

8: 日本@名無しさん 2010/10/10(日) 09:04:14
交通上ムリがある

9: 日本@名無史さん 2010/10/10(日) 09:11:28
雄略ほどの人物なら

北朝パワー >>>>>> 南朝パワー

であることは把握していたと思うのだが、なんとかならなかったのか?

10: 日本@名無史さん 2010/10/10(日) 10:21:53
意味が分からない。
雄略はおのれの権力に執着するあまり、人材を枯渇させたマヌケだから君主としては三流だと思う

当時の北魏は漢人の文人を虐殺しまくった太武帝の孫の時代でここから三代続けて幼帝が即位してるけどパワーあるといえるかな?

14: 日本@名無史さん 2010/10/10(日) 13:08:10
>>10

> 当時の北魏は漢人の文人を虐殺しまくった太武帝の孫の時代でここから三代続けて幼帝が即位してるけどパワーあるといえるかな?


それでも南朝よりは強かったのではないだろうか?

15: 日本@名無史さん 2010/10/10(日) 17:16:42
整理しよう
当時の同盟国は百済で敵対する高句麗は北魏に朝貢している
北魏としては宋と高句麗に挟撃されるのを嫌うので、百済王の長ったらしい上表文を貰っても高句麗の南下政策は黙認するわけです
北魏も国内に不安要素が皆無ではないので南朝を併合するほどパワーもない
一方宋は皇族同士の殺し合いが盛んで、かつ豪族の貴族化が激しく軍事力が低いというよりは、戦略的指導体制に不備があるため、北伐とかは一流の武将にも反対される始末で強行しても失敗します
要は南朝は軍事的には当てにならないが北朝は戦略的に味方にならない
詰んだ状態なわけです

16: 日本@名無史さん 2010/10/10(日) 20:24:35
>>15
> 要は南朝は軍事的には当てにならないが北朝は戦略的に味方にならない

そうなんだが、南朝と組むより北朝と組むほうがマシだったのではないだろうか?

17: 日本@名無史さん 2010/10/12(火) 10:20:38
北朝と組む事は朝貢国の序列で高句麗の下位になる事を意味する。
当然と高句麗へは自由に遠征できないし戦略的に袋小路、雄略の拡張路線とは合わない。
北朝から高句麗に有利な条件での講和や紛争地帯を高句麗に王として封じる事が想定され、倭は苦しい対応を迫られる。
だったら南朝に賭けてみようじゃないかって事でしょ

18: 日本@名無史さん 2010/10/12(火) 11:20:23
雄略としては百済に良いようにされてる現状は納得いかないよな
百済の力の源が帯方の漢人であるのは間違いないけど
それに対抗する手段が整わないうちに時間だけが過ぎていった気配がある
倭国は漢人にとってまだまだ魅力的な国ではなかったということが60年後の仏教伝来に繋がったんじゃないかな

20: 日本@名無史さん 2010/10/12(火) 16:17:19
雄略が狩りをしていると、アブが襲ってきてトンボが助けた話って何を暗示しているのだろうか。

23: 日本@名無史さん 2010/10/13(水) 09:02:19
指定されてる古墳がちっこ過ぎて泣ける

24: 日本@名無史さん 2010/10/13(水) 10:59:06
仁徳天皇稜は実は雄略の墓という説もあるぞ。

故・黒岩重吾さんが唱えていた。

25: 日本@名無史さん 2010/10/13(水) 12:41:36
真陵は岡ミサンザイ古墳だろな。
大山古墳こそ倭王武=ワカタケル大王=雄略にふさわしいとか、仲津山以降の290m超級の五大墓が「倭の五王墓」で、最後の土師ニサンザイが武=雄略陵だとか、作家や学者は「雄略陵は河内丹比にあり」の伝承を無視して好き勝手なことを言っているが、たぶんハズレだろう。

30: 日本@名無史さん 2010/11/15(月) 02:24:37
>>25
岡ミサンザイだと丹比という表現は使わないんじゃなかろうか

32: 日本@名無史さん 2010/11/15(月) 13:11:29
あの辺りは丹比郡じゃなくて、志紀郡だな。

38: 日本@名無史さん 2010/12/12(日) 10:28:27
>>32
古代の郡境はきちっと確定してないんじゃない?
葛井寺の檀家には丹比郡の人も多かったらしいし、「三代実録」にも河内国丹比郡の人として葛井氏の人物が複数出てくる。
近世では、北域の太田や小山・津堂あたりは「丹北郡」だったようだし、だいだい「岡ミサンザイ」の「岡村」じたいが「丹南郡」に配されてる。
だから、岡ミサンザイが在丹比郡ではない、とは言い切れないよ。

42: 日本@名無史さん 2011/01/31(月) 13:54:05
大仙古墳は仁徳稜ではなく雄略稜って説があったらしいが。

49: 日本@名無史さん 2011/04/09(土) 01:53:19.04
>大仙古墳は仁徳稜ではなく雄略稜って説があったらしいが。

どうだろうな
雄略自身は権力を集めてたみたいだが
大王家内部の後継者争い、連合してる豪族との抗争で権力基盤はかなり脆弱化
死後一気に中央権力は弱体化
後継者とされてる皇統も存在感が希薄(武烈の話などどう見ても作文)
再構築されたのは継体以降

死後あれほどの古墳を造る余力はあったかな?

50: 日本@名無史さん 2011/04/09(土) 07:42:47.46
>>49
古墳は死後埋葬されるものだけど、死後につくるものとは限らない

52: 日本@名無史さん 2011/04/12(火) 14:08:36.95
>>50

始皇帝も生前から墳墓つくっていたからな。
雄略も生前から作っていたと思う。

53: 日本@名無史さん 2011/04/19(火) 21:22:26.74
作ったから弱体化したのかな

54: 日本@名無史さん 2011/04/29(金) 13:59:23.89
>>53
それもあるだろうが、やはり後継者の能力不足だろ。

55: 日本@名無史さん 2011/05/05(木) 16:11:46.26
お飾りでは済まない程
ヤマトはまだまだ脆弱だったのかな

56: 日本@名無史さん 2011/05/05(木) 19:57:42.29
>>55
当時は幼帝とか傀儡王は無理でしょ。そこそこの能力がなければ倭王は務まらない時代。

58: 日本@名無史さん 2011/05/06(金) 15:35:04.99
雄略の頃には後世まで続いてる豪族がでてきてるけど、そのあたりの協力があっても難しかったのだろうか
畿内での豪族間の綱引きか
畿内は問題なく吉備や東海、九州など他の地方との力関係なのか

60: 日本@名無史さん 2011/05/06(金) 18:17:37.57
>>58
当時は国家を運営する官僚制度もしょぼかったろうし、大王にそこそこの個人的能力がないと国家の運営がキツカッタと推測。

61: 日本@名無史さん 2011/05/06(金) 19:36:17.74
雄略天皇の死後、吉備氏と星川皇子が反乱を起こしたがあっさり鎮圧されている。このとき、最も功があったのが大伴室屋。
こうした事からして、清寧天皇は無能でも指導力が無いわけでもない。豪族達の忠誠心もゆるぎないと思うのだが。

もちろん、雄略と比較して指導力が落ちるのは当然としても、雄略時代にすでに吉備氏の勢力はそがれていたし、地方に対する優位は進んでいた。畿内政権は磐石になっていたのではないか?清寧以降、皇位継承はさらに不安定になったがそれに乗じた反乱は無かったのだから。
ただ、大伴や物部などの発言力が増して大王(天皇)を中心とした集団指導体制に近い形になったかもしれない。
スターリンの死後、トロイカ体制だったり田中角栄が倒れて以降、田中派(竹下派)が「金・竹・小」の集団指導型になったように、強大な権力者の後は集団指導体制になりやすい。

62: 日本@名無史さん 2011/05/06(金) 21:23:57.93
>>61
中央の豪族達は忠誠心で雄略死後の体制を支えたというよりも、そのほうが自分たちの利益になるから支えたということもあるのではないだろうか。

63: 日本@名無史さん 2011/05/07(土) 01:26:11.09
>>62
確かに「忠誠心」は言い過ぎですね。清寧以降の大王をかつぐ理由を限定した表現になってしまいますものね。

「豪族達の支持が揺らぐことは無かった」程度の表現の方が適切でしょうね。

ご指摘ありがとうございました。

64: 日本@名無史さん 2011/05/09(月) 12:30:58.75
清寧、顕宗、仁賢、武烈は架空の大王だろうな。
実際にはワカタケル=雄略が死んだあと、実質的に空位状態になってたんだろう。

65: 日本@名無史さん 2011/05/09(月) 12:59:00.39
>>64
> 実際にはワカタケル=雄略が死んだあと、実質的に空位状態になってたんだろう。

空位ってわけにはいかんから、誰かを大王に担いでいたとは思うんだが。

70: 日本@名無史さん 2011/05/28(土) 18:14:34.07
なんかこんな風な問答があったような(うろ覚え)。

あの女は一晩で孕んでしまったが本当に処女だったのか?

陛下、孕みやすい女は男の褌に触れただけでも孕むと申します。
で、陛下はその晩に何回おやりになったので?

7回だ。

それでは無理もございません。

これが「正史」だからね。

72: 日本@名無史さん 2011/05/28(土) 23:50:35.12
精力絶倫な割りに子供は少ないのな

73: 日本@名無史さん 2011/05/29(日) 18:40:24.67
雄略は明治天皇と同じく、ザ・グレートを冠するに相応しい天皇さんだと思う。

74: 日本@名無史さん 2011/05/29(日) 19:23:52.47
日本史上、重要な天皇であることはまちがいない。
日本と中国の史書、考古学資料がぴたりと一致する最初の天皇だからな。

78: 日本@名無史さん 2011/06/16(木) 18:32:17.13
ええい脇本遺跡の発掘はまだか

81: 日本@名無史さん 2011/06/17(金) 01:33:59.92
色々有ったとしても雄略の時代は日本史の画期だな
・金石文などから漢字、暦が支配階級には使われたことが分かる
・後世の文献だが万葉集の巻頭の一首、日本霊異記の最初の説話など

82: 日本@名無史さん 2011/06/17(金) 05:15:47.97
ヤマトタケルの話は、雄略の事績を遡らせて英雄譚に仕立てたものという説もある

83: 日本@名無史さん 2011/06/17(金) 07:21:00.63
>>82
ヤマトタケルは前半と後半ではキャラクターが違いすぎる。

85: 日本@名無史さん 2011/06/22(水) 16:45:06.72
>>82
ありえないと思う。ヤマトタケルは皇位を継げずに死んでしまっているんだし、雄略は日本全国を駆け回って戦をしていたわけじゃない。せいぜい吉備や伊勢の反乱を潰したくらいだ。
ヤマトタケルは、当人そのものが実在したか、あるいは優秀な武人であったのもかかわらず、皇位を継げずに早死にして惜しまれた人物がヤマト王権の全国制覇の時代(4世紀頃)に実在しモデルとなったのだろう。

86: 日本@名無史さん 2011/06/22(水) 20:14:46.47
地方毎に派遣された皇子の武勇伝が合成された存在
その中には現在の血筋に繋がる方もいた

87: 日本@名無史さん 2011/07/12(火) 20:30:33.24
雄略って武だとしたら、なんたら将軍になった時に中国からなんか貰ったの?
印鑑や鏡なら墓掘ればでてくるの?
貰った奴を家来に配ったりとかして、稲荷山古墳みたいなとこからその一部とか発掘されたりしないの?

88: 日本@名無史さん 2011/07/13(水) 06:12:34.65
印鑑とか衣服・ベルト一式かな。

89: 日本@名無史さん 2011/07/13(水) 08:55:23.90
盗掘されてんじゃね

102: 日本@名無史さん 2011/09/24(土) 14:54:43.24
雄略の雄は英雄の雄として
略は策略の略なの?

105: 日本@名無史さん 2011/10/01(土) 00:16:22.76
市辺押歯王を狩りに誘って殺したから、謀略大王のイメージがある模様。
王族を殺しすぎて結局全滅しちゃうんだよね。

108: 日本@名無史さん 2011/10/01(土) 17:37:07.22
当時の王位継承には厳格な決まりがあったようで、異母兄弟がいくらいてもダメだったみたい。
だからこそ市辺を殺したことが命とりになった。

112: 日本@名無史さん 2011/10/04(火) 14:23:37.24
平群氏も葛城氏も雄略天皇に滅ぼされた。当時の王権が有力臣下によって代執行されていた事実の裏付けである。
蘇我氏はこの方式を継承したに過ぎない。結局昔から日本は「象徴天皇制」の国で、それを崩そうとするとおかしくなる。

114: 日本@名無史さん 2011/10/04(火) 20:58:38.90
本当に好き勝手できたのは、白河と鳥羽くらいじゃん?
後期院政は武家に実権を握られたし。結局王権を強めるには王族の粛清が近道だが、同時に王族が弱くなるわけで。

118: 日本@名無史さん 2011/10/06(木) 21:26:21.92
絶対的権力者だった時期の方が少ないんだから

引用元: ・雄略天皇