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1: 日本@名無史さん 2010/11/09(火) 12:29:44
司馬遼が否定しなかった唯一の暗殺。

維新までにものすごい数の藩士が犠牲となり、明治新政府には高官を一人も送り込めなかったけど、水戸の頑張りがなかったら歴史は違うものになっていたのもまた真。

天狗党、諸生党(除・奸党)とあわせて合掌。










3: 日本@名無史さん 2010/11/09(火) 15:05:55
では逆に、維新まで存命していたら高官になったのは誰なのかと。

4: 日本@名無史さん 2010/11/09(火) 21:40:29
藤田小四郎
住谷寅之介
鵜飼 幸吉

原市之進
かなあ

5: 日本@名無史さん 2010/11/09(火) 22:36:22
藤田東湖

19: 御三家筆頭・舟木一夫 2010/11/13(土) 08:47:41
水戸では今でも、天狗、諸生の根深い対立があるってホンマでっか?

20: 日本@名無史さん 2010/11/14(日) 16:20:05
>>19
体験したことがない。

37: 敗因が 2010/12/23(木) 23:39:13
刀の柄袋って彦根の詭弁?
桜田門外の変

午前8時、登城を告げる太皷が江戸城中から響き、それを合図に諸侯が行列をなし桜田門をくぐって行った。尾張藩の行列が見物客らの目の前を過ぎた午前9時頃、彦根藩邸上屋敷の門が開き、直弼の行列は門を出た。彦根藩邸から桜田門まで三、四町(327から436メートル)、彦根藩の行列は総勢60人ばかりだった。雪で視界は悪く、彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていたので、とっさの迎撃に出難く、それは襲撃側に有利な状況だった。

護衛の任にある彦根藩士たちは、雪の水分が柄を湿らせるのを避けるため、両刀に柄袋をかけており、これと鞘袋が邪魔してとっさに抜刀できなかった。このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んだりして、指や耳を切り落とされるなどした。


40: 日本@名無史さん 2010/12/25(土) 14:55:57
>>37
初動が遅れる原因になったのは間違いないんじゃね?
その後、江戸市中の行列で柄袋を使う家は無くなったってのも、それが本当だったからだろうし。
普通に考えて、切りかかってくる相手の目の前で紐を解いて、袋を開いてなんてしてたら出遅れて当然。

長州征伐でボロボロにされたせいで弱い印象の井伊彦根だけど、近代銃撃戦でなく、戦国以来の白兵戦の訓練はしっかり積んでいたことが、その長州征伐の時にきちんと甲州兵学を実施していたことから伺える。

39: 日本@名無史さん 2010/12/25(土) 14:28:25
実際は激しく防戦している

41: 日本@名無史さん 2010/12/26(日) 09:45:39
>>41
柄袋以前に、戦わず藩邸に逃げ帰った者、多数です。
そして恨みは、天狗党を素っ裸で冬のニシン倉に押し込めて病死させ、あるいは斬首するという陰湿なもの。

そして大老の家でありながら、最期は徳川追討。

42: 日本@名無史さん 2010/12/27(月) 12:11:22
閉じ込めて斬首を命じたのは老中、田沼だろう。
斬首の担当に彦根藩士が進んで引き受けたのは事実らしいが。

45: 日本@名無史さん 2010/12/28(火) 19:53:06
桜田十八士は、果たして自分達が靖国神社で英霊として祀られることになることを想像できていただろうか?
靖国の設立の思想的な部分は、藤田東湖の正気歌に由来するとのことだから、自覚はあったかも知れない。
斬首という処刑方法は武士にとっては屈辱的だったはずだが、英霊となるという部分でプライドを保てていたかもしれない。

51: 日本@名無史さん 2011/01/09(日) 00:11:20
井伊直弼は暗殺死ではない。
病死。

彦根藩の幕府への死亡届では。

変の直後

当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭である井伊家の御家断絶と、それにより誘発される水戸藩への敵討ちを防ぎ、また、暗殺された直弼自身によってすでに重い処分を受けていた水戸藩へさらに制裁(御家断絶など)を加えることへの水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐための、老中・安藤信正ら残された幕府首脳による破格の配慮であった。
井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に、命日が「三月二十八日」と刻まれているのはこのためである。

これによって直弼の子・愛麿(井伊直憲)による跡目相続が認められ、井伊家は取り潰しを免れた。直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外にて負傷した旨の届けが幕府へ提出され(公辺内分の手続き)、将軍家(家茂)からは直弼への見舞品として大量の薬用・御種人蔘などが藩邸へ届けられている。しかし、襲撃後の現場には後続の大名駕籠が続々と通りかかり、鮮血にまみれた雪は多くの人々に目撃されており、大老暗殺はただちに江戸市中へ知れ渡った。


52: 日本@名無史さん 2011/01/09(日) 01:50:46
直弼「病死」後の彦根藩減封の理由ってなんだったの?
相続関係は問題ないことになってるし、討たれたのもなかった事になってるんだよね?

56: 日本@名無史さん 2011/01/13(木) 08:27:44
>>53
末期養子だからってことではなく、直弼の失政の任を問われてってことだったはず

57: 日本@名無史さん 2011/01/15(土) 01:48:30
減封処分を受けたのは、大老職についた井伊直弼が登城途中で暗殺され、武辺一筋の井伊家にしては不名誉の為と咎められた為

61: 日本@名無史さん 2011/01/16(日) 11:09:40
>>57
「暗殺されなかった」ってことになってるんでないの?

63: 日本@名無史さん 2011/01/17(月) 09:44:01
>>61
表向きの理由はなんだったんだろうね

91: 日本@名無史さん 2011/04/24(日) 12:30:04.62
桜田門外や226事件とか東京が雪の朝ってへんな事件が起こるね

93: 日本@名無史さん 2011/04/28(木) 16:51:19.52
>>91
王政復古のクーデターの時も京は雪だったらしい

92: 日本@名無史さん 2011/04/27(水) 00:07:27.20
たまたま雪になる、水戸の不運かラッキーかわからんが、明らかに損してる

94: 日本@名無史さん 2011/05/20(金) 20:51:56.56
あと忠臣蔵の討ち入りもいわずと雪

水戸礼賛の系譜

105: 日本@名無史さん 2011/06/22(水) 14:02:13.85
晴天で刀が抜けても銃弾で井伊が死んだから意味無し

108: 日本@名無史さん 2011/06/24(金) 02:06:20.79
>>105
かごは動いてるのに命中
よっぽどスナイパーだなw

109: 日本@名無史さん 2011/06/24(金) 07:51:22.44
>>108
どうも真面目に分かってないようだから説明しとくけど、水戸浪士が切り込み始めてすぐに、駕篭に向かって拳銃を発射。
井伊直弼は駕篭の外に出られないような重症を追って、逃げられずそのまま首を取られたとされている。

普通に考えて、もう歩けないような重症を負ってたんなら、斬り込んできた来た連中を撃退できても、そのまま失血かなにかで死ぬよね。

110: 日本@名無史さん 2011/06/24(金) 10:01:48.72
>>108
駕籠はとまってた。

拳銃が世の中にあるのに、なんで拳銃で警備しない。

111: 日本@名無史さん 2011/06/24(金) 13:22:51.49
>>110
征長戦の時も、「鉄砲一発もせず逃げ迷い候由。甚だ見苦しき敗北ともっぱら評判これあり」
見苦しい赤備え

112: 日本@名無史さん 2011/06/24(金) 21:51:29.79
>>111
いや、一応、砲撃してから切り込んでるよ?
予備砲撃が露骨すぎて、「あー、明日斬り込んでくるな」って長兵に完璧に読まれてたけど。

あと、半渡河の状態で、前方と斜め後方(前日に隠密越境、回りこまれていた)からの十字砲火なんて食らったら、帝国陸軍だろうがフィンランド兵だろうが士気が崩壊して当然だと思う。

113: 日本@名無史さん 2011/06/24(金) 23:11:56.92
あらかじめ敵の側背に兵の一部を回し、敵の半渡を撃つなんてのは常識
簡単な手でやられて「井伊の腰抜け」と笑われる

115: 日本@名無史さん 2011/06/27(月) 05:33:02.18
>>113
洋式銃で十字砲火食らったのは、日本史上初だと思うけど。
まだ、洋式歩兵の威力をだれも本当に体験してなかったわけだし、衝撃は大きかったと思うよ。

116: 日本@名無史さん 2011/06/29(水) 00:09:18.94
>洋式銃で十字砲火食らったのは

いやまあそうなんだろうけど、その表現はおおげさだ。
やはり彦根の護りに難あり。

118: 日本@名無史さん 2011/07/06(水) 11:57:54.92
お供で生き残った人たちみんな処刑されたんでしょ。ちょっとひどいよね。

119: 日本@名無史さん 2011/07/06(水) 20:33:30.27
>>118
手傷を負わず生き残った人は、だよ。
戦って傷ついた人は除外。
あの乱戦で傷も負ってない=主を放り出して戦わずに逃げまわってた、だからサムライ的に処刑されるのは当然だと思う。

122: 日本@名無史さん 2011/07/07(木) 00:37:31.48
>>118
無傷の者は斬首
軽傷者は切腹、重傷者は減知の上、閉門
死亡者は跡目相続OK
井伊側約60人の内、死亡8人、負傷13人

137: 日本@名無史さん 2011/07/19(火) 23:10:44.04
>>122
無傷はともかく怪我人でさえも処罰されてたとは厳しいな

120: 日本@名無史さん 2011/07/06(水) 23:39:32.82
主人ほったらかしにして逃げ帰るって、ちょっとありえない醜態だよな。。

79: 日本@名無史さん 2011/02/12(土) 13:47:43
有村に切り付けた小河原は立派だったな!
浪士側もあっぱれな忠義者だと思ったのかな?

125: 日本@名無史さん 2011/07/09(土) 15:31:51.37
有馬に斬り付けた小河原が集団でズタズタに膾斬りにされるって酷いな。
水戸浪士達も武士の端くれだろうに…

128: 日本@名無史さん 2011/07/10(日) 02:30:08.20
>>125
主君の仇を討とうとした
忠義は見事だったのにな…

130: 日本@名無史さん 2011/07/11(月) 02:22:14.69
彦根藩邸に急を知らせ&援軍依頼に行った奴は当然いると思うが、そいつも斬首されたのか?

131: 日本@名無史さん 2011/07/11(月) 08:02:59.79 BE:815695643-2BP(0)
>>130
いや、もしそんなのがいたとしても、それは「逃げた」以外の何物でもないだろ。
怪我もしてない供回り全員が主君の盾になっていれば、とりあえず主君を討たれるようなことはなかっただろうし。
所詮、相手は小勢だ。援軍が必要な状況ではない。

132: 日本@名無史さん 2011/07/14(木) 00:29:49.01
>>130
勿論、斬首です
主君が襲われ仲間が戦っているのに
「そうだお屋敷にお知らせしなければ」と現場を逃げて屋敷に逃げ帰った士分の者が7人いましたとさ

133: 日本@名無史さん 2011/07/14(木) 09:42:16.54
仮に井伊が銃弾で倒れても浪士達を撃退していれば彦根の恥晒しは避けられた

138: 日本@名無史さん 2011/07/20(水) 05:40:20.91
映画でみたら、後ろに荷物運びの人たちがかなりいましたが、あの人達はどうなったのでしょうか。

145: 日本@名無史さん 2011/07/28(木) 20:34:44.83
士分じゃないのは斬首になってないでしょ。

146: 日本@名無史さん 2011/07/29(金) 06:07:44.77
士分じゃないのって、士農工商のどれに属するの?

147: 日本@名無史さん 2011/07/30(土) 11:19:25.67
中間、小者は士分

148: 日本@名無史さん 2011/07/30(土) 18:40:03.34
大雑把に言うと士分だけど、武家奉公人は武士じゃないから戦う義務はないよね

149: 日本@名無史さん 2011/07/31(日) 09:09:04.74
>武家奉公人は武士じゃないから戦う義務はない

逃げ帰っても命は無事だったの?

150: 日本@名無史さん 2011/08/13(土) 18:05:36.50
無事なわけないが記録があるのか分からん。

152: 日本@名無史さん 2011/08/29(月) 09:53:16.63
こんなのあるけど、この中間はどうなったのかね。

桜田門外の変で「井伊大老警護の武士逃げた」奉公人の証言発見
http://read2ch.com/r/wildplus/1278785171/

幕末の大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」で、居合わせた中間(ちゅうげん)(奉公人)の証言とされる記録が、広島県立歴史博物館(福山市)で見つかった。

故郷の安芸に帰る途中に役人に語ったもので、襲撃時の慌てた状況が読み取れる。

記述があったのは、福山藩の儒学者・菅茶山(かんちゃざん)(1748~1827)の弟子、門田朴斎の五男が、「変」に関する伝聞や風説などを集めた「骨 董(こっとう)録」(縦22センチ、横15・2センチ、100ページ)。茶山の子孫が館へ寄贈した資料約1万点の中にあった。

中間は事件の朝、登城する約60人の行列中、駕籠(かご)の後方で馬を引いていた。

<殿様御駕籠へ誰に候哉、刀抜連切て掛り候者数人有之、其勢之烈しく怖しき事言んかたなし>(殿様の駕籠に何者か分からないが、数人が刀を抜いて切りかかった。その勢いの激しさと言ったら、恐ろしくて言葉もない)

〈其内に御駕籠の内か外か不存候へ共、大なる声にて一声叫び候声ハ耳本へ響て聞へ候、御供方ハ前後へ颯と逃散り、抜合候士も無之様に者相見候へ〉(そのう ち駕籠の内か外か分からないが、大きな声が一声聞こえると、警護の武士は前後に逃げ散り、応戦する者はいないようだった)

中間は恐ろしくなって馬を引いて井伊邸に戻った。

10月には映画「桜田門外ノ変」が公開予定。時代考証を担当した西脇康・早大講師(日本近世史)は「井伊の家臣は口を閉ざした部分が多く、これだけの証言は残っていない。突然襲われて慌てふためいた行列の様子が分かる」と話す。

◇桜田門外の変=1860年3月3日朝、江戸城桜田門外で、大老で彦根藩主の井伊直弼を水戸浪士らが殺害した。尊王攘夷(じょうい)派への弾圧「安政の大 獄」を実行した井伊への反感などが背景にあったとされる。警護した彦根藩士の一部は討ち死にし、生き残った者も切腹、斬首(ざんしゅ)などとなった。 
(2010年7月11日10時27分 読売新聞)


引用元: ・【水戸】桜田門外ノ変【薩摩】