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2: 日本@名無史さん 2011/10/10(月) 15:58:58.38
清盛の父さんって結局誰なんですか??

4: 日本@名無史さん 2011/10/10(月) 16:14:54.51
白河落胤説には与しない。院にまいないを贈る見返りに落胤説を吹聴することを黙認されていたのだろう。
事実平家の財力が無ければ、院の政治も続かないからだ。
当時の河内源氏の力は弱い。

7: 日本@名無史さん 2011/10/12(水) 02:13:24.54
>>4
にほぼ同意見。

父は忠盛でいいと思うよ。

14: 日本@名無史さん 2011/10/25(火) 20:54:53.53
白河法皇ご落胤説は、同時代史料にはない。

201: 日本@名無史さん 2012/01/01(日) 12:37:37.29
>>14
っていうか、記録を突き合わせると、白河が妾を清盛の親父にやって、その7か月後だかに生まれたのが清盛ってことになるんでそ?

205: 日本@名無史さん 2012/01/03(火) 17:14:48.38
>>201
白河が妾を忠盛にやったという一次史料がないよ
一次史料で確認できるのは清盛2歳の時に忠盛の先妻が死んだということだけ
先妻が清盛の母であるという可能性はある
(清盛は忠盛後妻宗子の子ではない)

25: 日本@名無史さん 2011/11/11(金) 19:30:02.05
五味文彦の「平清盛」と元木泰雄の「平清盛の闘い」の二冊を読んだ。
両著を比較すると色々違う部分があるけど、共通してるのは、清盛は父祖からの政治的な遺産を引き継ぎ、気配り上手で時流に乗って権力を握ったのであって、決して積極的に権力を取りにいくタイプの人間ではなかったという事。

26: 日本@名無史さん 2011/11/11(金) 22:52:11.44
>>25
保元平治の乱で有力者がバタバタ倒れ(頼長、信西、信頼、経宗、惟方)
生き残った有力者が平治の乱の直後に自然死(美福門院、忠通、公教)
というラッキーな部分もあったしね。
ただ二条vs後白河とか複雑な政争を渡り歩いたり、やっかいな寺社勢力とも渡り合ったりと清盛もそれなりの政界遊泳術をもっていたんじゃないかな?

27: 日本@名無史さん 2011/11/11(金) 23:43:10.69
確かに最初からラディカルにがんがんいったわけではない
だが、ただ既存の枠内で世渡り上手で権力にぎったわけでもない
かなり型破りではあった

28: 日本@名無史さん 2011/11/12(土) 00:04:43.16
>かなり型破りではあった

どこが?

29: 日本@名無史さん 2011/11/12(土) 00:08:44.96
宗教勢力をけんかしたこととか

30: 日本@名無史さん 2011/11/12(土) 00:45:26.19
清盛は宗教勢力とは出来るだけ摩擦を避けてたらしい
後白河の方が比叡山攻撃に積極的だったとか

31: 日本@名無史さん 2011/11/12(土) 00:54:31.19
制度が整った鎌倉時代になると、いうこときかん興福寺を屈服させるために大和に守護地頭をおいて糧道を封鎖してぎゅうぎゅうとしめあげた
たまらず興福寺がおとなしくなると、すぐ元にもどした

いうこときかん南都をやってしまえーとやったのは当時は清盛ぐらいだ

33: 日本@名無史さん 2011/11/12(土) 02:09:53.44
懲らしめる程度で焼き打ちまでは考えてなかったらしい。
折からの強風で南都が全焼し清盛は驚いたんだって。
ハプニングなんだよ。
清盛と後白河の対立も後白河の意固地な性格が災いしているようだし。

35: 日本@名無史さん 2011/11/19(土) 17:23:11.77
>>33
強風なのに放火したら町が全焼しちゃってビックリしました、って政治家っぽい言い訳にすぎないのではないか。
それがどうしたと開き直らないところが一筋縄ではいかず却ってやっかい。

36: 日本@名無史さん 2011/11/22(火) 16:20:59.27
>>33
九条兼実の「玉葉」には平家に武力対抗した興福寺に対して「暴徒取り締まりのために坊舎を焼き払う」という記述があるよ。
始めから坊舎(興福寺僧兵たちの住まい)を焼き払うことが目的であって、松明を寺に向かって一本二本投げ入れたという程度の「脅し」などではない。

37: 日本@名無史さん 2011/11/22(火) 20:16:11.91
「坊舎」って反平家行動をしてる坊さんが住んでる家のこと。
敵の家を焼き払うのは合戦の常道。
清盛は金堂や講堂や大仏殿まで焼き払えとは命じていない。

38: 日本@名無史さん 2011/11/22(火) 20:21:50.17
家なんて焼いたってたいしたことないよね
それこそ糧道をたつぐらいのことはしないと

39: 日本@名無史さん 2011/11/22(火) 20:35:16.64
火をつけるのは家の中に隠れてる敵を焼き殺すためじゃないの?

40: 日本@名無史さん 2011/11/22(火) 20:42:39.98
というか、武士や僧兵の家には刀・矢・弓などが沢山ストックされてるからそれを使えなくするため焼き払うらしい。
武器は消耗品だからね。

41: 日本@名無史さん 2011/11/22(火) 21:27:55.00
いくら焼いたってまた補充すればいいだけ

つまり効果が薄くて目立つという意味以外はない
だからあまり効率的な手段とはいえん

45: 日本@名無史さん 2011/11/22(火) 22:43:25.48
>>41
そんなに簡単に補充できないよ
工場で大量生産してるわけじゃないし

44: 日本@名無史さん 2011/11/22(火) 22:22:07.55
清盛は保元の乱以前にも戦の経験はあるのでしょうか?

51: 日本@名無史さん 2011/11/24(木) 00:14:04.17
>>44
鎮西八郎に清盛なんか敵にならんとか言われて実際戦ったら簡単に郎党がやられて、怖気づいて北門に進路変えたくらいなんだから大した経験してないでしょ。
実のところ清盛が出世する前から都武士化してて戦に弱い。

53: 日本@名無史さん 2011/11/24(木) 01:25:36.12
平家の武士は消して弱いと言うわけではないようだ・・・。
ただ、源氏と違って平家は清盛と主従関係を結ぶような広範囲な御家人体制を作ってないから、小規模な反乱の時はまず清盛直属の家臣団を投入して敵を粉砕し、そのあとに朝廷の命令で動員したあまり戦意の無い駆り武者が敵を制圧するというシステムだったらしい。
だから頼朝が作った御家人体制よる大規模な動員力には歯が立たなかったようだ。

56: 日本@名無史さん 2011/11/26(土) 14:52:45.99
田中文英著 平氏政権の研究(思文閣史学叢書)を読み終わった。
正直言って清盛って退屈な人間だね。優等生タイプなんだな。
戦前は朝廷に反逆した極悪非道の人間とか言われたようだが、そのほうが個性的でいいね。
戦後の研究では極悪非道ではなく普通の優等生的な人間だったという学説が主流になったようだ。

頼朝や尊氏のようなダイナミズムはまるでない。
逆説的に言えば清盛はスケールの小い人間だから朝廷内部であそこまで出世できたわけだが。
清盛は一言で言って出世するサラリーマンタイプの人間だな。

57: 日本@名無史さん 2011/11/26(土) 16:15:35.93
>>56
清盛
祖父、父が築いた地盤を引き継いで出世。
保元、平治&自然死で有力者たつが勝手に退場して自然に主導権握るようになる。
ただし複雑怪奇な政局を泳ぎ切って、軍事権を独占。

頼朝
流人スタート。挙兵後しばらく反乱軍扱い。
マイナスからのスタートで鎌倉政権樹立&軍事警察権獲得。

タイプ違うね。

61: 日本@名無史さん 2011/11/27(日) 18:25:27.61
清盛の家庭環境は複雑だよな。父・忠盛存命中は正室の子・家盛と家督を争ってるし、家盛の死後は弟・頼盛と終生複雑な関係だし、義弟・時忠ともなんかなあ・・・。
ところで清盛の実母って結局誰なのかな?祇園女御?またはその妹か?
実父は忠盛なのか白河法皇なのか?

62: 日本@名無史さん 2011/11/29(火) 08:19:33.02
>>61
清盛の母が白河寵妃祇園女御で白河の落胤だというのは鎌倉時代成立の「平家物語」にあることで同時代史料にはない。
ちなみに、祇園女御は白河没後も法皇の法要を行っており、平家物語にあるように平忠盛に下げ渡され妻になっていたとは考えられないことから清盛の母が祇園女御である可能性は現在では否定されている。

尚、「中右記」に忠盛室が清盛2歳の時に死亡している記事があり、清盛が忠盛嫡男であったことと考え合わせてこの時没した室が清盛母だと考えられている。
このとき没した忠盛室の出自については中右記には記載がないが、滋賀県「胡宮神社」の古文書によれば祇園女御の妹と書かれてあるそうだ。
ちなみに宗子(後の池禅尼)はそれ以降に迎えられた忠盛の後室。

67: 日本@名無史さん 2011/12/06(火) 13:22:19.31
清盛の落胤説とかって、実は始皇帝あたりがネタ元だったりして

71: 日本@名無史さん 2011/12/07(水) 01:11:57.23
清盛さんには後白河院というライバルがいた。
これが清盛さんの最大の不幸だったと思う。

73: 日本@名無史さん 2011/12/07(水) 11:21:48.68
>>71
ライバルどころか後白河は当初、清盛最大の理解者で政治のパートナー。
後白河がいなければ清盛は太政大臣になることも徳子を入内させることもできなかった。

清盛が、後白河政権を形作る重臣の一人という枠を飛び出して、摂家の所領を搾取したりとオンリーワンになろうとしたことで、後白河からの大きな雷が落ちることになった。

76: 日本@名無史さん 2011/12/07(水) 17:16:45.02
故重盛が20年来保ってきた越前国の受領の地位も没収されて、流石に清盛も怒って洛中に武者を繰り出した。
平清盛

治承3年(1179年)6月、娘の盛子が死亡。すると法皇は直ちに盛子の荘園を清盛に無断で没収した。(近衛基実の正室は盛子であったため、基実の死後領地を所有していた。)さらに7月、重盛が42歳で病死。するとまた、後白河法皇は重盛の知行国であった越前国を没収した。
さらに、法皇は20歳の近衛基通(室は清盛女・完子)をさしおいて、8歳の松殿師家を権中納言に任じた。この人事によって摂関家嫡流の地位を松殿家が継承することが明白となり、近衛家を支援していた清盛は憤慨する。

11月14日、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行した。いわゆる治承三年の政変であるが、清盛は松殿基房・師家父子を手始めに、藤原師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官する。

後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は完全に停止された。


77: 日本@名無史さん 2011/12/07(水) 17:58:37.48
まんまと後白河の挑発にのってしまった
ホンマ清盛は馬鹿な男よなあ

78: 日本@名無史さん 2011/12/07(水) 18:30:09.41
>>77
清盛存命中は後白河に勝ってたんだけどね。
後白河を幽閉して院政を停止し、孫の安徳天皇を即位させ娘婿高倉天皇に院政を執らせている。

86: 日本@名無史さん 2011/12/08(木) 18:31:53.48
清盛は娘が大勢いたから摂関家がやってきた外戚政策を踏襲した
天皇家に娘を嫁がせ天皇の外戚になることは勿論、摂関家にも娘を嫁がせ摂関家の外戚にもなってしまおうとした

ただし清盛にとって予定外だったのは娘婿の高倉天皇・近衛基実がいずれも若死にだったことだ
本来ならばこの清盛の義理の息子たちが平氏の親者としてもっと平氏のために動いてくれる予定だった

87: 日本@名無史さん 2011/12/08(木) 21:57:04.77
清盛には「武家政権をつくろう」という構想はなかった。
ただ、なんとなく権力が転がり込んできただけ。
政治家としては二流だね

90: 日本@名無史さん 2011/12/09(金) 09:53:21.21
佐殿でさえ娘を入内させようとしたんだ。
それ以前に政権を担った清盛が朝廷べったりなのは仕方のないこと。

91: 日本@名無史さん 2011/12/09(金) 10:15:14.71
>>90
源頼朝、足利尊氏、徳川家康、
幕府初代は武家でありながら全員天皇に娘や孫娘を入内させようとしているな。
まあ、源頼朝と足利尊氏は娘早世で実現しなかったが。

92: 日本@名無史さん 2011/12/09(金) 16:02:19.75
佐殿の怪死は朝廷にすり寄ろうとして御家人の反感を買ったからという説もある。
清盛の政治は現代の象徴天皇制を目指していたのではないか?後白河が食えない奴で手に負えなかったのが誤算。
後は清盛の生年が意外と早く崇徳と同年。せめてもう10年の時か後継者があれば。
清盛の最大の失策は後継者を用意できなかったことだ。

93: 日本@名無史さん 2011/12/09(金) 16:33:26.07
>>92
東国武士たちは頼朝を「都から来た貴種」ということで崇めたからそれはない。
東国武士たちが朝廷を嫌ったならば、土豪か何かを将軍と呼んで崇めてればよかった。
頼朝自身はさほど高官に上っていないし、娘の入内も頼朝自身は鎌倉から号令かけているだけで、都に上り後白河寵愛の丹後局に逢って根回しに奔走したのは専ら妻の北条政子のほうだった。
清盛が象徴天皇制を目指したなら、自分の女系の孫である安徳天皇を即位させる意味もない。

>後継者を用意できかった

意味不明。頼朝と違い、清盛は子供の数だけは異常に多かった。

97: 日本@名無史さん 2011/12/10(土) 14:43:40.17
平家御家人てどんなんいる
上総介忠清
源大夫判官季貞

98: 日本@名無史さん 2011/12/10(土) 15:20:54.85
伊豆の在庁官人北条時政

99: 日本@名無史さん 2011/12/12(月) 14:17:09.15
>>98
北条は平氏を自称してたけどただの土豪だろ

100: 日本@名無史さん 2011/12/12(月) 17:58:50.67
>>99
その自称土豪に佐殿を監視する重大な役目を与えるとは思えん。

101: 日本@名無史さん 2011/12/12(月) 18:36:25.57
>>100
北条頼政が源頼朝監視の命を受けたわけじゃないよ
頼朝の監視役を命じられたのは伊豆の目代山木兼隆だろ
だいたい北条は朝廷の何の役職にもついてないだろ

102: 日本@名無史さん 2011/12/13(火) 14:26:59.15
山木兼隆が伊豆に来たのは頼朝の旗揚げの一年前だと思うが

103: 日本@名無史さん 2011/12/13(火) 15:10:05.05
>>102
頼朝が流されたときの伊豆目代が史料がなくて分からん。
ちなみに、頼朝挙兵時、伊豆国司は平時兼(清盛の妻従二位平時子の兄時忠の養子)であり、現地に赴任しない時兼に代わって伊豆を統治していたのが目代の山木兼隆だった。
この時代の国司は遙任が多くて自分は都にいて目代を派遣しているのが多い。
しかしまあ、頼朝が流されたときの伊豆国司や伊豆目代が北条時政でないことは確か。

104: 日本@名無史さん 2011/12/13(火) 17:23:42.79
とりあえず中央は頼朝を伊豆国に流刑することだけ決めて、監視人や配所などの詳細は国府で決めたのではないだろうか。

引用元: ・平清盛について語るスレ