b1d24f65







3: 日本@名無史さん 2012/03/10(土) 16:04:38.61
保元の乱もし崇徳上皇側が勝利していたらどうなっていたんだろうか?
少なくとも後白河法皇を四国に追い出すマネはしないと思うから、日本を今後数百年呪縛する呪いは発生しないと思うのだが

4: 日本@名無史さん 2012/03/10(土) 16:59:17.97
藤原頼長が武士の台頭を許さないから貴族政治の時代がもっと続いた。

30: 日本@名無史さん 2012/04/16(月) 18:50:40.17
>>3
そもそも崇徳上皇が勝つという設定があり得ないのでは?
保元の乱は信西が頼長や崇徳上皇を計画的にハメた陰謀だから、崇徳上皇側は訳わからない間に敗者になってたわけで。

142: 日本@名無史さん 2012/05/16(水) 08:48:09.32
清盛の子、甥、孫世代は結構一人一人面白いんだが、義経の人気に対抗できるような特に一人こいつ!ってのがいない
重盛が長生きしていたら、維盛に根性があったら、知盛が戦乱期以前からもっと目立てていたら、重衡が一の谷でとっ捕まらなければ…
色々惜しい人ばかり

143: 日本@名無史さん 2012/05/16(水) 08:56:10.18
重盛の存命中から嫡子は宗盛だったし
重盛ってもう転落してただろ

155: 日本@名無史さん 2012/05/17(木) 01:45:02.40
>>143
実質はね
だが、清盛も小松系を完全に切り捨てる腹積もりは出来ていなかったんじゃないかな。多分、死ぬまで。

156: 日本@名無史さん 2012/05/17(木) 08:35:58.69
>>155
清盛が生きている間は子に違いはない重盛を完全に見捨てるつもりはなかっただろうが、あのまま安徳天皇の治世が続いて居ればどのみち小松系失脚は仕方なかったんじゃね?
建礼門院平徳子は従二位平時子の娘で同母兄弟が勢いを増してくるし、たとえ鹿ケ谷の陰謀で義兄をかばって重盛失脚ということがなくても

144: 日本@名無史さん 2012/05/16(水) 09:11:08.75
壇ノ浦での宗盛がもう少し格好良ければ
他の様々な残念エピソードはごまかせても最期が駄目だと主役には難しい
周囲が潔すぎるのもあるが

145: 日本@名無史さん 2012/05/16(水) 09:41:32.79
壇ノ浦での宗盛、むっちゃかっこよかったやん。
水を得たかのごとくにスイスイ泳ぎまくって天下無双の河童ぶり。
流石は平氏の武士。

146: 日本@名無史さん 2012/05/16(水) 10:09:15.50
割と本気で不思議なんだけど、宗盛はいつ水練を習得したんだ
創作かと思えば愚管抄にも書いてあるし
鎧のまま着衣泳ってかなりのレベルだろ

149: 日本@名無史さん 2012/05/16(水) 11:50:37.06
源氏といえば馬
平家といえば船
船といえば子供の頃から水練は必須だろうjk

150: 日本@名無史さん 2012/05/16(水) 12:27:01.78
>>149
それシナの「南船北馬」のパクリな。
基本京都住まいの平家の連中がそんな船乗るわけないだろjk

151: 日本@名無史さん 2012/05/16(水) 12:52:17.03
船遊びのお船しか乗ったことがない方々だったでしょうな

そんな平家坊ちゃんの中で唯一強かったという能登殿無双も創作だし
後に平家物語中でそういう役割を与えられるような何かが実際にあったのかもしれないけど
ただ壇ノ浦まで生きてて都合の良いポジションがこの人だけだったとしか思えない

152: 日本@名無史さん 2012/05/16(水) 13:16:07.71
清盛は10年間も安芸国司を勤めて栄華を極めた後も何度も一門引き連れて厳島神社参拝してるんだから瀬戸内海を渡る船には乗ったことあるだろ

153: 日本@名無史さん 2012/05/16(水) 13:23:29.18
しかし宗盛がせっせと泳ぎの練習してる姿は想像できない
他の一門も指揮官としての訓練や実践で使える武芸はちゃんと磨いてたんだろうか

157: 日本@名無史さん 2012/05/17(木) 09:11:32.53
重盛がアホみたいに成親を庇いまくったのはもう嫡流が時子腹の宗盛の方に移って来てることを察して妻の一族の方に寄ろうと考えていたってことでいいの?

162: 日本@名無史さん 2012/05/17(木) 20:13:01.80
>>157
成親は重盛の描く次の平氏政権像では重要な役割を果たす筈だったんだろう。

164: 日本@名無史さん 2012/05/18(金) 08:14:09.41
>>162
鹿ケ谷があってもなくても重盛は次の平家棟梁になれたかどうか怪しいぞ?
重盛の正室は成親の妹だが、重盛が跡取りとしていた維盛はこの正室の子ではないなど矛盾も多い。

168: 日本@名無史さん 2012/05/19(土) 01:11:45.90
>>164
当初は清経(重盛と成親妹の子)が嫡子扱いだったようだけどね。
小松家の場合、家全体で見ると確実に平家一門の主流から外れて行ってるけど、その中でも嫡子の地位は維盛、資盛、清経の間で移り変わっていたみたいだな。
小松家の場合は成親と近い以上に後白河院とのつながりが深いので、清盛と院が対立する以上は、どっちにせよ苦しい立場に追い込まれるのは間違いないけれど。

そういえば、とかく成親と重盛の近さがクローズアップされるけど、冷泉隆季・隆房や花山院忠雅・兼雅などと重盛の関係はどうだったんだろう。

169: 日本@名無史さん 2012/05/19(土) 14:10:20.71
清経って地味だよな…
なぜか能やら小説にはなってるけど

172: 日本@名無史さん 2012/05/22(火) 12:25:10.31
>>169
殿下乗合事件の時点では重盛の嫡子は次男の資盛(「玉葉」)、その後長男の維盛が資盛の官位を追い抜いて嫡子になったようだが
清経が嫡男だった時期ってあったっけ?

184: 日本@名無史さん 2012/05/24(木) 21:05:17.73
>>172
鹿ケ谷事件までは清経のほうが昇進速度が維盛や資盛に比べても早く、禁色を許されたのも維盛よりも早かったそうな。

185: 日本@名無史さん 2012/05/25(金) 08:14:31.93
>>184
1173年 惟盛、従四位下
1174年 清経、正五位下
(1177年 鹿ヶ谷の陰謀)
1178年 清経、従四位下
同年  惟盛、正四位上・禁色許される・東宮権亮
1179年 清経、禁色を許される
1181年 惟盛、従三位・右中将
(1183年 平家都落ちにより解官)

惟盛と清経を比べたものだが、清経が惟盛の官位を追い抜いたことは一度もなく禁色も惟盛が先に許されている。
清経が禁色を許されたのは鹿ヶ谷の後。

189: 日本@名無史さん 2012/05/28(月) 01:27:00.02
>>185
年齢に対する昇進の速度という意味だな。

193: 日本@名無史さん 2012/05/29(火) 08:45:35.83
>>189
父親の清盛が出世しているのだから下の子ほど同じ年齢での出世が速いのは仕方がない。
嫡男ならば、庶兄を超えて出世するのに、清経にはそれが見られない。

194: 日本@名無史さん 2012/05/29(火) 08:48:17.36
>>189
資盛は「玉葉」に嫡男とある通り、兄の維盛を超えて出世していた。
(途中で維盛が嫡男に変わったとみられ、資盛を追い抜いている)
しかし、清経は一度も兄の官位を追い抜いていないのが問題。

173: 日本@名無史さん 2012/05/22(火) 12:57:06.36
>>171
義忠暗殺事件のあと、為義は義家の六条の屋敷と河内の領土を相続してる。
兄の義信は、為義より官位は上だけど、貴族化していく。
為義が家督を継ぐのに不満を持つものは大勢いたけど、棟梁として努力してたのは為義だけ。

175: 日本@名無史さん 2012/05/22(火) 17:56:20.94
為朝参陣で意気あがる為義陣営ですが
当時からそんなに武名を
はせていたんですね。
177: 日本@名無史さん 2012/05/22(火) 18:10:14.85
鎮西八郎の名の通り九州で大暴れして悪名を轟かせていました。

176: 日本@名無史さん 2012/05/22(火) 17:57:33.71
義朝陣営には名のある
武将はいなかったのでしょうか?

182: 日本@名無史さん 2012/05/22(火) 23:04:00.72
>>176
坂東の名のある武士が義朝陣営にくわわっているんじゃないの。

183: 日本@名無史さん 2012/05/24(木) 01:58:05.67
>>182
鎌倉党の大庭景義が参加してて、為朝に片脚を矢撃たれて後遺症が残るケガを負ってる。
後遺症のせいで、合戦の最前線に立てなくなった大庭景義は、のちに弟の大庭景親に家督を取られてる。

190: 日本@名無史さん 2012/05/28(月) 01:43:06.16
義朝と為朝の勝負が見たかった。

158: 日本@名無史さん 2012/05/17(木) 10:48:13.77
宗盛に比べれば重盛の方が優秀じゃあないですか?
清盛も一目置いていた感じがするけど

159: 日本@名無史さん 2012/05/17(木) 10:53:39.28
>>158
嫡庶と個人の能力は関係がない
宗盛は平家滅亡時の平家棟梁だったから叩かれまくってるけど、清盛存命中は目立った失策もなかったんでは?
重盛のことは鹿ケ谷のあたりからは清盛も持て余していた

163: 日本@名無史さん 2012/05/17(木) 23:18:54.70
吉屋信子の「女人平家」では宗盛は優れた人物として描かれ、重盛は悪辣な人物として描かれている。
当時、宗盛のほうを高く評価する見方はあったのだろうか?
また、平家が窮地に立つことなく、平穏に権力を維持することができていたなら、宗盛は公卿として高い評価を得て天寿をまっとうしたのだろうか。

168: 日本@名無史さん 2012/05/19(土) 01:11:45.90
>>163
九条兼実いわく「天性大食の人」だそうだけど、平家物語以外でも、宗盛の評価や逸話は、家族関係の話を除けばろくなものがない感がある。
当時の人たちの評価も高いということはないだろうなあ。
武家の棟梁のくせに馬にもまともに乗れないというのはあんまりだよなあ。

166: 日本@名無史さん 2012/05/18(金) 08:55:49.26
成経を教盛の娘婿にしたのは成親としては何の目的だったんだろう
重盛が失脚した時の保険?

167: 日本@名無史さん 2012/05/18(金) 15:04:34.43
建春門院死亡までは後白河と清盛の仲は順調だったので、むしろ成親のほうでも平氏政権との癒着を望んでいたのだろう
建春門院死の翌年が鹿ヶ谷なので、ここで成親は平氏ではなく後白河を取った
重盛室が自分の甥の結婚を支援したことも考えられる
維盛の正室も成親の娘だ

199: 日本@名無史さん 2012/06/03(日) 23:42:11.25
この時代の合戦って本当に名乗りあって一騎打ちしてたの?
これより100年前の後三年の役は普通に集団戦やってたし
逆に100年後の元寇も近年では一騎打ちやってたという説は否定されてるけど。

200: 日本@名無史さん 2012/06/04(月) 00:01:37.16
>>199
一騎討ち「も」やった、ではないかと。
矢合わせと呼ばれる行為は、単なる開戦儀式じゃなく射撃戦だろうし、当然集団での撃ち合いに一騎討ちもへったくれもない。
で、互いの矢を突破した者同士は時に乱戦し、たまには一騎討ちになるってとこじゃないかと。

201: 日本@名無史さん 2012/06/04(月) 00:19:04.06
>>200
なるほど。
確かに平家物語や吾妻鏡なんかではそんな感じだね。

ただ、保元物語や平治物語だと名乗りあったり、個人の武勇が主体に描かれてる印象だったからどうだったのかなあと。
夜討ちかけてるのに「ここを守ってるのは誰だ?俺は○○だ」とか「俺は先祖が○○の××だ」とか悠長なこと本当にしてたのかなあと。

202: 日本@名無史さん 2012/06/04(月) 00:34:46.06
>>201
それはいくつかの要素を想像しちゃいますね。
一つは物語の脚色である可能性。もう一つは投降勧告の可能性。
保元の乱は、市街地で大きな建物に立てこもる相手との戦闘です。
現代の立てこもり犯人に対する対応を参考にすると。

「ああ、こちら帝の命でによりやってきた源義朝である。北殿に立てこもる者たち、直ちに投降しなさい」
「おお、兄者か。こちらは院に従う。投降はしない」
「しゃあないな。じゃあ、全軍攻撃」

なんてのが「名乗り合い」の実態だったのかも。

204: 日本@名無史さん 2012/06/04(月) 00:40:31.78
>>202
保元の乱は合戦というよりさながらクーデターの色合いが強いから確かに後者は有り得るかもw

206: 日本@名無史さん 2012/06/04(月) 13:50:49.19
保元の乱の夜討ちは奇襲じゃないだろ。
夜討ちを行ったなら月明かりも相当あったはずだから歴戦の兵がいるなら夜討ちを警戒してるよ。新月では必ずない。
そもそもこの時代馬印ないわけだからそこに誰がいるかわからない。
名乗りあったと考えたほうが自然。他人の名前を聞く前に名乗るのが礼儀だからまず自分の名乗りを言ってると考えられる。

212: 日本@名無史さん 2012/06/08(金) 21:04:12.37
>>206
wikiによると7月10日だから新月ではないな

213: 日本@名無史さん 2012/06/09(土) 11:04:22.98
>>206
100年後の元寇の時は竹崎季長みたいな下級の武士にも自分の旗持ちがいたけど(蒙古襲来絵詞の注釈でそいつの馬が射殺されたと書かれてる)、この時代はどうだったんだろうか?

217: 日本@名無史さん 2012/06/09(土) 13:59:09.54
>>213
武士が家紋を重要視するのは鎌倉以降です。
確か元寇の時、鏑矢を射掛けたら元軍は大笑いしたらしい。

221: 日本@名無史さん 2012/06/10(日) 12:21:29.27
同じ名乗りにしても、保元物語と平家物語とでは毛色が異なるな。

248: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 23:47:43.96
義朝はライバルの清盛を叩いておかないと邪魔と思わなかったのかな。

251: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 17:22:26.51
>>248
義朝と清盛は保元の乱で一緒に戦ってるしライバルではないのだが。
義朝より清盛の官位が高いのは保元の乱以前からで、信西の不当恩賞により差がついたわけでもなんでもない。
義朝が源氏の棟梁だったかも疑わしいところ。
義朝クラスの源氏は大勢いて、義朝だけが源氏の中で突出した存在ではなかった。

252: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 18:08:54.77
>>251
じゃあその嫡男で流人の頼朝に板東武者達が従ったのは何故?

255: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 21:01:28.58
>>252
えっ、頼朝を真面目に担ぐ気があったのは北条・佐々木・三浦くらいだろ?
千葉・上総なんて、佐竹を倒すための看板に利用するのが本当の目的だし。
畠山あたりなんて敗北間際で寝返ったじゃないか。

257: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 22:33:04.10
>>252
東国はもともと朝廷に反抗する土壌があった
担ぎ上げる人物は頼朝でなくても誰でも良かったんだよ
平氏の平将門を担いだ時もあったし
源氏3代が滅んだのに摂家将軍や親王将軍担いでたし

258: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 22:34:07.96
摂家や親王将軍は朝廷と仲良くするってことなんだけどね。

262: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 23:23:54.23
>>258
鎌倉幕府は摂家将軍や親王将軍が成人すると都に送り返してたし、朝廷の意に従って「仲良くやってた」とは思えないけどね。

263: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 23:30:17.60
>>262
でもさ、鎌倉時代の遺跡が発掘されて京都の模倣したあれこれが出てきたそうで。言われて町つくりからそのようでなんだかんだ言っても京都模倣しようとしたのかって。
やっぱり本格的な武家政権は江戸時代の徳川家康からだな

270: 日本@名無史さん 2012/07/07(土) 11:18:43.50
>>263
東国武士は喧嘩は強くても無教養だもん、鎌倉幕府も都から公家を呼んで政治機構作らせてただろ
政治的には朝廷から独立して朝廷に対して強い態度に出たことと京の文化を取り入れたことは矛盾しない

それに徳川幕府は歴代将軍の正装が武家の正装かみしも姿じゃなくて公家が朝廷へ出勤するときの正装である束帯姿なんだよ
歴代将軍御影はすべて公家装束の束帯姿で描かれてある
それを言うなら徳川幕府も朝廷の模倣なのであって

266: 日本@名無史さん 2012/07/07(土) 03:16:37.02
>>262
そりゃ建前と本音でつきあうのが大人だわさ。

京の模倣ってのは、単に京から職人をよんだだけ、ってのもあるだろうけどね。
いくら真似しようとしても、どうしても田舎の未熟さ荒々しさが出るだろうし、鎌倉はあまり模倣とは思わないけどな。
抽象的な話だけど。

引用元: ・【貴族】保元・平治・治承の動乱【没落】



保元・平治の乱  平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)
元木 泰雄
角川学芸出版 (2012-07-25)
売り上げランキング: 97,831