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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 19:30:47 ID:yfkLrjgU0
三国志の呉について語りましょう 







538: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/03/31(土) 19:36:20.93 ID:4j5+x/xx0
230年に呉は海を渡って夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に兵を出したという記録があり(夷州には辿り着いたが、亶州には辿り着けなかった)、これは台湾(夷州)と沖縄諸島(亶州)ではないかと考えられているが、日本ではないかとも考えられている。
(ウィキペディア)

          ↑

沖縄または日本本土に呉軍がやってきた形跡はあるの?

539: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/03/31(土) 21:32:35.61 ID:xheN55Pe0
>>538
呉市
呉服
高志国(越前越中越後)
三角縁神獣鏡
神武

541: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/04/30(月) 11:52:56.35 ID:Mk6Om6GF0
朱然の墓の出土物みると日本の文化は呉からある程度流れてきているな
稲作も周の時代だが呉の領域から直接日本に伝わっているのが定説

542: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/04/30(月) 17:00:33.04 ID:anjCeyU00
>>541
呉から移民なり難民なりはやってきたと思うが、軍隊はやってきたのかどうか?

544: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/05/27(日) 18:09:31.23 ID:LtH8pKCl0
>>542
倭(日本)に呉の軍隊は未達ぽいな
今のところ史書的にも考古学的にも
まぁ魏も倭には軍隊送れず旗だけ送ったらしいので

そんな呉でも遼東なり高句麗なりには軍隊送ってるから可能性はゼロではないのは確か

545: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/05/28(月) 03:24:07.77 ID:eMDM95vk0
高志国(越前越中越後)、は"越"の字に注目したら呉越方面だが、または"高"の字に注目して高句麗移民という説もある。

546: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/05/28(月) 06:10:37.31 ID:9cmTfrkm0
>>545
呉越から越は、海流の関係で到達が難しいのでは?

547: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/05/28(月) 19:59:10.36 ID:n7yB+yq10
>>546
そうでもない
南シナ海を黒潮に向かわないで大陸沿いに北上して朝鮮半島目指すルートだと結構簡単に対馬海流に乗れる

548: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/05/29(火) 20:54:51.07 ID:7eI+aQpV0
呉の遼東への公孫淵への支援軍派遣は軍事作戦的にユニーク。もっと評価されてもいいと思う。
魏を飛ばして遼東に到達、魏とは戦わなかったけど引き揚げも成功させている。

549: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/05/30(水) 18:46:21.72 ID:4HdZUVKS0
>>548
>魏とは戦わなかったけど

すでに公孫淵は孫権に謝罪とともに援軍を求める使いを出した。
239年に孫権は援軍として羊衜・鄭冑・孫怡を派遣した。
この頃、曹叡が死去すると、魏は遼東に対する配慮がない。
羊衜らが遼東の牧羊城(旅順口)で魏の張持や高慮らを破って、その男女を捕虜として帰国した。
(ウィキペディア)

550: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/05/31(木) 00:05:34.10 ID:vr/6Rr630
公孫淵一族を収容して呉に帰ったらおもしろかったのに。
それは難しかったのか…

551: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/05/31(木) 23:05:31.06 ID:jpliL/GS0
>>550
少なくとも公孫晃の回収は不可能
公孫淵一族を収容しても宇宙大将軍侯景みたいに面倒臭そう

まあ呉は代わりに毌丘倹文欽諸葛誕の一族の一部吸収しているのでいいのでは

552: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/06/01(金) 00:43:17.22 ID:qhO1S94s0
・・・>この経緯から嘉禾2年(233年)、呉から九錫を受け燕王に任じられた。しかし、後に心変わりして呉の使者として来訪した張彌・許晏・賀達らを殺害し、その首を魏に差し出した。この功績により、大司馬・楽浪公に任じられている。


こんな二重外交をやってるやつを呉だって信用するわけないよ。
呉の援軍が公孫淵が勝てば援軍としてふるまい、負ければ略奪して引き揚げろというのは妥当な判断。

553: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/06/09(土) 15:03:10.66 ID:UYyzqMUp0
>>552
呉は九卿クラス派遣して頃されてるからな
魏が強大でなければ本当は魏の代わりに公孫淵攻め滅ぼしたかったんだろう

555: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/06/14(木) 20:07:18.31 ID:VruFr0Vu0
質問です。
孫権を指す「至尊」という名称、呉だけの独特なものな気がしますが、一部の部将の伝の中にちらほら見えます。
でも孫権が皇帝になったら「陛下」と呼んでるし、「至尊」称って、なんなんでしょう?

556: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/06/15(金) 06:23:22.39 ID:UJg/ViPH0
>>555
日本で言うと「上様」ではないか?

557: 555 2018/06/15(金) 20:35:14.11 ID:wRlYjoZW0
>>556
ですよね。
ちくま訳だと「陛下」で、「至尊の位にあられる主君」という訳もありました。
ただ、この名称を使ってるのが即位前の孫権に対してだけの限定的なもので、孫堅孫策は使われていないんです。
この「至尊」称はどこから来てどこへ行ってしまったのか…気になる。

558: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/06/16(土) 03:17:36.06 ID:hmvdDNgZ0
>>557
まだ即位ではないから陛下(皇帝)というわけにもいかず…
「至尊」という熟語は韓非子や荀子にすでに出てくる。
http://www.zdic.net/c/3/a7/195735.htm
しかし一番尊いものという一般名詞で特定の人に向けられた言葉じゃない。

恐らくは呉の家臣団が今の孫権(皇帝即位前の一時期)を何と呼んだらいいか?古典からいい呼称を探してきたんだと思う。
皇帝即位によって陛下と呼ぶようになって自然に消えたような感じか。

559: 555 2018/06/16(土) 18:56:14.24 ID:AadEUoRM0
>>558
韓非子や荀子が出典なんですか。知らなかったです。ありがとうございます。
「至尊」称を使ってるのは、周瑜、魯粛、呂蒙、呂蒙の母、甘寧、賀斉、陸遜でした。
このメンツを見たら、ひょっとして周瑜が「至尊」称を使い始めたのかな?と思ってしまいました。

560: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/06/16(土) 20:13:38.42 ID:Fm0pOhty0
>>559
呼び名って陳寿が変えてるんじゃなかった?

562: 555 2018/06/16(土) 21:16:36.86 ID:AadEUoRM0
>>560
変えてるのは呼び名でなく、死去の時の表現じゃないでしょうか(崩、薨、卒)。
「至尊」称は、陳寿の本文と裴松之が差し込んだ注(江表伝w)の中にもありました。

563: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/06/17(日) 01:16:17.97 ID:FVNkvjPX0
>>562
劉備を先主って変えてるのと同じだろ

566: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/07/08(日) 19:13:09.60 ID:zskyxd8D0
>>563
それは陳寿が劉備劉禅を王侯以上皇帝未満なのを示すためじゃないのか?

576: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/09/16(日) 21:15:19.60 ID:im3y+M8k0
二宮事件についての見解を聞かせて欲しい

578: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/09/17(月) 06:16:28.02 ID:0VC27s6N0
孫権はアルツハイマーだったのではないか。晩年。

579: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/09/17(月) 22:37:06.50 ID:I8CWZe0S0
魯班がすべてを操ってたんだよ

581: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/09/21(金) 11:39:18.73 ID:DSMV+wpe0
孫権は孫和を廃して孫覇を太子に立てたかったの?
孫覇の方がお気に入りだったのに結局孫覇にだけ自殺を命じたなんて
何がしたかったのかまったくわからん

583: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/10/09(火) 22:42:50.82 ID:a9gIHDAT0
判断力と理性が無くなっただけやろ。昔は若造だからキレても我慢しなきゃならん、と思ったり
強諫する張昭やうまく諭す諸葛瑾が居たけど年とって理性もなくなって遠慮する家臣も居なくなって
全員年下、期待してた息子は死ぬしもうどうでもいいや状態

586: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/10/13(土) 17:27:51.48 ID:saPYHR5j0
>>583
孫権は趙達から庚子の年(280年)に呉滅亡を予言されてたから末期のどうでもいいや状態はわかる気はする
しかし呉滅亡後に呉の地域が南朝の本拠地になったり、呉の人材が南朝以後も存在感示したり、孫権の墓が朱重八陵敷地内で観光名所になったり、まあ孫権的には結局良かったんじゃないの

584: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/10/10(水) 16:46:53.71 ID:eYSvnS5X0
後継者(長男)と後継者のスペア(次男)に立て続けに死なれたのは結構キツかったんじゃね

585: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/10/12(金) 01:10:11.16 ID:3YAn5Lh80
なら残った息子同志がお互いに争って道を誤らないように見守ってやればいいのに喧嘩両成敗と言っても孫和は廃太子になって孫覇には死を賜るなんて意味不明
家臣たちの間にも深い溝作っちゃって誰も得してないわ
笑ってるのは魯班だけかよ
あの世で孫登にシバかれろや仲謀

588: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/10/15(月) 00:03:13.68 ID:xWiO8GNp0
後宮問題に端を発するのはわかるけどさ
そもそもなんで孫覇を立てたん?

589: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/10/15(月) 00:19:57.11 ID:mu+BDYzV0
孫覇は魯王であって太子じゃない
魯班(全公主)が太子孫和の母親と不仲で、孫権に孫和とその母親のことを讒言しまくった
そのせいか孫権もだんだん孫覇の方がかわいく思えてきた
空気読んだ家臣の一部があからさまに孫覇推しし始めた

590: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/10/15(月) 00:23:01.87 ID:xWiO8GNp0
孫覇派は後宮の関係で歩隲とか全琮とか重臣もいたけど
劉表みたいに憚ったのかな?

591: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/10/15(月) 21:17:42.23 ID:mu+BDYzV0
孫権って、後宮のことに関してほんとgdgdで、自分が呉王になったときに孫登を太子に立てたけど王后は立てていない
本来なら孫登の育ての母徐夫人を王后にするのがスジなのに、徐夫人よりも袁夫人や歩夫人の方が寵愛深かったために決められず、孫亮が太子になるまで皇后は不在だった。
二度も嫁にやった長女(魯班)が後宮に口出しするのにも振り回されるし袁夫人を皇后に立てておけばよかったのに
袁夫人には子供いないから、むしろ中立な立場で孫権に助言できたと思うわ

619: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/07/05(金) 10:33:17.25 ID:vKg0htmX0
結局呉も反魏豪族の集合体って構造から抜け出せなかったのが敗因だわな
豪族同士が私兵を持ってて発言権も軍権もあるから置物皇帝しか要らなくなる
皮肉にも東晋の先駆けとも言えるが

それを力でねじ伏せて従わせてたのが権までの時代
宗族が協力してどうにか豪族の主張と対抗してたのが琳までの時代
権時代と同じようにしようとして失敗して自暴自棄になったのが皓の時代
これを踏まえると政治機構を整えなかった権が一番の戦犯

618: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/07/01(月) 22:26:08.65 ID:DGvBub+b0
藩夫人は犯罪者の娘が強制的に入れられる機織り部屋にいたんだよな
そこから皇帝の手がついて皇后になるんだから強運過ぎる娘だ
なお末路

620: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/07/07(日) 18:16:37.35 ID:DGZ/TlYw0
藩夫人が暗殺された理由がよくわからん。

627: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/09/20(金) 11:55:45.97 ID:QmiXpobv0
>>620
孫権が愛する藩夫人を一緒に墓に埋葬して欲しいと願った結果説

628: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/09/22(日) 22:41:55.17 ID:cvCJiXke0
>>620
孫亮を慕っている豪族がいない中で唯一の権勢を外戚として握りかねないと恐れられた
それゆえに暗殺されたと思われる
まーそうやって仲間割れしたあげく軸になる存在を潰したもんだから孫峻ら宗族が席巻するわ豪族は陰で力蓄えるわって国中バラバラな状況になったんだがな

629: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/09/28(土) 16:18:54.07 ID:b9eIRU5p0
>>628
藩夫人を排除した結果
孫魯班や孫峻や全一族が外戚として専横するとは皮肉

630: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/11/05(火) 19:52:42.21 ID:DFjz0cwc0
>>628
藩夫人は罪人の娘で家族は姉ぐらいしか生存確認できていない
なので庾亮ら一族が強勢な東晋の庾文君みたいに垂簾聴政を目指すのは無理

621: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/07/10(水) 22:00:10.98 ID:VfvviMav0
呉の衰退は北伐の強行もダメージ大きそう
結果論だけど陸氏顧氏の言うことを聞いて内政に専念するべきだったな
陸遜の憤死も顧氏の失脚も無かったら政界戦争がもっと酷くなってたかもしれんが
いつの時代も内部分裂は本当に痛い

624: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/07/11(木) 06:44:30.75 ID:qh+nDurp0
>>621
蜀が滅亡したあとでは内政に専念しても遅かれ早かれやられてしまったと思うが。

625: 621 2019/07/11(木) 07:39:18.83 ID:4l1t4iBv0
>>624
たしかに蜀が滅亡した時点ではもう遅い
230年代の話だよ
北伐したい派と内政に専念しよう派で家臣の間に元々あった溝が広がった
孫権が北伐派だったし内政に専念しよう派は厳しくなる

634: 名無しさん@お腹いっぱい。 2020/02/21(金) 21:20:20.95 ID:UxYmIMmk0
それでも孫晧とかでなければまだ防げた気がする
何そうみたいに百年もったかもしれない

引用元: ・【三国志】呉総合スレ6