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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/19(金) 15:16:24 ID:/dny6RAj0
劉備(161 - 223年、在位221 - 223年)は、東漢末期から三国期にかけての武将で、蜀漢の建国者。西漢の中山王劉勝の末裔を称し、字は玄徳、諡号は昭烈帝。
三国演義においては、主人公格の待遇を与えられ、正義の君子として描かれている。








562: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/23(火) 23:23:18 ID:TgzzAQZy0
もし劉備が曹操の陣営に留まり続けていた場合はどうなっただろう?
上手く立ち回れば、魏内部でかなり力を持てたりして。

563: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/24(水) 05:01:54 ID:au9nFl5H0
テイイク・カクカ等によって速攻始末されるか、飼い殺し。
もしくは辺境戦線で生かさず殺さずこき使う。


574: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/27(土) 16:37:03 ID:ZNcc/v/MO
劉備は他人に仕えるタイプじゃない。
なのに曹操配下に留まっているとなると、劉備は政治的に無力の状態になっているはず。
でなければ劉備なら必ず独立する。

唐に降伏した李密の状態だろう。
それ以外なら曹操の下に甘んじてるハズがない。

584: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/08(木) 02:05:28 ID:Zl85yGqn0
耳たぶが垂れ下がっていたとか、手が膝まで達するくらい長かったっていうのは、実際にそうだったというよりも当時の容姿にたいする一般的な褒め言葉なんだろうね。

つまり現代人がスタイルの良さを褒めるとき、足が長いとか、頭が小さい、って言うけど、2千年後のヒトがそういう形容詞聞いたら、気持ち悪いだけかもしれないよね。

587: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/08(木) 14:43:23 ID:kbq7u38j0
身の丈(胴回り)八尺という類はありえないくらいでかいという比喩なのも常識

589: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/09(金) 02:10:11 ID:15IhLy1a0
>>587
でも容貌魁偉とか胴回りとかは以後色んな武将の描写でも出てくるわけじゃん。
だからああ一般的な比喩なんだなってわかるけど、劉備の耳長手長は類を見ないんだよね。

590: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/09(金) 09:03:42 ID:WzmxKhdx0
手長は他に例があるぞ。
曹丕だったかな?ちょと忘れたが確かに劉備みたいに膝に届きそうなくらい長い人の記述は有る。

福耳だけど、呂布が実際に大耳野郎と言ってる訳だから、デカかったのだろうね。

591: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/09(金) 12:51:55 ID:SIHljiDh0
太史慈もさるのような腕だと書かれてるね。
直後に弓がうまいとあるから、弓に適した身体的特徴として特記されてるんだろな。
あと劉備が孫権を長上短下と言ってるのが腕長短足の意味だという説がある。

592: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/09(金) 13:06:33 ID:SIHljiDh0
張遼も孫権のことを長上短下で弓馬がうまいと言ってるね。
さっき中研院で検索してみたら司馬炎やら劉曜やら垂下過膝がどっちゃり出てびびった。

593: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/12(月) 22:51:23 ID:Hrprg2sL0
始皇帝の墓の等身大と言われる親衛隊像がほぼ180cmだってね。
始皇帝の周りは流石に選ばれた偉丈夫で固められただろうけど、実際180cm台の武士っていたんだろうね。
当時の身の丈八尺(一尺22cm~24cm)はまんざらウソでも誇張でもないだろう。

流石に胴回り七~八尺となると「でかすぎ!!」っていう形容詞代わりだろうけど、120~140kgの相撲取りを実際見ると無きにしもあらず・・・

595: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/18(日) 11:35:36 ID:Bs1cc6rW0
>>593
親衛隊なんだから各一般部隊から体躯と武芸に優れた者を選出してるだろうさ
エリート部隊って奴だよ

598: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/25(日) 10:52:37 ID:ggrXOnctO
劉備はひげが無かった――蜀志/周羣伝

603: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/28(水) 16:29:40 ID:6D6elbUWO
三國志初心者なんだけど、自称三國志マニアの友人曰く
劉備は諸葛亮と出会わなければ一生傭兵隊長、関羽・張飛と出会わなければ一生筵売りだったって言ってた。合ってるの?

604: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/28(水) 17:26:10 ID:cE4G43kh0
>諸葛亮と出会わなければ一生傭兵隊長

出会う以前に官爵はスゲー高位に・・・

安熹県の県尉→平原国の相→鎮東将軍・宜城亭侯→予州牧→左将軍

傭兵隊長というかパシリみたいなことしてたのは、上官がいたからな・・・
孫堅だって袁術のパシリだったし、曹操だって袁紹の子分だった。
一生パシリで甘んじるつもりがなかったのは以前からだろう。

しかし、諸葛亮が大きく劉備のその後を変えたのは間違いない。

605: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/28(水) 17:39:49 ID:cE4G43kh0
>関羽・張飛と出会わなければ一生筵売り

筵売り(平民)は勉強も出来ないし、士大夫と交際できない。
華美な服も着れないし、音楽をたのしむ余裕もない。
当代きっての大学者に師事もできない。

江戸時代の貧乏侍が内職で傘を作っても、その侍が「傘売り」なわけないだろ?
劉備は没落王族の末裔ではあったが、平民とは明確な身分の差があった。

あの時代では誰一人として劉備が「正当な中山靖王劉勝の末裔であるということ」にクレーム入れてないんだよ。
本当は自称かもしれないとか、中山靖王劉勝の末裔って価値あるの?とか抜きにして、認められていた事実が劉備にとって重要なんだからね。

で、関羽張飛が居なければ随分違うストーリーになっただろう。
兵を挙げるにしても、関張がいなければ最初の黄巾で手柄をたてれなかったかもしれないし、あるいは公孫サン傘下で目立つ武功を得られずに埋没したかもしれない・・・

606: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/28(水) 17:53:10 ID:bU+nFyQS0
>>604-605
『典略』では劉備は臨邑侯の庶家の末裔とあるよ。
二人いるんだが、真定王劉揚の弟の劉譲と光武帝の甥の北海靖王劉興の子劉復・劉騊駼父子が該当するそうだ。
まあ中山王の末裔よりも信憑性はありそうだ。
あるいは劉備の祖父の劉雄が劉騊駼の孫かもしれんね。

608: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/28(水) 19:08:08 ID:xKPbUJ7i0
劉備はニートもしたし行商もしたし政府の役人もして傭兵稼業もやり一勢力の長として最後に皇帝になった
一言で言うなら職を転々として最後に蜀の皇帝に就蜀、じゃなくて就職した

609: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/28(水) 19:15:14 ID:bU+nFyQS0
諸葛亮もニート書生。

610: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/28(水) 20:10:34 ID:6OoJ8yVM0
隠者が賞賛を集める対象であったといわれる当時の中国社会において、諸葛亮の態度は(プラスに成りこそすれ)マイナスなものではないはずでは?
つーかだからこそ龐統に並ぶ名声があり、それ故に劉備も膝を屈して自陣に招いたわけで、そうじゃないと理屈に合わないと思う。

大方ちょっとしたおふざけで「孔明はニートw」とか言われてるのを見て真に受けたかなにかしちゃたんだろうけど

611: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/28(水) 21:12:26 ID:cE4G43kh0
>>610
>隠者が賞賛を集める対象であったといわれる当時の中国社会において、

これはもうちょっと後の時代やね。竹林とかはね。
当時はまだまだ、官職を得て出世するというのが知識人にとって最大の美徳。
太守とか刺史になるのが夢だったのさ。
後漢末期・霊帝時代の「隠居」は宦官にたいするアンチテーゼ、反体制運動であって郭泰のような例は孔明とは違うでしょ。


>諸葛亮の態度は(プラスに成りこそすれ)マイナスなものではないはずでは?

司馬徽もそうだけど、劉表を敬遠したのであって仕官そのものは敬遠してないんだよね。

614: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/29(木) 09:06:08 ID:1If5pIm50
>関羽・張飛と出会わなければ一生筵売りだったって言ってた。

仮に劉備が関羽張飛と出会わなくても、学問の師:廬植、学友:公孫サンのパイプはあるから、その縁でそれなりに出世はしてたんじゃないかと思うけど。
少なくとも一生筵売りでは終わらなかっただろう。

615: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/29(木) 11:26:32 ID:Z/6dLe5R0
県令を勤めた祖父の恩顧で廬植・鄭玄・孔融・陳珪らと師弟関係になったり、交遊関係があったからね。

まあ地方の太守止まりだろう・・・

616: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/29(木) 11:32:13 ID:Z/6dLe5R0
ちなみに蓆織りとは地方官吏だった父が早世したから。
だから、土豪(小豪族)の身分では状況が厳しかった。

まあ、同じ事情で農業で生計を立てた松平氏と似たようなもん。

617: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/29(木) 11:38:34 ID:EmymbeZZ0
母親の身分が低かったんじゃないかなー、とも思うな。
あの時代、割と父夭逝の場合、母親の実家で育てられて~ってパターンが多かった気がする

624: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/05(水) 10:10:08 ID:BIEQ6tkA0
>>617
母親の身分が低いと今度は再婚してそっちの家で育てられるだろうけどな
何アンみたいに
身分が高いからこそ、劉氏のままで居られたんじゃないの?
姻族関係での政治力学とかでも働いて未亡人を実家につき返せないって事は、まあないわけじゃないし

619: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/29(木) 15:14:45 ID:Z/6dLe5R0
仮に劉備の生家の系譜を設定してみる。

斉武王劉縯―北海靖王劉興―臨邑侯劉復―劉騊駼―劉□―東郡范県令劉雄―劉弘―先主昭烈帝劉備―後主懐帝(安楽思公)劉禅―新興王劉恂


いわば劉縯の系統は新田氏、弟の光武帝の系統は足利氏って感じになるな。

620: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/29(木) 22:39:28 ID:zXiHo2HG0
劉禅の子って王なんだ
へぇ

621: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/30(金) 00:18:10 ID:WkHetRmG0
劉禅が蜀漢の帝位に就いてたから庶子は王に封じられてるのが普通なんじゃね?
劉禅の弟の劉理・劉永がそうだったように。

622: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/30(金) 10:49:51 ID:EZ16Q1NU0
劉恂ははじめは新興王だったけれど、蜀漢が滅んだ後は最終的には劉禅の嗣子として安楽公になった。
ただ、諡号もわからないし、子供の名もわからない。
永嘉の乱で殺害されたのは確からしいけど・・・

623: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/01(土) 20:37:21 ID:3wxybDr60
劉玄以外は全滅したんだよな
劉玄は蜀に逃げて蜀漢の将軍の子供を部下にさせてもらったんだっけ

625: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/05(水) 11:41:43 ID:sswbGHxMO
ちょううんが必死で助けたのに。なんだあの息子は。
みんなどれだけ必死になってショクの国を興したとおもってんだよ!

627: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/05(水) 17:15:41 ID:LtvDDt3YO
>>625
少なくともお前よりは大物だったよ。
一国の皇帝として40年も君臨するのは並大抵のことじゃない。

626: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/05(水) 14:29:50 ID:j3DWuSPD0
阿斗の失策って後宮増設しようとした事か?
まあおかげでか、父よりずっと子は多いね

628: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/06(木) 23:56:11 ID:n8A/JX4H0
>>626
そのエピソードの何が暗君になるかがわからん。
諌められて「うるせー昔のことなんぞ知ったことか!俺は女がたくさん欲しいんだ!」とかって強行したというのなら暗君暴君だと思うけど。

629: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/06(木) 23:57:50 ID:IpBu16Dx0
>>628
劉エンとの件
皇太后の命令なんてのは口実

630: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/07(金) 01:19:10 ID:6cwqLMcU0
同じ粛清なら同時代の曹叡@孔明没後や呉の孫皓のほうがより劉禅よかより大規模で悪質だな
司馬師以降の曹家は権限が司馬に移ってしまった感はあるけど

649: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/10(月) 22:11:20 ID:RitWjQJ7O
劉備が漢王朝に対してどういう考えだったかは分かりませんか?

651: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/11(火) 01:26:21 ID:TQKuM2+N0
漢朝そのものに対する劉備の意見表明は(多分)記録に無い。
曹操のもほぼ無いんだけどね。
というか劉備には、自分自身の志向を表明した記録さえ殆ど無い。
子供時代の「あんな車に乗ってやる」を除けば、脾肉の嘆のときの「老年も近いのになんの功業も立てていない」くらいしかないだろう。

おそらくこの頃までの劉備にとっては、漢朝は「当たり前にそこにあるもの」であって、いわば「天下」そのものに近いものだったと思う。
つまり彼は単純に「立身」という目標しか持っていなかった。
それが劉表期までの劉備の、信義を重視する人間だと評判を得ていながら戦略的には「反復常ならず」という外面の矛盾を生み出していた。
などと想像している。

652: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/14(金) 10:40:51 ID:BgOxef+T0
>>651
曹操にとっても同じ事だろう
建安15年の布令を見る限りは曹操も同じように考えてたんじゃないかな
註に牽かれた魏武故事の中に詳細な内容があるけど

後徴*為都尉,遷典軍校尉,意遂更欲為國家討賊立功,欲望封侯作征西將軍,然後題墓道言『漢故征西將軍曹侯之墓』,此其志也.

これが偽らざる心境だったと思う
徴*は山と王の間に一が入る字

653: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/14(金) 12:10:21 ID:ZEqCqEWAO
そのまま信用できんだろ、それ
表向きはそう言ってたってだけじゃないか
王莽だって一貫して「漢のために」を言い続けてたぞ

654: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/14(金) 15:03:20 ID:nOfULg4hO
>>652
晩年文若と仲違いしたり魏楓の乱が起こったりしたのはこの二枚舌のせいだったのかも

679: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/18(火) 02:02:56 ID:1SuyIJ7V0
劉備は大将でも部下でも普通にこなす上どんどん人望を集める
たしかに恐ろしい奴だろうな

680: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/18(火) 10:21:29 ID:2JsptojE0
おまけに戦に弱くはないくせによく負けるから信頼がおけない

681: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/18(火) 23:35:26 ID:5a4lcYiW0
>>680
ワロス
曹操と劉備の差は確かに能力の差も大きいけど「荀彧」や「魯粛」がいたか否かの差も相当でかいんだよな。
明確な大目標を提示して軍事行動を規制できる存在。
劉備の戦の前半分はそれがなかったために負けまくったと見ていいと思う。
諸葛亮による提示がなければ、荊州争奪戦で曹操を駆逐するまではよくてもその後また中原へ突撃していた可能性も十分ある。
実際北を睨んで7年暮らしたわけだから。
孫権も同じで、孫策の代で何度か長江を渡ろうとして失敗してる。
天下二分・三分の計ってのは鼎立体勢とかいう以上に、劉・孫にとって重い実質的功績があったと思う。

682: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/19(水) 00:52:44 ID:H5Ts5ttx0
>明確な大目標を提示して軍事行動を規制できる存在。

いや劉備自身がそうなんでしょ?しかし曹操曰く「考えつくのが遅い」と

683: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/19(水) 18:57:30 ID:XIZBTeYi0
劉備は軍・政の統率者として高く評価されていたけど、国家戦略レベルの軍略は持ち合わせていなかった。
だからこそ、諸葛亮と知り合った頃に無数の意見交換しただろうにも関わらず、その中で天下三分の計画が特筆の功績とされる。
のだろう。

684: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/19(水) 19:29:36 ID:3doGwuXF0
いわゆる
「劉備には戦略を構築できるブレーンが欠けていた」
っていう感じの論だけどさ。
それを証明してそうな事例って有る?
三顧の礼以前の劉備って誤った戦略を取ったりしてた?

個人的には(三顧以降だけど)晩年の対呉戦くらいしか思いつかないんだけど。

686: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/19(水) 20:21:16 ID:XIZBTeYi0
>>684
戦略方針自体が存在して無かったと思うよ。
曹操が着実に地歩を拡げている7年間、劉備は新野で変わらず北を睨んで機をうかがっていた。
劉備の戦略方針は基本的にこれ一本で、とりあえず一定の独自兵力を確保したら相手の隙を狙って攻撃する、しかない。
これじゃいくら民や将兵に人気があって武勇を謳われる人間でも勝ち続けることは無理だ。
故に荊州以前は変転を繰り返し地盤を築くことに失敗し続けた。

荊州以後の劉備は対呉以外で基本的に負けていない(そこで三敗だが)。
結果的に蜀漢の地盤を築くことに成功している。
要するに「勝てる相手とだけ戦い地盤を整え、伸るか反るかの戦はぎりぎりまでしない」という単純な方針を貫き通せる「巴蜀」という形の目標を与えたことに三分の計の真価がある。
劉備が一城で不遇を囲っていた時代に本当に諸葛亮がこの提案をしたのであれば、これは単なる軍事助言者としての「いわゆる軍師」の仕事よりすごい功績だと思うんだな。

戦略を構築するブレーン、軍事戦略家として諸葛亮が位置していた、と言っているわけじゃないよ。
臨機応変の一級の軍事戦略家は結局のところ蜀漢に一人もいなかった。
諸葛亮はそれが多分一番の苦手分野。法正も怪しい。
だから荊州争奪戦で負けまくってる。

688: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/23(日) 11:09:56 ID:EOg7wBx60
なんだかんだいっても
曹操が劉備以上
劉備が曹操以上

と言える様な具体的な差はついてないんだよな。
人生の総合を比べるとどっちも1君主で終わってる上、大敗もなかなかに経験している。
どちらも鼎の王というべき。

689: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/23(日) 13:21:31 ID:umXBsrwI0
曹操が劉備以上という話はあっても
劉備が曹操以上という話はない

支配領域も兵法上の功績も文学上の功績も

曹操が統一できなかった理由の一つに劉備の存在があるが、それをもってして劉備と曹操が同等というのは無理がある。

690: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/23(日) 17:36:12 ID:bT+LSXFsO
劉備は地位や金のバックグラウンドがない状態だったことを考慮すれば評価される。
しかし一平民から天下を伺うなら、本人に天才的軍治手腕があり、早い時期に大きな軍閥内の有力者となる必要がある。
ただ劉備は「処世術」は天才的だったため、乱世を生き抜くことができた。赤壁勝利の便乗、それに伴うショク進出は特筆に値する。

693: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/23(日) 18:20:10 ID:atqlqH+i0
>>690
案外処世術自体は下手だったんじゃないのかって気も。
すぐに何処かの軍閥に入り込む事は出来るけど、いつまで経っても最前線で壁みたいな使われ方ばっかりだ。

引用元: ・【大耳児】 劉備 【昭烈帝】



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