1: 人間七七四年 2021/12/17(金) 19:43:39.76 ID:saQr8Rsn
いわゆる豊臣恩顧と呼ばれる大名や武将について、その定義や含まれる大名や武将の範囲、あるいは逆に含まれないのはどんな大名や武将なのかなどなど色々と考えてみましょう








3: 人間七七四年 2021/12/18(土) 15:29:48.79 ID:Ah1RX+CR
清正と正則は確実だな

4: 人間七七四年 2021/12/19(日) 20:45:38.22 ID:FzoZ9+O7
>>3
問題はそれ以外だよね

5: 人間七七四年 2021/12/19(日) 20:54:54.86 ID:1mYA8mRS
黒田長政、加藤嘉明、福島正則は、江戸に留め置くよう、駿府翁の下命でござる。

6: 人間七七四年 2021/12/20(月) 02:38:24.79 ID:DMeyDKqA
>>5
大坂の陣のそいつらへの対応以外で江戸時代初期に豊臣に近い大名への幕府の警戒や差別はあったのだろうか
通説では福島や加藤はいわゆる恩顧大名だから潰されたことになってたが今は自業自得説が濃厚だし
誰が恩顧大名か以前に実際に外様大名にそういう区別はあったのか?

7: 人間七七四年 2021/12/20(月) 06:33:10.76 ID:4Ij9SirR
家康が政権を握った後、豊臣と戦う事になったら味方しそうな大名という位置づけだろ

9: 人間七七四年 2021/12/20(月) 18:23:55.20 ID:/2dECZdk
>>7
秀吉がいなかった場合は大名になれていなかった人達、ってくくりじゃね
上記のほかには堀尾とか田中吉政とか

自力で所領を持ってた島津とか毛利上杉佐竹伊達最上なんかは豊臣恩顧とは言わないんじゃないか

8: 人間七七四年 2021/12/20(月) 06:39:46.93 ID:etu8/A+J
家康が関東に移封されたあと、その旧領である東海筋に配置された大名たちは恩顧に含まれるのかな

13: 人間七七四年 2021/12/20(月) 19:13:43.51 ID:yVwvAckO
>>8
東海筋に配置された大名の一人である山内は功名が辻を見た限りでは清正や正則より早く秀吉に仕えていたにも関わらず彼らよりも低い石高なので相当不満がたまっていたらしい
こういうのも豊臣恩顧と言えるのかどうか

15: 人間七七四年 2021/12/20(月) 23:28:40.43 ID:U6TzLxyR
>>13
山内って元をただせば上四郡守護代の岩倉織田家の家老の家だぞ
織田家中で主流派どころか、外様扱いされてたんじゃないかな旧敵の子供なんだし
確かに太閤に比べると名門の出だけど、秀吉の派閥に入らなければ1000石すら難しそうな立場。
これで不満持ってたとすれば、本当豊臣家って寄せ集めだね

20: 人間七七四年 2021/12/21(火) 16:49:11.29 ID:rIpVHHfa
>>15
羽柴家中の他の武将と比べてじゃないの
本人が功を挙げてるつもりなら他の連中と差がついたり下の世代に追い抜かれたら不満も持つだろ

10: 人間七七四年 2021/12/20(月) 18:46:21.82 ID:K/ullmRQ
おおざっぱに捉えると、関ヶ原の戦いは尾張派+近江派のうちの旧秀次補佐役を徳川が味方にしたという理解で良かろうか

12: 人間七七四年 2021/12/20(月) 19:13:09.45 ID:4iKe9yLv
>>10
尾張派や近江派はよく聞くけど播磨派はいなかったのかね
北政所や淀みたいな旗頭はいないとしても織田時代の所領は播磨が一番大きいのだが

24: 人間七七四年 2021/12/22(水) 01:00:22.75 ID:W0ZemGzc
基本長浜時代から馬廻や小姓出身者は小身スタートだから子飼いであり恩顧ありだろ。
天下をとってから馬廻なった奴等は大名まで行ったの少ない。

25: 人間七七四年 2021/12/22(水) 04:21:33.50 ID:y88dglap
豊臣恩顧なんて最もらしい言い方するけど、秀吉自身が紛れもない織田恩顧で織田家つまり信長のおかげで立身できたのに、主家が衰えたと見るやたちまちにして下克上してのけた斎藤道三宇喜多直家と同レベルの梟雄だからな
そういう血なまぐさい豊臣にだけなぜか恩顧なんて倫理めいた呼称を使うこと自体が馬鹿馬鹿しい

28: 人間七七四年 2021/12/22(水) 07:40:40.52 ID:YH+rx8ZI
正直恩顧、なんて区分を短命の秀吉政権でわざわざする必要があるのかは自分も疑問がある
この区分をする事のメリットってなんなん?

30: 人間七七四年 2021/12/22(水) 09:59:20.72 ID:XbdCbk/h
>>28
まぁそうしないと「秀吉の死と共に豊臣政権は消滅した」って事になって面白くないし…それに大坂の陣でも豊臣は「太閤恩顧」を何故かアテにしてた感がある。
とはいえ甘過ぎなんだけどねその考えが…御恩と奉公ってそんな永遠のものじゃないのに。

32: 人間七七四年 2021/12/22(水) 10:54:51.70 ID:An8ZZ/I4
恩顧って譜代家臣の事だよってマジレスしちゃいけない感じ?

33: 人間七七四年 2021/12/22(水) 11:17:44.30 ID:YH+rx8ZI
短命の秀吉政権でわざわざ譜代いないから恩顧って言い換えてする意味は?って聞いたらさっきの答えが返ってきたから

35: 人間七七四年 2021/12/22(水) 12:54:23.17 ID:HEQe6Yxv
譜代は何代かに渡って臣従してるイエってイメージだな
個人対個人の繋がりが恩顧かな
徳川でいうと大名じゃないけど大久保長安みたいな

38: 人間七七四年 2021/12/22(水) 15:25:57.24 ID:RVyH1tyR
>>35
家康将軍就任時点だと三河譜代以外の殆どの譜代大名がそう

53: 人間七七四年 2021/12/23(木) 21:39:26.20 ID:PKx2IxYv
秀吉恩顧、正確に言うと「元秀吉の部下」って秀次事件で連座、関ヶ原で敗北、病死、
こんな感じでポロポロ居なくなってるって話だが。
だから秀頼が彼等にどんどん新恩給与していくべきだったのだ…

54: 人間七七四年 2021/12/23(木) 23:02:21.66 ID:nCYaM4Hn
でも秀吉没直後の秀頼に所領安堵の沙汰を独自に発せるかと言えば、まだ傅役が必要な上に執政出来ないのは秀吉も解ってるから家康に主体になって執政させてる訳だし
秀頼がある程度成長した時にはもう徳川幕府が成立して、諸大名小名に所領安堵の沙汰を下しているのでもう秀頼が沙汰するには自領を削ってでもするしかないがそれすら容易に成し得るもんでは無かった。
秀頼としては年齢的な全てのタイミングがずれて何も出来ない案配。
その上実際の本人からして自領を削って沙汰するような器量も無い。そもそも関ヶ原後は65万石だから、分け得たとしても大した分にはならなかったのだけど。

55: 人間七七四年 2021/12/24(金) 05:03:49.12 ID:PHvC4mDK
関ヶ原の論功行賞の宛行状て現存してるの?
名義はどうなぅてるんだろ

よく豊臣家の領土を家康が勝手に分け与えて恩を売ったと言われるけど、豊臣政権のトップなら論功行賞はするのがむしろ当然よ

67: 人間七七四年 2021/12/24(金) 23:32:21.14 ID:02LTwUDP
>>55
名義は豊臣家じゃないとおかしいだろ。家康は建前上は豊臣家大老として大阪せめたんだし
大阪に秀頼いますが、西軍籠城して戦死してたりしたら適当な奴を豊臣家当主にして論功行賞したでしょうね

ようするに、曹操が配下に与えた官位は後漢王朝の物だし、印綬も後漢王朝のものってのと同じだね
実質は曹操からの恩賞だが、建前は献帝からの恩賞と同じ事

79: 人間七七四年 2021/12/25(土) 13:59:50.80 ID:UpBldgG6
>>67
オレも同意だけど残念ながら実際の宛行状を観たことがないのでどうなのかを確認したかった
あなたも同様のようだね

豊臣政権のトップであると遺言された家康が豊臣秀頼に代わって論功行賞を行なったとなると完全に政権として正当な手続き

曹操の例はいらない

57: 人間七七四年 2021/12/24(金) 09:59:02.12 ID:JiBgSH3n
関ケ原後、摂津・河内・和泉3カ国を領する65万石余の1大名に成り下がったというのは最近の研究によるとどうやら嘘らしい
https://www.inari.or.jp/midokoro/hideyori/

65万石を遥かに超える所領があったらしい
ということは関ケ原後も秀頼の所領には手を出せなかったという事か

59: 人間七七四年 2021/12/24(金) 10:26:20.59 ID:KVxSwFE4
史料としての信頼性はおくとして、北条氏長が編集したとされる慶元記にある片桐且元条書で豊臣家が関ヶ原後に100万石を知行されたとあるそうだ
これが摂河泉65万石のほか各地の蔵入地も含めたものだとしたら、奉行衆の解体消滅で蔵入地の管理者不在となったのだから豊臣家がどこまで掌握できてたかは怪しいな

60: 人間七七四年 2021/12/24(金) 10:29:27.99 ID:iz6pFlU6
実際摂河泉すらろくに管理できず、徳川の命で京都所司代から役人出してもらってなんとか回してた状態だしね

62: 人間七七四年 2021/12/24(金) 12:22:01.64 ID:MVuIFkN+
そこのURL先だと不都合だから意図して書いてないんだろうけど、年頭礼の挨拶なんかも京都所司代のあとに秀頼の元へ挨拶に行く形なので、ただの一大名じゃないのは確かだけどそれはあくまで前の天下人の家として礼を尽くされてただけで、実力を見越してではないよねっていう
また豊臣家も、少なくとも淀が当主の代行時はそれを理解して自分たちから徳川へ年頭の挨拶の使者を出すと言った臣下化を進めてる

64: 人間七七四年 2021/12/24(金) 14:57:50.34 ID:gUmn181x
加藤清正が預かっていた蔵入れ地は熊本藩がネコババしたのかな
関ヶ原で大名を転封したドサクサで蔵入れ地は消滅したというのが通説だけど隣地に加増されただけの大名が預かってた蔵入れ地はそのままなはず

65: 人間七七四年 2021/12/24(金) 22:12:17.75 ID:g4KlTm9E
ババっててもおかしくはないけど、確証はないしこの辺調べてる研究者いないかな

66: 人間七七四年 2021/12/24(金) 22:51:03.59 ID:6IZNu0Nl
どこの御家も朝鮮派兵と関ヶ原で火の車なので、徳川も諸侯も、豊臣家直轄地であることを互いに気づかない振りで、与え、貰った

77: 人間七七四年 2021/12/25(土) 12:43:14.70 ID:FGJQfvr3
>>66
家康がその気なら蔵入れ地の振り替えや預け替えはできたはずだからな
大坂から近場の大和や紀伊は西軍大名の取り潰しで空いたわけだし

83: 人間七七四年 2021/12/25(土) 21:21:57.25 ID:Mb5UmP7d
>>77
家康が迂闊に蔵入り地に直接関わったら、豊臣政権に対する専横って言われないか?
蔵入地の管理は奉行が対応していたはずだし、いくら関ヶ原直後とはいえ、豊臣の収入そのものに手を付けるような真似をしたらまた天下が荒れそうだけど
…まあ嫌な言い方をすれば家康が豊臣政権に対する干渉(好意的見方なら運営、悪意的見方なら専横)をやめた結果が史実なのかもしれんが
奉行が壊滅し、徳川が離れた豊臣家が後任の蔵入地の管理担当をまともに選べるとは思えんし(しかも事実上引き継ぎもなしで)

71: 人間七七四年 2021/12/25(土) 07:30:35.53 ID:eKD4h7wP
豊臣政権って少ない直轄地を蔵入地でパンプしてたらしいけど、この蔵入地の評判悪いっぽいんだよなぁ…

72: 人間七七四年 2021/12/25(土) 08:12:37.21 ID:HufBNS07
>>71
蔵入地の年貢が足りなかった場合、どうも蔵入地のある地域の大名から不足分補わせてたっぽいって話?

74: 人間七七四年 2021/12/25(土) 09:20:33.60 ID:/G1iZa2X
しかし豊臣家統治機構は解体されているから年貢が満足に集まらないと存ずる

77: 人間七七四年 2021/12/25(土) 12:43:14.70 ID:FGJQfvr3
>>74
家康はちゃんと割り振ったが時代の流れで大名連中が収めなくなった可能性もあるのかな
220万石の多くを削られて誰も気付かなかったとしたら豊臣家の直臣は無能すぎるし
秀吉自体に豊臣家と豊臣政権を分けて考える思想が無かったのかもしれんが

6: 人間七七四年 2022/03/23(水) 19:09:48.31 ID:EQCwJ1Ix
豊鑑を描いたと言われる竹中重門がどの程度の豊臣恩顧になるか分らんが、三池純正氏に拠れば垂井、関ヶ原を領地にしていた重門が東軍に寝返った影響は大きいとしているけど、実際どんなもんだろう

7: 人間七七四年 2022/03/23(水) 19:15:56.97 ID:GS/5u3JQ
あんな大軍でぶつかりあっただけの合戦に地の利もなんもない
織豊系の大名ならみんな行き来してて地形知ってただろうし

11: 人間七七四年 2022/03/24(木) 12:08:30.20 ID:2GAz84fO
黒田長政の部隊は竹中家から抜け道か何かを教えてもらって島左近を狙撃したって話があったな

12: 人間七七四年 2022/03/24(木) 21:35:46.08 ID:kwn2FEX1
主戦場周辺を領地にしている竹中が寝返ったんで機密も持ってかれたんじゃないかって話じゃなかったかな

13: 人間七七四年 2022/03/24(木) 22:02:14.75 ID:LgoI+7cH
領地周辺まで東軍の勢力が及んだから孤立の心配なくなって寝返っただけなんじゃ・・
それで戦況に大きな影響があったかと言われると?

恩顧具合という意味では竹中家としては、実は秀吉の与力であった重治とその子重門の系統は信長直臣から鞍替えだからか大名にもなれなかった

重治死後にいち早く秀吉に仕えた一族の重利の方が重用され大名に出世

14: 人間七七四年 2022/03/24(木) 22:09:55.47 ID:UCqADRXP
息子の重門は黒田長政に誘われて東軍に入って、甥の重利は黒田如水に恫喝されて東軍に入った
なんだかんだ繋がりあったんだね

33: 人間七七四年 2022/03/26(土) 17:45:51.48 ID:l3ltpkQU
東軍に自分たちが徳川軍じゃない、と考えていたかはかなり微妙だと思う。
だってその割には豊臣に御恩を感じてる連中が居ないんだもの。豊臣公儀に属して戦ったというならその奉公は豊臣にしたもので御恩は豊臣から貰ったものになる。
またそれなら御恩の提示は豊臣からされないとならないがそんな書類も無いし。
戦国大名にとって御恩と奉公はシビアな契約、誰からの御恩で誰に奉公してるかは厳格に取る。東軍諸将は徳川から提示された御恩を請けて奉公した。この時点で徳川軍となった。
諸将からすると御恩を出しもしない豊臣に恩なんか感じもしたいだろうし…

35: 人間七七四年 2022/03/26(土) 19:40:45.33 ID:O73FsBli
>>33
あなたのその感覚の方が微妙だと思う
御恩というのは恩に切るとかの感情面ではなく御恩と奉公という社会的政治的な概念
厳格だからこそ御恩なき奉公はない

豊臣政権の大名は形の上で御恩は政権から受けてたので東軍諸将は奉公(戦い)で応えた
それに対して政権トップの家康が論功行賞を行い、それが新恩となったわけ

その段階では家康の決定=豊臣政権の決定なので東軍諸将は別に主を乗り換えたわけではない

39: 人間七七四年 2022/03/26(土) 20:50:03.93 ID:l3ltpkQU
>>35
御恩と奉公が厳格ってのはその通りで、故に「厳格に」考えないといけない。
つまり「誰が」御恩を提示したか?ってところをね。
武士は提示された御恩を請けて奉公する。この時実はその相手は個人だったりする。そいつがどんな立場だとかは重要じゃない。
つまり豊臣から諸将に奉公を命じる場合、前もって豊臣から御恩を提示してないとならん。ところが東軍諸将は家康から御恩を提示されこれに従ってる。これでは諸将は豊臣に奉公する道理がない。
それで実際、「家康さまからの恩はあるが豊臣には無い」って言われているんじゃないか?

40: 人間七七四年 2022/03/26(土) 21:07:40.59 ID:O73FsBli
>>39
いや実際には重視されるのは
「誰に恩を受けたか」ではなく「誰が恩を授けてくれるか」

そして恩というのは現実的な地位と領土の保証なんだよ

41: 人間七七四年 2022/03/26(土) 22:06:51.14 ID:R4Odz+A3
だとすると秀頼からの恩給発付状があるなら豊臣への御恩があるけど家康からのしかなければ家康からの御恩って事になるんじゃないか?
法的政治的機構なんて武将には無関係であくまで誰がどんな恩賞をくれるのかが重要なんだし。家康があんまり「東軍こそ公儀」とかを押してないのも諸将のホンネがわかっていたからこそなのか…?

42: 人間七七四年 2022/03/26(土) 22:19:09.95 ID:O73FsBli
現実的にどう振る舞えば自分達の地位と領土が保証されるか?というのが判断基準なんで
そういう重箱の隅みたいな手続き論で動いてる訳ではないんだよ

家康は元より豊臣政権の大老主席で、元より豊臣家と朝廷に支持されて
出征してる訳でそれが公儀でないとはちょっと不思議な論理だね

家康が豊臣を裏切り自分個人に忠節しろとでも言い出したら公儀でなくなるだろうが勿論そんなことは一切言っておらず、西軍が挙兵したからと政治的立場が変わってしまった訳ではない

単に大阪城を占拠しただけで豊臣家からさえ支持を受けることができない西軍側の方がむしろ政権を握る正当性的に厳しかろう

47: 人間七七四年 2022/03/27(日) 08:46:00.84 ID:XXEXSiud
豊臣恩顧というより秀吉恩顧にした方がいいんじゃないか
でないと藤堂みたいな奴も豊臣恩顧になるからな

48: 人間七七四年 2022/03/27(日) 09:01:52.84 ID:4CEzeKuO
そもそも豊臣恩顧なんて呼び方を今使うの後世からの歪んだ贔屓くらいでしか使わないし
秀長仕えが長いって理由からかは知らないが藤堂をそこかれ外すって考えても良くわからないが

引用元: ・豊臣恩顧大名や武将について考察する2

引用元: ・豊臣恩顧大名や武将について考察する