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1: 日本@名無史さん 2006/03/19(日) 03:03:01
たとえば小身の旗本や御家人の家にも仕えていた若党。
士分の扱いを受けるというもののその給金は1年に2両程度とか・・・。
そんな彼らがどんな暮らしを送っていたのかとても気になります。
おとな侍や足軽などの暮らしぶりについてもどうかご教授下さい。






武家奉公人

武家奉公人(ぶけほうこうにん)とは、文字通り武家に奉公する者を言う。江戸時代以前では主家に仕える(奉公する)武士も含めて単に奉公人と呼んだ。江戸時代以降はもっぱら非武士身分の中間や小者を指したが、若党のような武士層を指す場合もあった。


若党(わかとう)

 戦国期には、郎党の中の新しい者、若い者を指すのが、由来とされる。
 江戸期には旗本に使えている家臣(大名であれば藩士)を指す場合や城代家老の家臣などに、若党の呼称を用いることがある。この場合には、武士である人物を指す事から、身分の違いから中間や小物とは区別が必要である。「供侍何名」などという場合の「侍」とは、この若党のことを指す。


中間(ちゅうげん)

   
脇差1つを挿し、時には戦いにも参加し、平時は雑用を行った。大名行列等では奴(やっこ)の役を務めた 渡り中間に代表されるように、一時限りの奉公の場合が多い。


 一時限りの中間
      
今で言うみなし公務員。広く一般的に知られる中間はこれを指す。 江戸期になると、年季契約や、必要な時のみ口入れ屋から雇い入れるということがしばしば行われた。多くは百姓の次男以下などが奉公したが、武家屋敷の多い江戸など大都市では屋敷を渡り歩く渡り中間のような専門の奉公人を雇うことも多かった。
   

特殊な中間

    
実質的には足軽と同等の扱い。広く一般的に知られる中間とは異なり、藩に正式に採用されている家(世襲で藩に仕え、苗字帯刀が許されている者)や幕末に特殊な事例に用いて採用されたりした者を指す。身分は平民と武士の間。
長州藩の山縣有朋や伊藤博文が資料などの記述で、足軽扱いされるのは本来の広く一般的に知られる中間と紛らわしいためであろう。




19: 日本@名無史さん 2006/04/30(日) 12:28:27
江戸時代を通じて代々中間の家系、とかって存在するの?
家族を養っていけるだけの収入があったとは思えないんだが。

21: 日本@名無史さん 2006/04/30(日) 12:57:07
>>19
めぼしい史料がないだけでふつうに存在したと思うが・・
・・そんなに生活できなければ、恒常的に中間不足となり中間階級そのものが無くなってしまう筈

23: 日本@名無史さん 2006/05/21(日) 15:23:48
>>21
農家の次・三男とかが一代限りでやっていて、次世代は他家の次・三男がそこに労働力として補填されていく、というイメージじゃないかと思うんだが?

22: 17 2006/04/30(日) 18:25:52
>>19
旗本の家臣には世襲もあった。
中間は口入屋から仕入れるようになったし、世襲は無いと思うよ。

25: 日本@名無史さん 2006/06/14(水) 22:55:25
若党も中間も口入れ屋から雇った。(若党は一応、武士待遇)
若党は侍の格好をしたい農民が応募したり、商人の次男、三男とかがなったりもした。
若党の仕事は門番と屋敷の見廻り(警備)、その他雑務をやったらしい。
刀は一本のみを許された。仕事内容を見ると、今で言う守衛かもしれん。
若党は結婚もできず、一生若党で終える人が多かった。

26: 日本@名無史さん 2006/06/28(水) 22:03:11
悲惨だな

38: 日本@名無史さん 2006/09/01(金) 22:46:00
若党の仕事内容は>>25で大体間違い無いと思う。屋敷によって給人と兼務だったり、用人
が兼ねていた場合もあるらしい。
若党は、刀は打刀一本のみ許されていたので、脇差は帯びる事が出来なかった。藩によって武士の最底辺だったり、中間と武士の間に位置したり様々であったそうだ。殆ど一人扶持だったから、自分一人生活するのでやっとだったそうだ。口入れ屋を通して、中間と同じ様に雇ったそうだ。

27: 日本@名無史さん 2006/06/29(木) 00:08:45
そういう人達のために岡場所がある

32: 日本@名無史さん 2006/07/16(日) 03:56:43
1)ということは、田舎の、特に小藩においては郷士は半農半武であったといってもよいのでしょうか?

国替えが頻繁な上に、小藩で、同族本家は戦国大名の主家に仕えて土地を出て行ってしまったが、一部の郎党が所領の各所に残ってまだ勢力を保っているような場合、特に限定すれば上田城主(上田藩)の場合などです。

土佐藩では郷士が困窮したのは知ってるんですが、信濃のように小藩の土地が入り組んで、しかも元の主家が近隣にいる場合など、郷士への圧迫ができないどころか、一定の利権を保たせないといけないような気がするんですが・・・・

2)こういう場合、維新後は士族だったんでしょうか?
(壬申戸籍を見ることができれば一発解決なんでしょうが・・・)

何かヒントを是非いただけませんでしょうか

33: 日本@名無史さん 2006/07/17(月) 16:23:26
>>32
大名は独立領主であり、個々に職制は違う。
過去の郷士スレッドにもあったけど、一概にいえない。

34: 日本@名無史さん 2006/08/09(水) 13:03:13
郷士じゃなく藩士でも下級だと実質半農だったりしたところも多いよ。

42: 日本@名無史さん 2006/10/27(金) 14:56:11
中級以下の武家じゃ、その家に使われている者のほうが経済的に余裕があったらしいよ。
給金だけが所得じゃなくて、用事ごとにいくばくか貰ったり、衣料なのど現物支給があったりで。
一方、武家は交際費の支出がたいへんだったらしい。

50: 日本@名無史さん 2007/02/18(日) 19:06:47
>>42
小金を貯めて主人に貸し付けていた連中もいたそうだ。

51: 日本@名無史さん 2007/02/18(日) 19:32:18
ツルゲーネフの小説を読むとロシアでも似たような話がある。
農奴の中には商売をやって金を貯め込んでるのがいた。
自分で自分を買って自由民になることもできるのだが、窮迫した主人が自由になれと促してもイヤだと断ったりして。

45: 日本@名無史さん 2006/11/20(月) 23:00:47
大身旗本なら中小姓でも二人扶持貰ってるな。

46: 日本@名無史さん 2006/12/29(金) 23:58:18
大名の家臣の中小姓なら100石もらってたやつもいるよ。

53: 日本@名無史さん 2007/03/04(日) 11:40:24
仙台伊達家の千六百石級の家臣でも陪臣に家老以下四十近い格があったらしい。
まあ多分定めてあるだけで全部の格に実人員がいたわけじゃないだろうが。

100: 日本@名無史さん 2008/05/21(水) 07:06:59
>>53
加賀前田の家臣の本多家(加賀八家)なんかは諸太夫の陪臣で5万石
おそらくその家老職は1000石として、その陪々臣の家老職も50石程度はあったかも、その陪々々臣にも、譜代の臣はいないにしても、小人程度はいてたかも

102: 日本@名無史さん 2008/05/22(木) 20:59:04
>>100
大名の家老職の禄高をみていると、大藩では比率も高く、小藩になるほど比率も低下する傾向にある。
岡山藩池田家などは3万石の家老なので、藩の禄高の約10%

本多家(加賀八家)関係で陪々々々臣くらいはいただろう
100万石(前田候)→本多家(加賀八家)→本多家家老→同家家老職→同家用人→同家小者


56: 日本@名無史さん 2007/03/04(日) 13:21:45
直臣の中小姓や徒士と陪臣(家老家なんかの)用人とかだったらどっちが身分が上? 

57: 日本@名無史さん 2007/03/04(日) 14:04:19
直臣が上のようなきがするが。

58: 日本@名無史さん 2007/03/04(日) 16:53:42
ただ、旗本の家臣の場合、農民とか町人とかあやしげな出自の連中が容易に入り込みやすいから、大名家の家臣と同じ武士といっていいのか・・・

領主である旗本に金を貸してる豪農が、貸した金を確実に返済させるため、用人になって家政を取り仕切ってる例があったりする。
また、幕府の公用旅行で供が大勢必要なとき、領地の農民たちを期間限定で足軽にしたりする。

59: 日本@名無史さん 2007/03/04(日) 18:17:49
渡り用人なんてのは、ある意味、家政差配のプロだな。
こいつらも浪人とか農民とか、素性の怪しげな連中が多いし。

151: 日本@名無史さん 2010/04/30(金) 15:01:01
>>59
経営コンサルタントだな。

73: 日本@名無史さん 2007/05/04(金) 00:31:17
渡り中間って今で言うフリーターだよなぁ

60: 日本@名無史さん 2007/03/04(日) 19:27:35
藩直属の足軽も必ずしも譜代の武士とは限らない、藩によってパートタイムや派遣みたいなのもいたそうだ。
徒も幕初はそういう傾向があったが、だんだん譜代化するらしい。
また世襲を認める場合も身長に条件が付いたりしていた場合もある。
弟でも体格優先、子供が全員ちびなら世襲を認めないってかんじで。
一方上級武士はどうしようもない馬鹿か、極端な病弱でない限り跡を継げた。

62: 日本@名無史さん 2007/03/18(日) 16:30:51
藩の足軽の場合、名実ともに臨時勤務の場合もあるが、譜代筋と言うことになっていても、実は本当は世襲ではなく人が入れ替わっていたりすることも普通にあったらしい。
つまり労働力を確保できればそれで良いやという藩当局の判断らしい。

68: 日本@名無史さん 2007/03/29(木) 11:25:34
若党って、半纏姿のいわゆる「奴さん」スタイル?
それとも袴に両刀の士装?

69: 日本@名無史さん 2007/03/30(金) 01:23:30
空脛の二本差しスタイルじゃないの。

71: 日本@名無史さん 2007/05/03(木) 20:02:55
中間より小者・小人の方が下。
もともと中間は小者と侍の中間と言う意味だったという説を見たことがある(真偽不明)。

72: 日本@名無史さん 2007/05/03(木) 20:07:07
幕府にも中間は居たが、あれは下級だけど一応武士。
ほぼ同格の小人や小人目付も武士だし。
同心より給与的にはやや下級、譜代かもしれないから身分は上かも?
幕府の最下級奉公人は牢屋下男かな、これは明らかに武士じゃない。
どうでも良いけどちゃんとした歴史用語なのに「こびと」で変換しないのはおかしい。

75: 日本@名無史さん 2007/05/04(金) 18:31:24
足軽でも武士とはいえないはずなのにな。世襲の傾向があったから「準武士」かな。
足軽より下の中間は、どんな意味でも武士とはいえないだろ。

77: 日本@名無史さん 2007/05/10(木) 03:31:29
とある親藩の譜代藩士だった家系だが、うちの藩ではお城に登れない人間は武士じゃないというのが実質の見解だったようだ。

要するに馬に乗れない人間は武士じゃないと。

82: 日本@名無史さん 2007/08/02(木) 18:06:00
いや、徒士層からも登用するだろう。下士足軽の大半は新規取り立だな。
田沼主殿頭家が万石以上の大名に列した時は家老も用人も新規に召し抱えたのばかりだった。

83: 日本@名無史さん 2007/08/03(金) 01:33:29
三浦庄次は旗本田沼家の用人から武鑑にも載ってるように大名家の用人になってるね。意次失脚後に暇を賜って市井の人になったみたいだが。
旗本大岡出雲守忠光の家来供も武蔵岩槻藩の藩士になった。

84: 日本@名無史さん 2007/08/04(土) 10:45:04
幕臣である旗本のうち、相当数の家臣団を抱える大身旗本の場合は、次男・三男などの庶子のうち、他家に養子に行きそびれた者の直系子孫は、その旗本家の家臣取り扱いとなり、中小姓となることが多かった。
同様の場合、諸大名にあっては、給人格(給人席)となることはあっても、中小姓となることは、まずなかった。

86: 日本@名無史さん 2007/08/11(土) 20:43:20
家中に使える人間は、昭和初期まで意外と多かった。
明治以後は、執事とか使用人だな。ただ当主が家人をクビにするとかは普通はしない。

西園寺家とかでは、首相になった公望の例では、一切家中のことに口を出さなかったそうだ。ただ、料理人とかは遠回しにチェンジさせることが出来る。
気に入らないと一切家で食べなくなるのだそうだ。当主は。クビにしろとかは言わない。
が普通は察して暇乞いをする。そういう婉曲な意思表示なのだな。

逆に女中頭とかは、当主がどう接してようがクビに出来ない。それは側にいる女性の権限で江戸以降の家中では、一切関与しない。その極端なのは大奥だな。
江戸以来の家内制度に執事長や秘書官が苦労する話が史料として結構残っている。
プライベートな慣習には家長であっても干渉しない:できない。

87: 日本@名無史さん 2007/08/11(土) 21:10:33
用人とか、こういう人、農家からの奉公人とか多いでしょ。
ちょうど、明治維新のタイミングで、士族になったりしたのも結構いたんだろうか。
やっぱ、大方は、平民だったんだろうか。
士族になると、それは兄や弟が平民なのに自分だけ士族になってしまうよね。

88: 日本@名無史さん 2007/09/24(月) 12:43:02
旗本の家臣は、主家である旗本自身が士族なのだから、平民だろう。
旗本ですら、朝臣や静岡藩士にならずに帰農した家は平民だったんだから。

ただし朝臣(中下大夫や上士)になった旗本の家臣なら、公家侍と同じように三代以上続いた家は士族になれたようだ。

94: 日本@名無史さん 2008/01/07(月) 20:42:01
小者・中間・若党ってこれらは今で言うアルバイトか派遣社員だな。
今の職業で言うとどんな感じかな。

95: 日本@名無史さん 2008/01/21(月) 03:47:23
同じバイト・派遣でも、背広をきて東京本社に勤める派遣と地方工場の流れ作業をする派遣とでは、格が違うな

99: 日本@名無史さん 2008/05/19(月) 18:09:41
大名に仕える世襲の徒士は・・・れっきとした武士と言えるのかなぁ。
見た目は2本差しで羽織袴で歩いてるし。

101: 日本@名無史さん 2008/05/21(水) 22:58:26
若党・中間・小者あたりは肉体労務だろうな。

103: 日本@名無史さん 2008/06/16(月) 19:32:37
刀の2本差しができたのは足軽まで?

テレビで中間が腰の後ろに差してるのは脇差?

104: 日本@名無史さん 2008/06/16(月) 19:53:48
>>103
木刀です

まあ脇差でもオッケーなわけですが

106: 日本@名無史さん 2008/06/16(月) 21:15:53
>>104
『幕末百話』に江戸城門外での大喧嘩の話が載ってる
何人も切り殺されて血の海
本物の木刀を持たせていた藩も多かったが
中には「真鍮の木刀」を持たせた藩もあった

107: 日本@名無史さん 2008/06/16(月) 21:21:29
足軽は一本差し

108: 日本@名無史さん 2008/06/17(火) 13:27:20
一本差しは脇差?

また長いのを1本だけ?

122: 日本@名無史さん 2008/06/27(金) 21:13:11
>>108
口入屋から派遣された渡り者の若党の場合、刀一本のみを許されていた。
もっともこれは江戸における扱いで、地方では若干、違いがあったと思う。
中小姓からは大小両刀帯びる事が出来た。
足軽は江戸では同心級なので、刀は2本差し。その下に足軽もいるが、これは武家奉公人扱い。(にわか侍で中小姓の下の身分)

110: 日本@名無史さん 2008/06/20(金) 13:41:31
武士の場合の一本差しは今のノーネクタイくらいの感覚らしい。

111: 日本@名無史さん 2008/06/20(金) 20:35:36
寛政年間の旗本石河氏(2.700石)の家中
御用人(4名)35両2分63俵
御給人(2名)14両1分18俵
御近習(2名)11両9俵
御中小姓(2名)8両2分9俵
御勝手方(2名)10両1分18俵
御足軽(3名)8両3分13俵2斗
御厩(1名)2両4俵2斗
御局(1名)3両4分2斗
御中臈(1名)
御次格(6名)
御腰元(3名)
御乳母(1名)
御茶之間格(2名)
御末(1名)

117: 日本@名無史さん 2008/06/25(水) 14:39:17
>>111
これ、面白いな。

2700石の旗本ならば5公5民で手取り1350石・・・お金に換算して1350両前後ってこと?
家臣トップの御用人でさえ35両+25石だから、意外と余裕のある財政状態に思える。
このクラスの上級旗本の生活はかなり裕福だったのだろうか?


1万石クラスの小大名だったら、この10倍くらいの所帯は必要だろうし、家臣の格も高いだろうから相当厳しい財政になるんだろうね。

120: 日本@名無史さん 2008/06/25(水) 21:55:30
>>117
4人分だと思うよ

121: 日本@名無史さん 2008/06/26(木) 01:39:58
>>120
4人分合わせて「35両+25石」じゃないよね?
上級旗本の執事役の俸禄としては少なすぎる気がするし・・・

4人×(35両+25石) なんじゃないだろうか?

113: 日本@名無史さん 2008/06/20(金) 22:54:01
男手は16人か、1万石の大名だとこの4倍の人数じゃすまないし、やっぱり旗本の方が気楽か。
江戸中期以降だと、なまじ格が上がる下限あたりの家は内心では先祖を恨んだりしてそう。
小禄の旗本なんかは特に。
それと仲間とか下男とかそれに相当するのは御厩以外見えないみたいだけど、居ないのか、本当に臨時雇いみたいなので別枠?

118: 日本@名無史さん 2008/06/25(水) 17:22:44
入れ込みといって複数の家に同時に召し抱えられるような者もいた。いずれにせよ小者中間の風儀は悪く、江戸城下馬札前で奏者番井上河内など、大名家当主を罵倒する輩もいた

引用元: ・江戸時代の武家奉公人の生活について語ろう