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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/21(水) 17:34:36 ID:twhAGXxP
彼と天下を目指したい。







一条 兼定

一条 兼定(いちじょう かねさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけてのキリシタン・戦国大名、土佐国の国司。土佐一条氏の事実上の最後の当主である。

天文18年(1549年)、父・房基が自殺したため7歳で家督を継いだ。このため、土佐一条氏出身で関白となっていた大叔父(兼定の祖父・一条房冬の弟)の一条房通が養父となって後見する。

伊予国の覇権をめぐって永禄11年(1568年)には豊綱を支援して伊予に進出するが、安芸国の毛利氏の援兵を受けた河野氏と戦って大敗した(毛利氏の伊予出兵)。また、京都の一条家本家(当主は兼冬の弟・内基)とも次第に疎遠になってきていた。

長宗我部元親が台頭すると、妹婿の安芸国虎と呼応してこれを討とうとしたが、永禄12年(1569年)に国虎が逆に元親に討たれた。その後は長宗我部氏によって領土を侵食され、また重臣の土居宗珊を無実の罪で殺害したために信望を失い、他の三家老である羽生、為松、安並などの合議によって天正元年(1573年)9月に隠居を強制され、天正2年(1574年)2月に豊後臼杵へ追放されて大友氏を頼った。

兼定の追放を知り憤慨した加久見城主・加久見左衛門は平素から一条氏老臣に反感を抱いていた大岐左京進、大塚八木右衛門、江口玄蕃、橋本和泉らと謀りに挙兵して中村を襲い一条氏の老臣を討伐した。この混乱に乗じ、叛乱鎮定に名を借りた元親により中村を占領されることになった。


翌天正3年(1575年)、キリスト教に入信し、宣教師ジョアン・カブラルから洗礼を受けた。洗礼名はドン・パウロ。同年7月、兼定は大友氏の助けを借り再興を図って土佐国へ進撃したが、四万十川の戦いで大敗し戦国大名としての土佐一条氏は滅亡した。




169: 人間七七四年 2008/07/12(土) 02:37:25 ID:a3CvZFpl
この人が豊後に流れ着いたのは偶然ですか?
海に出された時点でもうのたれじねってことで、本当に流されるがままに漂流してたんでしょうか?

170: 人間七七四年 2008/07/12(土) 17:58:40 ID:1LXiI71w
偶然じゃないよ。
二人目の正室が大友宗麟の次女だったので最初から豊後が逃亡先だった。

174: 人間七七四年 2008/07/22(火) 23:38:28 ID:J9RGDF5R
週末兼定公祭に行ってきました。
今でも地元で愛されているほどの名君だったんですね。

175: 人間七七四年 2008/07/23(水) 02:09:10 ID:WXjkF/T0
町興しのためにみんな名君とか名将にされるよな

176: 人間七七四年 2008/08/08(金) 15:03:52 ID:orGxZg1g
兼定公は当時は結構な著名人だったろうから。

180: 人間七七四年 2008/09/19(金) 14:15:33 ID:iILJtECe
言うほど悪くはないんだろうね。

181: 人間七七四年 2008/10/03(金) 14:38:04 ID:p8VSDVvp
名君って事もないだろうがね。

182: 人間七七四年 2008/10/18(土) 14:24:52 ID:s5z/JAhu
代々でみると結構頑張ってる

185: 人間七七四年 2008/11/15(土) 00:06:27 ID:/YtuQZoP
諌言した家臣を切腹させるのが名君の条件だな

188: 人間七七四年 2008/12/08(月) 15:26:34 ID:q2ZBxYph
きっと記憶に残る方だったんですよ。

189: 人間七七四年 2008/12/24(水) 15:19:31 ID:QY1CP5jn
長宗我部の領内統治に利用されてるね

203: 人間七七四年 2009/07/02(木) 03:08:55 ID:yYwvaUDV
>>189
中央では長宗我部=一条氏の家臣扱いだったらしいね

204: 人間七七四年 2009/07/02(木) 03:26:10 ID:38aE4AcM
>>203
長宗我部が戸次川の戦いの敗戦の責任を問われなかったのも、大阪の陣のとき大阪に入城した盛親の扱いが低かったのも、豊臣家においては長宗我部は一条の家臣であり、豊臣家にとって陪臣であると言う認識があったせいだというね。

194: 人間七七四年 2009/02/23(月) 20:52:33 ID:PXi83cBg
高祖父教房、大叔父房通が関白になっていて、なおかつ房通の養子になっている事から、血筋には申し分無く、兼定も関白になれる可能性を持っていた。

195: 人間七七四年 2009/03/10(火) 15:40:42 ID:ZXdRiKbF
在国では無理で。

197: 人間七七四年 2009/04/14(火) 14:45:41 ID:x7TvULMJ
元関白の下向はあるけどね。

205: 人間七七四年 2009/07/02(木) 08:45:38 ID:Su47Vj3M
一條さんは琉球やアユタヤに使いを出してたって本当?
ポルトガル人の記録にあるらしい

206: 人間七七四年 2009/07/04(土) 17:57:52 ID:MEBJ68z+
>>205
一応大内氏と親しかった時期と大友氏と親しかった時期があるので、大内氏・大友氏を通じての使者の海外派遣は可能だった。
一条氏の本拠中村では中国産や南蛮由来とされる遺物が発掘されている。

207: 人間七七四年 2009/07/16(木) 15:19:12 ID:lypd0Ap6
南蛮なら大友経由だね。

208: 人間七七四年 2009/07/30(木) 16:03:14 ID:z0oYOCC4
大内も耶蘇と親交あるでしょ。

209: 人間七七四年 2009/08/02(日) 13:58:16 ID:KqW0+BGm
>>208
キリスト教の日本上陸は1549年。
大寧寺の変は1551年。
大内義長の擁立は1552年。
陶と毛利の決裂は1554年。
厳島の戦いは1555年。
大内義長滅亡は1557年。
大内に耶蘇と仲良くしてる時間なんてない。

210: 人間七七四年 2009/08/08(土) 15:04:19 ID:S64ivuT4
一条氏って今の四万十近辺にいたの?
宇和島の西園寺とは良い関係だったのかな

211: 人間七七四年 2009/08/08(土) 16:12:26 ID:kj31QM/e
>>210
時期にもよるが、兼定初期は西園寺と仲の悪い宇都宮と仲良くしてた。
西園寺との関係はあんまりよくない。

217: 人間七七四年 2009/09/23(水) 13:38:10 ID:BLfWaOEf
暴君というのは風説でしょ。

219: 人間七七四年 2009/10/03(土) 14:34:19 ID:otyYuHDX
長宗我部が広めたという説でしょ。

220: 人間七七四年 2009/10/03(土) 23:51:05 ID:dk2VQMNE
兼定の暴君ぶりな話って土居の手討のほかに何があるっけ?

221: 人間七七四年 2009/10/13(火) 16:16:12 ID:yysOJHjl
女好きくらいじゃ。

224: 人間七七四年 2009/11/11(水) 22:11:01 ID:cfbG65xz
何だかんだで御家再興の執念はあったのに、そのせいで暗殺されかかって腕失い、やがて病没ってのは悲惨な人生だよなぁ

225: 人間七七四年 2009/11/25(水) 15:20:55 ID:cHMk97PG
気性は激しい方なんだろうね

228: 人間七七四年 2010/02/19(金) 20:06:35 ID:ql9eORI8
地方領主としては、そこそこ有能な実績を残していても近くに1地方を征圧しちゃうような有力大名が出たり信長・秀吉・家康のような連中に倒された連中はけちょんけちょんに書かれるからね。

朝倉義景も北条氏政も今川氏真も一般的には家を滅ぼした暗君とされがちだけど結構頑張ってるからね。凡君ではあったかもしれないけど決して暗君ではなかった。
一条さんもそんな感じだと思うよ

231: 人間七七四年 2010/05/09(日) 16:24:43 ID:9LIMmpB0
最盛期にはどれくらい領していたのでしょうか

232: 人間七七四年 2010/08/06(金) 19:56:08 ID:Z9uMueS8
1、2郡程度と思ってたけど地図で見ると面積だけなら土佐の半分ぐらいを抑えてたんだな

233: 人間七七四年 2010/08/12(木) 21:18:35 ID:wRjzF0Lj
南予にも粉かけていて、御荘や法華津等のような
西園寺と二股仕えの小領主も多かったから、実際はそれ以上だったろうね。

245: 人間七七四年 2011/12/09(金) 16:50:18.96 ID:1HJHERue
名門だけに従属すらできず戦うしかない定め

247: 人間七七四年 2012/02/29(水) 17:08:26.59 ID:e62m909k
>>245
京極さんや細川さん、三好さん、大友さん……

248: 人間七七四年 2012/03/01(木) 01:46:01.42 ID:AM9inmGD
>>247
家格じゃ一条家が飛び抜けてる

252: 人間七七四年 2012/05/31(木) 02:09:47.90 ID:m5GlQZkw
戦国国司とか異色の存在だよね
土佐日記かよw

257: 人間七七四年 2013/02/20(水) 01:24:55.25 ID:NqlgiGjo
>>252
武家もすなる大名といふものを、公家もしてみむとてするなり

公家から戦国大名化したのが2家もあるとか四国って面白いところだ

253: 人間七七四年 2012/06/01(金) 18:40:49.45 ID:lA+jbKXy
国司が守護に取って代わられ名前だけの存在に過ぎなくなった時代にどうやって国司から大名化したのやら

あと京に帰ろうとは思わなかったのだろうか

254: 人間七七四年 2012/06/02(土) 10:55:22.57 ID:hRy7yCyu
>>253
一条・西園寺:都で公家やってても食っていけないでおじゃる

258: 人間七七四年 2013/02/20(水) 21:30:22.44 ID:Vraq0sS/
実は名君だったりして

259: 人間七七四年 2013/02/22(金) 07:36:18.69 ID:PYli8qM8
名君といは言わんが言われるような暗君でもない

262: 人間七七四年 2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN ID:9kQM5R9b
大友宗麟の対毛利戦に利用されたのち捨てられた印象

269: 人間七七四年 2013/11/04(月) 18:58:34.43 ID:C3QaWZZL
暗君だったら隠棲後も暗殺されかけるなんてないだろ

270: 人間七七四年 2013/11/09(土) 20:20:01.26 ID:MoGho74I
>>269
影響力がありすぎて生かしてはおけなかったんだろうな
四万十川の合戦の時も豊後から舞い戻ってきただけで数千人の旧臣が集まってきたと言うし

戦国伊予最大の戦いと言われる鳥坂峠の戦いを引き起こした程の人物だし
それを考えると暗君だなんてトンデモな説だとおもう

271: 人間七七四年 2013/11/10(日) 03:41:49.53 ID:SJ0HWsxN
いやどうみても暗君でしょw
土佐一条家を破滅に追い込んだんだから

272: 人間七七四年 2013/11/14(木) 12:30:50.75 ID:B48csOZr
御家を破滅に追い込んだのが暗君なら
北条氏政、武田勝頼、長宗我部盛親、宇喜多秀家、
善政で神様とまで呼ばれた赤松広秀も暗君?

275: 人間七七四年 2013/11/21(木) 14:24:26.42 ID:VNckJa7l
>>272
そいつらは自分達よりも力がはるかに上の相手に負けたって感じだけど兼定は…

276: 人間七七四年 2013/11/22(金) 12:35:49.71 ID:ydgyh5Fx
でも兼定は長曾我部に負けたがかなり善戦してたろ
今日の兼定の評価は長曾我部マンセーの一次資料を鵜呑みした司馬史観じゃん

河野戦においても相手の援軍の毛利も危なかったらしいじゃん

277: 人間七七四年 2013/11/22(金) 18:28:21.94 ID:ZLFQ2qF4
確か具体的な悪政の一次資料ないんでしょ
その上幡多失った後も中村奪って三千の兵力集められたんだから結構なものじゃない
長宗我部にとっての最強の敵で、かつ身分大義正当性的に越えられない壁があったから酷い暗君扱いされたんだと思ってる

292: 人間七七四年 2016/09/19(月) 13:45:13.88 ID:TpXHOteO
兼定無能か?
こいつ一度土佐追われてから、大友の支援を受けて土佐に再度攻め込んだことあるぞ。
意気は認めるべきではないか?

297: 人間七七四年 2018/05/05(土) 23:54:19.31 ID:NwcRtEm+
一条兼定も評価見直されている大名だよね

298: 人間七七四年 2019/12/29(日) 23:08:01.91 ID:zFU5YOTo
兼定の悪名(例:そもそも実在しない人間土居宗珊殺害)は払拭できるけど、そもそも土佐一条家は戦国大名の定義に当てはまるのかという

299: 人間七七四年 2019/12/29(日) 23:30:03.96 ID:UeF0ri8u
>>298
そんなこと言い出したら、伊予西園寺、奥州北畠、周防大内、肥後阿蘇といくらでも定義に疑問符がつく奴らが出てくるよ。

300: 人間七七四年 2020/02/09(日) 00:54:34.93 ID:i8lOlHP7
一条て五摂家の一条?

301: 人間七七四年 2020/02/09(日) 13:02:26.37 ID:PfaJpCW3
YES

初代 教房
土佐一条氏は、1468年(応仁2年)に一条兼良の子で前関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに起源を有する。
鎌倉時代末期から室町時代にかけて敷地氏・布氏・入野氏などが幡多荘の押領をもくろみ、更に戦乱による所務不振に悩まされることになり、その安定化を図る目的もあったと考えられる。
教房は幡多郡を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として「中村館」を置き、以後「中村御所」と称された。
また、教房とともに公家や武士、職人なども幡多荘に下向するなど、中村繁栄の基礎を築いた。

2代 房家
土佐で誕生した教房の次男一条房家は京都に戻らずに幡多荘の在地領主となり、中村御所を拠点に土佐の中村に京都さながらの街を築き上げ、官位も正二位まで昇進した。
房家の時代に土佐一条氏は管領細川氏(土佐守護を兼ねる)と土佐を二分する勢力となり、公家としての権威を維持したまま同国に勢力をもつ大名として存在感を高めた。
嫡男房冬の正室に伏見宮邦高親王の娘、側室には大内義興の娘を迎え、更に娘を伊予の西園寺公宣に嫁がせるなど、公武の有力者との婚姻を通じて土佐一条氏の安定を図っている。
また、房家の次男一条房通は京都の一条家の婿養子となって関白に昇進している。
永正の錯乱(1507年(永正4年))により細川氏が中央に引き上げてその影響が消えると、土佐国は「土佐七雄」と呼ばれる七国人が割拠する状態となった。
土佐一条氏はその上位に立ち、盟主的存在を担った。

302: 人間七七四年 2020/02/09(日) 13:53:00.55 ID:9RQMhKfv
なるほど、全国にある一条家の所領に土着して戦国大名になったのか
北畠や姉小路みたいな感じかな

305: 人間七七四年 2022/01/19(水) 22:12:26.70 ID:i5LLP18n
教房の第二子で中村で生れた房家を初代として、房冬、房基、兼定、内政の五代を、一般に土佐一条氏と呼んでいます。
https://www.city.sukumo.kochi.jp/docs-26/p0108041231.html

引用元: ・【暗君】一条兼定【暗君】