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1: 世界@名無史さん 2010/09/10(金) 07:58:05 0
どちらも初代皇帝は戦下手だけど人望がある








115: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 01:25:55 0
中興の祖と称えられる光武帝とセウェルスだが、どちらも国家衰退の元凶とも言われる
光武帝は外戚と宦官の台頭を助長しセウェルスは不必要な軍事費支出で財政を悪化させた

120: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 08:30:43 0
>>115
外戚は光武帝関係ない。
むしろ外戚を排除するために内官を宦官に限ったわけだから、むしろ対策した側。
前漢だと中常侍などの内官もバリバリ外戚が入り込んでた。

宦官の件は助長したといっても問題ないだろうが、幼帝が続かなきゃ大丈夫だった問題でもある。

135: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 15:19:42 0
>>115
外戚の台頭は3代目の章帝からだろう
光武帝の頃は后2人の一族はどっちも粛清されたり自重したりしてる

136: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 15:49:42 0
>>135
五井直弘氏などの本でも、親族重視の「親親主義」に移行したのは章帝からだといわれているね。
光武・明帝の時期までは、どれだけ功を上げても外戚の官位は九卿までだった。
後見役である太傅も、明帝が遺言して章帝につけたのは、昆陽の戦いにも従軍した功臣の一人で、昆陽では満身創痍の重傷で帰還した、たたき上げの軍事・外交・辺境事務の専門家であった趙憙。
白虎観会議で儒学の経典を定めた章帝の子の和帝からは、太傅・録尚書事が外戚に占められるようになる。

宦官問題も、実は順帝が一番大きい罪を犯している。
宦官に財産の世襲と家督を養子に継がせることの許可を出したことにより、本来宦官が私腹を増やしても個人の範囲を超えようがなかったのが、宦官の周りに親族集団を形成させてしまった。

116: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 02:07:46 0
本当の意味でのローマ崩壊の原因はカラカラ帝っつう気もするが。

119: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 08:04:00 i
セヴェルスはまだ功罪両方って感じだけどカラカラはやる事なす事ほとんどマイナスって印象

118: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 07:50:15 0
>>116
一人の人間に全ての原因を帰する事はおかしいと思うが……
それにカラカラ以後も200年続いてるんだから。

138: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 16:51:57 0
光武帝とセウェルスじゃ人格・功績ともに違い過ぎるだろ

139: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 17:51:03 0
混乱期を経た国家の再構築っていう意味ではカエサルやオクタヴィアヌスに近いよな

140: 世界@名無史さん 2010/09/18(土) 19:53:38 O
光武帝ならディオクレティアヌスが同格だな
やったことが派手だから後世には酷評だが近代に再評価された

149: 世界@名無史さん 2010/09/19(日) 19:23:34 0
カラカラはローマ市民権の何たるか、権利と義務の何たるかを理解してなかったよなあ
権力者が国民をコントロールする肝をわかってなかった

121: 世界@名無史さん 2010/09/17(金) 14:48:59 0
学術論文とかだと漢王朝の滅亡理由は対外的には気候変動、対内的には漢王朝VS名士≒豪族の対立構造が理由とされてることは2chでも無視されがちだな。
最後の四つの皇帝のうち儒学を重視した人間はいない。
桓帝は仏教を重視し、霊帝は兵家と経済を重視し、少帝、献帝は傀儡だった。
霊帝は太学出身の儒家を廃して新しい学校を作り更に下層や別のノウハウを持った人間の登用を促進した。
豪族が貨幣を寡占していることを憂い、売官によって貨幣を吐き出させ、改鋳して流通量を増やした。
結果従来の儒学を重んじ、貨幣寡占で小農民を支配する豪族にものすごい反発を受けた。
だが、実際には秩序を取り戻し、彼の治世の前半にあれほど見られた反乱が後半には存在しない。
改革を完遂しないまま死んだが、その改革は曹操らに受け継がれた。

177: 世界@名無史さん 2010/09/20(月) 23:47:49 O
世界史板ではしばしば、ハンニバルと劉備軍が戦ったら関羽は象に踏まれて死ぬだろうという憶測でしかない発言が見られるが、中国では春秋の呉楚の戦い(伍子胥の頃)に楚軍の象兵は直進しかできず、その進路を開けて通せば真直ぐ行ってしまい再び戻ってはこないことが見抜かれていた。
春秋を諳じることが出来るほどの教養人だった関羽がその古事を知らないはずがなく、象兵が来ても冷静に対処できるでしょ。
で、両翼だけになったハンニバル軍を包囲して殲滅すれは劉備軍の勝ち、あら!?孔明なしでも余裕で勝てんジャン!

179: 世界@名無史さん 2010/09/21(火) 04:32:39 0
>>177
意味解らんが、ハンニバルの勝ち戦に象はほとんど絡んでないぞ。それに、呉楚の戦いのあれは、苦し紛れにペットの象を放して突進させただけで、人が操る象兵じゃない。
ってか、ハンニバル対劉備なんて面白くもない対決、世界史板の住人が本当に想像したのか?
他に名将がいくらでもいるのに。

182: 世界@名無史さん 2010/09/21(火) 08:25:40 O
ハンニバル対韓信ならおもしろいがな

185: 世界@名無史さん 2010/09/21(火) 10:31:16 0
ハンニバルは項羽に似ているんだよな。
何度も何度も勝っているのにその勝利が勢力拡大には全く結びつかず、虚しい勝利を重ねるだけで最後に手痛い大敗北を喫してアボーンするところが。

195: 世界@名無史さん 2010/09/22(水) 15:42:10 0
>>185
「戦術の天才、戦略の天才にあらず」というやつだな

196: 世界@名無史さん 2010/09/23(木) 11:37:31 O
ハンニバルは戦略も大したものだったよ
相手が悪かっただけ

197: 世界@名無史さん 2010/09/23(木) 12:41:03 0
元老院の1/4が戦死しても戦意喪失せずに戦い抜くからな、当時のローマは違う意味で全盛期だ

198: 世界@名無史さん 2010/09/23(木) 12:45:58 0
相手が悪いというより、本国が駄目すぎな感じが

199: 世界@名無史さん 2010/09/23(木) 13:09:10 0
本国は確かにハンニバルに非協力的だった
ただ、アルプス越え・北方からのイタリア半島侵攻はヒスパニアのハンニバルの独断だったし、本国としては農業で国庫は潤ってるんだからローマなんかと戦いたくないという考えがあった
これは駄目すぎと言えるものではないと思う

200: 世界@名無史さん 2010/09/23(木) 21:10:40 0
本国の悪い点は戦争を続けるにしろ、和平を結ぶにしろ、徹底的にそれを行わなかった事。

201: 世界@名無史さん 2010/09/24(金) 08:34:07 0
本国の貴族はマジで足引っ張っただけだったな。

そしてローマも基地外じみてた。普通の国家ならとっくに降伏してる。
ピュロスしかりハンニバルしかり、戦闘に勝っても戦争に勝てない。

202: 世界@名無史さん 2010/09/24(金) 10:57:54 0
ある意味カルタゴ人の方がまともだったと思うよ。あれだけ指導者階級失ってなおかつ、それ以上の大軍編成してくるローマが異常。

203: 世界@名無史さん 2010/09/24(金) 18:33:11 0
>>200
中途半端なのはハンニバルも同じ
ハンニバルはローマを包囲するか、すぐにカルタゴに帰るべきだった

204: 世界@名無史さん 2010/09/24(金) 19:09:18 0
当時の都市は要塞でもあるからこれを攻略するには籠城戦で何カ月も時によっては何年も包囲しなければいけない。カルタゴも陥落には3年かかったし、ローマが反逆したカプア・シラクサ攻略にも2年かかってる。
また当時の首都ローマの人口は50万前後、奇襲でもして速効で落とさない限り包囲するどころか逆に包囲されかねない。しかも背後は敵だらけ。また本国に帰っても益は少ない。
ローマに回復の機会を与えるだけ、ハンニバル的には戦争が終結しない限りは相手の領地に留まって相手の兵力を損耗させて、相手の生産物で軍団養っていくしか方法なかっただろう。

205: 世界@名無史さん 2010/09/24(金) 19:21:09 O
まあ、戦略としては地道にシチリアを占領した方がよかったな
アルキメデスという最強軍師もはいるし、補給もしやすい
シチリアでローマを打ち破り続ければ、いつかローマもおれただろ

206: 世界@名無史さん 2010/09/24(金) 19:28:09 0
ハンニバルがイベリア半島の兵を使ってイタリアを攻めたからスピキオに簡単にイベリア半島を落とされた
ハンニバルはローマを攻めないんだったらイタリアの地方都市を落として略奪でもして兵を慰撫してからイベリア半島に帰ってからヨーロッパの植民地でも増やしたほうが良かったと思う
イタリアに残るんだったら、イベリア半島への退路のイタリア北部は押さえとくべきだった

208: 世界@名無史さん 2010/09/24(金) 21:46:57 0
ハンニバルに負けても負けても最後に勝ったローマと項羽に負けても負けても漢を作った劉邦。
ローマが集団体制で勝ったのに対して個人で一から国を作った劉邦。興味深いね。

238: 世界@名無史さん 2010/09/26(日) 09:31:20 0
>>208
劉邦軍も層が厚いからな
劉邦なんて元祖人徳だけの男だし

245: 世界@名無史さん 2010/09/26(日) 14:59:49 0
>>238
劉邦は大して人徳ないだろ・・・
個人的に嫌う人間は多かったし、諸侯も形勢不利になると普通に離れていった。
劉邦のもとに人材や群雄が集ってきたのは、項羽が上司として働き甲斐がなさすぎたから。

246: 世界@名無史さん 2010/09/26(日) 15:23:18 0
人徳というか、人望はかなりあったと思うぜ。
なけりゃあの各元王国の独立性の強い時代に諸王に推戴されて帝位にはつけなかったろうし。
帝位についた同年に韓信の与党とも言える代王の粛清をやって反乱されずにはいられなかったろう。

あと敗北で諸侯が離れるのは当然だろう。
元から群雄として劉邦とは別に独立して功績上げてきた連中が、戦国時代の各々独立性強い土地柄に拠って立ってるんだから。
戦国の覇者が大敗で覇者の権利を失うのと同じ原理。
おまけに秦の統一に反感を持っていた人間も多いんだから、儒教普及後の一体感のある中国とは話が違う。

韓信に離反を勧めたカイ徹の逸話や、後の粛清の多さから逆算してしまうから、嫌ってるやつが多いとかそう思われがちかも知れんが。

210: 世界@名無史さん 2010/09/24(金) 22:15:33 0
小さな地方都市から始まる事
互いに強力なライバルがいた事、
最後は歴史的に長く対立してきた民族同士の戦いになる事、

後何があるっけ共通点

211: 世界@名無史さん 2010/09/24(金) 22:37:04 0
色んな国の文化や制度を吸収して大国へと上り詰めたこと。
奴隷階級からの脱出が建前上容易だったこと。
後に宗教の受容によって変質すること。

254: 世界@名無史さん 2010/09/29(水) 19:50:49 O
ローマには軍師って人物がいないんだよな
なんで?

255: 世界@名無史さん 2010/09/29(水) 20:35:28 0
>>254
非常に平たく言えば、
軍師=全軍司令官=コンスル本人だから。
じゃあ皇帝に相当するのは誰かといえば、元老院ということになる。
要するに、例えばスキピオというのは「元老院の軍師」という面が明確にある。
SPQRつまり共和政体というのは、本来そういうものであって、軍師なるものは、君主制特有の概念。
そう考えると、中途半端な貴族政だったカルタゴにおいて、ハンニバルという人物が、実に微妙な位置で戦争を遂行していたことが分かる。

ローマの実質を、(非民主的・非共和的な)寡頭貴族制と腐す人は多く、(こういう非難のしかたは、アテネ以来の伝統でもある)ある意味で本質をついているが、単に王政が寡頭制になった典型例であるカルタゴの貴族制とは、少なくとも建前の上でかなり質が異なることに注意が必要。

256: 世界@名無史さん 2010/09/29(水) 21:32:57 0
むしろ君主制特有っていうより日中特有の文化だろう>軍師
他の国じゃほとんど見ない。
賓客文化+東亜的君臣文化の融合+官僚制の先進的発展という要素が複雑に絡み合って生まれた気がする。

257: 世界@名無史さん 2010/09/29(水) 21:42:55 0
日本だって軍師なんて殆ど馴染みないだろ
大抵はフィクションか他と変わりのない家臣団の一人だったとかだろ

259: 世界@名無史さん 2010/09/30(木) 01:02:05 0
そういやローマ軍には軍師はいないな。
劉備に対する孔明みたいな存在が

ハンニバルやカエサル、スキピオやトラヤヌスら、武力・知力・統率力に秀でた彼らに、更に軍師的存在がいれば最強だったのに

そもそも、軍隊における軍師的ポジションがなかったのかな

263: 世界@名無史さん 2010/09/30(木) 08:17:37 0
>>259
ローマは帝政後期を除くと文官と軍人と政治家の区分がなかったしな。
政治も外交も文治も軍事もできるのが基本だから、軍師という一種の専門職が出ようがない。戦術・戦略を進言する人間がいても、それは幕僚になるからな。

264: 世界@名無史さん 2010/09/30(木) 09:20:58 0
共和制以降は、統率力や判断や経済観念や調整能力のある人材が国のトップとして選出されるシステムだからね
この能力自体が軍事にも必要なこと

軍師に相当するものなら確かルビゴン渡河前に袂を分かったカエサルに対するラビエヌス
それとオクタビアヌスに対するアグリッパが有名だね
その他も歴史上に出ないだけで、コンシリオリ(助言者)習慣のあるローマじゃどの時代にもいたかと

266: 世界@名無史さん 2010/09/30(木) 12:32:39 0
>>264
ラビエヌスやアグリッパが軍師的位置づけは無理があるだろう。ラビエヌスは別働隊の指揮官が多いし、アグリッパはほとんど軍事総司令官に近い。
そりゃ、軍師のイメージにもよるが、中国的な総司令官の傍らにあって実戦指揮官と別に政略、戦略の助言を行う文人的な軍師というのはローマ軍にはないだろ。
軍組織の中の配下の軍人という立場で進言・相談相手になる者はいただろうが、それはあくまでも参謀になってしまう。この辺は中国史でも軍師扱いにはなってないぞ。

265: 世界@名無史さん 2010/09/30(木) 09:58:52 0
「賓客」を重視して歴史に多く記述した中国人と、指導的役割にあった当人を重視したローマの歴史叙述方針の違いというのはあるかもね。

274: 世界@名無史さん 2010/10/01(金) 12:08:42 0
まあ、ゼネラリストたるべしがローマの方針
今で言う役場のヨロズ相談所から始まって、法務や財務徴税責任の担当もこなし、幅広いキャリアを重ねて執政官、執政官が終われば支配地域の全権代行で、その中の一部が国庫責任者
つまり国のトップは政経軍事内外交総務全てを経験して選出される
だから一つのことを掘り下げるなんてことはそうそうできない

実体験の積み重ねを通じなければ、専門分野で客観的に観ても独自且つ的確な判断なんて無理
その意味で共和制時のマリウス、スラ、ポンペイウスは軍略の実地と専門教育を受けたミリタリー出身
カエサルは後年十分な経験を得たが、専門外の非ミリタリー系
叔父がマリウスで、その威光を引き継ぐ形で平民の狂信軍団がいた結果で、ガリアブリタニア制圧=カエサルが偉大な戦術家かといえるかどうかは疑問
自身で戦術を練ったのではなく、配下の意見を採用したと見るほうが妥当かな?
もし全てが自身の発案であれば、例外中の例外でしょ

カエサルに限らず戦術については軍事の生え抜きにやらせて、ローマトップはその案を採用するかしないかの判断位でしょ
広く浅くがローマの方針だから、いくら有能でも軍略に精通してる人はそうそういない
また前述のスラやマリウスでもアドバイザー=コンシリオリとしての軍師に相当する軍事顧問は当然居たと見るべき

275: 世界@名無史さん 2010/10/01(金) 13:20:00 0
カエサルは全ヨーロッパ(面積や人口は中国と同じくらいだよね)レベルの名将だと思ってたんだけど、部下の人選が良かっただけなのかもね
そう考えるとカエサルは劉秀より劉邦に近い気もしてきた

281: 世界@名無史さん 2010/10/02(土) 07:34:30 0
>>275
そりゃ能力的に互角でも己の野心を抑えるラビエヌスがいたからさ
平民出身だから限界があるし、カエサル四面楚歌状態で自分の感情よりも建前の義理を優先させるなんてそうそうできない
理性と計算した寛容の権化で仕方ないと割り切ってても、唯一カエサルが感情を残した一件
それとカエサルと兵卒の間との細かな不満が噴出しないための調整役で兵卒クラスでも親近感のあるアントニウスもいたから、ユリウスは確信があっても下が首を傾げるような奇策命令が出ても粛々と実行してくれたんじゃない?

276: 世界@名無史さん 2010/10/01(金) 13:26:06 O
カエサルが率いた軍は勝ち、カエサルがいない軍は負けたのは劉邦とは違うがな

296: 世界@名無史さん 2010/10/09(土) 06:40:17 0
当時は中東のほうが先進地域だったんですか?

298: 世界@名無史さん 2010/10/09(土) 08:02:34 0
>>296
宮崎市定は、前漢時代には先進国たる漢に黄金が流入し、後漢時代には西アジアという更なる先進地域が出来たことでそちらに黄金が流出することによって、後漢が不景気になって荘園経営による自給自足生活が中心になった、という考え持ってたな。

ただ、宮崎氏が西アジアというのをどこをイメージしてたか分からない。普通に考えれば時期的には帝政ローマのシリア属州辺りじゃないかと思うが。

301: 世界@名無史さん 2010/10/09(土) 09:42:19 0
>>298
西アジアは昔から先進地域だし、遠方だから不景気になるほど黄金が流出したとは思えないけどな
インドならまだ分かるけどな
不景気は宦官や外戚による悪政が主な原因だろ
漢代は製紙方や潮汐の発見や名刺の普及とか科学や文化が発展した時期だから西に比べて劣るってはいないだろう
ただ西ユーラシアは建築や建築美術は中国より優れてたと思うけどね

宮崎市定が生きた時代は西洋至上主義の時代だから西ユーラシアよりになったのかもしれないな

329: 世界@名無史さん 2010/11/01(月) 13:23:45 0
>>301
先進地域だからこそ、黄金が流出するんだろ。
使いたいものが沢山ある、だから、宝飾品以外に使用価値の無い黄金で、色々な産品を買う。

302: 世界@名無史さん 2010/10/09(土) 10:16:21 0
>>298
漢の不景気は因果関係が逆で、豪族の伸長による富の偏在と貨幣不足が原因だと思うがな。
後漢豪族の特徴として貨幣を抱え込んで放出しない傾向があった。
ついでに言うと、後漢は西域が統制下から離れがちなのでシルクロード経由の貿易は途絶えがちだった。
それで南方経由の貿易が発展するんだけど。

個人的には実を言うと不景気じゃないような気もするんだが。
近代で言えば好景気による財閥の伸長みたいな形に突入していってだんだん中央政府の統制から離れたんじゃないかと。
漢の画像石関連の美術は後漢になってから爛熟していくし。

303: 298 2010/10/09(土) 18:23:53 0
黄金の流出による通貨不足、それによる豪族による通貨の抱え込み、だったと思う。
景気変動は世紀単位のマクロなレベルでのこととしての話だった。
詳しくは絶版だが、中公文庫「大唐帝国」にある。
ただ、宮崎氏も漠然としたイメージ的な感覚で書いていたと思う。

俺もちょっと今は首肯しかねる考えだとは思うけど、この本自体が中国の時代区分に関して
中世を定義することで、中国史の世界史的な統合を狙った、かなり野心的な内容だからな。
中央アジアが抜けてしまうのは、やっぱ時代の限界だとは思うけど。

304: 世界@名無史さん 2010/10/10(日) 20:39:39 0
ローマ帝国の末期は政府支出の大幅な増加と蛮族に対しての同盟・友好国の維持という建前の朝貢で通貨の価値が大暴落していったのは史書でも考古学的発見でも証明されてるけど、漢朝の場合は豪族の伸張による貧富の格差の方が大きくないか?
あまり外部への通貨流出というイメージはないな。本来ならそういった問題を是正すべき政府が幼帝・外戚・豪族関与・汚職官吏・宦官等で無能かつ重税を課すって事で自己崩壊→三国時代突入ってイメージだけどどうかな。

305: 世界@名無史さん 2010/10/10(日) 21:05:05 0
>>304
というより、
A「皇帝・外戚・宦官」
vs
B「豪族・地方官吏」
という対立軸と、
a「皇帝・宦官」
vs
b「外戚・豪族」
という対立軸があるのよ。
ラージの方の対立軸が皇帝が大人になったあと、外戚排除後の構図。
スモールの方の対立軸が党錮の禁や外戚排除前の構図。
外戚排除後なのに新しい外戚が入ってきたりするのよね。
んで政争の多さで政策が疎かになっての崩壊。

あと「重税を課す」は間違ってる。
地方武力の欠如によって税を課せなくなるのが後漢の崩壊理由。
当時の実相を詳細に書いた名士の崔一族の著書によれば、
「朝廷は収穫の三十分の一税を課すといっているが、実際は用百分の一にも満たない税になっている」
「これでは豪族が伸長するばかりで、平準化など出来ようはずもない。」
と言っている。
ぶっちゃけた話、現代みたいなセーフティネットの存在しない&武力が無い事でその予算の確保が難しい状況で、新自由主義の欠陥が噴出したという事態にに近いイメージを持っていただければ正しいんじゃないかと。

306: 世界@名無史さん 2010/10/10(日) 21:14:07 0
日本史で言えば平安時代に近い?

307: 世界@名無史さん 2010/10/10(日) 21:35:09 0
近いといえば近いかも。
それで結局地方軍閥の力に頼らざるを得なくなる。

ただ他の国と違うのは、その軍閥のスポンサーに多く豪族がつき、にも関わらず儒学の建前上から官吏の世襲を否定して、その矛盾から試験制による門閥貴族とというヘンテコな形態に移行すること。

それと説明し忘れたんで、なんで地方武力の欠如による徴税不能が直接崩壊に繋がるかという事を説明すれば、
・豪族の伸長によって豪族に隷属する小農民の割合が増えることによる不満の噴出。
・徴税できないのと同時に豪族の不法行為への対応ができなくなる。
・様々な乱の鎮圧が遅れる。
・税が少ないので公共事業が出来ない。
・官吏の給与が満額払い難くなることで、地方官吏の腐敗を招く。
・豪族の伸長によって賄賂の捻出が容易な層が増え、収入の面で地方官吏と豪族の間の格差が広まる。
これらが複合的に噴出してくる。

引用元: ・漢王朝とローマ帝国