1: 日本@名無史さん 2010/02/09(火) 04:18:41
律令時代に出来て幕府滅亡まで延々と続いた国司について語るスレです








2: 日本@名無史さん 2010/02/09(火) 06:43:40
国司が完全に地方官としての実態を失うのはいつなんだろう?
平安末期、源平時代は、知行国主のもとで国司の任命や目代の派遣が行われていたし、鎌倉時代も国司と守護が共存する公武二元体制だった。

10: 日本@名無史さん 2010/02/10(水) 11:37:08
>>2
>国司が完全に地方官としての実態を失うのはいつなんだろう?

国司は中央官僚じゃないかい?
郡司以下は地方官だろうけど。

21: 日本@名無史さん 2010/02/12(金) 21:48:28
>>10
通常使われる用語としての地方官は、地方統治に関わるという職務に着目しての分類だから、国司も郡司もともに地方官で良いんじゃないかな?
郷長や、郡書生とかまでおりると、官じゃないってことで地方官って言えないんだろうけど。
3: 日本@名無史さん 2010/02/09(火) 18:02:54
国府が無くなったのっていつ頃?
鎌倉時代には一応はあったのか?

4: 日本@名無史さん 2010/02/09(火) 19:43:44
平家物語の作者と言われているのが後鳥羽院の時代の信濃前司行長なる人物だが、信濃前司(しなののぜんじ)っていうのは、前信濃国司(信濃守?)ってことだから、その頃は普通に貴族の国司がいたってことだろうね。

建武の新政では各国に守護と国司を併置して、楠木正成も河内守に任命されてるけど、その後、守護の権限強化が進んでいくから、国司の消滅はやはり南北朝の混乱期?

88: 日本@名無史さん 2010/02/28(日) 02:44:29
つくづく思うのは、国司制度の元で税は本当にちゃんと中央に届いていたのか、ってこと。
最初期から末期まで、どこまでもザル状態じゃね?
朝廷や貴族、どうやって暮らしてたんだ

89: 日本@名無史さん 2010/02/28(日) 03:45:17
令制に則って人民一人ごと田地一筆ごとにきっちり国内を統治するのが国司の本分だったけど、所定の官物が貢納されれば国司に丸投げでいいやという投げやりな方針に替わってからは、国司という名目の存続と国衙領や国司機構の存続を同列に論じるのはあまり意味が無いだろう。
とりあえず上がりを納めさえすれば、統治様態は在地の現況に合わせて適当にやってりゃいいんだから。

そういう意味では、国司や知行国主の名目を以て現地に下向して、在地の有力者経由とはいえ、現地からの収奪で生活したり、幾らか懐に納めたりした公家は、当世的受領と言えるかもしれない。
周防の大内氏や越前の朝倉氏に寄寓した公家衆とか、諸国を漫遊した近衛前久とか、そういう名目があったようにも思えないし、受領層より遥かに高位の堂上だけど。

しかしながら国司は、派遣された地方官として、官物を収納したら中央の朝廷に送らなきゃいけないが、僻遠の土佐一条氏や陸奥浪岡氏がそんなことを継続していたとは思えない。
先に挙げた公家衆も、自分の糊口を凌いでいただけだろう。皇室にお裾分けしていたのか。。
北畠氏は偶々近国だったから何かしらの貢納をしていたかもしれないけど。

朝廷にとっては、下心見え見えでも金品を貢ぐ在地勢力の方が、よほど国司っぽかったに違いない。
ただ、各地の武家が献金しても当該地域の国司に任官した例はそんなに多く無い。
先任や他家、守護との兼ね合いもあったろうし、国司の官位相当はあんまり高くないし。

90: 日本@名無史さん 2010/02/28(日) 12:54:41
下級貴族が一番なりたかったのは国司
国司の俸禄自体は高くないから租税をピンハネしていたんだろうね

92: 日本@名無史さん 2010/02/28(日) 22:53:27
税をピンはね、というより、本来は国に納めるべき税(国衙領の収益)を国司に給料に当てる、と言うのが知行国制
ピンはねどころか、国には一切納められない事になる
国家の財政収入はゼロ
でも政府が倒れないのは、貴族も上皇もみんな荘園を持っているから
造営も軍隊も財政ゼロの朝廷には賄えなくなっている、だから、持っている人にお願いする
大番として武士を都に召し出して警備に使ったり、乱の鎮め、政敵を葬る武力として使う
内裏の修理や造営についても、適当なものに命じて行わせ、褒美に官位をあげる
それで全てが回っていた

95: 日本@名無史さん 2010/03/03(水) 01:47:26
室町守護~戦国時代の大名あたりは国守の任官あまり受けていないの?
古くからの国主とも言える武田や島津も甲斐守や薩摩守受けていないし

97: 日本@名無史さん 2010/03/03(水) 10:10:23
>>95
島津貴久や毛利元就は、陸奥守を任官しているね。実効支配地にはこだわってない。
家康の三河守任官は逆にこだわったもののようだが。

98: 日本@名無史さん 2010/03/04(木) 20:38:41
>>97
戦国時代、既に国ノ守(国司)は、実体のない地位だったですけど、戦国大名の実効支配地への国守任官に付きましては、朝廷は慎重だったらしいです。
理由は、朝廷が「お墨付き」を与えように誤解されるのを嫌ったようです。

106: 日本@名無史さん 2010/03/07(日) 12:25:13
鎌倉期以降の国司は専門書読んでもイマイチ解らないからな
詳しい人の解説待っているぜ

107: 日本@名無史さん 2010/03/07(日) 13:41:15
よく国府が形骸化して守護などの武家に乗っ取られたと言われるけどそれ以上は解らないよな。

108: 日本@名無史さん 2010/03/07(日) 14:15:51
ただ、源平時代の頃から目代とか在庁官人は、荘官とかと同じ在地武士だし、仕える相手が朝廷や貴族から鎌倉殿になったというだけで、地方支配の実態はそんなに変わらなかったのではなかろうか。

109: 日本@名無史さん 2010/03/07(日) 14:43:39
鎌倉幕府知行国って国司の任免権を持っている以外は国衙の税はきちんと朝廷に納めていたのか?

110: 日本@名無史さん 2010/03/07(日) 15:09:18
知行国制度って、院や上級貴族の収入源を確保するため、国衙の税収を丸々、知行国主になった人物に与えるんじゃなかった?
だったら、関東御分国の国衙の税収は鎌倉殿のものになるんでは?

111: 日本@名無史さん 2010/03/07(日) 17:31:54
>>院や上級貴族の収入源を確保するため

国内の荘園に関しては、知行国主である鎌倉殿が領家への進納を保証する責務がある
国衙領に関しては知行国制度が始まった頃から知行国主の取り分、つまり幕府が収納するのかな
これら一連の施策って、朝廷への税を回復するの為に出されたものじゃ無いよ、すべて荘園領主の権益確保が目的
鎌倉幕府をその実行者として使おうとする考えは、寿永二年の宣旨ですでに端緒が見えるよ

114: 日本@名無史さん 2010/03/07(日) 19:56:49
>>>106 >>107
基本的に鎌倉時代は、「公武二元支配」はご存知だと思います。
承久の変までは、東国は幕府中心支配、西国は朝廷中心支配で、その後幕府支配(新補地頭の設置などで)が西国まで及んでいったとの説明が、多いです。

その頃鎌倉後期の支配の実態は、どうなんでしょうね
上横手雅敬氏などは、「公武二元支配」ながら、あくまで朝廷が全国の支配者で、幕府はその補完勢力だとの学説もあります。
本郷和人氏いわく鎌倉後期は、よくわからないというのが実態だそうです。
さらにその後、後醍醐の倒幕・建武の親政で「国司制度」が一時的に復活したのは、ご存知のとおりです。

124: 日本@名無史さん 2010/04/26(月) 17:33:42
国司としての仕事があったのはいつ頃まで?
室町時代は守護が支配地の国司になる事って多かった?

125: 日本@名無史さん 2010/04/27(火) 23:36:04
>>124
難問ですね

ア 一般的には、南北朝末期室町初期の義満政権のころに朝廷権力は、幕府に接収され、地方支配の拠点たる国司・国衙機構も守護に吸収されたとの説明が多いです。

イ 私の私見ですが、鎌倉中期の「承久の乱」を契機に、幕府は東国政権から全国政権となりました。
鎌倉後期には、朝廷の地方支配(国司制度)は武家政権に圧倒され、形骸化寸前までいっていたと思います。

ウ しかし、後醍醐の倒幕と建武の新政により、朝廷権力が一時的に回復されると同時に朝廷の地方支配制度「国司制度」も実権を回復した。

エ その後、朝廷は南朝と北朝(実際は幕府の傀儡)に分裂し、義満政権(前記ア)で南北朝合一の流れだと思います。

126: 日本@名無史さん 2010/04/28(水) 21:59:30
>>125
鎌倉幕府が、守護・地頭を設置したのちは、朝廷による各国の地方支配は国上層部レベルだけになり、在地は幕府が設置した地頭に支配権を奪われた、との説明もありますね。
やがて、その国司も、守護に職権を奪われていくということではないでしょうか

127: 日本@名無史さん 2010/04/30(金) 01:55:30
>>126
荘園はもともと国司の支配が及ばない聖域では?
荘園はそれ独自の職の体系によって権門に直接結びついていた訳で、その意味では国府に統括されない空白の土地が全国に散在していたと言える
むしろ、その閉鎖的な体制に切り込む様に配置されていったのが地頭な訳で、地頭と守護によって、幕府は国府や朝廷に代わり全国の土地人民を再編成しようとしたとも解釈できる
荘園=もともと聖域 →地頭が侵食
国司の国衙在庁指揮権 →守護が奪っていく

128: 日本@名無史さん 2010/05/11(火) 23:23:35
中世の国司の問題は、「荘園」とは何か? 公領との関係など、荘園公領制の根源問題にも関わってきますね

129: 日本@名無史さん 2010/05/12(水) 21:39:35
「荘園」とは、
中央政府(朝廷)の行政権が全く及ばない治外法権的な地域ではなく、国家に規制された公的な行政単位でもあったとの説明もあります。
事実、内裏造営など重要な国家行事の費用ねん出のための「一国平均役」は、荘園・公領に関わらず賦課されました。

135: 日本@名無史さん 2010/05/19(水) 19:06:54
>>129の引用書籍は、『網野善彦著作集第三巻 荘園公領制の構造』です。
その321頁以下(抜粋)

>そもそも「荘園」とは、何なのか。これはたやすい問題ではない。
比較的最近まで、荘園を私的大土地所有にもとづく農業経営の単位と見て、
・・・。 ・・(中略)・・
しかし、その実態は・・・現地の領主が年貢・公事等を、荘園の支配者である貴族・寺社等に貢納するさいの請負の単位であり、国家に規制された公的な行政単位でもあった。
また、郷・保・名などの国衙領-公領も、荘園と同じく、その国衙に所定の負担を納める請負の単位であり、知行国の制度を通じて荘園と同様、天皇家・貴族・寺社等の経済を支えていた。


が出典です。
そこに、”国家に規制された公的な行政単位でもあった。”との記述を見つけ、>>129のように投稿した次第です。
ウーン!「荘園」(荘園公領制)は難しいです。

131: 日本@名無史さん 2010/05/18(火) 00:38:51
>>129は、問題提起として掲げてみました。
確かに、本所領家内の荘民の相論は、その権門の政所で訴訟を取り扱ったとあります。
引用書籍には、「公的な行政単位”でも”あった」とその両面性を指摘しています。
そう解しないと、朝廷(中央政府)が幕府(鎌倉殿)に対して、公領のみならず荘園にも地頭設置を認めたことが説明できないし、朝廷(鎌倉後期以降は幕府)が、荘園に対しても「一国平均役」を賦課しえた根拠も説明できません。

132: 日本@名無史さん 2010/05/18(火) 01:26:09
>>131
地頭設置は、戦乱間もない国土の中、荘園の治安回復をはかる為ですよ
野党による横領や、戦乱にかこつけての荘官の上納しぶりがあったので、幕府に治安回復を命じたのです
その代価として、荘園・国衙領から1段あたり兵粮米5升を徴収する権利を与えました
つまり朝廷としては、権門の財産を守るために地頭設置を認めたのです
荘園の最上位の領主が認めているのだから、と言うかそっちサイドから出された施策なので、公領のみならず荘園にも置かれて無問題です
「一国平均役」も朝廷サイドの財政難を救う施策なので、貴族も少し自腹を傷めて、自ら所有する荘園にも賦課したと、そういう事です
それをもって、荘園が公的な行政単位、とは言えないんじゃないですか?

133: 日本@名無史さん 2010/05/18(火) 08:51:31
その書籍も「公的な行政単位」であると言い切ってはいないようです。
強弁するつもりもありません。自分もわかないから史実を知りたいだけです。
前者(地頭の件)は、貴族・寺社を本所とする荘園はその設置に抵抗したそうです。
一概にはそう断定できないと思います。
後者(一国平均役)は、室町中期(当時は段銭)まで、約300年も継続して実施されています。
”貴族も少し自腹を痛めて”程度の理由だけでは、この長期間の負担の説明としては少し抵抗があります。

134: 日本@名無史さん 2010/05/19(水) 11:41:16
守護・地頭のごく初期の性質について

「寿永二年十月宣旨」
①源頼朝に、東海・東山両道の荘園・公領の領有権を旧来の荘園領主・国衙へ回復させることを命じる。
②その回復を実現するため東国行政権を承認する。
この年、山陽道・四国・九州は平家、東海・東山道は頼朝、北陸道は木曽義仲に掌握され、朝廷では官物・年貢の運上が期待できなかった。
そこで、頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認したものとされる。

「文治の勅許」
①行家・義経追討のため、諸国に惣追捕使と国地頭を設置する必要を説明し、後白河法皇により勅許された。
九条兼実は、守護地頭設置の申請が諸国の土地の年貢徴収のみならず、土地の管理権を含む権限について許諾を求めるものであることについて驚きを見せている。
これら一連の朝廷と幕府の動きにより、守護・地頭は設置された訳です
朝廷は荘園を守ろうとし、幕府は荘園の保護と上納を請け負う代わりに荘園への「進駐」を認めさせた感じです
やがて、地頭請・守護請というのが発生します
公家と武家の関係が良く現れています、つまり妥協の産物ではあるんでしょうね
「公的な行政単位」の問題に関しては、いまいち性格が掴めません
もちろん、朝廷レベルの公権力 > 荘園 だったとは思いますが
わざわざ記録荘園券契所を作ったりしている事からすれば、律令的な観念では「公的な行政単位」と見なされていた様に感じません
現代の政府が、一般企業を法や行政指導で縛る感じくらいにしか感じません

136: 日本@名無史さん 2010/05/21(金) 23:52:55
「荘園はもともと国司の支配が及ばない聖域」という言葉が、どうも過剰に受取られている様です。
現代においても、法人企業に対して「税」は賦課されます、また商法・労働法をはじめ全ての法に縛られます。
そういった行政権は、荘園に及んだ事でしょう。
私の言う「聖域」とは、国府が直接統治しない私有地という程度の意味です。
現代で言えば、私企業の経営権にお役人が直接介入できませんよね。
かつての律令的なスタンスでは、全国の土地人民は国有であり、経営も国営。
荘園は、その体制を逸脱した存在、公的に荘園を認めてから後は私有・民営の聖域、そういう意味です。

国司について語るなら、その名称や肩書き所有者の推移に留まらず、国司の役割や権限は何か?に触れないと、実態は見えて来ませんよね。

138: 日本@名無史さん 2010/05/26(水) 21:43:40
荘園領主は基本的に不輸不入の特権を有し、朝廷(現地では国司)の施政権が及びにくい地域であることは確かのようです。
かといって、中央政府の施政権が全く及ばない地域でもないようです。
中央政府の中にはその荘園領主権門をも総括しうる機構が存在し、中世国家の統一的な国政運営を担っていたとの指摘もあります。
どこかでも書きましたが、例えばですが、国家機構と権門家政機関が共同して国政執行にあたり、それを総括する国家意思決定機関が、天皇・院・摂関によって構成されたとする学説です。

140: 日本@名無史さん 2010/05/31(月) 00:17:23
>>138
中世国家の統一運営機構については、>>138のような学説もあります。
公領支配は、その頂点に立つ太政官機構(狭義の朝廷)が施政権を行使しえる立ち場です。
他方の荘園支配は基本的に権門家政機関が担当しますが、その「職の体系」の頂点に立つ者は、院(治天の君)です。
したがって、荘公両者を総括し支配しうる存在は、院をおいて以外考えられません。
荘園公領制の時代に院政が行われたのは、偶然ではないと思いますね
ただ、承久の乱後は、幕府(鎌倉)が東国政権から全国政権になっていったので、
朝幕の力関係は、逆転していくことになりますが。

146: 日本@名無史さん 2010/06/20(日) 22:43:13
>>138 >>140
>>138の学説は、白根靖大『中世の王朝社会と院政』序章から引用しました。

147: 日本@名無史さん 2010/06/20(日) 23:13:00
>>138>>140
荘園公領制の時代に君臨したのが院だった
だが、「職の体系」の頂点に立つ院の権威に従わない勢力が生まれてきた、それが鎌倉幕府ですかね
では、武家政権が逆転していく過程に置いて、何が代わって行ったかが議題になりそうですね
「職の体系」は存続したのか、その頂点は公家なのか武家なのか、武家の御恩・奉公の関係は「職の体系」と何が違うのか

148: 日本@名無史さん 2010/06/21(月) 19:23:37
中世の武家政権(鎌倉幕府)の評価にはいろいろありますね。
この時代の朝幕の支配関係(上部支配構造・在地支配構造)は、わからないことが多いです。
批判はありますが、「権門体制論」とかも参考になると思いますが。

引用元: ・国司について語るスレ