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210: 世界@名無史さん 2009/08/14(金) 06:20:27 0
中領軍と中護軍とは仕事の内容が違うの?
どちかも首都防衛軍の司令官という感じしか受けなかった。
三国時代の両者の役割の違いはなんですか?

214: 世界@名無史さん 2009/08/14(金) 18:15:55 0
>>210
魏晋では異なる。
中護軍は外軍を掌る。
つまり帝都の外に滞在する諸軍の考課・人事・訴訟を一手に掌握する強い権限を持つ職だった。
人事権にどのくらいの上下幅があるのか(例えば二品三品の高位将軍の選定にも権力があったのか)などはよく解らないけど、少なくとも部将格の牙門将などを選ぶ権限があったので魏では賄賂が殺到したという。

中領軍は内軍を掌る。
魏では五校尉、中壘、武衛の三営を掌り、禁兵を指揮した。
どうも漢の北軍中候(六百石だった)の強化版らしい。

これは魏晋の制度であって、曹操時代や蜀漢で同等の権能があったとは考え辛いが、すくなくとも中護軍は漢代からある古い職なので、皇帝か宰相に直属して緒将の人事訴訟を担当し法規を護る実務に当たる、という点では大差ないと思う。

216: 世界@名無史さん 2009/08/14(金) 20:27:57 0
>>214
趙雲が中護軍・征南将軍というのは、皇帝劉禅と宰相の諸葛亮直属で、陳到は李厳配下の護軍みたいな感じかな?
それと、223年段階では将軍位では趙雲はあまり重用されていないが、意外と権力があったということかな?

218: 世界@名無史さん 2009/08/14(金) 20:51:18 0
>>216
趙雲は諸葛亮が漢中に駐屯すると、趙雲も漢中に行き鎮東将軍に昇進。
なんか魏延に対抗させてる感じだよね。囮とはいえ、魏延ではなく趙雲に別働隊を指揮させている。

街亭戦の後は王平を重用して、魏延に対抗させてる感じ。231年の北伐では王平が別営を守り、魏延は諸葛亮の直卒下。一応は魏延も230年には一軍率いているが、呉壱という蜀軍の重鎮を同行させて牽制している。
最後の北伐も、魏延が命令に従わなければ放置しろと指示を出している。

うーん、やっぱ魏延は諸葛亮には能力は認められていたけど、信頼はされてないようだね。

232: 世界@名無史さん 2009/08/15(土) 18:39:05 0
>>216
>趙雲
実際の蜀漢で中護軍がどの程度の権力を持っていたのか不明なのでなんともだけどね。
ただ、趙雲の評から見ると、劉備死後の状況で厳正な旧臣に諸将を監護させたかったのだろうとは言える。

219: 世界@名無史さん 2009/08/14(金) 21:06:23 0
魏延みたいな名士に対抗的な軍人には軍権は握らせたくないんだよ。
関羽の失敗という前例もあるし。諸葛亮の死後も遠征続行しようなんて暴走プランを事実もってた。
諸葛亮は名士に対抗的な軍人の魏延を抑えるには、名士に従順な軍人である趙雲や王平に力を持たせる必要があったのさ。

223: 世界@名無史さん 2009/08/15(土) 06:21:51 0
>>219
漢中を獲得したとき、総督に魏延が抜擢されたのも、劉備による名士への牽制かも。張飛みたく名士に愛想がよい人間ではなく、スモール関羽みたいな、名士に対抗的な魏延を総督にすることで牽制したのかも。

趙雲は言動が元々名士に近い考え。
君主権力を確立しようという時期には重用しずらい人物だったのだろう。
諸葛亮が事実上政権を握ると、名士に近い考え方の趙雲は有り難い存在。
しかも皇帝劉禅を救ったという経歴があり、君主の憶えも悪くない。
北伐直前に趙雲が魏延と同等の地位についたのは、名士による軍人牽制の確立だったのかも。当然実質の権限が削られる魏延は面白くない。だから諸葛亮への不満が募る。

237: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 10:56:21 0
>>223 >>232
確かに魏延が何故漢中総督に抜擢された不明なんだよね。
戦功・信頼なら張飛の方が上なんだし。諸葛亮を初めとして荊州系名士への牽制の臭いはするな。漢中総督には張飛がなるという世評も、結局は名士の認識だったのだろう。

劉備が漢中王になると、尚書令は法正、荊州総督は関羽、漢中総督は魏延と諸葛亮中心の荊州名士に対する牽制体制ができている。関羽の失敗、法正の死去、劉備の東征の敗北により、諸葛亮を中心として荊州名士が政権掌握をしたという流れだな。

240: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 12:11:45 0
(三國志検定)一級の問題は

「司馬懿の権力掌握を主に軍事の観点から論ぜよ」

「曹操の人材登用を漢の制度を踏まえて論ぜよ」

確かこんな感じ。

241: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 12:17:13 0
>>曹操の人材登用を漢の制度を踏まえて論ぜよ

これはおれでもこたえられるな。

242: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 12:27:53 0
曹操の軍師・文官は孝廉が多いんだよな
曹操も孝廉だしな
曹操の2大軍師の荀イクと荀攸も孝廉
曹操政権は儒教政権
孝廉(こうれん)は、中国前漢の武帝が制定した郷挙里選の察挙科目の一つ。孝廉とは父母への孝順及び物事に対する廉正な態度を意味する。

元光元年(前134年)、武帝は董仲舒の建議を容れ、毎年国郡ごとに孝者、廉者各1名を推挙するように命じた。やがてこの種の察挙は孝廉と通称されるようになり、漢代察挙制の中の最重要科目としての地位を占めるようになり、漢代の官人の主要な選抜手段となった。
儒教的な教養と素行を兼ね備えている人物が主に推挙された。


243: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 12:40:48 0
でも、答えるのならやっば
曹操「兄よめを盗むようなやつでも才能さえあれば俺に推薦しろ」ってことをかかなきゃならないんでは?
曹丕の人材採用法はそうではなかったらしいけど。

246: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 13:07:23 0
>>243
結局そういう事言っといて、曹操は豪族、名士、親族で固めたって事が重要なんだろ

むしろ曹丕の方が曹操よりもフリーハンドで抜擢とかしてるが、これは皇帝と王までにしかならなかった男の差だな
自分が頂点でないと大鉈は振るいにくい

247: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 13:22:59 0
まあ、漢の政治史の本を読んでると、どうやら孝廉がどのような制度であったかいついては意見が分かれていて、必ずしも儒教重視ばかりの採用法とは言えないという説も多いようだから、

・後漢中期以降の太守の腐敗による豪族との癒着採用の増加
・他薦という制度の限界

という背景があって、その解決のために

・「中央による直接採用方式&自薦も認める」という形の求賢令の発布

を行った。
ってことを書ければいいんじゃないかと。

後漢中期に腐敗が進んでいたことは、能力重視採用の建議がその頃既に行われていることなどを傍証として添えればなおよし。
あと、他薦については、他薦だと明らかに登用し得ない人間は排除されるが、逆に声望がある奴以外の登用は難しい。
そして郷里に自派閥を大きく形成出来る人間というのは、概ね豪族≒名士に他ならないってことを書ければいいんじゃないかな。

248: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 13:33:28 0
>>247
>・「中央(曹操)による直接採用方式&自薦も認める」という形の求賢令の発布
だね。
曹操が能力を重視したのは多分確かだろうけど、「俺が有能と認めた奴を俺の部下に採用する。朝廷にはやらん」という、後漢朝廷の登用制度を排除して曹氏の基盤を固めるための布令であったことは外せない。
だから「俺が有能と認めた奴」の中には、「曹操政権に賛同する名士」が多分に含まれるし、田疇のような名士を丞相府に迎えようとしつこく粘った。

253: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 13:54:33 0
>>248
漢との切り離しは意図としてあるだろうね。
来るべき再中央集権化のために既存派閥でない人間を集めることは意義があったのだろう。
まあ、結局穎川閥の影響をそこまで排除しきれてなかったっぽいけど。
排除する気があったか無かったかは別としてもね。

249: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 13:33:35 0
名士は儒学に詳しい人であって豪族じゃないよ
だから家が金持ちじゃなかった名士もいるよ
ただ豪族は金があるから高い本を買えるから有利
当時は印刷技術が未熟だったから本は高かった

253: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 13:54:33 0
>>249
後漢末の状況としてはおそらくニアリーイコールでおおよそ間違いないよ。
初期あたりだと楊氏が台頭したり、袁氏が台頭したりと純粋な学者だった家が勃興しちゃってるし。
鄭玄みたいな前漢ではそこそこだったけど後漢じゃ落ちぶれて貧乏みたいな特異例もいるにはいるけど。

あと印刷技術が未熟というか、むしろ印刷という概念が無いから写本だったので、人力だから高いのよね。
地方でも書館とかには経典の写本置いてたろうし、一番流通してたのはそっからまた写本したものだろうけど。

254: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 14:08:21 0
鄭玄は遠い先祖が尚書僕射だったけど、本人は貧乏なんだっけ

256: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 14:10:57 0
ていげんは 名声のみは高かりし。という類の人間か。

258: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 15:15:40 0
李典は金持ちなのに名士扱いされなかったみたいだね
名声は糜竺・糜芳のほうが上みたいだね

259: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 15:40:35 0
貧乏名士といえば鄧艾

261: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 16:51:22 0
>>259
貧乏名士では出世№1かな?
功績も抜群だし。
ただ非業の死を遂げたけどね・・・・・・・

姜維も大した家柄ではないよね。
それが敵国だった蜀の大将軍にもなった。

270: 世界@名無史さん 2009/08/17(月) 03:04:26 0
>>261
姜維の父は郡の功曹だったし、姜維自身も若くして州郡の官吏を歴任してるから、それなりの家柄だったと思う。

263: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 17:35:16 0
鄧艾は名士ではないと思うが、早期から司馬懿に引き立てられて下級官吏から成り上がっただけで、名望あっての出世ではないだろ

264: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 18:01:27 0
鄧艾は司馬懿に会う前に上計吏に推挙されてるからなあ
曹丕は孝廉と上計吏を並び評してるから、エリート登竜門の一つなんだろう
司馬懿や姜維は20代で上計掾に推挙されてるんだよなあ

266: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 18:53:49 0
賈逵なんか家は代々名家というが、親父が死ぬと極貧生活。
名士の定義にもよるんだろうが、やはり名士と豪族は乖離があるんじゃないか。

267: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 18:59:54 0
名士≒儒者
豪族≠名士

って事なんでは?

268: 世界@名無史さん 2009/08/16(日) 19:40:46 0
地盤、鞄、人手=豪族
評判、人格、学問、看板=名士

271: 世界@名無史さん 2009/08/17(月) 09:01:10 0
豪族=地主
名士=知識人、特に儒学知識人

273: 世界@名無史さん 2009/08/17(月) 15:23:29 0
曹洪や曹仁は親は金持ちだけど、全然名士扱いされてないと思う
曹仁の弟の曹純は学問好きで18歳で黄門侍郎になった名士
袁術は意外にも孝廉に推挙された名士

黄蓋は貧乏だったみたいだけど、学問に励み孝廉に推挙された名士

275: 世界@名無史さん 2009/08/17(月) 21:06:57 0
月旦なんかの人物評の評価が世間で評判になった人物が名士なんじゃねーの

276: 世界@名無史さん 2009/08/17(月) 22:59:26 0
名士と言ってもピンからキリまで色々な人がいるだろ
月旦なんかの人物評の評価が高い人物が孝廉とかの郷挙里選で推挙され易くなるのは言うまでもないな

278: 世界@名無史さん 2009/08/18(火) 09:45:25 0
名士とは、知識人に名声が高い人だよ
金が必要かどうかはともかく、孝廉に推挙されて高位高官に就けば金持ちになれるわけだ

金持ち名士の例としては、曹純は親の代から数百人の食客がいて、曹純の代になっても学問好きの曹純を慕って数多くの知識人が集まってきたという大名士。

279: 世界@名無史さん 2009/08/18(火) 18:46:06 0
曹純は富豪・豪族で学問好きでパトロンだったろうけど本人が「大」名士というほど評価されていたかな?
郷土や周辺の人間には知名人だったろうけど、「大名士」と呼ぶには初対面の高官や大豪族がすっとんで出迎えたり自分で訪問して礼を払うくらいでないとさびしい

280: 世界@名無史さん 2009/08/18(火) 20:23:42 0
曹純は親の遺産込みの大名士でしょうね
でも将軍や参謀としても有能だったみたいだから、評判倒れではないでしょう
荀イクも親族の遺産の影響は大きいでしょうけど、人を見る目は驚異的ですね
王粲や孔融なんかは本人の才能が高く評価されてるとは思いますが、それでも先祖の名声も小さくはないでしょうね

281: 世界@名無史さん 2009/08/18(火) 20:42:53 0
名士間の諸葛亮の人物評価はSランクだったんだな。
確かにその通りだった。

282: 世界@名無史さん 2009/08/18(火) 20:53:48 0
>>281
隠棲中は微妙だろう
内輪の人間しか評価してない
諸葛亮の評価が上がるのはむしろ劉備に付いて赤壁で勝利を収めてからに見える

283: 世界@名無史さん 2009/08/18(火) 21:13:05 0
まあ、幾ら名声があっても、実際に仕事しなくては評価上がらないよな。
敗残の劉備陣営を孫権との同盟を成立させた外交手腕、赤壁後の素早い荊州南部四郡の占拠が評価を上げたのだろう。

名士に反抗的だった関羽も諸葛亮には一目置いていたみたいだ。
馬超来降時に、諸葛亮からの手紙で大喜びしたとろを見ると、諸葛亮の評価は関羽にとってもポイント高かったのだろう。関羽ですら、流浪の劉備陣営を拠点確保までもっていった諸葛亮は評価しない訳にはいかなかったのだろう。

292: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 01:41:20 0
色々検討した結果、劉備は中山靖王劉勝の子孫ではないと思うようになった
劉備を持ち上げるために蜀の公式見解として劉勝の子孫設定したんではなかろうか

293: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 01:54:07 0
蜀漢とは別のルートで劉備の出自を知っていた魏(幽州を支配しているので)で書かれた魏書を参照し注を加えた裴松之の史家としての良心を信じる限り、魏もまた劉備を中山王の末裔と認めていたことになる。

魏書は現在でこそ散逸しているが、唐代まで残存しており、裴松之注三国志と引き比べて無数の史家の批判に晒されたものであるので、二書の矛盾を裴松之が無視したのならばどこかの段階で誰かが指摘した記録が残るのが自然。
それが無い限り、少なくとも文献考証上は「劉備は中山靖王劉勝の子孫である」として良い。

294: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 02:46:26 0
>>293
魏は認めとらんぞ?
典略では臨邑侯と言ってるし

295: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 09:38:48 0
>>294
あれが魏の公式見解かどうかはわからんぞ。
典略はあくまでも魚豢の私的な著なわけだし。
直接人づてに聞いた情報を全部乗っけてたせいで、かなり雑多であったという評価もある書なわけで。

まあ、どっちにせよ漢の末流という評価は変わらんけどな。
前漢末で10万人になったらしいからな、宗室。
戦国期の希少さを鑑みるに、劉なんていう姓な時点で99.99%漢の宗室の子孫だろうが。
臨邑侯ならむしろ漢の嫡流により近いし。

304: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 18:53:58 0
>>295
>あれが魏の公式見解かどうかはわからんぞ。
>典略はあくまでも魚豢の私的な著なわけだし。

ああ、確かにそれはそうだね。
ただ、魏略(の間違いだった)を読んだ裴松之が本伝「元狩六年封タク縣陸城亭侯.坐酎金失侯,因家焉.」の後に注して「典略曰:備本臨邑侯枝屬也.」と続けたからには、両者を肯定して読めば、「劉貞の子孫は陸城亭侯を失ったのち何代かして功績を挙げ、臨邑侯に封じられた。
劉備の系譜は本はその臨邑侯の(次子以下だったなどしての)分かれである」ということになる。

タク郡にはそれなりの規模の(何しろ県令を輩出した)劉氏一族が残存していたと考えられるのだから、劉備が嘘を付けば即座にその一族や周辺が否定する。
魏略他、魏系列の各種史書に、絶好の反蜀材料になるそのリアクションが記載されていない──正確には、各史書を読んだ史家がそのような記述の存在を匂わせていないというのは、文献考証上は「劉備は中山靖王劉勝の子孫である」として良い、有力な根拠になる。

残された「リアクション」がたまたま全て散逸した可能性も無いではないけどね。

305: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 19:54:04 0
>>304
いや後漢で名前残ってる臨邑侯って3人くらいしかおらん上に、劉勝の子孫だと言う人はいなかったような
もし功績があってそういう褒美があればちゃんと記録残るだろ

306: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 20:35:29 0
>>305
そりゃそうさ
後漢書みたいな大きな史書では全官爵の封廃を網羅表記なんて出来はしないから紀伝体はそういう性質の史書の形式ではない。
臨邑侯では部分的に歴史の動きに関わった三人だけが名を残したにすぎない。
真定王楊の弟で謀反してそこで断絶と判っている劉讓は一代限りで確定だろうけど、劉伯升の孫の劉複の子孫がどこまで続いたか、劉トウジョという尚書がその直系なのか、等何もわからないんだ(どこかに明記があったら御免だけど)。
孔子などの子孫が度々封じ直されているように、この時代の爵位は頻繁に断絶するし、特例を除いて殆どそれは史書に残らない。
劉備が陸城亭侯の裔かつ臨邑侯の分れでも別に不思議では無いだろう。

308: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 21:05:36 0
>>306
漢書は表で「全官爵の封廃を網羅表記」やってたんだけど、後漢書にはないからな

313: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 22:34:35 0
>>308
漢書の表にあるのは侯王とその王子侯と外戚まででない?
王子侯の家がその後どうなったかまでは載ってない

314: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 22:37:50 0
>>313
支族と言われるだけあって結構近いんじゃないかな
ただ、劉備って故地を抑えてた魏と敵対関係だったわけで
劉勝の子孫で臨邑侯の一族ではないっていう公式見解は身内に対する決別とともに、累を及ぼさないようにする最低限の配慮だったのではなかろうかね

317: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 22:46:16 0
>>314
そういう配慮って当時必要だったのだろうか。
蜀や呉の臣は平気で魏の人間と文通してるし。
夷三族の範疇は逃がさなきゃ、くらいの配慮はあっただろうけど、宗族に累が及ぶということはあったのかどうか。
劉備は皇帝まで名乗ったのだから、他の人間とは扱いが違うというのはありえる話だけど…

引用元: ・正史『三国志』 十五巻