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1: 無名武将@お腹せっぷく 2008/05/24(土) 13:29:16 .net
諸葛亮死後~八王の乱あたりまで








44: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/15(月) 21:34:11 .net
諸葛亮の子孫って蜀滅亡後どうなったんだろう?

45: 無名武将@お腹せっぷく 2008/09/15(月) 22:11:47 .net
晋の治世下で太守やってます

47: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/12(日) 21:42:08 .net
陶侃は呉滅亡時には何してたんだろうか

陶侃

陶侃(とうかん、259年 - 334年)は、中国の西晋、東晋の武将

呉が西晋に降伏した後、廬江の尋陽に移り住んだ。若くして父が死去、家が貧しかったが、母・湛氏は髪を売り酒肴に変えて陶侃の交際費用にあてた。范逵の推挙により廬江太守の張夔に仕え、そこで名を上げ孝廉に推挙された。

その後荊州刺史の劉弘の配下となり丘沈・張昌の乱、陳敏の乱の平定に活躍した。永嘉の乱が起こり天下が大いに乱れ、賊が荊州で暴れ始めるとその平定に尽力し、その活躍が王敦の目に留まり推挙され313年に荊州刺史となり、杜弢らの荊州での叛乱を苦難の末平定した。

蘇峻が叛乱を起こすと、子の陶瞻は賊に殺されるも、盟主に推薦されると郗鑒、温嶠、庾亮らと蘇峻を破り叛乱を平定し、その後も郭黙の叛乱や後趙の石勒の将軍郭敬を討ち、大将軍に任命され剣履上殿、入朝不趨、賛拝不名の特権を与えられるもこれを固辞した。太尉に昇進して郗鑒、王導と共に幼少の成帝を支えた。

334年、荊州にて76歳で死去。



48: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/13(月) 12:50:54 .net
その時20歳そこそこだろ?
親父さんが生きていれば早めの引き立てもあっただろうが、普通に考えると自分磨きに精を出していたんじゃなかろうか。
結果的には晋代になってから頭角を現して良かったと思うよ。
呉滅亡時のゴタゴタで若い才人が死ぬのは損失だ。

61: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/25(土) 11:23:08 .net
成都王司馬穎が生きてるのに成蜀誕生とは何たる手抜き

62: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/29(水) 19:57:57 .net
成都王は成蜀ができてからは禄無し?

63: 無名武将@お腹せっぷく 2008/10/30(木) 00:36:39 .net
遥領というのがあってだな

67: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/09(日) 20:25:04 .net
司馬にはロクなもんが居なかったのかね
西晋終わりには一族ほぼ壊滅状態だな

68: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/10(月) 00:37:04 .net
成都王は割と優秀な風だったみたいだが

なにせ八王の乱は敗者だからな
割り増しで悪く書かれてる可能性は大いにある



84: 無名武将@お腹せっぷく 2008/12/13(土) 02:05:14 .net
司馬って祖先は軍人?

86: 無名武将@お腹せっぷく 2008/12/17(水) 10:12:55 .net
「司馬」っていう姓からの推測じゃないの?

87: 無名武将@お腹せっぷく 2008/12/17(水) 10:16:14 .net
司馬ゴウより前は不明なの?

88: 無名武将@お腹せっぷく 2008/12/17(水) 10:17:38 .net
wikipediaでなんだが、司馬姓の由来。
ttp://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A9%AC%E5%A7%93
>周宣王時,重黎之後程伯休父,官至司馬,掌國家軍隊,佐政輔國,權勢重大,程伯休父克平許方,立下大功,周王室允許他以官職為姓,其後遂成司馬氏。

95: ◆8Dxo02Kui. 2008/12/18(木) 22:42:59 .net
周の宣王の時代に程伯休(か程伯休父)という人物が司馬(官職)につく。
その人物は軍隊を掌握し国家を掌握し政を輔弼して権勢を振るった(大いに繁栄した)
(『程伯休父克平許方』の部分がわかりませんが)
大きな功績をあげて周王室から司馬姓を名乗る事を許された。
それ以後司馬を苗字としている。

って事ですかね。
私は漢文に詳しくは無いのでわかりませんが、『程伯休父克平許方』は『許という国が反乱を起こして程伯休父が平定した』って事でしょうかね。
確か、方は古代中国における国ないしは勢力の呼び名だったと思いますし、許という国もあったはずですから、後ろに付く文章と考えますとそんな感じではないでしょうか。

96: 無名武将@お腹せっぷく 2008/12/26(金) 08:10:33 .net
司徒とか司空とかの姓はあるの?

98: 無名武将@お腹せっぷく 2008/12/26(金) 12:16:19 .net
司徒詡、司空頲。
三国時代じゃないけど

105: 無名武将@お腹せっぷく 2009/02/28(土) 12:26:50 .net
なんで司馬懿の一族はバカばかりだったん?

106: 無名武将@お腹せっぷく 2009/02/28(土) 12:48:03 .net
猜疑心と腹芸ばっかで馬鹿のフリでもしないとやってけなかったとか

107: 無名武将@お腹せっぷく 2009/03/11(水) 20:52:41 .net
でも一族の繁栄を考えないバカが多いのは確か

108: 無名武将@お腹せっぷく 2009/03/11(水) 23:36:32 .net
「わが王朝が転覆し、呉は唇と歯のような密接な関係なのに、わが国の危難に同情することもなく、利を求めている。わしはどうして降虜になどなれようか!」
羅憲さんカッコ良過ぎ
まあいくら呉がセコいだけの悪党と言えども圧倒的な戦力差の前には踏みつぶされるのが歴史のリアリズムだが
それをひっくり返したのが三国志通の心を掴んでるんだろうね


109: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/11(土) 21:57:49 .net
でも羅憲は三国志通でも知らないやつが多いからなあ

112: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/19(日) 06:39:37 .net
ラケンってどうにも胡散臭い

113: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/19(日) 08:59:06 .net
そうか?蜀でも珍しい名将の1人だと思うぞ羅憲は。

114: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/19(日) 12:52:02 .net
>>113
そうかなぁ・・・。どうもひっかかるんだよなぁ。

117: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/19(日) 17:36:48 .net
>>114
彼の活躍を伝える書を書いたのは羅氏の姻族だからな
親戚補正がバリバリだった可能性は否定できない

116: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/19(日) 14:53:11 .net
1 敵は本気で蜀を取りに来てる歩協、陸抗
2 祖国が滅亡して四川は鄧艾、ショウ会、姜維の三人で大混乱
3 疫病発生の上、半年間孤立無援

2でモチベーションを維持したのがすごいし、3の状況でも諦めないのが非凡
マイナーだったり夭折したりしたのは過大評価されがちだがどう見ても凄い仕事

118: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/20(月) 07:48:29 .net
書いた側の問題として、習鑿歯は羅氏の姻戚で同じ襄陽出身。で、羅憲のことを地域の史書「襄陽記」で書いている。
まあつまり、華キョウの譜叙や趙雲等の別伝各種などと同じくらいの信頼性ということ。
それらが一概に信用できないわけではないが、他の史料との照合は欠かせない。
この場合は呉書との矛盾点が多い。

読む側の問題としては、羅憲は別に戦闘において蜀漢に貢献したわけではない。
将としてはの功績は魏晋の人物である。そこを歪めてはいけないよな。

122: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/22(水) 19:55:50 .net
晋書の羅憲伝はどうなの?

123: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/22(水) 23:29:06 .net
巴東防衛の下りは襄陽記からの取材と思われる。細かい表現以外はそっくり同じ。

124: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/24(金) 09:21:43 .net
羅憲<呉彦
吾 彦

吾 彦(ご げん、生没年不詳)は、中国三国時代から晋にかけての武将。呉・西晋に仕えた。

出自は貧しかったが文武の才能があった。身長が八尺あり、猛獣を素手で仕留めるなど力があったため採り立てられ、通江史となった。

陶璜が没すると、後任の南中都督・交州刺史となった。着任してすぐに、九真郡の国境守備兵が乱を起こした。反乱軍は太守を追放し、賊の頭目趙祉も郡城を包囲していたが、吾彦はすべて討伐し平定した。その後、20年ほどその任務にあたり、各地の反乱鎮圧に努めたため、威厳と恩恵は広く知れ渡り、交州は静かで穏やかであったという。その後、吾彦は自ら上表して中央に戻り大長秋となった。その後在職中に没したという。


125: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/30(木) 08:02:15 .net
呉彦は310年頃死んだようだが、もしかして異民族に殺された?

126: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/30(木) 19:55:20 .net
大長秋の官で死去だから、洛陽で死んだのだろう

127: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/01(金) 07:48:35 .net
あの頃は洛陽にも異民族が襲撃していたような。

146: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/16(金) 20:48:10 .net
呉征服の時、一般的にはドヨが総司令官とか言われてるよね
でも大元帥はカジュウが務めてて、ドヨは6路の遠征軍の一路を指揮しただけに見えるんだけど、何でドヨが総司令官扱いなの?

147: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/16(金) 21:27:02 .net
演義では杜預が大都督になっているから。
各小説や設定本はそれを受けているのだろう。

なぜ杜預かというと、色々考えられる。
実際に侵攻した諸将の中では、諸大将軍級と確かに最も位が高いこと、蜀漢滅亡後の逸話の中では羊コと陸抗の美談に分量が割かれていて杜預は羊コから都督荊州諸軍事と共に討呉の遺志を継いだとされること、賈充は役柄上、遠征軍の総司令官とするには不似合いだっただろうこと、など。
要するにストーリーの都合だろう。

151: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/17(土) 12:49:19 .net
蜀攻めで司馬昭が総指揮官だけど気にされないのと同じようなもの
というか、賈充は実際のところ遠征中止要請ぐらいしかしてないしね

152: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/17(土) 15:06:37 .net

>
賈充は実際のところ遠征中止要請ぐらいしかしてないしね

いちおう開戦当初は襄陽で全軍を統轄し、江陵が陥落して長江中流域の制圧のめどがついた時点で、呉の首都である建業により近い項に移り、継続して全軍を統轄してる
ここまではまだ波風も立ってないが、武昌が陥落するとこれから夏を迎えて疫病が起こるからと、全軍の撤退と主戦派である張華の処刑を上奏し、ここで生まれた故事が、これに反対する杜預の「破竹の勢い」になると

様するに初めから開戦に反対なんで、特には何もしてないな、兵站と情報収集が主なのだろう

155: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/17(土) 17:42:37 .net
>>152
二州に跨る戦線の統括と兵站で何もしてないとは何ごと

156: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/17(土) 18:30:08 .net
>>155
たしかに
自分でも酷いもの言いだと反省する

157: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/17(土) 22:36:56 .net
>>156
そうでもないだろ
元々、反対派だから、勝ってもうれしくない
杜預や張華が昇進して、勢力が拡大するのも困る
罰せられない程度にやっていただけで、だから、勝ち目があっても、撤退しようとした
邪魔な張華の処分もできたらいいなと思っていたはず
サボタージュが見られないのは、それはさすがに罰せられるから行わなかったのか、それぐらいには真面目に働いたのか、勝ったから誰も上申しなかったのか

次に、撃破できる確実な形勢にして初めて賛成し、自分の手柄にするつもりだったろ

158: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/17(土) 23:29:54 .net
>>157
賈充が武帝の横でしつこく中止を進言してるだけの文吏だったらそれは当たりだっただろうが、実際には殆ど当て嵌まらないな。賈充が張華と対立派閥だったことくらいか。

実際には賈充は、平呉の功績で増封を受けている。この論功行賞で宮廷権力に食い込み得るような大昇進をしたのは孫晧を直接降した王濬くらい(本人は宮廷闘争を避けたが)。
杜預は爵位を進めたが結局官位は数年変わらず、荊州に留まった。

賈充は晋建国の元勲であり、この時既に太尉の大重臣。飾りではない実権付き。
方任の杜預らとは一段以上の格差がある。
この優位は杜預らの思惑が達成された呉討伐の結果でも揺らいでいない。
揺るがないだけの職責をこのあらかじめ確保していた。
後で自分の手柄に、なんてのは道理に合わない。

159: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/17(土) 23:49:47 .net
>実際には賈充は、平呉の功績で増封を受けている。

それはそうだろ。司令なんだから
勝っても負けても自分の功績になるように工作した結果だろうし

>この優位は杜預らの思惑が達成された呉討伐の結果でも揺らいでいない。
>揺るがないだけの職責をこのあらかじめ確保していた。

それは武帝の方針、もしくは賈充の政治工作の結果だろ、それなら成功させても問題ないはず。
孫晧の呉が相手なら勝ち目は高いのは誰でも分かる
より、確実に揺るがない方法を賈充は取りたかったが失敗したので、政治工作で勝利をあげることにしたという見方にとるね

160: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/18(日) 00:49:04 .net
>孫晧の呉が相手なら勝ち目は高いのは誰でも分かる

事後の視点からはそうだけどね。
討呉の案は羊コの時代からあったが、当時の洛陽の意見はそんなに明瞭ではなかった。
だから禅譲後15年も大攻勢を引き伸ばした。279年も群臣の反対を押し切ったものだった。
賈充はその長年の慎重派の一派であると考えられ、攻撃が始まっても前言に固執したと見たほうがいいだろう。
誅殺するしないという深刻さの張華との対立なんてのはそれに比べれば後から出てきた要素だよ。

161: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/18(日) 07:57:11 .net
どちらかというと司馬炎が賈充の面子を潰したくなくて総大将に仕立て上げた感じがする

163: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/18(日) 13:02:21 .net
>>161
多分、それが正解だと思う。

張華は対立「派閥」というほど、権門ではないんだよな。
むしろ、能吏だが権勢はかなり弱い。
だからこそ、後年賈皇后が政治を丸投げしたわけで。

169: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/19(月) 22:04:36 .net
>>163
でも、わざわざ張華を処刑すべしと言って、却下と討伐成功により、司馬炎の前で恥をかかされる必要性はないんだよね
それは後世から見た視点で、当時の皇帝権力が相当なものだから
万が一、司馬炎+張華対賈充になるのを未然に防ごうと思っていたんじゃないの?

164: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/18(日) 20:10:03 .net
>>162-163
結局政治の問題ってことなんかな
足の引っ張り合いというか。
司馬攸が憤死したのも酷いけど司馬イツが追い詰められて殺された方が痛い気がするわ

168: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/19(月) 11:52:15 .net
積極的:司馬炎、張華、杜預
消極的:賈充

ということ?

169: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/19(月) 22:04:36 .net
>>168
司馬炎はどちらかね
サボタージュする可能性のある賈充を司令にするあたり、是が非でも天下統一を狙っていたわけでもないかも
とりあえず、勝利をあげて、景気づけのセレモニーにするだけだったかもしれん
呉がいてくれた方が対外に目を向けられるし

170: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/19(月) 22:13:12 .net
セレモニーなら今までと同じく一方面だけ侵攻しておけばいい。
兵戸総動員二十余万というのは本気でないとありえない。
本気の大動員だからこそ、「失敗の責任を張華に取らせる」という話が出てくるわけで。

171: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/24(土) 13:42:47 .net
兵戸総動員二十余万で陥落する呉は、兵戸総動員六十余万で陥落した楚よりも劣るのだろうか?

172: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/24(土) 18:40:34 .net
三国時代の戸口人口は下手すると漢初の半分以下だからね
敵も見方も半分以下

173: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/25(日) 10:23:21 .net
とはいっても、それだけ人が減ったわけでは無く、国家の戸籍把握能力が低下しただけ。

175: 無名武将@お腹せっぷく 2009/10/25(日) 16:21:43 .net
王翦に滅ぼされた時期の楚は最盛期の半分以下ではあったが、それでも60万の戦力を必要とするほどではあったものな

197: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/01(土) 11:13:02 .net
張華って結局賈充に関係なく政変に巻き込まれて死亡か

198: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/26(水) 13:22:39 .net
そんなところ
でも張華が陳寿を厚遇したのは評価

200: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/31(月) 22:11:24 .net
賈充100パーセント

202: 無名武将@お腹せっぷく 2010/06/19(土) 09:31:19 .net
>>200
飲んだら性格ねじ曲がりそう


引用元: ・三国志後期~西晋を語るスレ



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