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1: 日本@名無史さん 2016/03/29(火) 09:21:36.93
教科書では承久の乱を後鳥羽上皇対鎌倉幕府という単純な構図で語ることが多いが内情はちょいと複雑である。
承久の乱の裏の側面は、幕府内部の東西対立である。 目から鱗、磯田道史もビックリ。
今まで習ってきた歴史観がひっくり返ったねえ。
 
まずはこれ読んでちょ。
参照:「承久の乱は御家人どうしの争いだった」
http://www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub232.htm








3: 日本@名無史さん 2016/03/29(火) 14:22:10.75
大内氏 VS 北条氏

頼朝亡き後の権力争いで北条氏が覇権を握った。それをずっと横目で見ていた在京御家人たちが、北条打倒のために立ち上がったラスボス決定戦、という見立て。

13: 日本@名無史さん 2016/04/02(土) 07:53:48.12
この視点から承久の乱を研究することに大きな意義があると思う。
今まで後鳥羽院ご自身の野望にばかり注目されがちだったが、京方に加勢した京武者たちにも着目する必要がある。
また、京武者たちが目指したもの、後鳥羽院の戦後構想も研究したい。

21: 日本@名無史さん 2016/04/07(木) 12:05:19.96
>>13
敗戦時の言動があまりに糞なので後鳥羽上皇の歴史的評価が低いが、文化面はもちろん、政治手腕に長けた人物としてもう少し評価すべきと思う。少なくとも後醍醐天皇のようなDQNとは違う。
後鳥羽院の最大の失敗は院宣の効果を過信したことを挙げてよいが、それは院に味方した武士たちも同じだと思う。小学校で初めて承久の乱を習った時、「なんで武士の癖に幕府に背いて公家側につくのか」不思議に感じた。
幕府に重用されない不満分子にとっては一発逆転のチャンスだったのだろうね。
100年後の新田や赤松に同じ臭いを感じる。

22: 日本@名無史さん 2016/04/07(木) 13:09:34.61
>>13
建武政権は中国の専制王朝を目指していたが、後鳥羽院政はそういう国家ビジョンは特に無かったと思うね。後醍醐天皇は理想主義に突っ走って失敗した。
京都幕府は後鳥羽院と西国武士の連合政権となろう。
建武政権よりは長く続いたと想像するが、承久の乱に京方が勝利するIF歴史も結局は足利尊氏的な武将が出てきて、史実と同じ歩みをするかもしれない。

15: 日本@名無史さん 2016/04/02(土) 17:22:02.83
103 :日本@名無史さん:2015/08/30(日) 22:14:04.46

後鳥羽院の承久の乱勝利後の戦後構想では、京都に鎌倉将軍家を移して、院政の下で武家を束ねる家職として残すつもりだったとかいう説を何かで読んだ。
建武政権下の護良親王や鎌倉将軍府に近いものかな。院に近侍する京都幕府を作るつもりだと。
その際は三浦や大内が主軸になるのか。
後醍醐天皇は理想に走って、現実があまり見えていない人物だったが、後鳥羽はもう少し現実味のある政権構想を抱いていたと思うね。ちょっと贔屓目かな
後鳥羽は幕府をぶっ潰すのが目的ではなく、自分の言うことを聞いてくれる幕府に再編することを目的としていたとする見方が最近多い。

16: 日本@名無史さん 2016/04/02(土) 18:09:19.90
京都幕府・・
左右の大将に大内(源氏)と三浦(平氏)がつくも、源平合戦となり混沌。
東北に逃れた北条陸奥守は平泉で磨呂化。
大内VS三浦VS北条の三国志となる。

17: 日本@名無史さん 2016/04/03(日) 12:38:47.01
幻の「京都幕府」に何か惹かれるものがある。
治承・寿永の乱、承久の乱の敗戦によって西国武士団は壊滅的状態におかれ、代わりに東国武士団が西国に進駐してきた。西国の東国化というか西国の東国植民地化が行われ、元寇・南北朝時代を経て完成する。
もし、承久の乱で京方が勝っていたら、それとは逆に西国武士団が東国に進出するわけだ。
史実とは全く違う中世社会を観てみたいね。

18: 日本@名無史さん 2016/04/04(月) 13:24:07.71
京都幕府の将軍候補は誰だろうか?
源平交代思想なら御輿として人脈広かった平頼盛の一族あたりから迎えるか

九州武士団だと上皇についた菊池は加増だな
支族は西郷と名を変えいち早く陸奥会津も加増されただろう

24: 日本@名無史さん 2016/04/07(木) 18:53:24.22
>>18
源平交代思想はなかっただろうし頼盛の子孫たちはこの頃には没落しすぎている
鎌倉には摂関家の三寅(九条頼経)が次期将軍としていたのだし、もし幕府存続でも摂家将軍だろう

19: 日本@名無史さん 2016/04/04(月) 14:23:44.18
大内惟信
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%83%9F%E4%BF%A1

まあ、現実的な将軍候補は皇子の誰かだろう。
京都幕府は後鳥羽院政の下請け機関だし。

20: 日本@名無史さん 2016/04/05(火) 23:04:12.38
京都幕府将軍より院庁の院執権や院別当のほうが力持ちそうな感じ

25: 日本@名無史さん 2016/04/07(木) 19:31:16.05
後鳥羽直轄軍は坊門さんが大将軍だっけ?
ということは坊門大将軍と葉室院別当という政権かな
坊門 忠信(ぼうもん ただのぶ)は、鎌倉時代前期の公卿・歌人。名は信能とも。内大臣・坊門信清の長男。建永2年(1207年)参議、建保6年(1218年)権大納言。

後鳥羽天皇・順徳天皇の寵臣として仕える。承久3年(1221年)6月、実朝亡き後の鎌倉幕府と対立した後鳥羽上皇が幕府打倒の兵を挙げた承久の乱では、上皇方の大将軍として出陣した。しかし、上皇方の敗北により首謀者として捕らえられ、千葉胤綱に身柄を預けられる。
処刑のため関東へ連行されたが、源実朝に嫁いでいた妹(西八条禅尼)の嘆願により助命され、遠江国より都へ戻って、同年7月出家した。


26: 日本@名無史さん 2016/04/07(木) 19:46:36.61
坊門ではちと貫目が足りんな。 
それと
後鳥羽直轄軍 <誤>  京方 <正> ね。
坊門は北面・西面の武士ではないっしょ。

31: 日本@名無史さん 2016/04/16(土) 12:53:59.77
京方が勝利に終われば、後鳥羽院の指揮下の「京都幕府」成立という意見に賛成する。
やはり摂家将軍が擁立されるのだろう。

「京都幕府」において、大江親広を中心とした実務官僚が摂家将軍を補佐する。
鎌倉から中原氏・二階堂氏・三善氏などが帰順し、参加するのかも知れない。

源氏御門葉の大内惟信が武家の代表格となり、新たな軍事貴族として幕府を支えるのだろう。右近衛大将くらいの官位に進むかも知れない。藤原秀康、三浦胤義、山田重忠などがその幕僚となるのかも知れない。

胤義の兄の三浦義村が約束通り、「日本国惣追捕使」となり、鎌倉にとどまって「京都幕府」の関東出先機関の代表として関東を統括するのだろう。

32: 日本@名無史さん 2016/04/16(土) 13:38:42.66
平賀義信は源氏御門葉筆頭であり、源頼朝の信任は格別に厚かった。
平賀氏(大内氏)を中心とした御門葉が、源氏将軍の藩屏となることを頼朝は期待していたのだろうかとも推測する。

そんな平賀氏(大内氏)は、頼朝死後の鎌倉政権の推移をどんな気持ちでながめていたのだろうか?
惟信の父・大内惟義は頼朝の死後も御門葉として鎌倉政権で重きをなす一方、院・朝廷との関係を深めていっている。平賀氏(大内氏)の心情を推し量ることが、承久の乱の伏線を考える上で
大切なのではないか、ということを別のスレで書いたことがある。
そのスレでは、博識な方から平賀氏に関する研究論文をご紹介いただき、平賀氏について詳しいご教示をいただいたことが印象に残っている。

34: 日本@名無史さん 2016/04/17(日) 11:43:57.91
>>31 >>32
最近の学校教育はどうかわからいが、我々おっさん世代の歴史教育では、京都守護は権限が小さな出先機関で、六波羅探題は西国全域を統括する「西の幕府」的存在と教わった。
確かに役所の機能としてはその通りだが、治天の君(後鳥羽院)と在京御家人との強い結びつき、特に畿内数か国の守護を務める大内(平賀氏)の軍事力と家格を考えれば、大内氏こそ「西の幕府」ではなかったのか?という気がしてならない。
鎌倉幕府をもう少し多面的に捉える視点が、従来の歴史観には欠けている気がしている。
自分も「北条氏はなぜ将軍になれなかったのか?」を研究しているうちにこういう視点を持つようになった。

35: 日本@名無史さん 2016/04/17(日) 20:29:04.22
ある歴史サイトで尾張藩における徳川家康の深慮遠謀について述べたものを読んだ。
尾張徳川家が藩祖義直以来、勤皇を家風としている理由を、将来 幕府と朝廷(+外様大名)の戦争になった際、幕府(徳川宗家)が敗北した時に備えた保険として尾張徳川家を敢えて「天皇側」に準備しておいた、というものだった。どちらに転んでも徳川の名跡を残す戦略である。少し徳川家康を過大評価しすぎで俄かには賛成し難いが中々興味深い視点ではある。
空想の翼をそこまで広げて良いのなら、源頼朝が御門葉筆頭の平賀(大内)氏を京都に据えたのは、家康の深慮遠謀と同じ理由ではないかとも言える。源氏将軍家亡き後、次の清和源氏嫡流の平賀氏をスペアとして配置したのではないか? 
不可解な実朝暗殺事件の後、北条氏に幕府は乗っ取られ、新田氏の分家である足利氏が清和源氏を僭称しだした。
源氏将軍家滅亡後の権力の不安定状態において、元祖幕府(北条・東国御家人)と本家幕府(源氏嫡流平賀・西国御家人)の両派が必然的に対峙する格好になったが、考えてみれば後鳥羽院の「京都幕府」構想は、頼朝の源氏延命策と利害が一致しているのが興味深い。
京都幕府創設を後鳥羽院―源頼朝―大内(平賀)氏の共同作業とすれば、承久の乱は、北条・足利に乗っ取られた鎌倉幕府に対する「頼朝の呪い」ではあるまいか?

40: 日本@名無史さん 2016/04/17(日) 21:22:18.94
>>35
その視点は思いつかなかった。
頼朝の信任が厚く、鎌倉政権で重きをなした平賀氏(大内氏)が承久の乱で京方について没落したことが、自分はずっと気にかかっていた。
もし仮に源義経が粛清されず、生き残っていたなら、西国に本拠を置き、京都を活動拠点とし、相応の官位に昇った軍事貴族として、後鳥羽院の周辺ではかなりの重鎮になっていたはずだと想像したことがある。もし承久の乱まで義経が存命だったとすれば、満62歳。

義経こそが後鳥羽院の討幕計画の中心人物となり、挙兵に当たっては総大将として官軍を率いて獅子奮迅の働きであったのでは、と想像したことがある。
歴戦の勇将でありながら、頼朝に冷遇された悲運の人物だからこそ、ここまで生き延びていれば、討幕の立役者となったであろうにと思ったものだ。

41: 日本@名無史さん 2016/04/17(日) 21:40:58.72
だが、史実は、実弟たちをさしおいて頼朝の信任最も厚く、源氏御門葉筆頭として鎌倉政権でも席次第一位を占めた平賀氏(大内氏)が京方の主要人物となった。
自分は源頼朝という人は、関東武士の利益代表であるとともに、朝廷・都にもアイデンティティを持つ貴族であると考えてきた。その存在は、時として関東武士にとって、違和感を生じさせる側面もあったのではと思う。また、関東武士たちは、結果として頼朝の血統を守ることはできなかった。

頼朝の分身ともいうべき平賀氏(大内氏)が、討幕側の主要人物となったのは、真剣に考察すべき課題と思う。

43: 日本@名無史さん 2016/04/17(日) 22:18:06.27
>>41
同意。
頼朝が幕府を鎌倉に置いたのは関東から離れられなかったためで、尊氏が京都から離れられなかったのと同じ構造なんだね。別に好きで関東に骨を埋めたいと思っていたわけではなかったと思う。
「北条氏はなぜ将軍になれなかったのか?」スレでも書いたのだが、寿永の宣旨で東国独立路線を放棄したのがターニングポイントだった。
頼朝はやはり軍事貴族だったんだね。院政の下での軍事・警察を司る家職を世襲し、王家と源氏将軍家が手を取り合って日の本を統治する姿こそが頼朝の本願だったのではないか?
娘を入内させようとしたり、土御門通親と組んでみたり、頼朝の本質は軍事貴族ではなかったのか?
北条義時やのちの足利尊氏とは明らかに違うニオイを感じてならない。
「京都幕府」は東国武士団にとっては絶対に容認できない代物だが、頼朝にとっては案外受け入れやすいものではなかったのか?

我々は頼朝の政権を平氏政権と全く違った武士政権と解釈してきたが、少し先入観を外した方がいいのかもしれない。

38: 日本@名無史さん 2016/04/17(日) 20:53:20.45
頼朝は身も心も京都人。
ここを押さえなければ歴史の本質は見えない。

46: 日本@名無史さん 2016/04/18(月) 00:50:30.06
北条や徳川が真の幕府。武家政権。
鎌倉源氏や足利は磨呂生活。武家貴族。

48: 日本@名無史さん 2016/04/18(月) 11:18:22.12
>>46
政権取ってしまえば一緒だろう
徳川歴代将軍は肖像画を天皇のお召しで内裏へ参内するときの公家の正装である衣冠束帯で描かせたし、幼児やら身体障碍者やらとても武器を持って戦える状態ではない奴でも将軍になってたし

49: 43 2016/04/18(月) 14:15:29.85
>>46 >>48
まさかとは思うが、おれが言う「軍事貴族」は歴史用語で比喩表現ではないよ。
頼朝は「最後の軍事貴族」なんだな。

軍事貴族(ウィキぺディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%B2%B4%E6%97%8F

ついでに 在京御家人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E4%BA%AC%E5%BE%A1%E5%AE%B6%E4%BA%BA

53: 日本@名無史さん 2016/04/21(木) 12:08:00.17
学校の教科書の記述が読者に誤解を与えているのだろうが、上皇軍の中核を、非御家人層だと勘違いしている人が多い。この歴史板でもそう理解している書き込みが散見される。 
上皇軍=北面・西面の武士という理解なんだろうが、北面・西面の武士たちは洛中の治安維持が主で大きな合戦を行える規模ではないし、多くの在京御家人が北面・西面の武士に登用されてい事実もまり知られていない。
尾張以西の西国(九州を除く)の守護の大半も京方に加勢した。幕府が東西に分裂したというのもあながち間違いではない。
京方に参加した御家人たちは、乱以前から後鳥羽院との個人的結びつきが強く、意識的には幕府と院に両属している気持ちがあったと思われる。後鳥羽院から見れば切り崩しやすい対象といえる。 

55: 日本@名無史さん 2016/04/21(木) 22:30:25.67
上皇軍弱すぎ

56: 日本@名無史さん 2016/04/21(木) 22:39:28.15
>>55
上皇方が弱すぎるせいで上皇方の中核=北面西面の武士とか思われてんだと思う
そういえば草燃えるという大昔の大河ドラマを数年前に見たけど、その時も北面西面の武士を中心とする上皇方なんて言われ方をしてたな

58: 日本@名無史さん 2016/04/22(金) 00:33:08.33
自分も承久の乱は鎌倉幕府の東西対立という面があると思う。
だが、京方は鎌倉方にくらべて兵士の動員力が少な過ぎる。
「幕府の西側勢力」と呼ぶには貧弱過ぎて、上皇の近臣がわずかな手勢を率いて挙兵したという印象を抱かせてしまう。

「西軍」が「東軍」に決戦を挑んだのではなく、院宣によって関東武士たちを切り崩すことに託した戦いであったように見える。だが上皇の目論見に反して、関東武士たちの結束は固く、切り崩しに失敗した時点で京方の惨敗が決まってしまった戦いであった。
源氏御門葉筆頭・平賀(大内)氏も何の求心力も発揮しなかった。

だから、「幕府・御家人の東西対立」という構図は見えなくなってしまい、時局を読み損なった愚昧な上皇が無謀な戦いを挑んで敗れた、という評価になってしまった。

71: 日本@名無史さん 2016/04/23(土) 11:13:39.76
70続き
後鳥羽院が北条義時追討の院宣を出した後、幕府軍進発の報に慌てて藤原秀康に進軍を命じるまで約半月。この間に1万7500集めたのだから決して低い動員数ではない。
これは西国の守護たちが在京していたために後鳥羽院の動員令に即応できた。
ただ、これは鎌倉方と比べるとかなり遅い。
もともと京方の戦略は関東武士たちを北条から離反させて彼らに北条を討たせる戦略だった。
西国の上皇軍は畿内制圧の兵力だった。ところが鎌倉方の西上があまりにスピーディだったため、畿内制圧部隊のほとんどを最前線に投入せざるを得なかった。
鎌倉方が当初の戦術に従って関東での防衛戦に転じていたら結果はわからない。

59: 日本@名無史さん 2016/04/22(金) 05:36:11.23
京都武士の規模って200人くらいだからな

62: 日本@名無史さん 2016/04/22(金) 12:44:32.39
>>59の「京都武士」という造語が何を指すのかワカランのだが、京方の兵力は

『吾妻鏡』では、2万騎
『承久記』では、3万騎

ちなみに尾張川の戦いで藤原秀康が率いた軍勢は1万7500

68: 日本@名無史さん 2016/04/23(土) 01:44:09.05
>>62
二万騎?
兵力なら二十万人くらいになりそうだが、当時の御家人全部かき集めてもそんなに集まるかな
威光が衰えたとは言え全国支配していた徳川幕府が第二次長州征伐で集めた兵力が十五万程度なのに

69: 日本@名無史さん 2016/04/23(土) 06:08:36.59
>>62>>68
富士川の兵力
「吾妻鏡」 頼朝20万騎+武田2万騎 vs 平家数万騎
「玉葉」  武田4万騎 vs 平家 1千騎

一の谷
「吾妻鏡」 範頼5万6千騎+義経2万騎 
「玉葉」  官軍(源氏方) 2~3千騎 vs 平家2万騎

吾妻鏡はどうやら兵力を盛る傾向にあるらしい

70: 日本@名無史さん 2016/04/23(土) 10:54:00.99
>>68>>69
普通は馬上の武者1騎に従者4,5人の勘定となるが、この記述は1騎=1人、という理解でいいだろう。鎌倉方を19万騎と記述しているし、こちらも兵力100万人になってしまう。
鎌倉方19万(人)もかなり盛った数字であると言われている。
京方の数字も真偽は不明だが鎌倉方が圧倒的兵力差で完勝したことは間違いない。

ここで指摘しておきたいのは京方が、質はともかく、兵数では決してしょぼい数ではないことだ。
幕府軍が圧倒的な動員体制を持っていた事が後世の我々に「上皇の近臣がわずかな手勢を率いて挙兵したという印象を抱かせてしまう。」(>>58)要因となった。

76: 日本@名無史さん 2016/04/24(日) 22:44:55.82
自分は>>58で「京方の兵士の動員力が少な過ぎる」と書いたが、1万7500の動員を達成したことは、緒戦において相当数の動員ができたと言うべきかも知れない。上皇の主観においては、初期段階においては成功だったのだろう。
だが、「吾妻鏡」によると、奥州合戦で鎌倉方は28万4000の動員力があるとされる。これは承久の乱における鎌倉方の動員数をも上回るものだ。もちろん、両者とも誇張された数値であろうが、鎌倉方はすでに相当数の動員力で奥州を制圧した経験がある。

上皇や公家はともかく、京方についた御家人たちは、鎌倉方のこの圧倒的な動員力を警戒しなかったのだろうか?仮に1万7500の動員があったとしても、それでは「西軍」と呼べるほどの人数ではないということを、実戦経験のある武士はわからなかったのだろうか?

65: 日本@名無史さん 2016/04/22(金) 21:39:50.64
京方についた守護

(   )内は、管轄した国名を示します(一部推測も含む)
・大内 惟信(美濃、伊賀、伊勢、越前、丹波、摂津)
・佐々木広綱(近江、長門、石見)
・小野 盛綱(尾張)
・安達 親長(但馬、出雲)
・後藤 基清(播磨)
・宗  孝親(安芸)
・佐々木経高(淡路)
・佐々木高重(阿波)

82: 日本@名無史さん 2016/05/21(土) 11:26:53.68
別スレで承久の乱で朝廷が滅んだと強調している人がいたが、朝廷は滅んだわけではないよね?
元弘の乱を起こしたのは朝廷だから理屈が合わない。

83: 日本@名無史さん 2016/05/22(日) 19:53:42.43
>>82
もちろん、朝廷は滅んでいない。
別スレで言っていたのは、
「治天の君に勝ったことで、北条義時は朝廷をも制圧した。望みとあらば、関白を含むいかなる官位をも得られる立場となった。それは、事実上の朝廷の滅亡を意味する」
という主張だったと思う。
だが、その主張にも反対意見があり、この主張で決まったわけではない。

引用元: ・承久の乱は幕府内部の東西対立だった©2ch.net