1: 人間七七四年 2010/06/24(木) 01:10:35 ID:Bse0lv8F
畠山家の内紛により応仁の乱の引き金をひき、その後、河内一国を公的資格なしで軍事占拠し続け、戦いにつぐ戦いの中で一生を終えた戦国時代幕開けを飾る武将。
稀代の名将か、はたまた単なる戦闘オタクか。
評価の定まらぬ畠山義就について語りませんか?







畠山 義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名である。

持国には嫡出の実子がなかったので弟持富(もちとみ)を家督後継者にしようとし、またその子政長(まさなが)を養子に迎えた。ところが妾との間に生まれた義就に1450年(宝徳2)家督を譲ったため畠山氏は、持国・義就派と、政長を支持する有力家臣派とに分裂、領国河内(かわち)を中心にして国人(こくじん)領主を巻き込んで戦いを繰り返した。

将軍足利義政(あしかがよしまさ)、細川勝元(ほそかわかつもと)、山名持豊(やまなもちとよ)(宗全(そうぜん))が政長を支持したため、政長は64年(寛正5)管領に就任し家督を継いだ。しかし、まもなく義就は勝元と対立した宗全の支持を取り付け、67年(応仁1)政長の解任に成功を収めると、勝元の支持を受ける政長との間に戦端が開かれ、応仁の乱へと発展していった。

乱後も畠山両派の争いは続き、義就は河内大和(やまと)、南山城(やましろ)の国人を巻き込んで転戦している。延徳(えんとく)2年1月12日死去。




2: 人間七七四年 2010/06/24(木) 01:15:20 ID:/PguvnW1
城下町形成の先駆だったとも言うね。
ただの戦闘馬鹿ではない。

3: 人間七七四年 2010/06/24(木) 01:19:25 ID:35cPqf2P
戦闘オタクではないだろ
政長との関係上、戦い続けるしかなかっただけで
政長と義就の関係が室町時代の縮図なんだが、テキトーな処で手を打たなかった辺りが、義就の特異性というかなんというか

ぶっちゃけ「迷いを捨てた足利直冬」みたいな存在だけどw

4: 人間七七四年 2010/06/24(木) 01:34:55 ID:/PguvnW1
武田信玄の「自分の死後3年その事を伏せよ」っていうのは、この義就の実際のエピソードのパクリだよね。

5: 人間七七四年 2010/06/24(木) 01:45:12 ID:35cPqf2P
国人に担がれている気がしてならない。だから戦争が強かったとも
政長方が神保、遊佐、筒井で、義就方が越智、古市、甲斐、誉田


つーか越智家栄が最高に胡散臭いw
コイツが黒幕かあるいは細川の手先だw

12: 人間七七四年 2010/06/26(土) 09:03:20 ID:aIfYD4ln
戦国大名第一号は、北条早雲ではなく、畠山義就だ、って誰かが書いてたな。
誰か忘れたけど。

59: 人間七七四年 2011/10/18(火) 14:49:29.28 ID:FgOWA4CN
>>12
応仁の乱終結による東西両軍の停戦や(足利義政による)西軍諸大名の領地の安堵と帰国には一切同調しなかった。
応仁の乱がまさに終わろうとしている時期に義就は、洛中から軍勢を河内に向けて進撃を開始させる、河内のほぼ全域を占領、それを受けて義就系で元西軍側の大和国人である古市氏や越智氏が大和を制圧する。
これで畠山義就は、将軍足利義政の応仁の乱終結の施策を無視する形で河内と大和を占領し実効支配する事になってしまった。
つまり、畠山義就は、はじめて室町幕府を無視する形で河内と大和の支配を独力の軍事力で実現した大名となってしまった。
しかも支配した場所は、畿内の河内と大和である。
これが、畠山義就が、初めての戦国大名と言われる所以である。

60: 人間七七四年 2011/10/18(火) 22:48:47.39 ID:3GXrupqa
>>59
誉田城の本拠化と城下町形成も先駆的だな

61: 人間七七四年 2011/10/19(水) 00:29:58.76 ID:bfUpQ/5H
>>60
そうだね、一体何処から城下町のアイデアを持って来たのか不思議。
義就は、1483年にも河内に攻めて来た畠山政長の軍勢を淀川の堤防を決壊させて壊滅させている。
大したアイデアマンである事は間違い無い。
義就よりはるかに若い細川政元は、丹波や摂津に散々城や館、砦を造ったが、ついに城下町は造らなかった。被官で摂津国人の池田氏は城下町を造っていた様だが…
事実上の丹波・摂津両国の守護所は、古代からの大都市である洛中の細川管領邸であった為にワザワザ新たぶ城下町を造る必要性を感じなかったのかも知れないが。

62: 人間七七四年 2011/10/19(水) 01:56:02.71 ID:w0qg+f8m
>>61
城下町はどうも、大和の古市氏などが拠点への領域内の政治経済の集権という、城下町形成に近いことを始めているので、大和あたりで国人が行い始めた政策っぽい。で、そのあたりと縁の深い義就が影響を受け河内で一国単位で展開したのが誉田への集権、ということなのだろう。
しかし畿内は土地の権利関係が諸権門の間で錯綜しすぎていたのと、京都の存在感が余りにも大きかったのでなかなか城下町を形成しづらかったのも確かだろうね。

足利義尚の鈎の陣なんて、鈎をあのまま近江の城下町化しようとしていたんじゃないかと思うことがある。

63: 人間七七四年 2011/10/23(日) 17:06:42.06 ID:u96yHLmF
>大和あたりで国人が行い始めた政策っぽい

古市澄胤やその父があたりが、始めたのを義就がパクッタのかな。

大和武士は、ほぼ全員興福寺の衆徒で興福寺の二大名跡である一乗院とその傘下の筒井氏・越智氏、大乗院とその傘下の十市氏・古市氏などがいる。
一乗院と大乗院は共に張り合っており、双方の門跡が自己の発言力の増大のために
の武士や名主などを御家人などと称して自己の衆徒に組み入れ、自院の学侶に率いさせて寺内や奈良の町の検断などに従事させていた。

このノウハウが、城下町の形成に役立ったのだろうか?

64: 人間七七四年 2011/10/23(日) 21:30:44.78 ID:y5v3wUby
>>63
そのあたりなんだろうね。応仁の乱で幕府機構からは失脚した形になった義就は、幕府に頼らない自己の権力確率のためならどんなことでもやってた感じがする。

65: 人間七七四年 2011/10/31(月) 09:59:36.79 ID:J83HZKPv
>幕府に頼らない自己の権力確率←×確立←○のためならどんなことでもやってた

それらの施策の結果として畠山義就は、幕府から独立した戦国大名になってしまう。
義就は、幕府から独立した状態で死去し、息子の基家は、その体制を引継いで幕府に頼らない独立した河内統治を継続する。
しかし1493年の明応の政変で、管領畠山政長が自害し息子の尚順が、紀伊に逃亡すると畠山基家は、幕府に復帰する事になる。
そういう意味では、基家は一度は折角にも幕府に帰参したのに、その後しばらくしたら幕府には中央政府としての権威も力も無くなってしまう、と言える。

66: 人間七七四年 2011/11/01(火) 00:30:29.10 ID:kyGAvKNE
明応の政変で幕府は、中央政権でもなくなる。

67: 人間七七四年 2011/11/01(火) 00:33:03.36 ID:R8ebT6iE
それは言い過ぎ。国際的な認識も含めて中央政権だったのは間違いない。

69: 人間七七四年 2011/11/01(火) 17:28:56.38 ID:pOh25q/6
>>67
将軍の親衛隊(五番衆≠奉公衆)が、明応の政変で解体されるんだぜ。
官僚組織(奉行衆)は、京兆家としても次の将軍も必要だから残したけど。
これでは、中央政権と言えるのかどうか…
しかも政元が、京で兵を挙げ畠山政長とそれに近い人物の邸宅や拠点を制圧。
その後上原と京兆家家宰の安富が率いる京兆家2万の軍勢が、河内に進撃すると大名達は将軍義材と管領政長を見捨て続々と京兆家軍勢に合流、しかもその時に一部の奉公衆も逃げ出した。

また、残存した奉公衆と政長勢8000が、正覚寺城に篭城するも、京兆家軍勢に包囲され、援軍である根来寺衆徒勢と紀州国人衆の斉藤の軍勢1万が、赤松政則に撃退されると、篭城を諦め政長は切腹、尚順は紀伊に逃亡、将軍義材は降伏する。

この時点で奉公衆は、事実上崩壊する。残りの奉公衆残存部隊が詰衆を結成するが、将軍のボディーガードにもならない状態になる。

21: 人間七七四年 2010/06/28(月) 01:52:42 ID:AsMZk7bf
畠山義就を現した言葉

「名大将」
「王法、仏法の敵」

22: 人間七七四年 2010/06/29(火) 15:16:11 ID:rh9LH2E0
>>21
どなたが言ったんですか?

23: 人間七七四年 2010/06/29(火) 18:36:47 ID:g0stDxlz
>>22
大乗院寺社雑記

26: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2010/07/10(土) 22:01:48 ID:Ta0pRyjG
相方の政長も捨てたもんじゃないよ

27: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2010/07/10(土) 22:20:14 ID:e0HS1ZYI
なぜか細川政元は義就と気があったらしい。父親の宿敵だったのに。
政略云々を別にしても不思議。

28: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2010/07/11(日) 01:10:31 ID:11I2UM6c
というより政長が嫌いだったんじゃないかと

29: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2010/07/11(日) 01:14:22 ID:BAN3iI6/
政長は戦はそこそこ強いし軍略も胴に入っているんだけど、京でも領地でも嫌われまくっている印象があるな。

45: 人間七七四年 2010/08/29(日) 14:39:13 ID:a/IyvIrp
政長は、細川勝元が死んでからはかなり増長して、管領として専横していたらしい。
そんなんで諸大名からかなり嫌われていたとか。
キャリアや年齢的にも細川勝元、山名宗全、斉藤妙椿が死んで以降は政長と義就が一番上に来てしまい若年の政元(聡明丸)を無視していたかも。
政元と義就は、後に互いに河内や摂津の占領地を交換し和解している。
勝元時代は政長と組んでいた京兆家は、政元時代には義就と組むようになる。

30: 人間七七四年 2010/07/22(木) 10:12:15 ID:9CFEBsem
義就と政長、結局、何勝何敗?

32: 人間七七四年 2010/07/23(金) 01:29:54 ID:+bRjKECD
>>30
泥沼

31: 人間七七四年 2010/07/22(木) 23:27:32 ID:liXG69OE
この二人の場合どこまでを「勝利」とか「敗北」とかに区切っていいかもわからん。

41: 人間七七四年 2010/08/25(水) 13:40:55 ID:jPCmQhkU
早逝したけど義就の長男の名前は「修羅」
意図を色々考えさせられる名前だ

42: 人間七七四年 2010/08/26(木) 18:55:38 ID:SMTVK8at
蠣崎慶広「いやホントにねぇ」
織田信忠「考えさせられる名前だよね」

43: 人間七七四年 2010/08/26(木) 19:55:52 ID:jkWCa3Xe
>>42
奇妙はともかく天才丸に関しては、あの当時そんなにヘンな名前じゃないぞ。

44: 人間七七四年 2010/08/27(金) 01:16:51 ID:yapq9KTG
それゆーたら修羅もさして。。。

46: 人間七七四年 2010/08/29(日) 20:34:51 ID:BxE1uxtv
義就は生まれてくるのがちょっと早かったかな
それこそ信玄や謙信、信長がいた時代にいたら面白かったと思うよ

50: 人間七七四年 2010/08/30(月) 21:29:39 ID:d1W0r2O8
畠山義就は、優秀な武将だけど、母親が“売春婦”でさらに実家が皮屋であるせいか、家臣からは「畠山家の血統を引いていないのでは?」と思われていたらしい。
そして義就の母は、義就のほか小笠原長将との間に持長を、飛騨江馬氏との間にも子をもうけている
いくら優秀でも家臣は支持を躊躇するわな…
そんなこんなでこれらの事が政長擁立支持の背景となっている。
政長は持国の弟の持富の子だが、母親の方は、家筋的にはまだマシだったらしい。

84: 人間七七四年 2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:C3nzArKq
>>50
それだけ魅力的な女性だったってことじゃないのかな。
源義経の母にしろ嫁にしろ、同程度の家柄なんじゃない?。
神が宿っていると思わせるほど美しい女性だったらしいよ義就の母も。

85: 人間七七四年 2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:V249IxtV
>>84
どっちも現代の価値観に捕らわれ過ぎじゃね?
そんなに、問題のある血筋の女なら小笠原を名乗る子供は産ませて貰えないだろ
源氏の名血には釣り合わない(中世的には)普通の家ってだけじゃね
そも、源氏の血統が価値が有りすぎるだけだし

133: 人間七七四年 2020/12/21(月) 15:16:09.02 ID:z1AgZcnW
>>84
>源義経の母にしろ嫁にしろ、同程度の家柄・・・・・
いや義経母常盤は院勤めの下女、義経妻は武蔵の豪族河越氏の女。
一方義就母は遊女で家柄以前の大違い。
尤も中世では源義朝息男義平のように母が遊女であっても父方出自次第で貴賤の差なく周囲に遇されたものなのか?
義就母は同腹の子の異父名が明らかということは遊女と言っても売春職業でなく一定期間特定相手に扶養される側妾だったのか?
或いは中世には娘にも財産相続権があったというから自立生計女性だったか?

137: 人間七七四年 2022/04/03(日) 15:57:08.83 ID:27ZZx6gX
>>133
上流の客しか相手にしない高級娼婦説
だから指名で雇われた場合は契約期間か飽きられるまで客の屋敷で逗留して妊娠したら子まで産んでたのだろう

52: 人間七七四年 2010/09/08(水) 18:30:31 ID:UOlBBVA/
子孫はどこいったんだろうな
政長流⇒高家
能登⇒高家
二本松⇒水野家臣
関東⇒喜連川藩士
日向⇒薩摩藩士
なのに義就流は…

53: 人間七七四年 2010/10/19(火) 19:55:50 ID:VxUMcF8q
畠山尚誠以降が不明なんだね

73: 人間七七四年 2012/03/13(火) 13:40:10.93 ID:G9BJ6O/s
義就って畠山持国の子じゃないって説は、根強いね。

74: 人間七七四年 2012/03/13(火) 16:33:29.35 ID:cqCta0mb
根強いか?むしろ実子だったからああなったとしか思えないが。

82: 人間七七四年 2013/05/13(月) 23:43:22.43 ID:ucg37uDF
幕府は義就に代わる、正規の河内守護を任命しなかったのか?
したけど無視されたのか?

83: 人間七七四年 2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN ID:4p705E1V
一応、政長が河内の守護だけど、もう幕府の権力も低下していたからね。
だから義尚や義材が、引っ切り無しに将軍親征を繰り返していた訳だし。
近江への将軍親征で少し幕府の権威が盛り返せ始めたかなって程度。
それと畠山家は、京兆家と異なり、幕政にそれ程協力的ではなかった。
つまり畠山家分国では、荘園保護の姿勢を見せなかった。その為に応仁の乱以前から畠山家やその家臣が、分国内での荘園押領を繰り返し、一円知行方式の分国支配体制としていた。

足利義教から、目を付けられたのは、その所為でもある。

京兆家は、分国内では荘園保護の姿勢を見せ、どちらかと言うと街道からの通行税や関税、商人から徴収した税収入を当てにした。あまり年貢収入は多くなかった。
京兆家で年貢収入が増え始めるのは、応仁の乱で、勝元が荘園押領をしまくってからの可能性が大変大きい。応仁の乱でもっとも荘園押領を行ったのは、細川勝元と朝倉孝景だったらしい。

87: 人間七七四年 2013/11/08(金) 20:46:55.75 ID:7bkG28iT
お家騒動は当然、予想できたにも係らず、持国は義就と会ったとたんに後継者とした。
よほど自分の面影があったとしか思えない。
義就の顔を見ていない家臣が反対派になったのではないか?

88: 人間七七四年 2013/11/09(土) 08:03:03.64 ID:L5bk+GR4
>>87
義就が足利義政の近習としてお気に入りだったからじゃないの?

91: 人間七七四年 2014/04/01(火) 23:54:20.26 ID:tOskXxXK
畠山義統の妻は蔵春院
畠山義元の妻は上杉房定の娘
畠山慶致の妻は不明
畠山義総の妻は畠山尚順の娘
畠山義続の妻は本願寺蓮慶の娘

93: 人間七七四年 2014/04/02(水) 01:49:19.66 ID:Sky6EBy9
>>91
畠山義総の妻は勧修寺政顕の娘だね
畠山尚順の娘は畠山修理室としか書いてない。
でも畠山尚順の娘が継室だった可能性はあるな。

101: 人間七七四年 2014/05/25(日) 21:09:39.13 ID:WbclvVOn
畠山家代々の正室は謎に包まれている。

102: 人間七七四年 2014/07/18(金) 22:49:34.52 ID:nh2X3lbz
>>101
畠山義総の妻は勧修寺家の娘らしいが・・・・。

103: 人間七七四年 2014/12/22(月) 17:25:12.74 ID:ofgMiw7A
畠山家が義就と政長に分裂せず、義就で一本化されていたら、その後の歴史はどう変わっただろうか?
応仁の乱は起きたかな?

105: 人間七七四年 2015/01/05(月) 17:37:25.53 ID:Dd7BiFBo
>>103
それはなんとも言えんなあ。京兆家との正面衝突でもっと悲惨なことになった可能性もあるし

106: 人間七七四年 2015/01/19(月) 17:08:46.36 ID:mjEPDkYL
>>103
応仁の乱のきっかけは義就を応援した宗全、政長を応援した勝元、この対立の比重が大きいと思う。
この対立がない場合、宗全と勝元が激突する要素は極めて希薄となるだろう。
と言うことで、宗全・勝元が主軸の乱は起きないとみた。

まあ義政が何かしでかして、別の対立軸ができた可能性は高いがw

107: 人間七七四年 2015/01/20(火) 10:52:05.04 ID:NrOeGMCj
応仁の乱が起きてなければ、赤松氏を復活させたい阿波細川氏と宗全との関係を悪化させたくない勝元が対立して、細川氏の内紛が起こってたかもな

108: 人間七七四年 2015/04/02(木) 16:16:35.03 ID:w8iM18c1
畠山義就という武将は、信長の野望などで出てくる戦国中~後期の武将の誰と類似した能力なんだろうか?
雰囲気としては戦の天才だから、上杉謙信あたりと同等かな。

126: 人間七七四年 2019/07/25(木) 11:49:13.90 ID:J6IIvhcL
よしなりじゃなくてよしひろなのはもう定着した?

127: 人間七七四年 2019/07/25(木) 13:42:29.53 ID:blAnG47i
>>126
ベストセラーになった例の新書が「よしひろ」読みを採用してたから、新たに興味持った層はよしひろとしか読まないんじゃないかな

131: 人間七七四年 2020/02/13(木) 23:59:26.57 ID:kvffLMy8
権威なんか知らんという感じの人生畠山義就

135: 人間七七四年 2022/02/06(日) 16:02:39.23 ID:H3qwVk0R
>>131
周りがそう追い込んだともいえる

134: 人間七七四年 2021/12/18(土) 13:54:21.95 ID:cIt59BL5
室町時代と言うのは大名の力が強過ぎて、大名間のいざこざが余りにも多く、いちいち付き合っていられない。この時代の将軍や管領はさぞ大変だっただろうな。

136: 人間七七四年 2022/03/16(水) 00:36:13.59 ID:Gcxwc8Nz
>>134
時には管領がそのいざこざに絡んでることもあると思う

138: 人間七七四年 2023/01/30(月) 01:14:37.75 ID:bCS2kZbL
応仁の乱後も赦免はされてないけど細々と幕府との繋がりはあったのがまたね
はみ出し者みたいに言われることも多いが

引用元: ・【名将】 畠山義就を語るスレ 【戦闘オタ】