
1: 日本@名無史さん 2017/06/06(火) 21:51:11.29
語ってくれたらうれしい
2: 日本@名無史さん 2017/10/25(水) 04:02:56.36
伊能忠敬の大河ドラマが見たい
5: 日本@名無史さん 2017/11/29(水) 21:43:23.64
同時期の探検家と言えば最上徳内と近藤重蔵くらいしか思いつく人が他にいない

最上 徳内(もがみ とくない)は、江戸時代中期から後期にかけての探検家・江戸幕府普請役。
実家は貧しい普通の農家であったが、学問を志して長男であるにもかかわらず家を弟たちに任せて奉公の身の上となり、奉公先で学問を積んだ後に師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行、後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として入牢しながら後に同地の専門家として幕府に取り立てられて武士になるという、身分制度に厳しい江戸時代には珍しい立身出世を果たした(身分の上下動を経験した)人物でもある。シーボルトが最も信頼を寄せていたといわれる。
近藤 重蔵(こんどう じゅうぞう、明和8年(1771年) - 文政12年6月16日(1829年7月16日))は、江戸時代後期の幕臣、探検家。
明和8年(1771年)、御先手組与力・近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれる。山本北山に儒学を師事する。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。幼児の頃から神童と言われ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。
寛政10年(1798年)、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となる。4度蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てる。松前奉行設置にも貢献する。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させる。
1798年の探検の帰路、広尾にて悪天により足止めになり道の悪さを痛感、私費を投じて道路を開削させた。いわゆる「ルベシベツ山道」(現、広尾町ルベシベツ-ビタタヌンケ間)であり、北海道における道路建設(開削)の嚆矢となった。
享和3年(1803年)、譴責により小普請方となる。文化4年(1807年)にロシア人の北方侵入(フヴォストフ事件、文化露寇)に伴い再び松前奉行出役となり、5度目の蝦夷入りとなる。その際利尻島や現在の札幌市周辺を探索する。江戸に帰国後、将軍徳川家斉に御目見を許される。その際、札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭を開いた。
明和8年(1771年)、御先手組与力・近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれる。山本北山に儒学を師事する。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。幼児の頃から神童と言われ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。
寛政10年(1798年)、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となる。4度蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てる。松前奉行設置にも貢献する。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させる。
1798年の探検の帰路、広尾にて悪天により足止めになり道の悪さを痛感、私費を投じて道路を開削させた。いわゆる「ルベシベツ山道」(現、広尾町ルベシベツ-ビタタヌンケ間)であり、北海道における道路建設(開削)の嚆矢となった。
享和3年(1803年)、譴責により小普請方となる。文化4年(1807年)にロシア人の北方侵入(フヴォストフ事件、文化露寇)に伴い再び松前奉行出役となり、5度目の蝦夷入りとなる。その際利尻島や現在の札幌市周辺を探索する。江戸に帰国後、将軍徳川家斉に御目見を許される。その際、札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭を開いた。
6: 日本@名無史さん 2017/11/30(木) 17:35:51.55
今となっては間宮の探検って、あんまり意味なかったね。
最上や近藤も。
最上や近藤も。
7: 日本@名無史さん 2017/11/30(木) 17:41:29.25
地理学的にはそうだけど民俗学的には評価高いと思う
8: 日本@名無史さん 2017/11/30(木) 23:02:17.47
間宮の探検は対ロシアの防衛ライン想定という意味で重要だったでしょ
もちろんその後ロシアが攻めてこなくなったから意味がなくなったという側面はあるにしても
もちろんその後ロシアが攻めてこなくなったから意味がなくなったという側面はあるにしても
9: 日本@名無史さん 2017/12/13(水) 16:53:09.88
この人たちが幕府の密偵だったって本当?
10: 日本@名無史さん 2017/12/14(木) 21:16:02.12
間宮は下級役人で、ロシアが千島を襲撃した時に徹底抗戦を訴えたことが「千島白浪」かなにかに書いてあったな。
12: 日本@名無史さん 2017/12/16(土) 07:37:34.88
樺太探検は幕府の命令では
68: 日本@名無史さん 2020/06/08(月) 12:14:42.74
>>12
天明5年(1785年)の幕府普請役山口鉄五郎、佐藤玄六郎らの樺太や国後島上陸を果たし『蝦夷拾遺』を著した蝦夷地調査隊は幕府要路老中田沼意次か老中格本多忠籌の命だったのでは?
天明5年(1785年)の幕府普請役山口鉄五郎、佐藤玄六郎らの樺太や国後島上陸を果たし『蝦夷拾遺』を著した蝦夷地調査隊は幕府要路老中田沼意次か老中格本多忠籌の命だったのでは?
70: 日本@名無史さん 2020/06/12(金) 12:21:50.04
>>68
天明5年の蝦夷地調査隊参加者は以下11名の諸氏でよいのかな?
青島俊蔵
山口鉄五郎
菴原弥六
佐藤玄六郎
里見平蔵
引佐新兵衛
大塚小一郎
大石逸平
鈴木清七
最上徳内
天明5年の蝦夷地調査隊参加者は以下11名の諸氏でよいのかな?
青島俊蔵
山口鉄五郎
菴原弥六
佐藤玄六郎
里見平蔵
引佐新兵衛
大塚小一郎
大石逸平
鈴木清七
最上徳内
123: 日本@名無史さん 2021/05/29(土) 18:45:17.04
スレタイ副題間宮林蔵に代表される江戸時代の北方探検家の話題ばかりなんだが、例えば『チベット旅行記』を著した明治期の河口慧海や2021年BS再放送中の1978年NHK大河『黄金の日日』主人公呂宋助左衛門などに何故誰も関心を持たぬのかな?
124: 日本@名無史さん 2021/05/30(日) 09:14:58.72
呂宋助左衛門って、堺豪商の息子が航海で難破してルソン島にたどり着いて、って話だったっけ?
商人だしな。
商人だしな。
127: 日本@名無史さん 2021/06/12(土) 06:59:30.43
>>124
大河『黄金の日日』では呂宋助左衛門は堺の会合衆今井宗久の配下で海外交易に携わったという設定ですね。
戦国時代に誰も手がけず訪れないルソンとの交易に携わるのは商人といえど充分に探険家の領域では?
大河『黄金の日日』では呂宋助左衛門は堺の会合衆今井宗久の配下で海外交易に携わったという設定ですね。
戦国時代に誰も手がけず訪れないルソンとの交易に携わるのは商人といえど充分に探険家の領域では?
126: 日本@名無史さん 2021/06/02(水) 23:31:35.94
ザビエルとともに日本に戻ってきたヤジローあたりも気になる
129: 日本@名無史さん 2021/06/25(金) 05:47:00.58
最強探検家・水谷新六

水谷 新六(みずたに しんろく、1850年4月14日(嘉永元年3月3日) - 1921年9月以降 )は、三重県桑名市出身の探検家、実業家である。
日本人で初めてミクロネシア方面との貿易を開始したと言われ、グランパス島の探検を繰り返す中で南鳥島にたどり着き、その後アホウドリの羽毛採取事業を開始するなど南鳥島の開拓に取り組んだ。またアホウドリなどの資源を追って、沖大東島、東沙諸島、北西ハワイ諸島へとその活躍の場を広げた。その後第一次世界大戦時は、南洋群島の占領を目指す日本海軍の水先案内人を務めた。
137: 日本@名無史さん 2021/10/29(金) 18:20:11.86
小笠原諸島を目指して太平洋に漕ぎ出した勇敢な人たちのことも忘れないでくれ
138: 日本@名無史さん 2021/11/28(日) 01:09:42.08
>>137
勇敢な人とは小笠原諸島の発見者と伝えられる戦国期武将小笠原貞頼のことか?
実際の小笠原諸島発見者は大航海時代の西洋人なのでは?
勇敢な人とは小笠原諸島の発見者と伝えられる戦国期武将小笠原貞頼のことか?
実際の小笠原諸島発見者は大航海時代の西洋人なのでは?
小笠原 貞頼(生年不詳 - 寛永2年(1625年))は、安土桃山時代の武士。通称は、彦七郎・又七郎、民部少輔。徳川家の家臣で、小笠原諸島の発見者と伝えられる。
『小笠原民部記』によれば永禄7年(1564年)に同族の幡豆小笠原氏を頼って三河国に移住した後、宗家に比べて早い段階で徳川家康に臣従した。文禄2年(1593年)、文禄・慶長の役の帰陣に際して、「貞頼は小田原の陣以来数度の戦功にもかかわらずいまだ本地に帰らず、家臣の禄も不足しているであろうから、しかるべき島山があれば見つけ次第取らすであろう」との証文を家康から得て、南海探検に船出した。
この探検によって貞頼は3つの無人島を発見し、豊臣秀吉から所領として安堵されたとされている。
『小笠原民部記』によれば永禄7年(1564年)に同族の幡豆小笠原氏を頼って三河国に移住した後、宗家に比べて早い段階で徳川家康に臣従した。文禄2年(1593年)、文禄・慶長の役の帰陣に際して、「貞頼は小田原の陣以来数度の戦功にもかかわらずいまだ本地に帰らず、家臣の禄も不足しているであろうから、しかるべき島山があれば見つけ次第取らすであろう」との証文を家康から得て、南海探検に船出した。
この探検によって貞頼は3つの無人島を発見し、豊臣秀吉から所領として安堵されたとされている。
139: 日本@名無史さん 2021/12/15(水) 01:57:47.34
間宮林蔵より11世紀にアムール河を30日間遡上して帰国した安倍頼時の方が凄い。
142: 日本@名無史さん 2022/01/23(日) 18:39:39.46
>>139
あの話は日本書紀の阿部ふひとだかの話の焼き直しじゃなかったっけ?
あの話は日本書紀の阿部ふひとだかの話の焼き直しじゃなかったっけ?
147: 日本@名無史さん 2022/01/30(日) 10:36:20.67
日本書紀の話の焼き直しじゃないよ。
アムール河を遡上して騎馬民族に遭遇するってのは、渤海が契丹に征服された11世紀の状況。
アムール河を遡上して騎馬民族に遭遇するってのは、渤海が契丹に征服された11世紀の状況。
160: 日本@名無史さん 2022/03/13(日) 17:07:35.98
>>142
『紀』に記された阿倍比羅夫遠征は現在の北海道南部までで、アムール川など沿海州には行っておらぬのでは?
『紀』に記された阿倍比羅夫遠征は現在の北海道南部までで、アムール川など沿海州には行っておらぬのでは?
143: 日本@名無史さん 2022/01/28(金) 10:01:01.56
>>139
AD11cに蝦夷首長安倍頼時がアムール河を30日間遡上して帰国した?
出典は何なの?
AD11cに蝦夷首長安倍頼時がアムール河を30日間遡上して帰国した?
出典は何なの?
144: 日本@名無史さん 2022/01/28(金) 16:22:09.66
今昔物語や宇治拾遺物語にその話がある
どこまで遡上しても限がない大河で騎馬民族が馬筏で大河を渡っていくのを見て、恐れをなして日本に戻ってくるというものだった
ただしアムール川とは書いていない
小学館の今昔物語の解説では石狩川か?みたいな解説がある
参考巻31第11話 陸奥国安倍頼時行胡国空返語 第十一どこまで遡上しても限がない大河で騎馬民族が馬筏で大河を渡っていくのを見て、恐れをなして日本に戻ってくるというものだった
ただしアムール川とは書いていない
小学館の今昔物語の解説では石狩川か?みたいな解説がある
145: 日本@名無史さん 2022/01/29(土) 11:24:24.27
場所について、夷の地の対岸で中国の北の胡国と書いてある。
アムール河じゃん。
そもそも北海道に騎馬民族なんていないし。
アムール河じゃん。
そもそも北海道に騎馬民族なんていないし。
146: 日本@名無史さん 2022/01/29(土) 11:34:24.87
俺もアムール河の描写だとは思うが日本書紀の話の焼き直しだから頼時よりも阿倍比羅夫の話とみるべきだろう
148: 日本@名無史さん 2022/01/30(日) 12:15:22.92
>>146 >>145
何故アムール河と推察なの?日本列島対岸の大陸側としても、豆満江とか鴨緑江とかの可能性もあるのでは?
何故アムール河と推察なの?日本列島対岸の大陸側としても、豆満江とか鴨緑江とかの可能性もあるのでは?
149: 日本@名無史さん 2022/01/30(日) 13:07:24.30
そもそもその安倍頼時の話が史実なわけないんであって、実際の安倍一族は源氏に追われて北に逃げるのだがウソリという豪族に阻まれてしまう
ウソリとは恐山の名の由来であり逃げた先は下北だったと推察される
ウソリとは恐山の名の由来であり逃げた先は下北だったと推察される
150: 日本@名無史さん 2022/01/30(日) 18:49:27.30
今昔物語に史実を求めてもね。
そのエピソード周辺には異郷に行く話が続くから冒険談みたいで面白いっちゃ面白い。
そのエピソード周辺には異郷に行く話が続くから冒険談みたいで面白いっちゃ面白い。
151: 日本@名無史さん 2022/01/30(日) 22:04:53.38
蝦夷地の対岸に中国の北の騎馬民族の国があるって正しい地理情報じゃん。
中国の文献にはこんなこと書かれていないわけで、実際に航海しないと得られない情報だろ。
当時の史料に正しい地理情報が書かれている以上、安倍頼時の話が史実だとしか考えられない。
中国の文献にはこんなこと書かれていないわけで、実際に航海しないと得られない情報だろ。
当時の史料に正しい地理情報が書かれている以上、安倍頼時の話が史実だとしか考えられない。
152: 日本@名無史さん 2022/01/30(日) 22:17:47.42
そういう民族がさらに北方の大陸にいることは交易などから情報として入ってくることはあっても、安倍頼時自身がそこまで遠征したというのはまた別な話。
155: 日本@名無史さん 2022/02/13(日) 16:59:30.75
今昔で安倍頼時の話の次も似たような話で、船で中国から帰ってくる時に島を見つけたので上陸したら、島の人々がワラワラと集まってきたのでビビッて逃げたという内容。
そして長老が「それはきっととらの島に違いない。逃げて正解」と語るというもの。
解説によれば、韓国の済州島がとらの島と呼ばれていたので、「承認が済州島に上陸した話」と注釈がつけられている。しかしこれ、本当に済州島なのかは誰にもわからんのよな。
長老が勝手に「それはとらのの島だ」と言っただけなんだから。
そして長老が「それはきっととらの島に違いない。逃げて正解」と語るというもの。
解説によれば、韓国の済州島がとらの島と呼ばれていたので、「承認が済州島に上陸した話」と注釈がつけられている。しかしこれ、本当に済州島なのかは誰にもわからんのよな。
長老が勝手に「それはとらのの島だ」と言っただけなんだから。
156: 日本@名無史さん 2022/02/15(火) 00:51:48.52
>>155
『今昔物語』巻31-12「鎮西の人 度羅の島に至りし語」のことか?
解説(本)は度羅(トラ)が済州島の古称耽羅(タンラ)が訛った名と捉えたんだね?
「度羅人には食人風習があるので逃げて正解」と長老が逃げた承認(商人?)に語ったんだね?
『今昔物語』巻31-12「鎮西の人 度羅の島に至りし語」のことか?
解説(本)は度羅(トラ)が済州島の古称耽羅(タンラ)が訛った名と捉えたんだね?
「度羅人には食人風習があるので逃げて正解」と長老が逃げた承認(商人?)に語ったんだね?
157: 日本@名無史さん 2022/02/20(日) 18:13:33.28
単純に見知らぬ島に行っただけの人に「それは渡羅の島や」って知ったかぶりのジジイが言っただけなのに、済州島に行った話と決めつける解説がおかしいわ。
A「この前スゲーきれいなばあさん見たんだわ」
B「それたぶん吉永小百合や」
ただこれだけの会話で「Aが吉永小百合に会った話」と決めつけるようなもん。
A「この前スゲーきれいなばあさん見たんだわ」
B「それたぶん吉永小百合や」
ただこれだけの会話で「Aが吉永小百合に会った話」と決めつけるようなもん。
158: 日本@名無史さん 2022/02/20(日) 23:26:02.82
>>157
その吉永小百合事例は『今昔物語』の度羅島譚とは以下の点で相応しないよ。
「きれいなばあさん」の他に度羅≒耽羅に相応するその婆さんに関する付帯情報がないからね。例えば「その婆さんの名字は安永」とかのね。
その吉永小百合事例は『今昔物語』の度羅島譚とは以下の点で相応しないよ。
「きれいなばあさん」の他に度羅≒耽羅に相応するその婆さんに関する付帯情報がないからね。例えば「その婆さんの名字は安永」とかのね。
140: 日本@名無史さん 2022/01/07(金) 12:21:06.65
アムール河遡上といえば天保11年(1840年)金沢生まれの嵯峨寿安もいるな。
明治4年(1872年)加賀藩の命を受けウラジオストクへ渡りペテルブルクまでシベリアを横断。実に行程約8,000km。
明治4年(1872年)加賀藩の命を受けウラジオストクへ渡りペテルブルクまでシベリアを横断。実に行程約8,000km。
172: 日本@名無史さん 2022/06/26(日) 12:57:14.04
松尾芭蕉も老人探検家?
153: 日本@名無史さん 2022/02/06(日) 16:26:15.94
南極探検の白瀬のぶ中尉のことがまだ出ていない
引用元: ・【間宮林蔵】日本の探検家たちについて【伊能忠敬】