1: 名無小路無知麻呂 2015/05/18(月) 10:31:01.81
サムライだけが日本史ではござりません。
お公家さんもまた、日本史の重要なテーマであらしゃいます。
中臣鎌足から近衛文麿まで。
お家芸を守り、権謀術数を尽くして悠久の時を生き抜いたお公家さんを語りましょう。

お雑煮はもちろん、白味噌&丸餅&梅人参仕立てでござります。








3: 日本@名無史さん 2015/05/18(月) 16:51:28.82
中臣鎌足は武人でもあるし、当時は公家と武家に分かれてなくないか?

5: 日本@名無史さん 2015/05/18(月) 19:06:48.03
>>3
平安の最初とか、お公家さんも武道を嗜むこともあったようですね。
鎌倉武士の象徴(と自分で勝手に思っていた)流鏑馬も、元祖は京都のお祭りなんですね。
驚きました。
喫茶店で何気なく使う「おひや下さい」。
実はこれ、公家言葉なんですよね。
「おひや」って公家言葉。
他にも、「おつむ」とか。
あと、ご飯にお味噌汁かけて食べるのも、お下劣な庶民の習慣かと思いきや、なんと、公家のお食事(芳飯)です。

意外と公家文化は現代に生きている。

8: 山野野衾 ◆qDubHAi3S/a/ 2015/05/24(日) 13:54:08.79
>>3
公家は元々天皇ないしは朝廷のこと。
公家と武家で対比して言うようになるのは、12世紀からですね。
もっとも、その後も公家が武芸を嗜んだり、武力を行使しなかったわけではない。
大納言土御門定通が安貞元年(1227)に吉祥院の神人に鮎漁を咎められて闘争に及び、摂関家に咎められた際には「我また武士なり」と抗弁しているように、公家でも「武士」と自認することがあった。

『宇津保物語』は時代と共に順次改訂されていった書籍ですが、出て来る貴族というものは、実力行使も抜刀も斬首も辞さない連中です。清少納言の愛読書でもありましたが、彼女の兄からして、藤原保昌に味方して源頼光の弟である頼親と抗争し、館を襲撃されて殺されていますね。

保元の乱で敗れた頼長を入れなかった藤原忠通は、弓馬を好んでいました。その為、随身で乗馬が下手な者は冷遇されたということです。
九条頼経は鎌倉幕府の四代将軍でしたが、鎌倉で過保護に扱われ過ぎて乗馬が出来ず、帰京してから他の公家に混じれずに苦労しています。

>あと、ご飯にお味噌汁かけて食べるのも、
忠通によると、飯と椀の間に匙と箸を入れて隙間を作って注げということです。

公家と弓で印象深いのは、藤原道綱ですね。
『蜻蛉日記』には弓の師匠に指導され、よく当てたことが書かれています。
『北野天神縁起』でも、道真の弓が百発百中であったとされている。
『大鏡』の道長の逸話のように、弓射は公家に必要な技能。

6: 日本@名無史さん 2015/05/19(火) 00:57:36.93
『御堂関白記』(長和元年十二月四日・京都)
斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し
依りて的を打たしむと云々。
射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如し。

能射の者が伺候していないので的を射るものがいない。
それで的を打たせた。
弓で矢を的に射当てる事が出来ないので仕方なしに手で投げるようにして矢を的に打ち当てたの意。

9: 山野野衾 ◆qDubHAi3S/a/ 2015/05/24(日) 14:50:24.10
貴族の家職が形成されたのは、10世紀以降。
その中で「兵」を家職とした貴族から武家が生まれていった。
その一方では和泉式部の夫であった藤原保昌、清少納言の夫であった橘則光、俊寛の祖父である大納言源雅俊などが、「させる弓箭をとる家にはあらねども」武威を振るった者として知られています。

公家が軟弱とか大人しいというのは、江戸時代に形成されたイメージ。
庶民も平気で弓矢を扱ったり腰刀を装備したりしていますが、中世だと武士以外でもおとなしい人間がいない。
僧兵(10世紀頃誕生)も誕生・消滅は歴史的必然であったと思います。

10: 日本@名無史さん 2015/05/24(日) 18:08:07.23
幕末の戊辰戦争には宮さまが官軍総大将として出陣してるよね
後光明天皇が御所で刀振り回してて京都所司代が
「天子は学問をすることと決まっています。私は責任を取って切腹せねばなりません」
と言ったら
「私はいまだ武士の切腹をみたことがない。では、今からその切腹とやらをこの場で見せよ」
と言ったらしいが、江戸時代の人に軟弱イメージがあったかどうかは不明
公家の軟弱イメージは近代の時代劇の影響が大きいんじゃないの
武士に刀突きつけられて「きょーえー」みたいな感じの

11: 山野野衾 ◆qDubHAi3S/a/ 2015/05/24(日) 20:24:49.22
後光明天皇の場合、儒学を好んで和歌や『源氏物語』を柔弱と退け、廃れた朝儀の復興を志すなど、かなり個性的な方でしたからね。
幕末になると、復古を志して上古の天皇や側近が武威を振るっていた時代を称揚するようになる+大塔宮も登場する『太平記』が尊重されている。

それと、言葉が足りませんでしたが、公家=柔弱というイメージを積極的に主張したのは当の公家ではなく、江戸時代の武家の史論(公家が柔弱化して堕落した、だから武家による支配が正当である)です。

明治になると、今度は復古に名を借りた新生のために従来の官職や服飾などの制度を一新する必要から、「中古」は軟弱であったので、上代の尚武に立ち帰ろうという主張が行われている。

12: 山野野衾 ◆qDubHAi3S/a/ 2015/05/24(日) 20:42:08.41
「長袖の徒」と言えば、今でもいいイメージはない言葉だと思います。
上古には神武天皇なり神功皇后が筒袖で東夷や三韓を平らげた。
それが唐の制度を取り入れて袖を長くしてから衰退した。
だから駄目なんだという主張が、江戸時代には武家の支配のため、明治時代には新制度導入の為に繰り広げられた。

時代劇のイメージは確かにあると思いますが、その淵源は戦前すでにあったと思います。

武士が「公家化」したから滅んだのだという主張は、松平定信が今川氏真も槍玉に挙げて主張しているのが古そうです。公家文化を学ぶこと自体は成功した戦国大名もやっているのですが。

室町後期に政治的に沈滞した公家自身が、『源氏物語』などの古典の研究や教授に生きる道を求めたことも、(衰退したから和歌や物語が目立ったのに)和歌や物語と政治的能力・実権が相反するかのようなイメージを形成するのに一役かったようです。

15: 日本@名無史さん 2015/05/25(月) 11:20:53.43
>>11 >>12
つうか、江戸時代初期に江戸幕府がわざわざ禁中並公家諸法度を制定して天子が学問を第一とせよなどと定める必要があったのだから、この時点でまだ武装皇族が総大将となる可能性があったからだろう

江戸時代の武家の史論(公家が軟弱…)の一次史料は?
江戸時代においても武家は幕府を転覆するときには、天子を担ぎ出し公家に相談することを当然のように考えていた
公家が軟弱で使い物にならないならそのような発想すらわかない

だいたい松平定信が
「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」
というのは武士は平時においても武道第一を忘れるなと言っただけで、彼らが「公家化した」とはどこにも書いてないのだが

16: 山野野衾 ◆qDubHAi3S/a/ 2015/05/25(月) 20:59:53.86
>>15
>江戸時代の武家の史論(公家が軟弱…)の一次史料は?
高橋昌明先生が『武士の成立 武士像の創出』終章で列挙していらっしゃいます。

>彼らが「公家化した」とはどこにも書いてないのだが
近世の武家の(建前上の、理想としての)認識が、文武両道の存在であり、それを放棄した時(多くは文に偏った時)、中古以降は文のみの存在であった(ということにされた)公家と同等の存在に「堕してしまう」。
近世の(公家に対するものとしての)武家認識からすれば、ありうべからざる武家の姿を否定する際には、公家化という発想が背後にあったのではないかと考えました。
とはいえ、はっきり述べていないのに持ち出すのは不適切でしたね。申し訳ない。

>公家が軟弱で使い物にならないならそのような発想すらわかない
どうも最初から誤解があって怒っておいでの様ですが、私は「イメージ」だと申し上げたのであって、実態としてそうであったとは一言も申しておりません。
そういうものであった、ということにする説が、近世にせよ近代にせよ、必要に応じて存在し、現代まで続く公家のマイナスイメージを形成したのではないか、というだけです。

18: 日本@名無史さん 2015/05/27(水) 01:01:58.20
公家が公家たる法律などの明確な根拠とかってあって、公家と武家、公家と町人などって明確に分かれてたの?
例えば武士が朝廷から正式に官位を授かって公家になったり、公家が官位などを剥奪されて公家の資格を失ったりしなかったの?

19: 日本@名無史さん 2015/05/27(水) 10:14:24.33
江戸初期に限って考えると、禁中並公家諸法度は、ほとんど実効性がなかった、と言えなくもない。

近世初期の公家を考えるなら、京都並びに天皇について、若干の考察が必要。
歴代天皇で、おそらく最も権威が低かった天皇の一人とも言えるであろう後水尾天皇は、公家衆の統率に手を焼いていた。
銭湯に入るな、芝居見物はするな、鉄砲を撃つな、など、みんな天皇が自ら指導したこと。
築地塀に穴や抜け道だらけで、一般人がしょっちゅう通り抜けていた京都御所。
猪熊事件で勅勘を被り、一時政界を退いていた烏丸光広は、後に赦免されて復帰し、権大納言まで昇った。彼は、能書家であり、本阿弥光悦とも親交のあったインテリだったのは周知の通り。

公家の本拠地、京都は、秀吉が城下町にしようとして挫折したところ。
家康も、京都所司代こそ置けたものの、町奉行所はなかなか置けなかった。
事実、三都の中では、町奉行所が成立したのは一番遅い。
町衆の強固な結束があったから、上からの支配が浸透しなかった。

また、失墜したとはいえ、後水尾天皇もやはり、武家にとっては特別な存在であることには変わりなかった。
秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えた先例に倣い、家康もぜひ、武家の居館に天皇の行幸を仰ごうとしていたが、とうとう存命中には叶わず、子の秀忠(大御所)家光の頃、寛永三年になってようやく二条城行幸が実現。

京都はなんだかんだいって、凄いところだ。
貧乏とはいえ、お公家さんもまたしかり。

23: 日本@名無史さん 2015/07/08(水) 18:04:24.56
>>19
禁中並公家諸法度が発布されたのが慶長20年なのだから江戸時代初期に実効性がなかったのは当たり前
発布されてないから
32: 日本@名無史さん 2017/02/10(金) 20:55:33.59
明治天皇の生母の中山慶子は、維新前に女院になっていても良かったようにも思うけど、明治天皇は英照皇太后の実子(養子制度の内で最も重いもの)となっていたので、やっぱり無理か。

37: 日本@名無史さん 2017/04/18(火) 15:24:33.38
>>32
江戸時代に天皇の実母(典侍)が女院号貰ってる場合でも、実母が死ぬ数日前とかだから中山慶子が貰うのは無理でしょう
中山慶子が女院号貰えなかったのは明治時代の皇室典範で院号、女院号制度を廃止したためだし
江戸時代だと天皇が退位、もしくは死んだら「明治院」のように呼ばれるからね

33: 日本@名無史さん 2017/04/16(日) 16:00:28.67
山形に何故か近衛という苗字が多いらしいけど五摂家筆頭の近衛家と関係はあるんだろうか
摂関家の荘園だった寒河江荘と関連がありそうだけど

34: 日本@名無史さん 2017/04/16(日) 16:03:44.87
南朝の落ち延びは多いと言いますね

45: 日本@名無史さん 2018/05/30(水) 08:46:00.51
全日本なぎなた連盟が伊丹市にあるのは江戸時代に同地に所領があった
近衛家との関わりからだと初めて知った。

53: 日本@名無史さん 2018/07/28(土) 01:12:24.66
映画などで、公家が出来ればメインで登場する時代考証が素晴らしいものってご存知の方いますか?

55: 日本@名無史さん 2018/07/29(日) 11:22:08.62
>>53
ドラマでなら「和宮様御留」かな。ストーリーは別にして。
風俗考証でいえば眉とか鉄漿とか立烏帽子とかなあなあで済ませてるとこあるけど。

54: 日本@名無史さん 2018/07/28(土) 03:56:03.88
>>1
やっぱり公家と言えば、麿呂AAの元ネタとなった、水戸黄門の悪役の一条三位だよな。
でも実際は、山野さんの話によると柳生一族の陰謀に出てくる烏丸少将みたいな人も結構いたみたいですね。
じっさい烏丸少将はモデルになった人が実在していたそうだしな。
ちなみに烏丸少将役の成田三樹夫も仁義なき戦いのヤクザの幹部をやってハマっていたなぁ。

76: 日本@名無史さん 2020/06/29(月) 15:50:46.54
公家の子孫だと名乗っていいのは
幕末時点の公家の子孫ぐらいのものだろうな

単に大昔の先祖がとか言い出したのなら日本全国の○藤さんなんかはみんな公家の子孫になる

77: 日本@名無史さん 2020/07/18(土) 20:02:10.54
江戸時代って藤原以外の公家も公家として扱われてたの?
卜部氏(吉田家)は神祇大副とかやってたみたいだけど。

84: 日本@名無史さん 2020/07/19(日) 05:01:52.92
>>77
狭義の公家である堂上家(公卿になり得る家柄)の137家を、本姓・血統の別で分けると

藤原氏 96家
源氏  18家
平氏   5家
菅原氏 6家
清原氏 3家
阿倍氏  2家
大中臣氏  1家
卜部氏 4家
丹波氏 1家
大江氏 1家

堂上家の家格の区分 (摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家) では菅原氏から大江氏までに属する家は、全家が半家
ただし半家は藤原氏・源氏・平氏の中にもあるが

86: 日本@名無史さん 2020/07/19(日) 10:22:33.36
>>77 >>84
そのうち久我(村上源氏)・広幡(正親町源氏)は清華、中院(村上源氏)は大臣家の家格で源性はそれなりの一大勢力だねー

89: 日本@名無史さん 2020/07/20(月) 00:19:48.19
>>86
堂上家の家格や本姓や本家・分家関係や旧家・新家関係に、石高はまぁリンクしているようでいて不可解な部分も多いな。
家格別に石高を見てみると以下の通り。 (家数の多い家格帯はベスト3とワースト3のみ)

・摂家  5家 : 2862 近衛。 2044 九条。 2044 一条。 1708 二条。  1500 鷹司。 

・清華家  9家 : 1655 菊亭。  715 花山院。  700 久我。 ~  410 徳大寺。  403 大炊御門。 312 醍醐。 

・大臣家  3家 :  502 三条西。  500 中院。   200 正親町三条。  

・羽林家 66家 :  928 飛鳥井。  631 水無瀬。 500 橋本。  ~ 100 西大路。  83 櫛笥。     30 (十四家)。 

・名家 28家 : 1153 日野。 1004 烏丸。  858 広橋。  ~ 100 芝山。 50 (五家)。   30 (五家)。 

・半家 26家 : 1000 萩原。  813 高倉。  766 吉田。  ~ 130 石井。 100 北小路。   30 (七家)。 

91: 日本@名無史さん 2020/07/20(月) 10:44:19.78
>>89
五摂家の石高は別格として室町以降の武家との交わりの濃い公家の石高がそのまま江戸期にも引き継がれた感じ?
公家屋敷の規模でみると五摂家・宮家はさすが「御殿」「御所」呼ばわりされるだけあって広大。でもそのほかは石高に関わらずちっこいね。

92: 日本@名無史さん 2020/07/20(月) 23:15:36.05
三十石なんかだと本当の貧乏公家で、下女の一人も雇えるかどうかって所なのでは

93: 日本@名無史さん 2020/07/21(火) 00:53:02.10
>>92
蔵米取りって屋敷も100坪程度(俺んちより狭い)だし住み込みは難しそう。参内の際の従者は口入屋からの派遣社員だろうな。

94: 日本@名無史さん 2020/07/21(火) 15:18:48.22
ついでに皇室なんかの石高は、

・天皇家 存命中 : 30021 天皇。  10000 本院上皇。 7000 新院上皇。  5000 三后・女院。  2000 女御。 800 東宮。 300 嫡皇子女。 50 庶皇子女。 

・宮家  4家 ;  3196 桂宮。 1022 伏見宮。 1016 閑院宮。 1000 有栖川宮。 

・役料 現任中 ;  500 摂政・関白。 500 藤氏長者。 200 議奏・武家伝奏。  100 職事。 120 典侍。 200 勾当内侍。  100 内侍。   60 命婦・女蔵人・御差。 

内侍は新家や半家でも出仕できるので、窮乏実家の為の宮仕えかな。

90: 日本@名無史さん 2020/07/20(月) 09:14:49.07
古代の名族(蘇我氏、物部氏、大伴氏など)は没落して歴史の舞台から消えていったのに、藤原氏を中心とする「公家」が明治維新まで残ったのが、何よりも不思議だ。
実権を握った武士(足利、織田、豊臣、徳川など)が天皇だけを残し、公家はすべて追放して自分たちが公家の就いていた官位を独占し、朝廷を牛耳ることもできたはず。
天皇だけでなく、公家も残したところに謎を感じる。

100: 日本@名無史さん 2021/02/03(水) 10:29:41.39
>>90
戦国以前は分からないけど徳川は外戚組んだり公家との関係性を重視してたように思う
朝廷の要人を自分の政権の後見人として取り込む事に意味があったのでは

107: 日本@名無史さん 2021/12/13(月) 11:15:19.26
>>90
もし平家が長続きしていたら、平家が家格第一の公家(+武家も兼任)になって、藤原氏は没落していた可能性がある
数代にわたって平家が天皇の外戚になれば、摂関も平家が奪い、平家が摂関家になったかもしれない
足利将軍家は摂関家をしのぐ勢力になったが、摂関を奪うことはなかった

108: 日本@名無史さん 2021/12/13(月) 15:18:39.96
>>107
清盛が藤氏の相続に介入したように、傀儡にすることはあっても、摂関を奪うのはもう無理だったろうと思う。
摂関は既に御堂流の家職になってて、外戚の有無は関係がなくなっていたから、仮に清盛流平氏の天下が長続きするなら、太政大臣か何か分からないが、別にトップの官職が出来たんだろう。
でも、現実は公家層は清盛流平氏による官職独占に我慢がならなかった。頼朝の鎌倉殿プランってのは公家層にとってもそこそこ満足がいく話だったと思うよ。

109: 日本@名無史さん 2021/12/13(月) 16:36:54.99
公卿の地位にあるのは頼朝だけで、源氏一門(のちに北条氏も)が受領だからな
公家からすれば、平家に比べて不満がないよな

114: 日本@名無史さん 2021/12/20(月) 20:35:45.40
>>109
その辺が頼朝の天才たる所以だよな
清盛や秀吉とは違い、どうやったら持続可能な政権を作れるかということを主眼に置いている

まあ、それでも結局持続可能ではなく長男次男がともに暗殺されて滅びたわけだが

115: 日本@名無史さん 2021/12/21(火) 14:50:10.14
>>107
鎌倉時代は西園寺家が代々の天皇の外戚だったが
摂関にはなれなかったからな
藤原道長以降は天皇の外戚であろうがなかろうが
摂関の座は世襲になっている

110: 日本@名無史さん 2021/12/14(火) 09:31:08.92
では、豊臣政権が長続き(近代を迎えるまで)していたら、関白は豊臣氏の家職になって摂関家はもはや摂関家ではなくなっていたのかな?
豊臣氏が天下人なんだから、五摂家と摂関の持ち回りなんてしないよね?
公卿も豊臣一門や五大老が独占して、公家は高位の官位に就けなくなる
公家自体は残ったと思うけど、公家社会の極官や昇進の秩序は滅茶滅茶になったと思う

117: 日本@名無史さん 2021/12/22(水) 14:29:12.35
秀次死後は関白は空位になっている
結局関ヶ原合戦の後に家康が奔走して関白に公家が就任

119: 日本@名無史さん 2021/12/23(木) 10:34:06.61
>>117
関白有資格者だった近衛信尹、二条昭実が権力争いしている間に両方とも力を失い、後陽成天皇が関白を豊臣に命じた経緯がある
摂関常置や五摂家の世襲は藤原氏側の要望によってそうなっただけで、天皇のほうからそれを望んだわけではないからね

118: 日本@名無史さん 2021/12/22(水) 16:21:25.72
秀次事件がなければ、秀次は長期にわたって関白に就位していたはず。
(当時、秀次は若かったから)
秀次は聚楽第において行政の責任者になっており、その地位と関白は結びついていた。
その後、秀次の息子か秀頼が関白になり、関白は豊臣氏の世襲になった可能性がある。
つまり、関白を行政の責任者とする一種の幕府になったということだ。
(征夷大将軍、近衛大将ではないので、幕府ではなく政所などと呼んだと思うが)
それとも、関白は秀吉・秀次の2代限りで、その後は摂家に返したのだろうか?

119: 日本@名無史さん 2021/12/23(木) 10:34:06.61
>>118
関白が豊臣の世襲ならその下に五摂家のための役職が作られただけかと
豊臣政権は本拠地を都(聚楽第)におき、秀吉が天皇のお傍へ参内するのは勿論、天皇も秀吉の聚楽第に遊びに来ているし
公家と武家は天皇の下に融合してたからね

引用元: ・公家総合スレッド!