1: 岡崎前門主 2019/02/05(火) 22:38:00.09
・日本史板ですので、科学的な議論を心掛けましょう。
・荒らしは慎みましょう。
・相手に対して敬意を持ってレスしましょう。







4: 日本@名無史さん 2019/02/06(水) 15:54:05.84
後南朝は最近、人気が上がってきた
もうすぐブームになる

6: 日本@名無史さん 2019/02/06(水) 22:55:11.88
南朝後胤の最後の資料は、東大史料編纂所編纂の『大日本資料 第八編』の十一、文明十一年(1479)七月十九日の条に「小倉宮ノ王子、越後ヨ リ越前ニ到ラセラル」

A『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送られて、 越後より越前国北荘へ移った。

B同記三十日の条
「出羽王」が高野へ向かう道中のこと。

C「妙法寺記」文明十年霜月十四日の記事
「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺(現:山梨県東八代郡石和町)に滞在したこと。

D同記明応八年霜月の記事
「王」が明応八年霜月に流されて三島(現:静岡県三島市)に着き、早雲入道(北条早雲)が諌めて相模国に送ったこと。

前スレのこれらの史料に現れる「南方の宮」「出羽王」「王」の関係について今一度考察する必要がある。

7: 日本@名無史さん 2019/02/07(木) 23:22:26.77
「南方の宮」は山名宗全との関係から、西陣南帝の可能性がある

8: 日本@名無史さん 2019/02/08(金) 19:41:00.73
西陣南帝の弟宮の可能性もあるよ

9: 日本@名無史さん 2019/02/09(土) 17:23:55.73
南方の宮≒西陣南帝は、西軍を放逐された後、都を離れて、次第に遠くへ移されていったということになるね
寺院に入れて出家させるなどではなく、なぜ地方へと移されていったのか?

10: 日本@名無史さん 2019/02/09(土) 17:32:25.59
>>9
また飛躍してる

西陣南帝或いはその弟に推定されるのは越前に送られた奴だけ
それ以外の「出羽王」や「王」は誰なのかすら解らない

14: 日本@名無史さん 2019/02/10(日) 10:46:49.92
>>10
出羽王や「王」は、西陣南帝ではない可能性が高いと、自分も思う
だが、西陣南帝(南方の宮)が、都から越後、越前と移動しているのは何故だろうか
西軍の御輿として用済みになったのなら、出家させて寺に入れるだけで十分な気がする

11: 日本@名無史さん 2019/02/09(土) 17:35:25.13
西陣南帝は父親すらはっきりしない
父親と弟がいたらしいが、父親が誰の血筋なのか不明
自身で小倉宮の子孫だと自称してただけ

だが、小倉宮は島流しになり断絶してるからな(墓もあるし)
南朝系の他の主要な皇族も、仏門に入れられ子孫は絶えた。
それが史実

180: 日本@名無史さん 2019/05/10(金) 21:45:50.82
旧宮家の復活とか言ってる輩がいるが、それならまず真正の皇統たる後南朝の皇胤を探しだし、これまで平民の暮らしをさせてしまったことを政府が謝罪して親王宣下するのが先である

182: 日本@名無史さん 2019/05/10(金) 23:23:38.96
南朝は断絶が長すぎて、鍛冶屋長九郎を探し出したようにはいかないわな

185: 日本@名無史さん 2019/05/12(日) 11:05:16.29
西陣南帝の子孫はどこかで隠れているんだと思う
露顕したら北朝を崇拝している人に何をされるかわかったもんじゃない

186: 日本@名無史さん 2019/05/12(日) 12:06:26.79
子孫が生き残って続いていると、どうして確信できるんだよ

江戸時代の相続の実態調査で、全相続の3割もが息子以外への相続だったって事実もある
婿養子を入れたり、親戚の子を養子にしたり、それも無理なら血縁のない養子を入れたりする
一般庶民なら無理せず絶家する

商家や大名などでは婿養子も許されるし実例も多いが、天皇家や宮家では婿養子は許されない

そうすると、国家予算をつぎ込んででも頑張ってないと断絶してる可能性が高い、と考えるのが妥当

188: 日本@名無史さん 2019/05/12(日) 14:00:17.50
上流階級は妻を何人も持てるし、子供も多く養えるので、子孫継続させやすいが、庶民は子供を養えず、無嗣絶家になることが多いんだよな
だから、後南朝といえども、帝位についたり宮家を運営していた時代は皇孫が複数存在したが、庶民になってからは家が絶えた可能性が高い

189: 日本@名無史さん 2019/05/12(日) 15:03:40.89
その上流階級でも息子がいなくて養子を取る事例が少なくないんだ。ましてや……

だから、断絶してない可能性は低いよな

190: 日本@名無史さん 2019/05/15(水) 08:37:43.70
伊勢の北畠、肥後の菊池、信濃の諏訪、香坂、遠江の井伊、常陸の小田・・・

旧南朝勢力が後南朝の宮を見捨てる忘恩の悪臣どもなのが涙を誘うね

191: 日本@名無史さん 2019/05/15(水) 12:14:03.14
そもそも、近隣の敵対者と戦う必要から便宜的に南朝についただけの連中の方が多い
それ以外の動機で南朝についた忠臣なんて元から少数
そんな北畠でさえ自家の存続のためには後南朝を見捨てることが多かったぐらいだしな、
他は推して知るべし

193: 日本@名無史さん 2019/05/18(土) 09:26:36.84
後南朝に味方したのは、自分にとってもメリットがあったからなのは当然だな
「後南朝皇族を擁立する」というのが応仁の乱を最後に途絶えてしまった
その途端、後南朝皇族の消息も次第に断片的なものになり、途絶えてしまった
応仁の乱に際して、身の処し方がもう少し巧みであれば、世襲宮家としての地位を残せたかも知れない

194: 日本@名無史さん 2019/05/21(火) 08:22:00.58
南朝って150年ほど続いたのか
凄いな 執念やな
鎌倉幕府の執権130年よりも長い?

子孫がどんどん変なネーミングになっていくな

小倉宮聖承 ←怪しい
通蔵主・金蔵主 ←もはや何者?
西陣南帝←ミナミの帝王?
南天皇
自天王←天王?
忠義王

195: 日本@名無史さん 2019/05/21(火) 12:05:49.98
つっても、後醍醐廃帝が吉野に落ち延びてから十年ほどの期間しか善戦できてなくて、それ以後は幕府が武力討伐に消極的になったから存続できただけだし、後南朝になってからは継続的な勢力などなくて、京都近郊の寺にいる南朝皇胤を連れ出して武装蜂起するだけで、軍事勢力のまったくいない期間の方が長い

196: 194 2019/05/22(水) 06:19:16.95
まあけど、150年ほど南朝が忘れ去られなくて「旗印」として利用価値があったというのも凄いんじゃない?

朝廷ブランド?・天皇ブランド?って凄いな 今も存続しているくらいだし

197: 日本@名無史さん 2019/05/22(水) 06:21:27.48
1南朝の子孫が生き残っていれば織田信長とか徳川家康とかも担いだかもしれんな

198: 日本@名無史さん 2019/05/22(水) 19:27:09.98
>>197
その辺の時期だと、探せば見つかる可能性はあっただろ

信長も家康も探そうとしなかったんだよ。担ぐつもりがなかったから探さなかったんだろ

199: 日本@名無史さん 2019/05/23(木) 04:34:56.34
>>197
正統な北朝天皇を担いでるのに、南朝天皇を担ぐ必要がどこにある?
徳川は新田流といっても北朝方の子孫、織田家は土岐氏の守護代で北朝方。

200: 日本@名無史さん 2019/05/23(木) 14:16:45.39
土岐じゃなくて斯波だけど、他はまあ、そんなもんだな
北朝の流れである朝廷への献金の多さで名前が残ってるし

201: 日本@名無史さん 2019/05/24(金) 21:31:24.03
けど、よく考えたら3世くらいまでの王は皇族としての価値があるだろうけど、4世・5世・・・とかになってくると価値はないかもしれんな
本来、4世・5世などになってくると皇籍を離脱しなければならない立場だし

こういう理由で後南朝が終わったのかもしれん

202: 日本@名無史さん 2019/05/25(土) 07:58:35.75
>>201
奈良、平安ごろは皇族の数が多くて、5世王あたりは貴族としての地位も低かった
もっと早い段階で臣籍降下して、地方へ下る人も見られた
室町期は皇族が減ったし、宮家も長く続くようになった
だから、細々とではあるが、後南朝が長く続き、一定の高貴さも続いたのではないか?

203: 日本@名無史さん 2019/05/25(土) 13:49:08.51
>>202
https://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11489858466.html?frm=theme
https://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11510135602.html?frm=theme
ここの受け売りになるけど

>皇族は、四世王まで、つまり天皇の玄孫まで。それ以外は、臣籍
>ただし、五世王以降の宮が親王宣下を受けた場合、四世王に繰り上がり終身皇族となる。

つう事になると玄孫はまだしもそれを越えると特殊な例でもない限り基本自動的に皇族から外れるって見なしてるな
この人みたいに西陣南帝を小倉宮末裔と認めてると考えるにしても後亀山の玄孫に当たる形になり、その西陣南帝が消滅した時点で後南朝自体が完全消滅したと見なしてる
つまり西陣南帝に子供がいたとしてもそれはもう皇族とは言えず単なる後南朝の裔となると言う事だと

204: 日本@名無史さん 2019/05/26(日) 04:02:35.37
いや、それは後亀山までしか即位してない前提だろ?
南朝的にはその後も即位してることになってるはずだから、皇族で問題なかろう。
北朝から見れば、後亀山から5世離れてるのに臣籍降下も受けてないので、姓すらない只の非人だが。

205: 日本@名無史さん 2019/05/26(日) 15:46:08.33
北朝視点でみれば御村上以降誰も即位してないし、南朝視点なら西陣南帝も即位してる。
五世王云々ってあまり意味のある議論とも思えん。

206: 日本@名無史さん 2019/05/26(日) 22:10:08.26
北朝視点で見れば後南朝じゃなく南朝が、後村上以下全員が反乱者、謀反人、賊なんだよな、後亀山含めて。

208: 日本@名無史さん 2019/05/27(月) 12:52:26.71
山名宗全以下、西軍の首脳は西陣南帝に対して臣下の礼を取っていたわけだから、西陣南帝は室町幕府(北朝側)の有力者たちから皇位を認められていたことになる。
理屈の上からは、西陣南帝から起算して五世王までは皇族となる。
だが、残念ながら史実はそうならなかった。

211: 日本@名無史さん 2019/05/28(火) 06:45:23.98
>>208
武家政権から認められているかどうかで皇位を考えるのはおかしい。
武家政権が天皇から正当性を認められる側であって、逆はありえない。
その思想は天皇が武家に従属していることになる。

212: 日本@名無史さん 2019/05/28(火) 09:19:37.55
>>211
室町幕府初代将軍足利尊氏の正平一統の「伝統」だろう

尊氏は自分で北朝の天皇を擁立しておいて、弟の直義を討つための大義名分欲しさに平気で北朝の天皇を廃位にして、南朝の天皇を正統な天皇と急に承認して和平を結んだ
そして尊氏が直義を討った直後、南朝が足利との和平を破って京都を占拠し、北朝の「先帝」らと北朝の三種の神器を奪回して、吉野へ連れて行ってしまった
京都を奪還した足利は、三種の神器もない中で北朝の天皇を新たに再擁立した

このように武家の都合で天皇の皇統を擁立したり廃したりするのが、室町時代の伝統
西陣南帝の擁立もその延長線上に考えればわかる

213: 日本@名無史さん 2019/05/28(火) 12:29:02.98
いや、南朝北朝が争う中に第三勢力の幕府が関わっただけだ
幕府が南朝支持したときだって、擁立ではない。
北朝と(結果的には一時的だが)手を切ったとは言え、北朝を廃したわけではないしな

幕府には擁立したり廃したりする権限はなかった、あくまでも第三勢力にすぎない

214: 日本@名無史さん 2019/05/28(火) 16:17:21.88
足利尊氏は神器もなしに自分の都合で天皇を擁立した。
ならば、西軍が自分の都合で西陣南帝を擁立したのと同じではないか?
正式な手続きや正統性からすれば、どちらも問題があるし、そもそも武士が天皇を決めること自体がおかしいという面もある。
だが、自分で天皇を擁立して、その錦旗のもとに政権を正当化することこそ室町幕府の本質だ。
「西幕府」たる西軍も同じことをしたに過ぎない。

215: 日本@名無史さん 2019/05/28(火) 17:38:46.60
光明天皇が即位した時点、つまり北朝が始まった段階では、本物の神器を持ってたのは北朝がわで、後醍醐帝は神器を持ってないはずだ
ありもしない神器を元手に、北朝がわの神器は偽物で本物はオレの手元にあると吹聴したホラ吹きだ

216: 日本@名無史さん 2019/05/28(火) 19:54:58.19
光明天皇の正統性は、神器より光厳上皇の院宣を根拠とする
後に神器を入手して、その地位をより確かなものにした

217: 日本@名無史さん 2019/05/28(火) 21:06:17.31
三種の神器って今でもウィキペディアとか見ないとなんなのかよくわからないのに、そこらへんの田舎土豪たちがよく知ってたな
で、ウィキペディアを見たら本物は熱田神宮や伊勢神宮にあって、レプリカが皇居にあるそうだが、いずれも誰も実物を見たことがないという・・・

奇妙奇天烈としか言いようがない

218: 日本@名無史さん 2019/05/29(水) 02:46:54.49
神社のご神体なんかもそうだろ
誰も見たことが無いって奴

219: 日本@名無史さん 2019/05/29(水) 06:25:44.12
忠義王も川上郷民に顔を見せなかったという伝承がある

220: 日本@名無史さん 2019/05/29(水) 08:14:10.49
忠義王は御所の御簾の後ろにいたからな
近侍する公卿や女官しか竜顔を拝することは許されなかった

221: 日本@名無史さん 2019/05/29(水) 09:53:58.19
不敬を敢えてして言えば、天皇自体が神器のような御存在だから、人々の前に姿を表すことはなく、誰も顔を見たことがない

222: 日本@名無史さん 2019/05/29(水) 12:04:44.43
姿を表さないのだから、偽物が現れても真偽を確かめるのは困難だよな
きっと伝承に残ってる南朝後胤のなかにも多くの偽物が混じってるだろうな

224: 日本@名無史さん 2019/05/30(木) 07:21:55.65
寺を行宮にするって、住職の庫裏に住むのかね?
まさか本堂から御本尊を追い出しはしないよね?
まあ本堂も寝殿造と大差ないから、宮殿としても使えるだろうけど。

観心寺とか大きな寺の本堂なら内裏の代用品としては十分使えそうだけど、庫裏だけではちょっと手狭そう。

225: 日本@名無史さん 2019/05/30(木) 08:37:44.86
伽藍の中にある宿坊に屏風や御簾を設置して内裏にするんだろう
御師や先達が南帝の御前に大御食を奉ったんだろうね

226: 日本@名無史さん 2019/05/30(木) 12:24:08.13
平安時代後半からだっけ?
京都にいる天皇でさえ、貴族の邸宅を行宮にすることが多発してて、内裏が造営されることは少なかったはず?

ましてや亡命王朝にすぎない後南朝で内裏が造営されることはあり得ない

227: 日本@名無史さん 2019/05/30(木) 12:36:57.90
西陣南帝の場合は、上洛後、北野松梅院、続いて安山院を行宮にしていたな
正式な内裏への移行はその後の予定だった

228: 日本@名無史さん 2019/05/30(木) 20:52:04.15
後南朝の時代には内裏なんてない
維持出来る金もないし、知識のある公家もいない

230: 日本@名無史さん 2019/05/31(金) 02:14:41.65
>>228
内裏はないが里内裏ならあった

まあ、貴族の邸宅なわけだけど

231: 日本@名無史さん 2019/05/31(金) 04:41:17.07
>>230
どこに後南朝の味方する貴族の邸宅があったんだ?
吉野の山奥や、そこすら追い出されて紀伊とかにいた連中だぞ

西陣南帝を一時的に入れたとこを書いてるなら、それは例外
山名宗全の味方をしただけで、後南朝の味方をした訳ではないから

233: 日本@名無史さん 2019/05/31(金) 07:50:47.27
>>231
いや、時代って言い方だから、京都のことも含むと思ったんだ
京都にも内裏なんてないぞ、里内裏が普通だぞって
前後何百年かの範囲で代理を作ろうとしたのって、鎌倉幕府倒した直後の後醍醐帝だけだよな?

238: 日本@名無史さん 2019/05/31(金) 19:22:00.64
さすがに後南朝に大内裏を造営するだけの財力も動員力もなかった
それ以上に御所の警護が手薄であったのが痛く、赤松遺臣の強襲を許してしまった

239: 日本@名無史さん 2019/05/31(金) 19:50:07.37
そりゃな
南北朝が始まるより前でさえ造営する財力がないレベルのシロモノを後南朝の微力だけで作れたら驚くわ

そんなモノを作ると宣言した後醍醐帝(在京中)の意気込みにも驚くが。

240: 日本@名無史さん 2019/05/31(金) 20:19:48.13
南朝が粘り強く一部から熱心な支持が集まっていたことについては研究が必要
高師直に吉野を焼き払われた後でも、南朝を支持する勢力は畿内だけでも、河内にも大和にも伊勢にも紀伊にも存在していた

241: 日本@名無史さん 2019/05/31(金) 22:03:18.52
積極的に南朝を支持するというより北朝が憎かっただけの印象

しかし土豪が反北朝を鮮明にしても討伐できないという・・・・ 弱すぎ

243: 日本@名無史さん 2019/06/01(土) 11:30:51.97
大和国は興福寺の勢力圏で、必ずしも室町幕府の支配が及ばなかったことも要因ではないか?
興福寺と関係の深い土豪が割拠しているので、中には後南朝皇胤と関係を持つ者も出てくる
だから、小勢力の後南朝が長期間続いてしまったのではないだろうか?

244: 日本@名無史さん 2019/06/01(土) 11:43:51.02
その興福寺のなかが二大派閥に別れての盛大な派閥抗争続きだった点こそ重要では
南北朝時代にも両派に割れて戦争してるしさ
勝負がついても負けた方を殲滅できないから紛争の種が残り続けるし

もと南朝支持だったがわはどうしても起死回生を狙って南帝擁立に走りやすかったんじゃないかなあ

245: 日本@名無史さん 2019/06/01(土) 12:20:14.98
南北朝期の比叡山とかドライだよな
天台座主だった護良親王の縁もあるのか、湊川合戦の後は後醍醐天皇を匿って足利軍と一戦交えたぐらいだったのに

後醍醐天皇が吉野へ逃れてからは急速に関係が冷却化したのか、比叡山が南朝に味方して足利と戦った形跡はない

後南朝のきんけつの変の時に、後南朝の一派が比叡山へ逃げてきたが、比叡山が後南朝に味方することなく、足利軍と連合して後南朝と戦って排除した

246: 日本@名無史さん 2019/06/02(日) 19:14:45.78
比叡山が北朝を支持したのは北朝の正統性に大きく貢献しただろうね

248: 日本@名無史さん 2019/06/03(月) 12:35:49.42
後南朝は過大評価してはいけないが、過小評価もしてはいけない
大和、河内、紀伊などでは一定の支持者もいたし、動員力もあった
貴種としての政治力も一定程度残っていた

249: 日本@名無史さん 2019/06/06(木) 23:48:31.25
戦国時代でも大内義興や上杉謙信、織田信長は貴種を旗印にして、自分の権威の向上に役立てていたが、後南朝がそれを活用できなかったのが惜しいな

250: 日本@名無史さん 2019/06/07(金) 00:58:22.42
大内にとっても謙信や信長にとっても後南朝は自分の役に立たない無用な存在だったからね

251: 日本@名無史さん 2019/06/07(金) 05:26:44.68
100~150年くらいで人々の意識が変わるんじゃない?
いわゆるパラダイムシフトってやつ?

引用元: ・【新田楠木】後南朝スレ★4【西陣南帝】