102: 人間七七四年 2012/01/04(水) 00:24:05.70 ID:WdknnRz+
小田家関係の史料ってまとまって残ってないの?牛久市史料とかである程度集められてるのは
見たことあるが、もっとあるだろうし見てみたい。

103: 人間七七四年 2012/01/04(水) 00:51:11.72 ID:4c95IugD
宗家がわからないって越前とその分家には小田も江戸も上級藩士で残らなかったてこと?

105: 人間七七四年 2012/01/04(水) 12:01:15.32 ID:4mbH/XXE
>>103
江戸(水戸)氏は200石ぐらいで越前に残ったけど小田氏は不明
つくば市の寺には近代までの小田氏系図が残されているから恐らく筑波に戻って帰農したのではなかろうか

106: 人間七七四年 2012/01/04(水) 13:06:01.89 ID:b/CA3J+i
寛延三年に氏治子孫の成朝という人物が藤沢村の松岳寺で百五十年遠忌を行っているというから
そのときのかな?水戸家への出仕を希望したり小田旧領の神社に行ったり旧臣とあったりもしていたらしい。

107: 人間七七四年 2012/01/04(水) 13:29:52.32 ID:b/CA3J+i
ちなみに氏治の庶子友治の子孫なので宗家のことではない。

109: 人間七七四年 2012/01/05(木) 01:05:43.83 ID:YHr5r9o+
>>107
それとは別みたい
系図があるのは大島村の善照寺と言う寺らしいけど、そちらは守治の子孫
でも、そう考えると守治系も友治系も結局は常陸へ戻ってきたと言う事か
帰農する際に姓を変える事も割とあるから小田氏も姓が変わってるのかもしれないな

110: 人間七七四年 2012/01/05(木) 09:03:47.98 ID:kyb004sO
いや、友治の子孫は先祖ゆかりの地を訪ねただけで帰農していないよ。
父と同様に伊予松山藩で軍学(小幡家に学んだ甲州流)を教授したとのこと。
そのあたりについては『常源譜略・常東野語』の解説参照。

111: 人間七七四年 2012/01/05(木) 17:46:56.80 ID:FQdNO1Bz
教官なら中級藩士か

112: 人間七七四年 2012/01/05(木) 18:11:39.82 ID:kyb004sO
藩士ではないんだ。つか、小出しにするネタでもないからその辺りをまとめて引用しよう。

『常源譜略・常東野語」P83
「成朝はその頃小田太郎左衛門成朝と称し、たびたび旧領小田に行ったらしく、延享二年には「天庵公尊像覚書」を藤沢村に残し、また小田村の牛頭天王の神主長(永)戸豊後や小田の旧家臣に会ったりした。
明和六年(一七六九)松山候の書籍師範として出入りし、出入扶持として十五人扶持をもらい、同年参勤交代のお供をして伊予の松山に行き翌年帰府したが明和九年二月二十五日、六十九歳で卒した。法号は大器院文翁貫道」

松山に行ったころは「物頭格軍師役仰せつけられ、二百石以上たるべき」という噂があったらしいが結局それはかなわなかった。

113: 人間七七四年 2012/01/05(木) 18:22:15.78 ID:kyb004sO
おっと、その前の段も出しておかないと。

「しかし、水戸家出仕の運動は徒労に帰した。成朝は松平隠岐守をはじめ、南部候・毛利候などに甲州流の兵学などを講じ、何がしかの扶持をもらっていた。
寛保三年(一七四三)に「常東野語」を写し、延享四年(一七四七)に「常源譜略」を写し、寛延三年(一七五〇)に、常州藤沢村の松岳寺で天庵の百五十遠忌を行っている」

114: 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 2012/01/06(金) 10:20:34.06 ID:nioxB9eC
先祖も子孫もパッとしない生涯だったんだね

115: 人間七七四年 2012/01/06(金) 10:34:31.64 ID:F29xZWMU
鎌倉~戦国まで生き抜いただけでも大したもんだよ。

121: 人間七七四年 2012/01/07(土) 08:29:35.94 ID:nTCFJ3KK
氏治のせいで小田氏全体が過小評価されすぎだな。

122: 人間七七四年 2012/01/07(土) 10:42:15.18 ID:b+CPB13M
常陸三大勢力の1つなのにな
小田氏は室町政権下でも棟別銭の賦課など守護大名に近い権限を有していたし
大掾氏も同じく権限を有していて大掾職はいまだ健在だった
佐竹も守護大名に復帰していたが、守護の権限が及ぶのは奥七郡のみであり、常陸は大まかに見て三分支配されていた

128: 人間七七四年 2012/01/19(木) 12:59:17.78 ID:9vxn/2N/
中郡のあたりはどんな勢力図になっていたんだろう?
笠間家や益子家、結城家の出城が散在してるのは分かるが、何家が優勢だったのかが微妙に分からない。

特に岩瀬あたりは何家の勢力範囲だったの? 真壁家?

129: 人間七七四年 2012/01/19(木) 22:41:47.52 ID:/0ZssuFh
旧岩瀬町の平沢に佐竹家臣になった愛洲氏が入って平沢氏になったみたいだが、それはさすがに戦国の後半だろうしなあ。

130: 人間七七四年 2012/01/20(金) 13:45:32.96 ID:AwQ7nPcv
>>129
あの辺りにも佐竹の家臣がいたんだ。
佐竹、結城、宇都宮がそれぞれにらみ合ってた地域だったのかな。
だったら、太田三楽と水谷正村の軍事衝突も実際にあったかもしれないね。

135: 人間七七四年 2012/01/21(土) 01:41:50.06 ID:l3Ie9VtO
>>130
ちょうど岩瀬町の中間辺りで益子氏と笠間氏の領域に分かれていたようだ
両氏とも宇都宮洞中だけど独立性が高かったから戦が絶えなかった
すぐ南には真壁氏がいたけど、こちらは余り争った形跡がない

131: 人間七七四年 2012/01/20(金) 17:28:22.55 ID:fUc8YhzP
真壁が佐竹家臣となるのも文禄の頃よりだし、愛洲氏が入るのも戦国というよりは文禄以降かもしれんね。

136: 人間七七四年 2012/01/23(月) 19:03:31.63 ID:vzRCBNgv
真壁家の家伝だと久幹のとき宇都宮氏らと境界争いがあって坂戸城(旧岩瀬町)などを落としたようなことが書かれている。本当かどうかは知らないがね。

ややこしい地域であったには違いなさそう。

143: 人間七七四年 2012/02/09(木) 21:34:30.39 ID:241Tctsw
益子氏配下に青柳氏っているの?
祖父が亡くなる前に本当なのか調べたいんだが なかなかヒットしない…
本家は岩瀬なんだが

144: 人間七七四年 2012/02/10(金) 18:50:31.65 ID:dIcKlm0w
>>143
『関八州古戦録』の巻十二の笠間氏の益子攻めのところで青柳豊後守・同肥前守という武将が出てくるよ。

145: 人間七七四年 2012/02/10(金) 19:08:26.25 ID:dIcKlm0w
『常陽四戦記』にも「青柳豊後・同肥前」「両青柳」として同じエピソードに登場。
同輩の伊達出雲という人物が討ち取られる場面はあるけど両青柳氏の運命は不明。

つか、普通に検索したら本貫地らしいところが出てきたよ。
http://sakuragaworld.com/modules/tiny06/index.php?id=17

桜川市岩瀬の範囲だし、ここじゃないのかな?
http://maps.google.com/maps?q=%E6%A1%9C%E5%B7%9D%E5%B8%82%E3%80%80%E9%9D%92%E6%9F%B3&hl=en&ie=UTF8&geocode=+&hnear=Aoyagi,+Sakuragawa,+Ibaraki+Prefecture,+Japan&t=m&z=15

ちなみにこの合戦が行われたのはこの四つ榎神社の北だとか。
http://maps.google.com/maps?q=36.361621,140.134478&num=1&t=m&z=16



「玉陰橋の血戦」
http://sakuragawamj.com/?page_id=1946
>四ツ榎稲荷神社から北へ少し歩くと、磯部集落との境に幅三メートルほどの小川が流れ、玉陰の橋といわれる橋が架けられている。

>この橋は幅狭く、多勢では渡れないため、川瀬を退く味方を不甲斐なく思った富谷方の青柳豊後・青柳肥後の兄弟は、大音声に「去年の今日も貴殿方の首を申し受けたり、今度もまたこの川を越えさせず皆殺しぞ!」と叫んだ。

146: 人間七七四年 2012/02/10(金) 21:54:18.20 ID:ekKpR9hw
>>144 145
ありがとうございます
うちのご先祖様らしいです
文献にでてくる青柳兄弟以外にも青柳和泉守という方も先祖だというのですが…
青柳和泉守って佐竹氏の配下みたいです 益子氏と佐竹氏の手下だったっと言うことなんでしょうかね…
祖父が自分で調べた情報だとよくわからんのです

147: 人間七七四年 2012/02/10(金) 22:35:06.71 ID:dIcKlm0w
>>146
「佐竹家臣系譜」には青柳和泉は「名乗不知元来佐竹御譜代之由」とあって、元々佐竹に仕えていたようなので岩瀬の青柳氏とは別系統では?

http://www1.odn.ne.jp/~vivace/kakunodate/kbukeyashiki.htm
こちらには青柳和泉は元亀元年に佐竹義重の側近となったとあるが、前述の桜川の戦いは「古戦録」によると天正十二年五月。
ちょっと関係があるとは思えない。

この青柳和泉は水戸の青柳に土着した平姓の馬場氏庶流青柳氏の子孫でもないらしい。

148: 人間七七四年 2012/02/11(土) 00:02:36.26 ID:WI2b3Vx2
>>147
ありがとうございます。
祖父が調べた所でわかるのは
青柳氏の子孫
家紋は丸に笹竜胆紋 源氏の流れ
本家は岩瀬の青柳
現在の姓は天○谷
磯部稲村神社に繋がりがある

大叔父が独自で調べたのは青柳和泉守の子孫ってだけで何処からの情報だかも解りません

大叔父は既に故人でして詳細は不明です
上の方々殿
多大な情報ありがとうございます


149: 人間七七四年 2012/02/11(土) 00:27:09.26 ID:g7GQZWlD
ここの碑の写しに青柳和泉守の名があるわ。四十三代前の先祖だとすると
佐竹義重時代の和泉守とは別人ではなかろうか。

http://www.harusan1925.net/0204.html
昭和四十四年四月
磯部稲村神社宮司   磯部 祐親
青柳和泉守後裔四十三世 天○谷政男
青柳区長       青木  茂  代建立   」

150: 人間七七四年 2012/02/11(土) 00:55:44.09 ID:WI2b3Vx2
>>149
おお!
正に親戚(本家)の名前です
佐竹氏の青柳とは別ですか(;^ω^)

酒飲む度に角館の主の子孫だと自慢してた大叔父が生きてたらショックをうけてたかもしれませんねwww


151: 人間七七四年 2012/02/21(火) 11:24:59.52 ID:nJwUqSfV
小田とか真壁とか、どうしてあの辺りは平城が好きなんだか?

158: 人間七七四年 2012/02/23(木) 19:59:01.11 ID:WFICJAEl
>>151
あのへんは中世は半湿地帯みたいなところだから、防御には堀を巡らせるのが一番なので、下手に高台に城築くより平城のほうが防御力がある。

159: 人間七七四年 2012/02/23(木) 20:09:11.82 ID:CA5DAOrH
>>158
泥田の中にある小城は意外と攻めにくいというね。

152: 人間七七四年 2012/02/21(火) 12:16:51.67 ID:+kAK9iWF
篭城目的の要塞ではなく、治世のための行政府としての機能を重視したからじゃないの?

それに山は曲輪を開くのが困難な筑波山系しかないし、 

153: 人間七七四年 2012/02/22(水) 12:59:22.21 ID:1qoOOWlA
常陸の城郭は古い時代の物が多いからな
防衛拠点と言うより居住・行政地である屋形(屋敷)として造られたものが多い
時代が下り南北朝などの騒乱が続くに連れて屋敷の周りに土塁や堀を増築していき城郭として体を為していったが
元々居住性を優先させた土地だから要害性は低い
それに他の土地にも言える事だが、本拠地より外で防衛するのが基本だから、居城から離れたら重要地点や国境線の要害の地に協力な城を建てて、本拠地は居住性を捨ててまで移転する事はなかったようだ
特に常陸下野陸奥辺りは本気の潰し合いが滅多になかったしね

155: 人間七七四年 2012/02/23(木) 17:31:06.36 ID:CA5DAOrH
多賀城の創造復元図を見たことがあるが役所の建物と倉庫を木の柵で囲っただけという感じだったな。
周囲に水掘をめぐらしているわけでもなく
あれは防御力低かったと思う。

154: 人間七七四年 2012/02/22(水) 13:07:41.95 ID:IzzI10hd
取られても奪還すればいいみたいな考え方あるんかね?
小田とかの話を読むと思うんだが。

157: 人間七七四年 2012/02/23(木) 17:50:00.64 ID:Qgeh2TFf
小田城って北朝方に包囲されても持ちこたえられるくらいの防御力はあったわけだからそれと一緒にするのはどうかと。

160: 人間七七四年 2012/02/24(金) 12:35:35.69 ID:hx5vKRXl
でも小田城は微妙だよな
他の沼地や湿地に築かれた城の場合、主郭は高台になっている所が多いけど、小田城は高低差が殆どないし、逆に周りに高地がある
どう考えても北條の多気か平沢を本拠にした方が良かったと思うけど

161: 人間七七四年 2012/02/24(金) 15:41:39.20 ID:fCnc9hP5
>>160
> どう考えても北條の多気か平沢を本拠にした方が良かったと思うけど

そう思うが、当時は地形が現在と異なっていたのかもしれない。

162: 人間七七四年 2012/02/24(金) 23:35:52.04 ID:fxlZ+zqt
小田の名族意識が先祖代々の地を動くのを許さなかったのかもね。

163: 人間七七四年 2012/02/27(月) 03:44:39.83 ID:JilYzxxA
よく考えると戦国時代に本拠地移した大名はレアだな
常陸だと・・・思い浮かばん
割りと新しいのは江戸氏の水戸城進出か
あと、水戸を追い出された大掾の府中移転

165: 人間七七四年 2012/02/27(月) 06:32:06.50 ID:if+gjA3B
小田氏治が小田城を梶原政景に与えた例くらいしか思い浮かばない。

166: 人間七七四年 2012/02/27(月) 12:29:37.63 ID:ZCsWI/LS
与えたってw
しかしまあ、天庵様も憐れと言うか間抜けと言うか
梶原政景に柿岡城を与えたのに、逆に小田城まで取られてしまうとは
正に軒を貸して母屋を取られると言う奴だな

187: 人間七七四年 2012/03/04(日) 12:37:23.18 ID:8rKEon4S
美浦村の木原城を見てきたけど、なかなか良い城だ
小幡城と木原城は常陸屈指の城郭だな
小田城も復元が進んでいるようで完成が楽しみ
茨城町も小幡城を復元すればいいのに

190: 人間七七四年 2012/03/06(火) 12:40:33.08 ID:8mJBR2hD
>>187
> 茨城町も小幡城を復元すればいいのに

ジオラマだけでも復元してほしいよな。

引用元: ・【佐竹・江戸】 常陸の戦国大名2 【小田・大掾】