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453: 世界@名無史さん 2017/07/01(土) 19:58:38.52 0
オスマン帝国の最大領土

超大国だな

no title

454: 世界@名無史さん 2017/07/01(土) 20:02:45.79 0
悲しいオスマン帝国
価値のない土地ばっかり

460: 世界@名無史さん 2017/07/01(土) 22:12:14.30 0
>>454
価値のある土地ばかりつまみ食いしているように見えるけどなぁ。
つまみ食い許すまじで各地の部族有力者が反旗を翻した感。

455: 世界@名無史さん 2017/07/01(土) 20:04:00.47 0
オスマン帝国は600年つづいた

かなり長いな

456: 世界@名無史さん 2017/07/01(土) 20:27:12.38 0
こんなに長く続いた帝国を終わらせたケマル・アタテュルクは偉大な革命家だ

458: 世界@名無史さん 2017/07/01(土) 20:34:43.76 0
ちょっと顔は怖いけどな

no title

471: 世界@名無史さん 2017/07/03(月) 22:13:47.88 0
トルコ料理の特徴

中央アジアの食文化である羊を中心とした肉料理

ヨーグルトやナッツ類を料理に使う

黒海、地中海などの海産物を利用する

冷菜には地中海周辺で取れるオリーブ・オイルを使用する(温菜にはバターが好まれる)

アラビア周辺から広がった小麦粉とアジアの主食である米の両方を使う

472: 世界@名無史さん 2017/07/03(月) 22:16:12.34 0
トルコ料理に使われる代表的な野菜としてはナス、タマネギ、豆類、トマト、キュウリなどがあげられる。

ブドウ、アンズ、サクランボ、メロン、イチジク、レモンなどの果物、ピスタチオ、松の実、アーモンド、クルミ、ヘーゼルナッツなどの種実類もよく使われる。

473: 世界@名無史さん 2017/07/03(月) 22:16:49.80 0
香辛料はコショウ、コリアンダー、クミン、パプリカなどであるが、それほど多くは使われない。
ミント、イノンド、イタリアンパセリなどのハーブも好まれる。
その他、オリーブ・オイルやヨーグルトなども調味料のように用いる。

476: 世界@名無史さん 2017/07/04(火) 05:47:29.89 0
ロシアが台頭するまでは黒海の北まで支配していたから、寒いところの食材もあったのが強み

服飾文化も同じで、「テンの毛皮」なんて高級品もあった

489: 世界@名無史さん 2017/07/04(火) 18:01:03.36 0
18世紀くらいになっても、まだイスタンブールの文化は憧れのマトだ

490: 世界@名無史さん 2017/07/04(火) 18:07:36.55 0
イスタンブールに留学した人っていたの?

503: 世界@名無史さん 2017/07/05(水) 03:48:49.80 0
>>490
ダヴィド・ベン=グリオン
イツハク・ベンツビ

493: 世界@名無史さん 2017/07/04(火) 18:55:18.98 0
近世のヨーロッパではトルコは憧れよりも恐怖の対象だろ

517: 世界@名無史さん 2017/07/05(水) 17:37:00.68 0
欧州列強に侵略されなかったら、まだオスマン帝国は続いていただろう

中国やインドと同様、中近東もひとつの国になったであろう

518: 世界@名無史さん 2017/07/05(水) 21:39:28.12 0
現代の地図を見慣れた目には、昔から中国とインドはデカい国で、中近東はバラバラだったように思える
でも、それはまったくの結果論
オスマン帝国の時代は中近東がひとつになっていた

520: 世界@名無史さん 2017/07/05(水) 22:41:50.86 0
>>518
ないない。それなら独立しない。

530: 世界@名無史さん 2017/07/07(金) 22:12:13.58 0
オスマン帝国とは、古代ギリシャの地に栄えた帝国であり、東ローマ帝国の地を受け継いだ帝国であるということ

ここを忘れちゃいけない

現代のアラブ諸国と同一視するのは論外

531: 世界@名無史さん 2017/07/07(金) 22:14:32.97 0
オスマン帝国は、自分たちが東ローマ帝国の後継者だということを強く意識していたし、周囲の国々もそれを認めていた

535: 世界@名無史さん 2017/07/08(土) 09:10:02.42 0
オスマンが東ローマの後継者なんて出鱈目もいいところ
認めていた他国なんて存在しないしカリフ継承伝説と同じで近代以降のでっち上げ

539: 世界@名無史さん 2017/07/08(土) 13:46:57.18 0
東ローマ帝国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD

なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、メフメト2世やスレイマン1世などオスマン帝国の一部のスルタンは「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った。

また1467年にイヴァン3世がコンスタンティノス11世の姪ゾイ・パレオロギナを妻とし、ローマ帝国の継承者(「第3のローマ」)であることを宣言したことから、モスクワ大公国のイヴァン4世などや歴代のロシア(ロシア・ツァーリ国、ロシア帝国)指導者はローマ帝国の継承性を主張している。

545: 世界@名無史さん 2017/07/08(土) 16:19:11.17 0
>>542
ルーミーはバルフ(アフガニスタン)出身のペルシャ人

アナトリアに移住してルーミーと名乗った

546: 世界@名無史さん 2017/07/08(土) 16:19:47.85 0
13世紀のルーム・セルジューク朝の時代のアナトリア

558: 世界@名無史さん 2017/07/12(水) 00:58:58.77 0
近代エジプトの父、モハメド・アリ

no title

559: 世界@名無史さん 2017/07/12(水) 01:00:22.03 0
ムハンマド・アリー・パシャ(1769年? - 1849年8月2日)は、オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、ムハンマド・アリー朝の初代君主(在位:1805年 - 1849年)。

メフメト・アリーともいう。

561: 世界@名無史さん 2017/07/12(水) 01:01:55.01 0
最終的に、勢力伸長を危険視したイギリスの介入によりその富国強兵策は頓挫したが、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。

近代エジプトの父、エル・キビール(大王)と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている。

562: 世界@名無史さん 2017/07/12(水) 01:08:09.36 0
19世紀の初頭、モハメドアリは、事実上のエジプト独立を達成した。
その後、ギリシャも独立戦争を経て独立した。

オスマン帝国はまた百年くらい続くのだが、ギリシャとエジプトという最重要地域を失い、かつての国力を失った。

569: 世界@名無史さん 2017/07/12(水) 09:46:24.17 0
モハメドアリは、イギリス・フランスの力をバックに、事実上のエジプト独立をなしとげ、アリー朝と呼ばれる王朝を開始した。
近代的に組織されたエジプト軍は、旧式なオスマン軍を圧倒した。
エジプト軍は、ついでにイギリス軍との戦いでも壊滅的な打撃を加えた。
いまいち注目されないけど、これはイギリスがアジア・アフリカで喫した珍しい敗北で、稀有の事例。

577: 世界@名無史さん 2017/07/13(木) 16:33:26.28 0
なぜか、古来からエジプトは統治しやすく、イラクは反乱が多くて統治しにくいことで知られている。
一説には、それはナイル川とチグリス・ユーフラテス川の違いだとか。
ナイル川は、いつも決まった季節に、静かに増水して豊かな実りをもたらす。
これが、エジプト人の穏やかな気性につながった。
それに比べてチグリス・ユーフラテス川は、暴れ川で流れが読めない。
これが、イラク人の気性の荒さと、常に反抗的な政治姿勢につながったという。

578: 世界@名無史さん 2017/07/13(木) 18:46:57.49 0
流れが変わるたびに川沿いの良い土地の奪い合いだからなあ

584: 世界@名無史さん 2017/07/15(土) 06:23:27.53 0
ムハンマド・アリー朝のもとで事実上の独立をはたしたエジプトは、シリアに攻めこんだ。
ギリシャ独立戦争で独立したギリシャは、「コンスタンチノープルはもともとギリシャの地だ」と主張して、オスマン帝国の本拠地に攻めこんだ。

それにしても、中東にバルカンと、オスマン帝国の領域は問題が多い紛争地域ばかり。

585: 世界@名無史さん 2017/07/15(土) 12:54:47.92 0
19世紀の前半に、オスマン帝国はエジプト・ギリシャと、相次いで重要地域を失った。

残ったのはトルコ本土にイラクとシリア、あとはユーゴスラビアくらい。

586: 世界@名無史さん 2017/07/15(土) 17:57:12.09 0
18世紀に、ロシアにクリミア半島および黒海北岸を奪われたのも痛かった

632: 世界@名無史さん 2017/07/23(日) 19:06:15.19 0
トルコのロシア機撃墜により緊張の高まる2国間ですが、過去にはしばしば苛烈な戦いを繰り広げていました。

そんな両国で起きた戦い露土戦争 過去12戦をまとめてみました。

633: 世界@名無史さん 2017/07/23(日) 19:08:05.64 0
1露土戦争 (1568年-1570年)
ロシアの勝利。コンスタンティノープル条約で講和。
オスマン帝国側資料では「アストラハン遠征」(トルコ語: Astrahan Seferi)と呼ばれる

アストラハン・ハン国の首都であったアストラハンを巡ってロシア・ツァーリ国とオスマン帝国が対立した。
1556年、ロシア・ツァーリ国のイヴァン4世はアストラハン・ハン国を征服し、ヴォルガ川を見下ろす急傾斜な丘の上に新しい砦を建築した。
一方、オスマン帝国のスルターン・セリム2世はバルカン半島の大部分を支配下としていた。

2露土戦争 (1676年-1681年)
引き分け。バフチサライ条約 (1681年)で講和し、ロシアによる左岸ウクライナの所有及びオスマンによる右岸ウクライナの所有を認め合った。

ロシア・ツァーリ国とオスマン帝国の間で行われた戦争である。17世紀後半のオスマン帝国の拡張政策に起因して起こった

3露土戦争 (1686年-1700年)
ロシアの勝利。実質的には大トルコ戦争のアゾフ戦線。コンスタンティノープル条約で講和。

オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアのヨーロッパキリスト教諸国から成る神聖同盟とオスマン帝国との大トルコ戦争(1683年 - 1699年)の一部をなす。

4露土戦争 (1710年-1711年)
オスマン帝国の勝利。プルト条約で講和。通常、プルート川の戦いと呼ばれ、大北方戦争の戦闘の一つ。
モルダヴィアのプルト川河岸において行われたオスマン帝国とロシア・ツァーリ国との戦い。
大北方戦争の一部である露土戦争中に起こり、オスマン帝国軍とピョートル1世率いるロシア軍が交戦し、オスマン帝国軍が勝利した。
5露土戦争 (1735年-1739年)
引き分け。オーストリアもロシア側に立ち参戦。通常、オーストリア・ロシア・トルコ戦争と呼ばれる。

6露土戦争 (1768年-1774年)
ロシアの勝利。キュチュク・カイナルジ条約で講和。

コリーイの乱の反乱軍の一部はオスマン帝国が支配したバルタ町にも攻め入ったため、オスマン帝国はロシア帝国に宣戦。

7露土戦争 (1787年-1791年)
ロシアの勝利。ヤシ条約(ヤッシー条約)で講和。
一般的には「第二次露土戦争」と称されることが多いが、ロシア・トルコ間では何度も戦争が起こっており、17世紀以前のものも含めて「第六次」が冠されることもある。

8露土戦争 (1806年-1812年)
ロシアの勝利。ブカレスト条約で講和。

1804年、バルカン半島において、「カラジョルジェ(黒いジョルジェ)」の異名をもつジョルジェ・ペトロヴィチが1804年よりオスマン帝国への反乱(セルビア蜂起)を指導しており、かれらセルビア人たちはロシアからの支援を当てにしていた。

また、ボスニアやブルガリアでも反乱が起こったが、これらの鎮圧をめぐってロシアが介入した。

9露土戦争 (1828年-1829年)
ロシアの勝利。アドリアノープル条約(エディルネ条約)で講和。ギリシャ独立戦争から派生した。

ギリシャ独立戦争に起因して、1828年から1829年にかけて起こったロシア帝国とオスマン帝国の間の戦争。

10クリミア戦争 (1853年-1856年)
通常、クリミア戦争と呼ばれる。英仏の支援を受けたオスマン帝国の勝利。パリ条約 (1856年)で講和。

11露土戦争 (1877年-1878年)
ロシアの勝利。バルカン諸国が独立を回復。サン・ステファノ条約で講和後、ベルリン条約で変更。

(単に「露土戦争」というときは、たいていこれを指す)

12第一次世界対戦のカフカース戦線 (1914年-1918年)

646: 世界@名無史さん 2017/07/23(日) 19:21:45.19 0
英仏関係や独伊関係も長い南北対立の歴史だが、露土関係の戦争の歴史はそれ以上

世界最悪の2国間関係のひとつ

649: 世界@名無史さん 2017/07/23(日) 19:39:48.86 0
19世紀最大の戦争のひとつであるクリミア戦争は、ロシア帝国にとって手痛い挫折だった

あまり知られていないが、英仏の艦隊は極東ロシアを攻撃しようと、開国直前の日本近海まで来ていた

650: 世界@名無史さん 2017/07/23(日) 19:42:44.99 0
18世紀のピョートル大帝も、トルコを攻めて大苦戦し、敗北している。

この頃は、今じゃ考えられないことだが、スウェーデンが今のロシアみたいな軍事大国で、当時のロシアにとっては越えられない壁みたいなものだった。

スウェーデンに苦戦したピョートル大帝は、まず南方から安定させようとトルコに宣戦したのだが・・・。

651: 世界@名無史さん 2017/07/23(日) 19:45:09.56 0
最後は、第一次世界大戦でロシア帝国とオスマン帝国が闘い、なかよく両方とも革命が起きて滅亡した。

まさに、宿命のライバルにふさわしい最期。

662: 世界@名無史さん 2017/07/24(月) 22:06:22.80 0
オスマントルコ帝国は、コーカサス地方で唯一、ロシア帝国と陸続きになっていた。
 コーカサスは、黒海とカスピ海に挟まれた地域で、その中央部には峻険な山脈が東西に聳え立ち、北のロシアと南の中東を地理的に隔てている。
ここに住むのは、主としてアゼルバイジャン人やグルジア人といったアジア系民族であった。
 この地域の重要性は、交通路や連絡路というより、むしろその豊富な鉱物資源、中でも石油にあると言える。
第一次大戦の勃発によって、この地は再び戦場となった。
オスマントルコ帝国は、同盟国のドイツと仇敵ロシアを挟み撃ちにすることで、この重要地域を奪還できると踏んだのである。

663: 世界@名無史さん 2017/07/24(月) 22:07:52.80 0
1914年冬、イスマイル・エンヴェル陸相率いるトルコ軍10万は、一気呵成にコーカサス山脈を北に越えてロシアに攻め込んだ。
「サルカムシュ作戦」である。これは奇襲となり、準備不足のロシアを苦しめた。

しかし、峻険なコーカサス山脈越しでは補給が続かない。
敵地深く疲労困憊したトルコ軍は、1915年春からのロシアの反撃によって大敗を喫し、壊滅状態となってしまった。
遠征軍10万人のうち、生還したのは1万人に過ぎない。
そしてこの年が暮れるころには、この山脈を大きく南に越えたロシア軍によって、トルコの東部領土はむしろ400キロも蚕食されていたのだった。
 
ガリポリの英雄ケマル・パシャの困難な新任務は、このロシア軍をトルコ領から駆逐することであった。

803: 世界@名無史さん 2017/09/07(木) 19:24:36.95 0
トルコはケマルが革命をしなければ今でもアラブみたいなガチガチのイスラム世界だったかも

引用元: ・オスマン朝・オスマン帝国(06)