1: 日本@名無史さん 2014/12/21(日) 23:33:59.04
マタギは数々の文学作品や漫画、映画の題材になっています。
そんなマタギについて語りましょう。
そんなマタギについて語りましょう。
2: 日本@名無史さん 2014/12/22(月) 17:06:57.00
マタギってやっぱり山々をまたいで移動するってのが語源なのか?
3: 日本@名無史さん 2014/12/22(月) 17:54:18.88
マタギに対する当時の人々の接し方はあまり良くないイメージがあるんだけど実際はどうだったんだろう
4: 日本@名無史さん 2014/12/22(月) 22:59:22.42
>>3
単に、一つの職業集団として扱っていたよ。
閉鎖的で超独特なオキテを守らないとその職業集団に入れないのだが、それは程度の差こそあれどの職業にもあった。
まあ、基本は貧乏だから、下に見られていたが、藩によっては鉄砲の所持を認められていた。
でも、戦争の時にはかり出された
単に、一つの職業集団として扱っていたよ。
閉鎖的で超独特なオキテを守らないとその職業集団に入れないのだが、それは程度の差こそあれどの職業にもあった。
まあ、基本は貧乏だから、下に見られていたが、藩によっては鉄砲の所持を認められていた。
でも、戦争の時にはかり出された
8: 日本@名無史さん 2014/12/27(土) 06:37:32.90
基本は漁師と同じだよ
狩場と技術が違うだけ
狩場と技術が違うだけ
11: 日本@名無史さん 2015/01/05(月) 03:57:52.50
マタギとして生きる理由は
当時、東北地方は農作物が育ちにくいという背景もあるのでしょうか?
かなり過酷な職業だと思います
当時、東北地方は農作物が育ちにくいという背景もあるのでしょうか?
かなり過酷な職業だと思います
14: 日本@名無史さん 2015/01/06(火) 00:03:01.32
>>11
土地が限られていたからね。
後は、害獣処理を農民から期待されたってのもある。
江戸時代に、鉄砲所持を許可されたマタギがいたのは、盛岡藩と秋田藩だけだったんじゃないのかな?
この2藩は戊辰戦争で戦っているから、リアルでマタギ同士の鉄砲の撃ち合いなどあったに違いない。
土地が限られていたからね。
後は、害獣処理を農民から期待されたってのもある。
江戸時代に、鉄砲所持を許可されたマタギがいたのは、盛岡藩と秋田藩だけだったんじゃないのかな?
この2藩は戊辰戦争で戦っているから、リアルでマタギ同士の鉄砲の撃ち合いなどあったに違いない。
12: 日本@名無史さん 2015/01/05(月) 04:04:55.19
いざ大飢饉となると、マタギの知識がある集落だけは餓死者を出さなかったという記録すらあったりする。
江戸時代は稲作に比重が置かれすぎていたからね。
江戸時代は稲作に比重が置かれすぎていたからね。
16: 日本@名無史さん 2015/01/13(火) 09:03:00.57
「マタギは東北及びアイヌ語で、猟人のことであるが、奥羽の山村には別に小さな部落をなして、狩猟本位の古風な生活をしている者にこの名がある。・・・マタギは冬分は山に入って、雪の中を幾日となく旅行し、熊を捕ればその肉を食い、皮と熊の胆を付近の里へ持って出て、穀物に交易してまた山の小屋へ帰る。時には、峰伝いに上州、信州の辺まで、下りて来ることがあるという」・・・
柳田国男は「山の人生」で、秋田の旅マタギについて記している。
http://www.akita-gt.org/study/bunka/tabi-matagi.html
柳田国男は「山の人生」で、秋田の旅マタギについて記している。
http://www.akita-gt.org/study/bunka/tabi-matagi.html
17: 日本@名無史さん 2015/01/13(火) 20:04:56.38
マタギは秋田の阿仁マタギが最も有名。
熊の胆を藩主に納める代わりに鉄砲所持を許可された。
熊の胆を藩主に納める代わりに鉄砲所持を許可された。
阿仁マタギ
秋田県の中でも特に山深く開発が進まなかった北秋田市阿仁地区の森吉山(北緯39度58分36.3秒 東経140度32分39.0秒)の南麓はマタギの里として知られている。阿仁マタギの狩猟用具は2013年に国の重要有形民俗文化財に指定されている。阿仁マタギ用具は1959年に秋田県の有形民俗文化財に指定されている。
かつて数百人いた阿仁マタギは2020年時点で三十数人に減っており、途絶えた風習も多く、装備の変化も変化している(双眼鏡やトランシーバーなどの導入)。
秋田県の中でも特に山深く開発が進まなかった北秋田市阿仁地区の森吉山(北緯39度58分36.3秒 東経140度32分39.0秒)の南麓はマタギの里として知られている。阿仁マタギの狩猟用具は2013年に国の重要有形民俗文化財に指定されている。阿仁マタギ用具は1959年に秋田県の有形民俗文化財に指定されている。
かつて数百人いた阿仁マタギは2020年時点で三十数人に減っており、途絶えた風習も多く、装備の変化も変化している(双眼鏡やトランシーバーなどの導入)。
18: 日本@名無史さん 2015/01/14(水) 00:55:09.96
四国のマタギもアイヌ語らしいな。
19: 日本@名無史さん 2015/01/14(水) 22:48:51.22
>>18
調べてみた。「マトギ」か!!
マトギが使っていた「山刀」は、まさに阿仁マタギの山刀とそっくりだ。
何らかの文化的つながりがあるのかもな。
先が尖った山刀は車の中に置いているだけで、警察から職質あったら逮捕されるレベルw
(実際捕まった人がいたそうな)
調べてみた。「マトギ」か!!
マトギが使っていた「山刀」は、まさに阿仁マタギの山刀とそっくりだ。
何らかの文化的つながりがあるのかもな。
先が尖った山刀は車の中に置いているだけで、警察から職質あったら逮捕されるレベルw
(実際捕まった人がいたそうな)
20: 日本@名無史さん 2015/01/15(木) 00:27:40.96
要するに、狩猟採集の縄文文化を最近まで受け継いでいたんでしょ。
アイヌの影響というより、アイヌと本土の縄文人に共通する文化であり、言葉だったと。
アイヌの影響というより、アイヌと本土の縄文人に共通する文化であり、言葉だったと。
21: 日本@名無史さん 2015/01/15(木) 00:57:37.32
まあ、アイヌは基本的に川の生活の方がメインの文化だし、そのためアイヌ語地名も川を中心に銘々されている。
家を作ったのは河岸段丘の上だったけどね。洪水を避けるためにね。
だから、基本的にはマタギとはちょい違う文化なのかも知れないんだよな。
一応、マタギはアイヌ語らしき言葉を使っていたけどさ。でも、それは一部だった。
家を作ったのは河岸段丘の上だったけどね。洪水を避けるためにね。
だから、基本的にはマタギとはちょい違う文化なのかも知れないんだよな。
一応、マタギはアイヌ語らしき言葉を使っていたけどさ。でも、それは一部だった。
90: 日本@名無史さん 2015/07/08(水) 19:00:14.30
>>21
>マタギはアイヌ語らしき言葉を使っていた・・・・・・
東北のまたぎは日常は日本語を使っていたが、山に入ると日常使っていない
アイヌ語を山の神様に聞かれないように使ったらしい。
またぎについて 太田和親 2007年4月8日
http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/a2.htm
>マタギはアイヌ語らしき言葉を使っていた・・・・・・
東北のまたぎは日常は日本語を使っていたが、山に入ると日常使っていない
アイヌ語を山の神様に聞かれないように使ったらしい。
またぎについて 太田和親 2007年4月8日
http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/a2.htm
24: 日本@名無史さん 2015/01/15(木) 08:49:06.14
アイヌは山で熊とってたぞ
25: 日本@名無史さん 2015/01/15(木) 17:26:38.38
>>24
それは、ギリヤーク文化の影響だな
それは、ギリヤーク文化の影響だな
29: 日本@名無史さん 2015/01/16(金) 22:47:40.72
青森県津軽のマタギは、ほぼ阿仁マタギの影響下にあった。阿仁からの移住者も多かったからね。江戸時代はマタギの鉄砲所有を認めておらず、マタギは大抵ヤリを持って熊やカモシカを狩った。
冬に、熊穴に入り、寝ぼけている熊を足でどんどん外に押して外にいる仲間が仕留めたという話もある。白神山地のマタギのコトは、探検家の根深誠氏による大量の記述がある。
白神山地は標高はそれほど無いが、軟弱地盤で、林道やトロッコ鉄道を作っても、集中豪雨で直ぐに寸断されるために結果的に奥地の山林が残された。その豊かな自然で人々は熊を狩った。
冬に、熊穴に入り、寝ぼけている熊を足でどんどん外に押して外にいる仲間が仕留めたという話もある。白神山地のマタギのコトは、探検家の根深誠氏による大量の記述がある。
白神山地は標高はそれほど無いが、軟弱地盤で、林道やトロッコ鉄道を作っても、集中豪雨で直ぐに寸断されるために結果的に奥地の山林が残された。その豊かな自然で人々は熊を狩った。
45: 日本@名無史さん 2015/01/20(火) 23:43:38.66
鉄砲を扱ったマタギは戦争にもかり出された。
日清日露、などの明治以降の戦闘は一般人も徴兵されたからジョガイするが、戊辰戦争では武士と一緒に戦った。
もちろん、当時の兵器は火縄銃は既に旧式も良いトコになっていたので、活躍の場は限られていたがそれでも頑張ってマタギも戦った。
特に、南部藩の雫石マタギのエピソードは凄い。
最新兵器を持っている長崎藩の指揮官をマタギが狙撃して死亡させている。
当時は火縄銃と最新式銃の性能差はすさまじく、普通は対抗できるモノではないはず。
狙撃したマタギはその後逃げ延びて、天寿を全うしている。
日清日露、などの明治以降の戦闘は一般人も徴兵されたからジョガイするが、戊辰戦争では武士と一緒に戦った。
もちろん、当時の兵器は火縄銃は既に旧式も良いトコになっていたので、活躍の場は限られていたがそれでも頑張ってマタギも戦った。
特に、南部藩の雫石マタギのエピソードは凄い。
最新兵器を持っている長崎藩の指揮官をマタギが狙撃して死亡させている。
当時は火縄銃と最新式銃の性能差はすさまじく、普通は対抗できるモノではないはず。
狙撃したマタギはその後逃げ延びて、天寿を全うしている。
雫石・橋場口の戦い(しずくいし・はしばぐちのたたかい)は、秋田戦争の戦闘の一部で、1868年(明治元年)9月28日に盛岡藩領の橋場(現在の岩手県岩手郡雫石町橋場)へ新政府軍が攻め込むことで発生した戦闘である。
敗走する盛岡兵の中でマタギの与吉が集落が焼ける煙の中を三柱神社の方に進んでいった。振遠隊の隊長らしき者が敗走する盛岡兵を遠望するのを見つけ、明神岩の陰に身を寄せて火縄銃の一発で隊長を斃した。味方のマタギが「与吉(ヨギ)うまくやったぞ」と叫んで山道に逃げ込んだ。敵がその声に集中攻撃をする間に与吉は舟原の山中に逃げた。声援した者の名前は伝わっていない。
長崎勢は「よぎ」の呼び名を頼りにマタギを何人も呼んで尋問するなど後年まで尋ねたが誰も与吉の名を知らせる者は無かった。与吉は安栖佐兵衛の元で一生を隠れ通し、81歳で死んだ。
敗走する盛岡兵の中でマタギの与吉が集落が焼ける煙の中を三柱神社の方に進んでいった。振遠隊の隊長らしき者が敗走する盛岡兵を遠望するのを見つけ、明神岩の陰に身を寄せて火縄銃の一発で隊長を斃した。味方のマタギが「与吉(ヨギ)うまくやったぞ」と叫んで山道に逃げ込んだ。敵がその声に集中攻撃をする間に与吉は舟原の山中に逃げた。声援した者の名前は伝わっていない。
長崎勢は「よぎ」の呼び名を頼りにマタギを何人も呼んで尋問するなど後年まで尋ねたが誰も与吉の名を知らせる者は無かった。与吉は安栖佐兵衛の元で一生を隠れ通し、81歳で死んだ。
68: 日本@名無史さん 2015/01/31(土) 23:21:13.77
老犬神社 南部藩のマタギの悲しい物語。
http://www.city.odate.akita.jp/dcity/sitemanager.nsf/doc/rouken.html
南部藩のマタギ定六は死んでしまう。その後、彼の妻と、忠犬シロは最後に秋田藩の藩堺に移住する。
この話を見ると、南部藩でも免許を持つと鉄砲を所持できるようになっていたようだね。
ちなみに、この神社の付近では明治維新の際の戊辰戦争で南部藩と秋田藩の交戦が何度も繰り返され何人もの人が死んでいる。
http://www.city.odate.akita.jp/dcity/sitemanager.nsf/doc/rouken.html
南部藩のマタギ定六は死んでしまう。その後、彼の妻と、忠犬シロは最後に秋田藩の藩堺に移住する。
この話を見ると、南部藩でも免許を持つと鉄砲を所持できるようになっていたようだね。
ちなみに、この神社の付近では明治維新の際の戊辰戦争で南部藩と秋田藩の交戦が何度も繰り返され何人もの人が死んでいる。
92: 日本@名無史さん 2015/07/12(日) 23:32:46.31
南部信直がマタギの許可を出してたって話があるけど
マタギは許認可制だったのかな?
許可された人間以外は狩猟が制限されていたとか?
マタギは許認可制だったのかな?
許可された人間以外は狩猟が制限されていたとか?
93: 日本@名無史さん 2015/07/13(月) 00:32:10.37
それは当然だろうなあ。
南部藩は三閉伊一揆で鉄砲を渡したら一揆で使われたりしたからな。
常時使用を許すととっても危険。
南部藩は三閉伊一揆で鉄砲を渡したら一揆で使われたりしたからな。
常時使用を許すととっても危険。
94: 日本@名無史さん 2015/07/15(水) 18:55:11.12
戦国時代のマタギは鉄砲は持ってないだろ
95: 日本@名無史さん 2015/07/20(月) 22:58:58.35
戦国時代はヤリだった模様。
津軽藩は最後までヤリだったから、仕方ないので鉄砲を持っている秋田藩の阿仁マタギと連絡とって、秋田の方に熊を追い込み、鉄砲でやつけてもらったという話もある。
津軽藩は最後までヤリだったから、仕方ないので鉄砲を持っている秋田藩の阿仁マタギと連絡とって、秋田の方に熊を追い込み、鉄砲でやつけてもらったという話もある。
46: 日本@名無史さん 2015/01/21(水) 22:21:20.33
南部藩は日本で一番一揆が頻発した藩だった。この一揆の陰にマタギがいる。
南部藩でも住民のあいだに不穏な空気が広がっていた地区は、鉄砲所持は普段は許可されず、害獣が出た時に貸し出されるシステムであった。ただ、この規制はかなりゆるかった…
一揆を起こす際に、マタギはイノシシの害を訴え、鉄砲の貸し出しを許してもらった。
そして…一揆成功。そりゃ、鉄砲を持っているほうが強い。しかも、地元山林に精通している。
南部藩でも住民のあいだに不穏な空気が広がっていた地区は、鉄砲所持は普段は許可されず、害獣が出た時に貸し出されるシステムであった。ただ、この規制はかなりゆるかった…
一揆を起こす際に、マタギはイノシシの害を訴え、鉄砲の貸し出しを許してもらった。
そして…一揆成功。そりゃ、鉄砲を持っているほうが強い。しかも、地元山林に精通している。
48: 日本@名無史さん 2015/01/22(木) 23:21:44.12
秋田名物のきりたんぽ鍋は、異論もあるけど実は南部藩のマタギ料理だという話があるな。
食材や調理法が違うから、別の料理とされているが、「きりたんぽ」を最初に文書に記録したのは菅江真澄で下北半島で記録している。
また、鹿角に南部の殿様が来た時に、マタギが振る舞った料理がきりたんぽとも言われている。
食材や調理法が違うから、別の料理とされているが、「きりたんぽ」を最初に文書に記録したのは菅江真澄で下北半島で記録している。
また、鹿角に南部の殿様が来た時に、マタギが振る舞った料理がきりたんぽとも言われている。
49: 日本@名無史さん 2015/01/22(木) 23:24:39.15
この話から、少なくとも南部藩ではマタギに対する差別なんて大して無くて、殿様に料理をふるまって、うまいうまいと殿様が食べていたという話もあるわけだ。
地元では、いくらなんでも盛岡の殿様じゃなくて、鹿角の一部地域を管理していた武士なんじゃないのかとも言われているけどね。
地元では、いくらなんでも盛岡の殿様じゃなくて、鹿角の一部地域を管理していた武士なんじゃないのかとも言われているけどね。
50: 日本@名無史さん 2015/01/22(木) 23:48:10.16
>>49
マタギに対して差別ってあったの?
マタギに対して差別ってあったの?
51: 日本@名無史さん 2015/01/23(金) 00:16:54.63
柳田國男はやや異種的に見られていたなんてコト言っていたな。
でも、民話を見ても大した扱いの違いは無かった。まあ、基本は貧乏だけどね。
マタギの最も有力な根拠地の阿仁マタギだけど、阿仁ってのは日本有数の鉱山があったトコで、そこにいる人も皆、基本は金持ち。全国から技術者が来ていた。
だから、米もどんどん他の地区から入れるし、その地区の直ぐ近くの山間に住んでいたのがマタギだ。金を持っているけど、鉱山特有の肺病で寿命が短い人は、どんどん金を消費しただろう。
マタギはそういう人に、熊の肉や皮を売っていたのだろうな。
でも、民話を見ても大した扱いの違いは無かった。まあ、基本は貧乏だけどね。
マタギの最も有力な根拠地の阿仁マタギだけど、阿仁ってのは日本有数の鉱山があったトコで、そこにいる人も皆、基本は金持ち。全国から技術者が来ていた。
だから、米もどんどん他の地区から入れるし、その地区の直ぐ近くの山間に住んでいたのがマタギだ。金を持っているけど、鉱山特有の肺病で寿命が短い人は、どんどん金を消費しただろう。
マタギはそういう人に、熊の肉や皮を売っていたのだろうな。
52: 日本@名無史さん 2015/01/23(金) 04:19:33.52
マタギと山伏に関連性があるなんて驚いた
ウィキで知る限り、獲物を得たあとの儀式が修験道に似ているとか
マタギと修験道ってどう考えても結びつかないけど、どうしてマタギは修験道に影響を受けたと考えていますか?
ウィキで知る限り、獲物を得たあとの儀式が修験道に似ているとか
マタギと修験道ってどう考えても結びつかないけど、どうしてマタギは修験道に影響を受けたと考えていますか?
55: 日本@名無史さん 2015/01/24(土) 00:22:09.23 ID:eQp3rft6!
>>52
マタギは日光あるいは、真言宗の巻物を持って山野を巡っていたからなあ。
修験道は明治時代に廃仏毀釈で一時禁止されたけど、岩手では結構残っているんだよね。
修験道は、民話を見てもほとんど蝦夷と対決したって話ばかりで…実際どうなんだろうね。
三湖物語なんて、モロに修験道と蝦夷の対決だ。
修験道とマタギが結びついたのは、そりゃ獣を殺すからだろうなあ。だから、巻物をもらいに日光とかに出かけた。
マタギは日光あるいは、真言宗の巻物を持って山野を巡っていたからなあ。
修験道は明治時代に廃仏毀釈で一時禁止されたけど、岩手では結構残っているんだよね。
修験道は、民話を見てもほとんど蝦夷と対決したって話ばかりで…実際どうなんだろうね。
三湖物語なんて、モロに修験道と蝦夷の対決だ。
修験道とマタギが結びついたのは、そりゃ獣を殺すからだろうなあ。だから、巻物をもらいに日光とかに出かけた。
58: 日本@名無史さん 2015/01/24(土) 18:40:45.48
羽黒修験がありますよね
59: 日本@名無史さん 2015/01/27(火) 22:53:22.54
>>58
そいや、山形県の修験道ってどんな感じ?
秋田県の修験道は一部を除いてほぼ廃れた感じだ。一部残っていたのは、男鹿三山と鳥海山あたりか?秋田と山形の境界にある山でも、「修行者が戒律を守らなかった」とか「山賊行為を働いたから征伐された」なんてのばっかりで、ほぼ壊滅状態なんだよね。
能代市あたりじゃ地元の支配者を修験道の修行僧が殺しちゃうという事件があって、それで支配者が不在になった為、敵対する大名(秋田氏)が勢力を伸ばすことができたのだけど、逆に危険視されて寺院が焼かれたというトコもあったりする。その後、住民は皆、修験道系の天台宗は危険だからと、曹洞宗に宗旨変更させられた。
そいや、山形県の修験道ってどんな感じ?
秋田県の修験道は一部を除いてほぼ廃れた感じだ。一部残っていたのは、男鹿三山と鳥海山あたりか?秋田と山形の境界にある山でも、「修行者が戒律を守らなかった」とか「山賊行為を働いたから征伐された」なんてのばっかりで、ほぼ壊滅状態なんだよね。
能代市あたりじゃ地元の支配者を修験道の修行僧が殺しちゃうという事件があって、それで支配者が不在になった為、敵対する大名(秋田氏)が勢力を伸ばすことができたのだけど、逆に危険視されて寺院が焼かれたというトコもあったりする。その後、住民は皆、修験道系の天台宗は危険だからと、曹洞宗に宗旨変更させられた。
61: 日本@名無史さん 2015/01/27(火) 23:01:36.65
>>59
羽黒山は女性にも門戸を開いて流行ってる感じ
宿坊もけっこう有る
まあ観光化が激しいが厳しい修行をしてる人がいるのかは不明
羽黒山は女性にも門戸を開いて流行ってる感じ
宿坊もけっこう有る
まあ観光化が激しいが厳しい修行をしてる人がいるのかは不明
64: 日本@名無史さん 2015/01/27(火) 23:23:25.02
>>59
おっと。秋田市にある太平山を忘れていた。
全国各地にある、太平山とか三吉神社の総本山なんだっけ。
これは、江戸時代も保護されたからね。
山形の出羽三山もいつか登ってみたいな。
おっと。秋田市にある太平山を忘れていた。
全国各地にある、太平山とか三吉神社の総本山なんだっけ。
これは、江戸時代も保護されたからね。
山形の出羽三山もいつか登ってみたいな。
65: 日本@名無史さん 2015/01/27(火) 23:26:48.09
真言宗智山派鳥海山龍頭寺
67: 日本@名無史さん 2015/01/30(金) 01:02:31.03
>>65
鳥海山山麓にある百宅もマタギ集落なんだよね。
マタギは普通は日光天台宗系の巻物をもっていたりするんだけど、この地区のマタギは真言宗系なのかな?
百宅からも登山道があるし、当然修験道とマタギの交流は密にあっただろう。
戊辰戦争の時の行動はどんなのだろうな?鉄砲を持てたのか分らないが、戦闘にも狩り出されたのだろうか?
鳥海山山麓にある百宅もマタギ集落なんだよね。
マタギは普通は日光天台宗系の巻物をもっていたりするんだけど、この地区のマタギは真言宗系なのかな?
百宅からも登山道があるし、当然修験道とマタギの交流は密にあっただろう。
戊辰戦争の時の行動はどんなのだろうな?鉄砲を持てたのか分らないが、戦闘にも狩り出されたのだろうか?
71: 日本@名無史さん 2015/02/01(日) 07:28:13.58
戊辰戦争と根子マタギ・佐藤松五郎
共同墓地に「官軍秋藩 佐藤松五郎墓」と彫られた墓石が建っている。江戸末期、会津や伊達、南部、庄内など東北の雄藩は「奥羽列藩同盟」を結成して幕府側についた。
しかし秋田藩は弘前藩と並んで官軍側につき、四方を敵に囲まれる結果となった。そ
の際、秋田藩は射撃の名手が多く団体行動を得意とする阿仁や仙北地方のマタギを士分格として召し抱え、特殊部隊を組織して戦った。
根子の佐藤松五郎は、その戊辰戦争で戦死したマタギである。
http://www.forest-akita.jp/data/school2014/school-04/school-04.html
共同墓地に「官軍秋藩 佐藤松五郎墓」と彫られた墓石が建っている。江戸末期、会津や伊達、南部、庄内など東北の雄藩は「奥羽列藩同盟」を結成して幕府側についた。
しかし秋田藩は弘前藩と並んで官軍側につき、四方を敵に囲まれる結果となった。そ
の際、秋田藩は射撃の名手が多く団体行動を得意とする阿仁や仙北地方のマタギを士分格として召し抱え、特殊部隊を組織して戦った。
根子の佐藤松五郎は、その戊辰戦争で戦死したマタギである。
http://www.forest-akita.jp/data/school2014/school-04/school-04.html
72: 日本@名無史さん 2015/02/01(日) 10:44:50.33
>>71
ちなみにその松五郎は、狙撃戦で死んだのではなく、南部藩の砲弾の破片があたり、破傷風か何かで死んでいる。
根子マタギの話題はまだあるが後ほど。
ちなみにその松五郎は、狙撃戦で死んだのではなく、南部藩の砲弾の破片があたり、破傷風か何かで死んでいる。
根子マタギの話題はまだあるが後ほど。
73: 日本@名無史さん 2015/02/11(水) 01:47:14.16
根子マタギのもの凄いけど、ちょっと…な話!
さて、昭和初期、秋田市の商店で強盗が発生する。目撃証言から、犯人は阿仁町根子在住の男と推定された。
ところが、男にはアリバイがあった。男は集落で何度も目撃されており、当時既に汽車は阿仁町まで通っていたがその汽車に乗っていたという目撃談もない。
その男は無罪かと思われた。ところが意外なコトにアリバイが崩れた。
男はマタギで、根子と秋田市の間にある山林をたった1夜で歩いて踏破し、強盗を働きまた帰って来たのだった。
まあ、悲しい話になってしまったが、マタギの超人的な身体能力のほどがうかがえる話でもある。
さて、昭和初期、秋田市の商店で強盗が発生する。目撃証言から、犯人は阿仁町根子在住の男と推定された。
ところが、男にはアリバイがあった。男は集落で何度も目撃されており、当時既に汽車は阿仁町まで通っていたがその汽車に乗っていたという目撃談もない。
その男は無罪かと思われた。ところが意外なコトにアリバイが崩れた。
男はマタギで、根子と秋田市の間にある山林をたった1夜で歩いて踏破し、強盗を働きまた帰って来たのだった。
まあ、悲しい話になってしまったが、マタギの超人的な身体能力のほどがうかがえる話でもある。
85: 日本@名無史さん 2015/05/02(土) 01:35:26.68
マタギは徴兵されたら兵士としても優秀なの?
89: 日本@名無史さん 2015/05/02(土) 12:23:08.41
>>85
戊辰戦争の時は、エンフィールド銃対火縄銃になったから、銃の性能が全く違うので残念ながら大活躍とは…
戊辰戦争の時は、エンフィールド銃対火縄銃になったから、銃の性能が全く違うので残念ながら大活躍とは…
87: 日本@名無史さん 2015/05/02(土) 01:40:46.47
個々に潜伏させた狙撃兵として優秀だろう
先にあちらに発見されたらただの人
先にあちらに発見されたらただの人
89: 日本@名無史さん 2015/05/02(土) 12:23:08.41
まあ、>>45みたいな例もあるから、性能が段違いの時には、潜伏兵になって一撃狙撃後は山林をひたすら逃げるしかないだろうなあ。
118: 日本@名無史さん 2016/08/29(月) 21:58:44.47
アイヌとマタギは何らかの接点はあっただろうね。
大体マタギは結構アイヌ語を使っているから。
でも、その資料にあるように、アイヌは弓矢、マタギは槍なんだよね。
文化にも微妙な違いはあったりする…なんでだろうね?
大体マタギは結構アイヌ語を使っているから。
でも、その資料にあるように、アイヌは弓矢、マタギは槍なんだよね。
文化にも微妙な違いはあったりする…なんでだろうね?
119: 日本@名無史さん 2016/08/30(火) 08:13:07.29
アイヌとは各部族の総称であって、部族間では風習も異なってたりするし、宗教も全然違う
千島アイヌなんか全員がロシア正教徒になってた
弓矢アイヌがどの部族かは知らんが、槍の部族もあったんじゃないの?
千島アイヌなんか全員がロシア正教徒になってた
弓矢アイヌがどの部族かは知らんが、槍の部族もあったんじゃないの?
120: 日本@名無史さん 2016/08/30(火) 21:39:49.80
宗教っていうのは日本人だって色々あるんだしなあ…ちょっとねえ
121: 日本@名無史さん 2016/08/30(火) 23:46:26.38
各部族で、言語・慣習もまるで違い、宗教・政治も統一性まるで無し、では「アイヌとよばれる諸民族」を一民族とみなすのは無理で、部族や地域で別物だろ
例は、一般にアイヌは超格差社会で、酋長が妾を独占し、若者が結婚できず人口減り、幕府が見かねて、妾の数を制限してあげた状況だが
…本州アイヌやマタギにそういう記録ある?
http://8003.teacup.com/doshin/bbs/5841
> 莫大な富を蓄えた酋長が多くの妾を独占して
> 若者に結婚の機会が与えられないことがアイヌの人口減少の原因だと判断して、
> 酋長がもつ妾の数を三人までに制限しました。
例は、一般にアイヌは超格差社会で、酋長が妾を独占し、若者が結婚できず人口減り、幕府が見かねて、妾の数を制限してあげた状況だが
…本州アイヌやマタギにそういう記録ある?
> 莫大な富を蓄えた酋長が多くの妾を独占して
> 若者に結婚の機会が与えられないことがアイヌの人口減少の原因だと判断して、
> 酋長がもつ妾の数を三人までに制限しました。
125: 日本@名無史さん 2016/08/31(水) 12:10:09.31
>>121
それ松前藩と交易してた部族の話だな。
和人と接点のなかった部族はロシア人宣教師に導かれて規則正しい生活をしてたようだよ。
明治時代に日蓮宗の僧侶が彼らの改宗を試みたが失敗し、彼らのためにロシア人宣教師を雇い、教会も作ったとある。
アイヌが虐待されてたって一体どこの地区なのかもはっきりしないんだよな。
それ松前藩と交易してた部族の話だな。
和人と接点のなかった部族はロシア人宣教師に導かれて規則正しい生活をしてたようだよ。
明治時代に日蓮宗の僧侶が彼らの改宗を試みたが失敗し、彼らのためにロシア人宣教師を雇い、教会も作ったとある。
アイヌが虐待されてたって一体どこの地区なのかもはっきりしないんだよな。
124: 日本@名無史さん 2016/08/31(水) 04:56:08.56
マタギは日本全国どこにでもある冬季の狩猟の延長で、アイヌみたいな異民族やってるわけじゃない
132: 日本@名無史さん 2016/09/01(木) 21:49:26.54
オホーツク文化がアイヌに滅ぼされ、同化したのが13世紀ごろ
マタギの熊送り、アイヌのイヨマンテ、がオホーツク文化との繋がりを示してる
マタギの熊送り、アイヌのイヨマンテ、がオホーツク文化との繋がりを示してる
133: 日本@名無史さん 2016/09/01(木) 21:51:58.80
いや…樺太北部に逃げたんだけど…ギリヤークは。
マタギは熊送りしないよ。解体時にちょい祈りをするだけ。
日光系の呪文を唱えたりする。
マタギは熊送りしないよ。解体時にちょい祈りをするだけ。
日光系の呪文を唱えたりする。
163: 日本@名無史さん 2016/12/07(水) 00:24:17.59
アイヌって鉄砲使ったの?
164: 日本@名無史さん 2016/12/07(水) 22:29:39.88
アイヌは明治期には積極的に銃に対応し、当時の北海道内で狩猟免許取得の大部分がアイヌだった記録が残ってる
また江戸時代以前もアイヌは多数の銃武装で、弱小の松前藩兵単独を上回る戦力だった
http://30932531.at.webry.info/201205/article_4.html
> アイヌの鎧、甲冑は基本的に倭人のものと同様で、
> 武器の備えもかなり先進性を帯びており、
> たとえば1669年のシャクシャインの戦いにおいては、 倭人側の相当数の武士が
> アイヌの火縄銃の犠牲になったということがわかっているそうである。
また江戸時代以前もアイヌは多数の銃武装で、弱小の松前藩兵単独を上回る戦力だった
> アイヌの鎧、甲冑は基本的に倭人のものと同様で、
> 武器の備えもかなり先進性を帯びており、
> たとえば1669年のシャクシャインの戦いにおいては、 倭人側の相当数の武士が
> アイヌの火縄銃の犠牲になったということがわかっているそうである。
168: 日本@名無史さん 2017/01/07(土) 22:11:08.23
アイヌとマタギを結びつける書き込みがやたらあったが、最近出た『アイヌ学入門 (講談社現代新書) | 瀬川 拓郎』を見たら、彼の意見としてマタギの基底は日本人で、使用言語としてアイヌ語が入っているのではないかと書いている。
その根拠として、江戸時代の猟師が北海道まで移住し、アイヌ人と一緒に生活する状況の時に、本当は日本人なのにいつの間にか使用する言語にアイヌ語が入り込んでいる事例を挙げて、それと同じではないのかと書いていた。
ラッコもアイヌ語だしね。
でも人種的にはどうなのかという問題は…難しい。アイヌ人も4~5世紀の頃に北海道南部に押しやられたり、その後仙台あたりまで南下したり、更に日本人と接触して鉄器を得てからオホーツク人をおいやり(北海道東部では同化した例もあるようだ)千島や樺太まで領域を広げたり…。
北海道にいち早く移住した日本人を逆に同化したりと…結構栄枯盛衰があるようだ。
その根拠として、江戸時代の猟師が北海道まで移住し、アイヌ人と一緒に生活する状況の時に、本当は日本人なのにいつの間にか使用する言語にアイヌ語が入り込んでいる事例を挙げて、それと同じではないのかと書いていた。
ラッコもアイヌ語だしね。
でも人種的にはどうなのかという問題は…難しい。アイヌ人も4~5世紀の頃に北海道南部に押しやられたり、その後仙台あたりまで南下したり、更に日本人と接触して鉄器を得てからオホーツク人をおいやり(北海道東部では同化した例もあるようだ)千島や樺太まで領域を広げたり…。
北海道にいち早く移住した日本人を逆に同化したりと…結構栄枯盛衰があるようだ。
169: 日本@名無史さん 2017/01/16(月) 03:37:02.30
アイヌは渡党として東北にも来ていたから、マタギもその影響を受けている
170: 日本@名無史さん 2017/01/17(火) 22:04:52.95
『アイヌ学入門 (講談社現代新書) | 瀬川 拓郎』によると、渡党は北海道南西にいた日本文化を
かなり取り入れたアイヌだそうだ。
かなり取り入れたアイヌだそうだ。
174: 日本@名無史さん 2017/06/25(日) 10:58:35.30
>>170
その渡党=アイヌとの新説の根拠は、何だと?
14世紀の『諏訪大明神絵詞』に記述された蝦夷地の住人3種
日ノ本・唐子・渡党のうち渡党は、和人というのが通説。
その渡党=アイヌとの新説の根拠は、何だと?
14世紀の『諏訪大明神絵詞』に記述された蝦夷地の住人3種
日ノ本・唐子・渡党のうち渡党は、和人というのが通説。
176: 日本@名無史さん 2017/07/17(月) 17:19:48.41
『諏訪大明神絵詞』によると、>渡党は髭が濃く多毛であるが和人に似て言葉が通じ
「和人に似て言葉が通じ」、つまり、、和人では、、無い
定説では、「和人化したアイヌ=東北地方の蝦夷」が蝦夷地へ渡ったもの
和人化した「アイヌ」
「和人に似て言葉が通じ」、つまり、、和人では、、無い
定説では、「和人化したアイヌ=東北地方の蝦夷」が蝦夷地へ渡ったもの
和人化した「アイヌ」
引用元: ・【日本の狩猟民】 マタギ