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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/03(金) 01:06:24 ID:x6oIx8jy0
中国周時代の総合スレです。
周の人物達、出来事などを語りましょう。
太公望とかね。







3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/03(金) 01:38:49 ID:tel6/8ib0
周の文王が息子の肉羹を食べたのは有名だな。

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 15:01:06 ID:ITguuZLR0
周って遊牧民系だったのかな?

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/06(水) 11:57:22 ID:v98/qya30
>>5
西の方だし、多分そうだったんだろうね

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/06/23(日) 00:19:25.64 ID:B8NA3gQp0
>>9
末子の季歴が後を継いでいることから、元々遊牧系民族だったのではないかな?
季歴(きれき、生没年不詳)は、中国殷の時代の周の首長。古公亶父の三男。

古公亶父には季歴のほかに長男太伯、次男虞仲という息子がいた。三男の季歴の息子・昌が生まれた際に様々な瑞祥が起きたので古公亶父は「わが子孫で栄えるものがあるとすれば、それは昌の子孫であろうか」と述べていた。古公亶父が季歴に後を継がせたいと思っていたことを察した太伯と虞仲は季歴に後を継がせるために自ら出奔し、南で呉を創始した。季歴は古公亶父の跡を継ぎ、その政治姿勢を受け継いで正義を行ったので、諸侯はこれに従った。

42: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/08/25(土) 23:22:13.24 ID:+2XGuEzJ0
>>36
斉で季子が弟に譲ったけど、季なのに兄らしいし

43: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/08/26(日) 00:00:11.09 ID:neeOqnr60
>>42
呉の季札ではないのか?

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/09/10(月) 21:05:03.25 ID:75NGHJBM0
>>43
斉侯の長子の季子(サイチョの祖先)

16: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/09(月) 23:30:53 ID:VRLrYlap0
遊牧なのかは知らないけど、古公亶父が商の勢力下に移住する前から周族っていう名前で西方で農業を重んじる生活をしてたんじゃないか、って言ってる学者はいる。

6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/20(月) 05:59:25 ID:9Pblq+TIO
宮城谷に西周時代の小説をもっと書いてほしい

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/29(水) 12:30:18 ID:SWEfWNpO0
ううむ、ネタが乏しいんじゃないだろうか…

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/02(金) 23:27:36 ID:eNXqlyvr0
春秋戦国時代に、周の中原王朝としての復活を目指して、頑張った人たちはたくさんいたんだろうか。

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/12(月) 15:10:42 ID:ZNNluy890
春秋時代はともかく、戦国時代に入っちゃうとみんなあきらめムードだったのでは?
みんな勝手に王を名乗り出したし。

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/09(月) 09:33:08 ID:pOag7Fkq0
権威だけでもフル活用しいろんな国を操って徐々に力を取り戻しついには・・・・・・無理か。

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/17(木) 18:52:39 ID:sQfGr5rN0
>>15
一旦あそこまで落ちて、残るは権威だけという状況なら、復活は無理じゃないかな。

日本でも権威しか残っていない者が政権を取り戻した例ってあまりないようだし。

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/21(月) 22:48:47 ID:nSmrTzLv0
周王がいるのに周公がいるってのが感覚的によく分からん
他の時代でもこういうのあったことある?

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/11/10(火) 22:13:22.77 ID:7iE4qxSb0
>>18
王は一人だから、王と言えば周の王をさして、公は他にもいたから周公と呼ばれてたのかなと思った

45: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/08/28(火) 01:26:39.53 ID:VIT7OvFV0
>>18
王は地上に唯一の至高の称号だから「周」王じゃなくて王なんじゃないかね
だから元の周のトップが周公になるとかでは

53: 名無しさん@お腹いっぱい。 2020/01/18(土) 22:16:01.56 ID:AQl6v1ad0
>>18
周王とは呼ばず王または天王
周の君主ではない
地上にただ一人だけいる至高の存在

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/08/28(火) 01:07:42.79 ID:XPnLbIZn0
周の故地である周原一帯を任されていたから周公だろ

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/31(木) 18:25:07 ID:bc53HKmYO
周の全盛期っていつ頃?

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/23(土) 00:31:23 ID:CTTSzyNi0
成王・康王あたりでそ

昭王は遠征して溺死しちゃってるし

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/24(日) 02:31:47 ID:Z4IW0zypO
穆王ときが最大領土で姫姓諸侯が最も増えた時期らしい
しかし穆王の時代に法律が作られそれに反発が起きたり異民族の反乱、多大な出費などマイナスの面もややあり、漢でいう武帝みたいなポジションかな
穆王(ぼくおう)は周朝の第5代王。穆王は周朝の第5代王。昭王の子であり、昭王が楚への遠征途上で行方不明になったことより仮に王位に即位、その後に昭王の死が判明したので正式に即位した。

彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。穆王はこの馬を駆って犬戎ら異民族を討った。また、司寇(司法官の長)である呂侯に命じて『呂刑』と呼ばれる刑法を定めて社会の安定を図ろうとしたが、その3千と言われる罪状の多さに却って諸侯や民衆の反感を買った。また彼は西の彼方にある、神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り西王母に会い、西王母が後に入朝したと言う。

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/26(火) 18:03:49 ID:6ZYlvrAAO
最近の研究だと周公旦が作ったとされる制度や慣習はすでに商の末期にできていたものらしい
その優れた商の文明や制度をいち早く取り入れたのが周公旦であるというのが近年での評価だとか

32: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/12/05(月) 07:26:44.77 ID:V+UlOc0wO
太公望、周公旦、召公セキが天下を手にした際の三大功臣か
前漢でいう張良、ショウ何、韓信だな

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/01/04(水) 17:02:48.11 ID:CJCdNteVO
周公旦って名宰相、聖人としてしか語られなくて将軍として語られることって無いよな
商征伐にて武王を助け、武王死後の乱を鎮圧するなどその武功は十分名将だと思う

59: 名無しさん@お腹いっぱい。 2020/02/21(金) 21:30:03.74 ID:UxYmIMmk0
>>34
そもそも将軍って言葉がなかったから

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/03/03(土) 05:12:24.23 ID:bYnnZ3jh0
太師…太公望
太傅…周公旦
太保…召公セキ

37: 忍法帖【Lv=35,xxxPT】(1+0:8) 2013/06/26(水) 19:44:56.28 ID:8/lVwt0M0
太公望「あなたのように身内ばかりを取り立ててたら、外敵に対抗できませんよ」
周公旦「いやいや、あなたのように優秀だからと誰でも登用してたら国を乗っ取られますよ」
この問答好き

48: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/08/30(木) 16:09:31.46 ID:xWnWMDJC0
蔡叔度すき

54: 名無しさん@お腹いっぱい。 2020/01/23(木) 07:19:01.54 ID:fblI+d1G0
周の携王は平王の兄弟でなく幽王の兄弟と書かれた資料が発掘されたけど、末子の鄭伯友が卿士で携恵王は政治に関わっていなかったのが疑問だ

55: 名無しさん@お腹いっぱい。 2020/01/23(木) 19:23:42.68 ID:EuyafDCu0
>>54
周の携王が幽王の兄弟というの本当なら宮城谷の小説とか書きなおさないといけなくなるな

56: 名無しさん@お腹いっぱい。 2020/01/29(水) 21:06:01.12 ID:ftT/BwJl0
ああ歴史は分からない

引用元: ・周の英雄達、国を語れ m9(*・ヮ・*)



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