1: 人間七七四年 2007/05/27(日) 18:10:20 ID:5C9wymoz
三七丸こと信孝について語るスレッド








540: 人間七七四年 2008/05/11(日) 18:18:45 ID:1QCplj7e
信孝と信雄の対立って、表面的には清洲会議の後、美濃を領した信孝と尾張を領した信雄の国境線をどこにするか、って言う争いが発端なのな。

541: 人間七七四年 2008/05/24(土) 10:56:10 ID:K2URaVxn
信孝にすれば“何もしなかった”信雄がなんで尾張を得るんだという感じだろうな

542: 人間七七四年 2008/05/26(月) 09:19:03 ID:w9ga6aHd
兄弟不仲だったというよりも、国境問題から不仲になったのかな?

543: 人間七七四年 2008/05/26(月) 10:17:08 ID:+mOSCsdB
>>542
個人と個人ではなく、家と家の関係になると、肉親でもややこしくなるからねえ。

544: 人間七七四年 2008/05/26(月) 13:45:14 ID:YeV2E+qp
実力はともかく、格式から言うと伊勢国司家を継いだ信雄の方が上だが

553: 人間七七四年 2008/10/30(木) 11:14:41 ID:91RvCOW5
最近は方面軍司令官の一人だったと認識されてるのね>信孝
将来的には信忠の元で織田軍全体を把握する存在になったかもね。

555: 人間七七四年 2008/11/02(日) 18:34:27 ID:TmZiQtgU
>>553
谷口の妄想

558: 人間七七四年 2008/11/04(火) 02:56:17 ID:fToxz73+
>>555
以前はよく、三七は名目上の大将で、実質は丹羽長秀が主将だと言われることが多かったけど、当時の長秀の知行や、それ以前の経歴、四国に関して、実質的な権益の確約が長秀にない(信孝には讃岐が予定されてたらしい)
丹羽氏の記録にも長秀の扱いは蜂屋や津田と同じ「副将」とされているなどから、最近はやはり三七信孝が四国方面の大将だったと見られているようです。

信忠の軍は濃尾系の家臣を中心に編成されているけど、ゆくゆくは家督を継ぐ立場なわけだし、とくに司令官と見る必要もないんじゃないの?

559: 人間七七四年 2008/11/04(火) 06:35:47 ID:tp1HIKOh
>>558
それも谷口説ですよね。
司令官に「実質的な権益の確約」という例が他の司令官(柴田や羽柴)に無かったので証拠にはならないのでは?
滝川や河尻も信忠の副将だったと言えるのでは?
伊賀攻めのとき滝川と丹羽は信雄の「副将」だったのでは?

557: 人間七七四年 2008/11/03(月) 06:08:17 ID:a67MK2rY
伊賀方面軍司令官を信雄と考えた上で、四国方面軍司令官を信孝と考えるなら理解できる。
明智を司令官(だった)というなら信雄も司令官(だった)と言うべきかと。
信孝だけを柴田・羽柴・滝川ら家臣層と同列に語るのも疑問。
信忠を司令官と呼ばない理由や信忠・滝川間の指揮関係が不明確ということです。

560: 人間七七四年 2008/11/04(火) 08:29:04 ID:Hi3ADGkC
伊賀攻めのような一戦限りの総大将と長期戦前提の方面軍クラスの旗頭では同一視できないな
あと信忠の場合、既に信長の代わりに何度も総大将経験あるから武田攻めで他将に指揮を任せることはなかったでしょ
そもそも遊撃部隊の指揮官である一益はその時限りの与力に過ぎないし

方面軍説なら谷口氏以外にも桐野作人氏とか多くの人が言ってると思うけどね

563: 人間七七四年 2008/11/06(木) 02:59:33 ID:srT9prCT
ちなみに信孝は紀伊攻めで総大将を務めておるぞよ

565: 人間七七四年 2008/11/06(木) 23:46:15 ID:srT9prCT
伊賀攻めにしても高野山攻めにしても武田攻めにしても子息に経験を積ませようとした親心だろうな
でも信雄は愚鈍だから銃後に置いて信忠は東へ信孝は西へといふのが信長の構想だったかも

566: 人間七七四年 2008/11/07(金) 00:28:05 ID:bOfIu6TA
どうだろう?
四国ってその気になれば畿内からスグだから、信孝がヘマしたらスグ駆けつけられるようにって感じがするし、信澄と長秀と横を固めた所をみると、その構想は四国遠征が成功して初めて考慮していいレベルじゃないか

568: 人間七七四年 2008/11/07(金) 05:20:03 ID:pBycuk3+
だいたい一万ちょっとの兵力で四国征圧は無理な話で、あれは三好の救援と讃岐阿波の地固めに過ぎないと思ふ
降伏すれば土佐一国は安堵したんじゃないのかなぁ

573: 人間七七四年 2008/11/12(水) 03:14:17 ID:+JTB21yR
>>568
どうだろ。たしかにあの一軍だけで四国を制圧するには少ないけど、三好の兵力もあるし。
同時に中国地方に自分と明智のいわば織田家の本隊を投入してるけど、あれは毛利にトドメさすだけじゃなくて中国からも四国に侵入するつもりだったんじゃないの。
信長がすぐそこの中国にいるってだけでも蝙蝠には脅威になってるし、その上で格では羽柴や明智なんかより上の自分の息子を現場の大将にもってきたと。しかも津田までつけて。
こりゃ蝙蝠さん詰んじゃってないかい。

ただの地固めだったら実績もあって単独で指揮できる兵力も多い明智使った方が成功率高いでしょ。
羽柴の後詰なんぞ丹羽、蜂屋その他の混成兵力でも充分なわけで。
わざわざ信孝に大将を任せたのは一気に四国を制圧して、同時に息子(と期待の甥の津田に)に危なげなく実績つませるためじゃないの。

576: 人間七七四年 2008/12/15(月) 12:12:27 ID:FqMzBUFY
>>573
先に四国征伐してから中国平定だよ
信長も淡路まで進出すると書いてるしね

574: 人間七七四年 2008/11/12(水) 05:58:52 ID:88aNA34P
信孝の旗頭就任は信孝自身が前々から志願していたからだったらしい

神宮文庫所蔵文書には
『三七様連々お望み候四国へ・・・』
とあるね

607: 人間七七四年 2010/04/15(木) 00:40:13 ID:aC5JzOKW
四国遠征軍の参戦武将は思いつくところ

旗頭:織田信孝(伊勢国河曲・鈴鹿郡主、神戸城主)

副将:丹羽長秀(若狭国主、佐和山城主)

武将:三好康長、蜂屋頼隆、津田信澄、矢部家定、木津甚五郎(山城国相楽郡主)、庄村久三(丹波国上山城主)、三好存保(讃岐国十河城主)、篠原自遁(阿波国木津城主)、新開道善(阿波国牛岐城主)

水軍衆:鈴木重秀、真鍋貞成(和泉国海賊衆)、真鍋同芥右衛門(和泉国海賊衆)

他に誰かいます?

608: 人間七七四年 2010/04/15(木) 11:38:11 ID:LKqIpijy
伊勢衆の関盛信や国府佐渡守とか

あと丹羽蜂屋津田は副将格で同列じゃね
三好康長は当事者兼先鋒扱いかね。

609: 607 2010/04/16(金) 00:05:53 ID:PTNSivTz
>>608
関盛信は遠征軍内にあったという説と亀山城で留守居していた説があるので外しました

国府盛種?は信孝の直臣だと思ったので・・

610: 人間七七四年 2010/06/07(月) 14:48:12 ID:Xc+G3178
こうして見ると名目上の大将として信孝・丹羽・蜂屋らの名前があるけど、彼らの直属兵ってのは実際大した事なくて、実情は旧三好勢や、和泉・丹波・山城・伊勢(信雄の支配下の国人)らの寄せ集め衆でしかないんだよね。

本能寺の変後に、信孝の兵がほとんど逃げちゃった事で人望がないとか、統率力に欠けたなんて言われるけど、長宗我部にやられてジリ貧だった三好勢や土橋氏にあっという間に勢力挽回された雑賀鈴木氏なんかは当てにならないし、和泉・山城・丹波なんかから動員された連中は光秀に付いたんだろうし、他の軍団長クラス(勝家や秀吉ら)と四国遠征軍を同列に見るのはおかしな話なんだよね。

582: 人間七七四年 2009/03/14(土) 12:01:35 ID:8WTW4lbu
辞世の句の「内海の野間なれば」ってこの人、知多半島が好きだったの?

584: 人間七七四年 2009/04/19(日) 06:57:02 ID:KNlXFxJL
「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」でしたな。

信孝が切腹した野間御坊は昔にも「主殺し」が有った場所なんです。
平治の乱で敗れ脱出を図った源義朝は、ここ野間御坊で長田忠致・景致父子に浴場で騙まし討ちにされて殺されます。
下手人の長田父子は後に覇権を握った源頼朝に散々こき使われた挙句、「約束どおり美濃尾張(身の終わり)をくれてやろう」と刑死。

信孝はこの故事を踏まえ、「いずれお前にも天罰が下るぞ!」と秀吉を呪ったんですな。

585: 人間七七四年 2009/04/19(日) 12:41:30 ID:GEDno885
とはいえ信孝が滅ぶ原因を作ったのは、他ならぬ信孝自身な訳だが。

586: 人間七七四年 2009/04/20(月) 02:50:05 ID:19wRXfir
どう考えても秀吉だろ。

588: 人間七七四年 2009/04/20(月) 23:00:35 ID:uSZicd/r
三法師を安土に移すという織田家中の取り決めに従わず三法師を岐阜城から出さなかった信孝に対して、秀吉・長秀・恒興の三人は三法師が成長するまでは信雄を当主代理とする手段で大義名分を得て信孝を攻めた訳で。
信孝が素直に三法師を出していれば運命は違っていたかも…。

589: 人間七七四年 2009/04/25(土) 10:05:15 ID:NUPL/spj
>>588
それはないでしょ
秀吉が織田家から支配権を奪い取るには信孝の存在自体がネック
例え信孝が三法師を渡したところで秀吉は新たに信孝排斥の次の策を練ってくるでしょう

593: 人間七七四年 2009/07/25(土) 09:35:59 ID:edHUGr8X
秀吉が三法師の影で実権を掌握しようとするのがあまりにもミエミエで、さぞかし勝家、一益、信孝が苛立っただろうことは見て取れる
秀吉もそれを見越しての挑発だからな

600: 人間七七四年 2009/12/13(日) 02:44:51 ID:qKgkG9co
素直に三法師を出したとして、切腹が改易になった程度では。
改易されて何年か経って一万石で大名復活、御伽衆ってところじゃね?

で、徳川時代になって二から五万石、ないし交代寄合だろう。

625: 人間七七四年 2011/02/27(日) 12:17:53.66 ID:N5AErmcZ
この人、信雄よりマシってだけで大将としての器量は無かったんだろうな。
気位だけは高くて、あとは性急な性格っぽい。
本能寺の変後に信澄を殺したり、秀吉の挑発に引っかかって挙兵したり最悪な結果ばかり。

627: 人間七七四年 2011/03/20(日) 15:22:22.16 ID:8J5p+lcr
>>625
信澄の殺害は信孝の意というよりは丹羽長秀の助言だと思うね

信孝は神吉城攻めで足軽に混じって城に乗り込むなど武勇はあるが、大将としての思慮が足らないのは確かだ
だから信長は浪人、農民徴集兵の烏合の衆とはいえ四国遠征軍として一軍の将の経験させようとした
そしてそのアドバイザーとして実戦経験豊富な丹羽を付けた

もともと信長は信孝を大和国主にしようとしたが、大和国主だった原田直政の討死、松永久秀の謀反など不吉な事が起こるため避けて、讃岐国主にするべく四国遠征軍の長に信孝を据えた

626: 人間七七四年 2011/03/12(土) 11:19:29.07 ID:IkSGffvG
本能寺の変がなければ父信長の薫陶を受けて、30過ぎに大化けしていたかもしれない。

628: 人間七七四年 2011/03/21(月) 14:08:20.27 ID:4QCPOji3
津田信澄って結構有能な将だったから殺すよりも自陣営に引き込んだ方が後々の為に良かった気がするんだけどね。
まぁ彼は光秀の婿なんで、信孝長秀も彼が明智方につくのを恐れて、先制攻撃しかけて殺したんだろうけど。
元々から信澄は信孝長秀とは馬が合わなかったのかね?

629: 人間七七四年 2011/03/21(月) 19:33:04.55 ID:KfbMgIdb
信澄が有能?

初耳だな
小説かなんか見て思い違いしてない?
信忠に対しては勿論、信孝に対してもそんなに功績で上回ってると思えない
藤堂高虎は信澄が無能だから見切りつけて羽柴秀長にくら替え仕官したと思ったが

631: 人間七七四年 2011/03/21(月) 22:18:21.47 ID:aa+YH4EW
>>629
「一段の逸物」という評価もあるし、信長の親族の中ではかなり序列が高いなど、少なくとも当時の評価は高かったとみていいと思うんだけど。

632: 人間七七四年 2011/03/22(火) 00:19:17.59 ID:B92HFMen
信澄が与えられた大溝城は、結構重要な位置じゃないか?
若狭の丹羽と接してるし。

634: 人間七七四年 2011/03/22(火) 11:29:54.15 ID:RB/FhPkT
>>632
大溝城主であることは確かだが、城主に見合う活躍をしたかというと疑問符がつく
地理的に対松永久秀、対本願寺、第二次伊賀攻めなど出兵召集されてもいいものだが従軍した形跡がない

むしろ信長弟の岸和田城主織田信張の方が地味だが活躍している
親織田に転身した鈴木重秀を支援して重秀の雑賀庄統一を成功させ、本能寺の変後、四国遠征軍の水軍として従軍していた鈴木重秀が長宗我部の支援を受けた反鈴木派の雑賀衆土橋らの侵攻から逃げてきた時岸和田城へ迎入れ守った

636: 人間七七四年 2011/03/23(水) 08:36:36.25 ID:xAXyd76I
信行の息子が信長に尽くしているってのが大事だったのかも知れないね
信澄の方も自分の立場を理解して一門衆の筆頭としての立場で動いていたなら、本人が武将としては平凡であっても、織田家にとっては代え難い歯車だったんじゃないか

637: 人間七七四年 2011/05/06(金) 16:01:54.40 ID:wNExOLB4
信孝も信澄も若くして死んでるからどの程度だったかってのはなかなかなあ。

638: 人間七七四年 2011/05/08(日) 20:20:13.42 ID:zzsOm6xd
2人とも信長が横死しなかったら大きく化けた可能性はあったんだろうけどな。


646: 人間七七四年 2012/03/11(日) 09:40:14.07 ID:zPY3Bw6d
>>638
優秀すぎる弟は邪魔だろ

653: 人間七七四年 2012/06/03(日) 02:52:10.07 ID:HI/GMwWu
>>646
信忠と信孝の関係って実際どうだったんだろう?

655: 人間七七四年 2012/06/13(水) 20:50:58.83 ID:vQpNanRp
>>653
嫡男と他家へ養子なら特に対立すつことはないだろうと思う

642: 人間七七四年 2011/11/29(火) 22:07:09.89 ID:sqFEOQz/
信孝には養家系の後見人いないの?
信忠には斉藤利治
信夫には木造具政
がいるけど

643: 人間七七四年 2011/12/06(火) 18:04:11.50 ID:5eiGSh1H
no title
一応岡本氏が後見だな。

644: 人間七七四年 2012/03/11(日) 07:19:58.59 ID:Y3wsJVmL
神戸氏には居ないのかねやっぱり

649: 人間七七四年 2012/04/21(土) 15:44:19.41 ID:/e2YvoTk
信孝復姓後、神戸家の名籍は誰も継がなかったの?

650: 人間七七四年 2012/04/21(土) 16:05:54.99 ID:0TMKCiw/
神戸具盛が生きてる

651: 人間七七四年 2012/04/28(土) 16:12:01.65 ID:PcaOJIvd
『勢州軍記』の神戸良政は?

652: 人間七七四年 2012/06/03(日) 00:22:45.23 ID:4OmaneKu
慶長5年(1600年)に具盛が安濃津で客死して、神戸家は絶家となった。

第4代神戸具盛の曾孫で、蒲生氏に仕えていた高島政房が神戸姓を名乗り神戸家を復興し、子の良政が紀州徳川家に仕えて『勢州軍記』等を著した。

657: 人間七七四年 2012/07/18(水) 00:03:27.48 ID:5sa5EnK0
頭がよかったゆえのコンプレックス
信雄とは対照的なイメージ

659: 人間七七四年 2012/12/03(月) 01:01:00.46 ID:QgwQt2sf
頭は悪くないんだろうけど、自信過剰で野心家で人望が無いイメージがあるな。
信澄を明智方と思い込んで殺したり、近衛前久にも同じような事しようとしたりと短慮な面もある。
あと秀吉みたいな怪物にマジで対抗してしまったのが運の尽き。

660: 人間七七四年 2012/12/21(金) 15:52:29.49 ID:kyDiEvld
織田信雄と比較すると気性の激しさが際立ってるよね
小牧の時以外は一貫して空気なままだった信雄とかなり異なる
武田勝頼に近いな

662: 人間七七四年 2012/12/29(土) 12:10:01.37 ID:MFzEoV2x
一度目の挙兵失敗で大人しくしてれば信長の子だし、秀吉も切腹させる事はなかったと思うんだけどな。
さすがに美濃には置いておけないだろうけど、小大名で生きながらえたかもしれない。

引用元: ・【報いを待てや】織田信孝【羽柴筑前】