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1: ベトナムlove 2013/09/13(金) 15:27:45.63 0
明の圧政からベトナムを解放した黎利について語りましょう!

藍山起義から始った十年にわたる対明戦。
阮廌、黎来、阮隻、丁列、陳榴、黎察、劉仁澍など、綺羅星のごとく集まったベトナムの名将たち。
陳智、王通、陳洽、李亮、柳昇、梁銘、李慶、沐晟などの明の討伐軍。
当時のベトナムの民の思いなど、黎利に関することなら大歓迎です!






300px-Le_Loi_statue


黎利
(れい り、レ・ロイ、ベトナム語: Lê Lợi、1385年9月10日(昌符9年8月6日) - 1433年9月5日(順天6年8月22日))は、ベトナムの後黎朝大越国の初代皇帝(在位: 1428年 - 1433年)。太祖の廟号でも知られる。

もとベトナム中部タインホアのラムソン(藍山)の豪族であった。1406年の明の永楽帝によるベトナム侵攻とその後の支配に抵抗。1416年、のち重臣となるグエン・チャイ(阮廌)らとともに、ラムソンで挙兵に及ぶ(藍山起義)。以後、10年に及ぶ明への抵抗運動を続け、明をベトナムから撤退させることに成功。1428年、正式に明から独立し、ドンドー(東都、現ハノイ)で帝位に就き、黎朝を創始、国号を「大越」とした。




2: 世界@名無史さん 2013/09/13(金) 17:19:18.64 0
また日本ではマイナーなスレが出来たな

確か黎来が黎利の身代りになって死んだんだよな

7: 世界@名無史さん 2013/09/15(日) 13:55:37.43 0
初代と聖宗以外に見るべき皇帝がいない黎朝
黎聖宗(れいせいそう、レ・タイントン、/ 黎聖宗)は、後黎朝大越の第5代皇帝(在位:1460年 - 1497年)。

軍制改革を行い、洪徳元年(1470年)8月にチャンパ王マハー・サジャンの侵入を退けて逆に親征し、チャンパの王都ヴィジャヤを陥落させるなどの成果を挙げた。征服したチャンパの旧域に広南承宣を設置して現在のベトナム南中部のベトナム化を進め、大越のチャンパに対する優位を確たるものとした。
パーンドゥランガに拠るチャンパ王ガライ(マハー・サジャンの孫)に対しては対立王にデーヴァターを立てて干渉した。また洪徳10年(1479年)8月にラオスのラーンサーン王朝へも親征し、5方向から軍を進めた。王都ルアンパバーンを破壊、現在のジャール平原にあたる地域に鎮寧府を設置し、7県を置いて統治した。その後勢いに乗ってラーンナーに侵攻するが、これは失敗している。雲南に数度派兵、マラッカ王国にも影響を及ぼそうとして後黎朝の最大版図を築いた。

9: 世界@名無史さん 2013/09/15(日) 18:47:36.00 0
実は明に味方していたベトナム勢力も結構いた

11: 世界@名無史さん 2013/09/15(日) 22:44:44.08 0
聖宗の時代が最盛期なんだっけ?

ヴェトナムのチャンパ攻略の過程がよくわからんな。
Czampa_Mapa


チャンパ王国
は、現在のベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心とする国家。主要住民の「古チャム人」はベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。

13: 世界@名無史さん 2013/09/15(日) 23:06:11.99 0
誰か訳して欲しいなぁ・・・ベトナムの友達から黎利の素晴らしさを聞いて興味を持ったけど資料がない罠

永楽帝時代の明に真っ向から逆らったってだけで燃えるよなぁ

18: 世界@名無史さん 2013/09/16(月) 13:10:36.54 0
>>13
燕賊の晩年のことではあるがね

14: 世界@名無史さん 2013/09/16(月) 05:41:07.21 0
日本でぜんぜん知名度がないのはなぜ?

18: 世界@名無史さん 2013/09/16(月) 13:10:36.54 0
>>14
燕賊の主力は北方に出兵したということもあり南はあまり目を向けられにくい

というか日本は東南アジアに目を向ける人が少ない
中国と友好的だったタイやラオスやボルネオも知名度ない

27: 世界@名無史さん 2013/09/17(火) 21:50:55.56 0
しかし何故中華世界は五代十国の騒乱でベトナムを手放して以降はベトナムを再征服できなかったのか。

29: 世界@名無史さん 2013/09/18(水) 10:02:07.19 0
ベトナムの内ゲバがひどかったのに、再征服できてないなぁ
確かに謎ではある

31: 世界@名無史さん 2013/09/18(水) 10:38:46.99 i
>>29
莫氏の時も毛伯温に軍を与えときながら、武力介入しなかったしね

32: 世界@名無史さん 2013/09/18(水) 16:34:52.47 0
中華の南海方面征服は南方の珍品の輸入にあったからじゃないの。
唐代以降イスラム勢力が交易圏を広州あたりまで伸ばしてきたから、ベトナムをスルーして貿易できるようになってしまい、ベトナムの重要性が低下した。
ということなのではなかろうか。

33: 世界@名無史さん 2013/09/19(木) 09:38:32.79 0
成る程、南方貿易の要所だと云う理由か…

面白い見方だね

34: 世界@名無史さん 2013/09/19(木) 23:07:50.86 i
中継地としての魅力が薄くなったのかな?
直接的な産地としては犀角や象牙や香木なんかを要求してたよね

35: 世界@名無史さん 2013/09/20(金) 15:27:42.34 0
永楽帝以降の明が越南支配を諦めたのもそれが理由かな?

36: 世界@名無史さん 2013/09/20(金) 21:44:45.48 i
中華思想における柵封と朝貢のシステムは征服のリスクを減らすための方策だったって説があるよね
ベトナムも"昇格"して、中華にとってはいわゆる鶏肋の地になったのかな

37: 世界@名無史さん 2013/09/20(金) 21:57:56.71 0
李朝、陳朝、西山朝は北からの進行を退けている
唯一征服されたのは胡朝

ちなみに黎朝も独立後は明に朝貢して柵封されている。

燕賊が死んだあと、ベトナムをあきらめたのは直接統治による費用や出血よりも朝貢させたほうが利益になると思ったからだろう

38: 世界@名無史さん 2013/09/20(金) 23:42:01.78 0
ベトナムも唐代の日本と同じように、中国に対しては臣下としてふるまいつつ、周りの国に対しては皇帝としてふるまったのな

40: 世界@名無史さん 2013/09/21(土) 04:35:05.04 0
南ベトナムにあったチャンパとの戦いは長く続いた
最終的に征服が完了したのは最後の王朝である阮朝の時代
History of the Cham–Vietnamese wars
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Cham-Vietnamese_wars

72: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 17:22:15.56 0
>>40
それを見るに大体ベトナムが勝っているようだが何がチャンパより優れていた?
兵力か?装備か?戦術か?

73: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 23:45:57.80 0
中国に近いから最先端の戦術は導入できたかもね

75: 世界@名無史さん 2013/10/09(水) 08:09:38.73 0
当時の越南の兵装の資料ってあるかな?

76: 世界@名無史さん 2013/10/09(水) 23:35:57.62 0
日本にはない
ベトナムに行かないと無理だろうな
日本人はヨーロッパの甲冑や刀剣は大体イメージできる
だけど南アジアの甲冑だとか武器はイメージできない

77: 世界@名無史さん 2013/10/10(木) 22:45:18.01 i
南アジアの甲冑だとマハーバーラタあたりの映画衣装だな
ファンタジーなコスプレだけど

東南アジアだとベトナムなんかは漢文史料がありそうなもんだが、意外に見かけないよね

78: 世界@名無史さん 2013/10/10(木) 23:32:07.94 0
皮でできたもんじゃないの

79: 世界@名無史さん 2013/10/10(木) 23:41:04.95 i
黎利の頃だと金属の札鎧じゃなかった?

82: 世界@名無史さん 2013/10/12(土) 01:23:54.50 0
>>77
象兵と火槍はあったそうだ

96: 世界@名無史さん 2013/10/27(日) 20:39:57.10 0
>>77
遅レスだけど、冑の遺物なら、写真がある。
http://www.binhdinh-salongcuong.org/GB_DISCUSSION_Armours_Comparative%20Study.html
材質が書いてないのが残念だが、遺物があるということは、さがせばどこかに材質の
情報もあると思われる。中央付近に
Statue of Generalissimo TRẦN Hưng Đạo
Đại-Việt - 1213~1300.
という彫像があるが、見た目は金属には見えないから、やはり皮なのかも。

42: 世界@名無史さん 2013/09/21(土) 23:22:12.12 0
誰か黎銀について教えてー

43: 世界@名無史さん 2013/09/22(日) 20:41:43.22 0
とりあえず藍山蜂起初期からの家臣ってことしか知らない

44: 世界@名無史さん 2013/09/23(月) 17:02:33.57 0
黎利の前半生について

50: 世界@名無史さん 2013/09/23(月) 20:20:14.08 0
蜂起まえの黎利の前半生は謎が多すぎる
英語版のウィキ見てもあまり書いてないし

51: 世界@名無史さん 2013/09/23(月) 21:37:14.56 0
その分キングダムにおける李信みたいに創作の余地あるよな

力量ある作家さんに書いてもらったら面白そうな題材のひとつではある

54: 世界@名無史さん 2013/09/26(木) 16:45:11.38 0
挙兵時で中年になってるから前線では戦えない
帝位についたのはもう晩年と言っていい歳

63: 世界@名無史さん 2013/09/30(月) 00:44:47.85 0
1479年、白象事件が起こる。当時、ベトナムのレ・タイン・トン(黎聖宗)はベトナム史上最強の国家を作ろうとしていた。レ・タイン・トンはベトナム南部の大国チャンパ国を平定したあと、ラーンサーン王国(現在のラオス)へと目を向けた。そんなおり、絶好の機会が到来した。

サイイナ・チャカパット王の時代(1441-1479)、ケーンターオの領主が国王に白象を献上した。そのことを聞いたベトナムの王レ・タイン・トンは「白象を借り受けて国民に見せたい」と申し出たのである。
レ・タイン・トンの真の狙いは侵略の口実探しだった。予期したとおり神聖なる白象の貸し出しをラーンサーンの王は拒絶する。レ・タイン・トンは拒絶を受けて、数十万の兵をジャール平原(チャンニン)に送ったのだった。
ジャール平原は凄惨なる殺戮の戦場となった。このときすさまじい数のラオ人が殺されたが、その多くがじつはモン族だったという。
ベトナム軍はジャール平原を制圧したあと、ラーンサーン王国の都ルアンパバンへと侵攻した。

http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/hmonghistory02.htm


80: 世界@名無史さん 2013/10/12(土) 00:26:24.06 0
ウィキだと
ラーンサーンの寝返りで負けた事があって
それ聖宗の遠征につながったと書いてあるけど

図書館に置いてあったベトナムの通史書ではラーンサーンに援助してもらっていたがそれらの事実は回想録を書いた阮廌たちによって隠されたと書かれたんだよね
どっちが本当だろうか

81: 世界@名無史さん 2013/10/12(土) 00:44:45.63 0
明に逆らって越を支援する利点と理由が当時のラーンサーンにあるのだろうか

85: 世界@名無史さん 2013/10/15(火) 09:20:13.95 0
共産党国家だから
過去の王朝はどう見られているんだろうか

86: 世界@名無史さん 2013/10/16(水) 23:15:03.56 0
ベトナムの友達に聞いてみたら、概ね好意的にとらえられているみたいです
特に、陳興道と黎利は独立の英雄としてとらえているみたいです

87: 世界@名無史さん 2013/10/18(金) 13:36:25.00 0
阮恵はどう思われている

99: 世界@名無史さん 2013/10/30(水) 04:17:09.51 0
>>87
普通に救国の英雄だよ。
庶民階級出身だから共産党的にも持ち上げやすい。

105: 世界@名無史さん 2013/11/06(水) 08:32:18.26 0
この時代のベトナムの軍制わかる方いますか?

106: 世界@名無史さん 2013/11/08(金) 04:16:10.60 0
八尾隆生『黎初ヴェトナムの政治と社会』に載ってる。
明の衛所制を名前だけ借りた変形バージョン(軍戸がない)。

112: 世界@名無史さん 2013/11/14(木) 17:42:48.18 0
ゲリラ戦はベトナムの基本的戦略かねぇ?

113: 世界@名無史さん 2013/11/14(木) 22:00:06.77 i
正規軍の戦い方も中国側から見たらゲリラっぽいから
戦略的な目的で、わざわざ不正規軍として戦ったりはしてなくない?

115: 世界@名無史さん 2013/11/16(土) 02:54:52.63 0
ラオスとチャンパとの戦いではゲリラ的な戦いじゃない
阮朝だけどタイやフランスとの戦争でもゲリラな戦いはしていなかった

120: 世界@名無史さん 2013/11/21(木) 17:21:58.67 0
越は西のタイ民族を蛮族視したが
南のチャンパに対しては対等に見ていたと言う
見ざるを得なかった

121: 世界@名無史さん 2013/11/21(木) 21:34:32.04 0
ということは、ベトナム史を見るにはチャンパとタイ民族に対しても目を向けないといけないのか

黎利の時代はどんな関係だったのだろうか?

122: 世界@名無史さん 2013/11/22(金) 10:32:15.55 0
上にも書いてあるが
明との戦い中ラーンサーンが寝返って負けた事があったと言うが
土下座外交行ってラーンサーンの援助に多いに頼っていたが
蛮族に頭下げていたなんて事実は隠されたとも言う

123: 世界@名無史さん 2013/11/22(金) 18:09:53.09 0
ラーンサーンやアユタヤも越を蛮族していた可能性

124: 世界@名無史さん 2013/11/22(金) 20:26:50.02 0
確かに、初期の黎利軍はランサーンの援助無しにはきつそうだよなぁ
142: 世界@名無史さん 2013/12/19(木) 20:52:07.77 0
最後は清に亡命したと言う黎朝の皇族だが子孫は今でもいるんだろうか
ハプロタイプ調べれば黎利のハプロタイプも知れるかもしれん
143世界@名無史さん2013/12/24(火)23:11:03.500.netID:???

歴史的に、ベトナムは戦力が上の相手とばかり戦っているのは気のせいだろうか?
このスレの黎利然り、陳興道然り、胡志明然り、皆不利な状況から工夫して勝利している気がする




167世界@名無史さん2014/01/09(木)17:05:26.460.netID:???

>>143
チャンパをはじめ、ラオスやカンボジアとかとも戦争してる。




144世界@名無史さん2013/12/25(水)00:12:56.650.netID:???

珍しくも胡の時は北の国との関係が良好だった




146世界@名無史さん2013/12/26(木)21:36:27.870.netID:???

ただし胡の死後に中国と関係悪化、と




148世界@名無史さん2013/12/28(土)02:33:57.620.netID:???

五代十国のビンや南漢が残っていたら、それもベトナムみたいに中国とは別の民族の国家とみなされていただろうか。
王は中国人だが、それは李朝陳朝と同じだし。




149世界@名無史さん2013/12/28(土)09:36:32.640.netID:???

李朝陳朝の王は中国人だったのか?李朝陳朝は「ベトナム民族王朝」と理解していた。




150世界@名無史さん2013/12/28(土)11:44:07.09O.netID:???

>>149

少なくとも先祖は。
ベトナム人は皆最初から中国風の名前だから中国系かベトナム系かわかりにくいが。




153世界@名無史さん2013/12/30(月)17:18:41.64O.netID:???

南方民族の中でベトナムが独立したのも、ベトナム以外が独立できなかったのも、偶然の賜物

ただ、Wikipedia見たら、李朝の前の丁朝では「大瞿越」と名乗っていたらしい
“瞿”はベトナム語らしい




164世界@名無史さん2014/01/08(水)19:55:24.790.netID:???

朝鮮と言いベトナムと言い、柵封国は王の衣装や王宮が完全に中国風になるのがいただけないな。
日本だったら(もとは中国伝来とはいえ)アレンジが進むんだが。



165世界@名無史さん2014/01/08(水)20:20:30.050.netID:???

柵封国は継続的に使節往来やらでむこうの朝廷と接するからどうしてもな
菅原道真以降の日本は、清盛・時宗・義満・秀吉のときにちょこっと接点もった程度だ



166世界@名無史さん2014/01/08(水)20:47:46.580.netID:???

アオザイとかを見るに、ベトナムは朝鮮よりさらに中国に近い気がする。
「どーせうちらは属国だから」という朝鮮と違い、ベトナムは「東南アジアにおける中華帝国」を目指していたからこそ、余計に中国らしくあるようにしたのかも。




168世界@名無史さん2014/01/09(木)19:15:15.54O.netID:???

>>166

よりによって、満州族の服をコピーするとはなんか皮肉やな




172世界@名無史さん2014/02/06(木)23:11:48.390.netID:???

なぜ数ある南方民族のうち
ベトナムだけが自前の国家を築けたのかというのは結構不思議




176世界@名無史さん2014/03/30(日)16:17:54.260.netID:???

南詔や大理という独立国のあった雲南が中国に併合されてしまったのに、長年、中国王朝の直轄地だった北部ヴェトナムが独立できたのは興味深い。




177世界@名無史さん2014/04/10(木)22:17:16.060.netID:???

ベトナム人に固有名は残っているのだろうか?
中国人とは明確に別民族であるにもかかわらず、歴史に初めて出てきた時点ですでに「呉氏」とかそんな感じだから、独自性がイマイチ分かりにくい




179世界@名無史さん2014/04/20(日)16:11:22.230.netID:???

2千年前の独立運動の英雄だったチュン(徴)姉妹の時点で、既に徴側・徴弐だからな。
固有名なんて、かなり早い時点で失われてそうだな。

その頃は朝鮮半島ですら、固有名だったのに。




181世界@名無史さん2014/04/20(日)18:57:43.950.netID:???

伝承レベルじゃない史料上の人物で一番古いは、前漢・武帝時代に南越国の丞相だった呂嘉かな
南越国自体は始皇帝が派遣した中原人が興した王朝だけど、この丞相は帰順現地民の系譜
国の実質スタートが中原人王朝からとなると、固有文化を後代に残すのはなかなか難しそうだ




183世界@名無史さん2014/04/20(日)22:34:07.410.netID:???

>>181

南越国ってベトナムか?





184世界@名無史さん2014/04/20(日)23:32:45.900.netID:???

>>183

4分の3くらいは今の広東省と広西壮族自治区で、南西側の領土がベトナム北部(交趾郡と九真郡)
とはいえ、ベトナム(というか主民族のキン族)の歴史は先史時代・伝説時代を除くと南越国から書き起こすのが普通
首都も広州だしベトナムとイコールだとは到底いえないが、後に続く彼らの歴史がそこから始まってるということなんでしょう




190世界@名無史さん2014/04/28(月)23:20:54.350.netID:???

>>184

どうも唐時代に大規模な移民が行われるまで、福建も異民族が多数だったようで。
広東、広西はもっとだったでしょう。
そのころまではベトナムとあまり条件は変わらなかったのかも。
庶民の言葉なんか中国語と全く違う言葉だったかも。




182世界@名無史さん2014/04/20(日)18:58:37.620.netID:???

ちなみにベトナム人の姓、人数順トップ15
No.1 阮 ・・・以下、陳 黎 範 黄 潘 武 鄧 裴 杜 胡 呉 楊 李 金




183世界@名無史さん2014/04/20(日)22:34:07.410.netID:???

>>182

範じゃなくて范じゃね




187世界@名無史さん2014/04/22(火)14:00:06.320.netID:???

>>183

范だろうね、俺が参照したのではなぜか異体字の範のほうで記載されてたけど




191世界@名無史さん2014/05/02(金)09:24:38.900.netID:???

『大越史記全書』では、干支―自国年号の順でしるされ、さらにその下に割注の形で中国年号が挿入される。
『大南寔録前編』では年号が干支のほかに越・中二つの元号が併記されている。
またどちらもが、中国皇帝を「皇帝」「帝」と書く一方で、自国ベトナムの君主も「皇帝」「帝」あるいは「上」と記す。
どちらもが「勅」や「詔」や「諭」を発する。
そしてベトナムの皇帝は中国皇帝とおなじく、「朕」と称する。
これだけで、ベトナムが冊封体制を便法としか見ていなかったことがわかる。

さらにいえば、冊封体制を成り立たせている伝統中国(王朝時代中国)の華夷思想(いわゆる中華思想)をすら、認めていないことがわかる。
冊封体制もしくは華夷思想においては、皇帝とは中国(=天下宇宙の中心の意)にただ一人しかいないからである。二人いたら世界が崩壊してしまう。
このことについては、ベトナムとならんで伝統中国の代表的な三属国とされる朝鮮と琉球は律儀にこの建前を守った。
彼等は冊封されたとおりに「王」を名乗りそれを国内でも通した。
それをベトナムは、中国に対してのみ王として臣下の礼を取ったが、国内およびその他の国(東南アジア諸国)に対しては、「皇帝」としてふるまった。




200世界@名無史さん2014/05/31(土)10:04:47.440.netID:???

>>191

でも日本も独自年号を持って天皇を名乗っていたけど、それもあくまで「中華文明圏」内での自立だけどね。
律義にずっと中国の古典から年号を引っ張っているベトナムは知らんが




202世界@名無史さん2014/05/31(土)13:20:17.710.netID:???


引用元: ・【後期黎朝】黎利について語ろう!【越南】



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