4: 人間七七四年 2011/07/16(土) 18:26:30.42 ID:tk10XHg0
凡将で名君な秀忠が好きです
9: 人間七七四年 2011/07/17(日) 00:13:17.78 ID:0G5INWyg
あの「お江」が義父・家康に直訴した実直な夫の“遊び癖”
11: 人間七七四年 2011/07/17(日) 17:56:34.52 ID:2QQR4+i0
>>9
なんか和んだw
家康が「自分も囲碁は最初はあまり興味なかったんだけど、やってたら楽しくなっちゃってさー」
っていうお江に宛てた手紙があると聞いたけど、これだったんだ 分かってすっきりした
秀忠の逸話の中でも、伊達さんや信雄さんと囲碁やってる話があるね
なんか和んだw
家康が「自分も囲碁は最初はあまり興味なかったんだけど、やってたら楽しくなっちゃってさー」
っていうお江に宛てた手紙があると聞いたけど、これだったんだ 分かってすっきりした
秀忠の逸話の中でも、伊達さんや信雄さんと囲碁やってる話があるね
12: 人間七七四年 2011/07/17(日) 18:38:02.23 ID:0G5INWyg
この手紙はどこに存在するんだろうか
手紙の実物(の写真など )を見ないと信用できない自分がいる
手紙の実物(の写真など )を見ないと信用できない自分がいる
13: 人間七七四年 2011/07/17(日) 19:00:14.28 ID:2QQR4+i0
「我等中年の頃迄棋を一向に不存、人にうつさえ無用の物、気詰まりにて役に立たぬ事とばかり存じ、人の好み候は虚け者に存候所、近年覚え候へば雨降り徒然の慰にもなり先達て虚気者と存候者を相手に致候・・・」(慶長17年・1612・2月25日)
ネットで調べてみた手紙の内容がこんなんだった
何となく内容は分かるんだけど、やはり現代語訳してほしい
ネットで調べてみた手紙の内容がこんなんだった
何となく内容は分かるんだけど、やはり現代語訳してほしい
14: 人間七七四年 2011/07/18(月) 00:49:44.23 ID:fsCVF6t5
囲碁のことで家康に愚痴っちゃうということは、江はそこまで家康のこと恐れていた訳ではないんだなあ
むしろよき相談相手だったんだろうか
むしろよき相談相手だったんだろうか
16: 人間七七四年 2011/07/18(月) 20:30:06.71 ID:fsCVF6t5
この手紙の件で気になったのは、お江さんが本当にこんなこと言ったのか
言ったとしたら手紙じゃなくて、誰かを介して口頭で家康に訴えたのかな?
たとえば本多正信辺りに、将軍様が囲碁に夢中になりすぎてるから、大御所様からも何かおっしゃって下さいとか
でも、口頭だと本当にこう言ったのかも分からないし、手紙があったとしても原本がないから本当かどうか分からない
そもそもそんなのあったら、とっくに発表してるよね
お江さんの書いた手紙ってまだ二つしか現存確認されてないはずだし
この将軍様ともあろう人が云々てどっから出てきたんだろう
言ったとしたら手紙じゃなくて、誰かを介して口頭で家康に訴えたのかな?
たとえば本多正信辺りに、将軍様が囲碁に夢中になりすぎてるから、大御所様からも何かおっしゃって下さいとか
でも、口頭だと本当にこう言ったのかも分からないし、手紙があったとしても原本がないから本当かどうか分からない
そもそもそんなのあったら、とっくに発表してるよね
お江さんの書いた手紙ってまだ二つしか現存確認されてないはずだし
この将軍様ともあろう人が云々てどっから出てきたんだろう
17: 人間七七四年 2011/07/19(火) 01:14:54.45 ID:Ps/i3RTb
家康の手紙に書いてあったんだろう
まあ手紙の現物を見るまではなんとも
手紙の存在ひっくるめて逸話の可能性もあるか
まあその時は数少ないお江が登場する逸話が見つかったということで
まあ手紙の現物を見るまではなんとも
手紙の存在ひっくるめて逸話の可能性もあるか
まあその時は数少ないお江が登場する逸話が見つかったということで
26: 人間七七四年 2011/07/22(金) 12:39:35.96 ID:JkBftkN7
お江ちゃんて、幕府創成期とはいえ二代目の奥さんで三代目の母親なのに、史料や遺品とか少ないよね。秀忠のものはまだあるけど。
もうちょい残っていてもいいと思うけどなあ。
なんか人為的な操作でもあったのかなあ?
もうちょい残っていてもいいと思うけどなあ。
なんか人為的な操作でもあったのかなあ?
28: 人間七七四年 2011/07/22(金) 13:23:11.86 ID:zBismmG6
人為的に消すなんてことはさすがに難しいと思うな
幕府側の史料はともかく諸大名のところのヤツを抹消するのはいくらなんでも無理だよ
元々少なかったのが火事やら保存方法の問題で消えて、さらに少なくなっただけだろう
つーか大河の便乗研究でちょくちょく出てきたし
大河決まる前は経歴と俗説以外はほぼ何もない状態だった
幕府側の史料はともかく諸大名のところのヤツを抹消するのはいくらなんでも無理だよ
元々少なかったのが火事やら保存方法の問題で消えて、さらに少なくなっただけだろう
つーか大河の便乗研究でちょくちょく出てきたし
大河決まる前は経歴と俗説以外はほぼ何もない状態だった
29: 人間七七四年 2011/07/22(金) 16:25:59.76 ID:JkBftkN7
笑われるかもしんないけど、春日局あたりの人為的操作かな?なんて考えたこともあって(笑)あり得ないか。
35: 人間七七四年 2011/07/24(日) 01:33:26.51 ID:Uf69bWbb
>>29
どうでしょうかね
秀忠夫妻の偏愛ぶりがどの程度かによるでしょうが、東照大権現祝詞の記述に従うと、悲惨な親子関係になる
「両親が家光を憎んでいる。適齢期になっても世子決定の様子がない~続く」みたいなことが書かれている
この文章の通りの親子関係なら家光は通説通りの両親嫌いだと思うが、ただこの文章は誰が書いたか不明の文章で、さらに家光室や秀忠側近の悪口まで書いてあるという不思議?な文章ですので信用できるかどうかは意見が割れる
家光と秀忠夫妻の関係については個人的には色々考えていたんだが、昨年末に発売された本に結構新しい情報が載りすぎていて考えがまとまらない
どうでしょうかね
秀忠夫妻の偏愛ぶりがどの程度かによるでしょうが、東照大権現祝詞の記述に従うと、悲惨な親子関係になる
「両親が家光を憎んでいる。適齢期になっても世子決定の様子がない~続く」みたいなことが書かれている
この文章の通りの親子関係なら家光は通説通りの両親嫌いだと思うが、ただこの文章は誰が書いたか不明の文章で、さらに家光室や秀忠側近の悪口まで書いてあるという不思議?な文章ですので信用できるかどうかは意見が割れる
家光と秀忠夫妻の関係については個人的には色々考えていたんだが、昨年末に発売された本に結構新しい情報が載りすぎていて考えがまとまらない
47: 人間七七四年 2011/07/28(木) 00:58:53.57 ID:viZYe7BZ
>>35
「東照大権現祝詞」ってどの程度信用できる史料なのかな。
幕閣(秀忠の乳母子にして老中、松平信綱の舅にもあたる)の横死を「天罰だ、ざまあ」みたいな論調で触れたり、家光室への中傷じみた文言や、さらには秀忠夫妻が家光をないがしろにした挙句、家康の怒りを買ったみたいな文章を公然と書き残したりできるものなんだろうか。
「東照大権現祝詞」ってどの程度信用できる史料なのかな。
幕閣(秀忠の乳母子にして老中、松平信綱の舅にもあたる)の横死を「天罰だ、ざまあ」みたいな論調で触れたり、家光室への中傷じみた文言や、さらには秀忠夫妻が家光をないがしろにした挙句、家康の怒りを買ったみたいな文章を公然と書き残したりできるものなんだろうか。
389: 人間七七四年 2011/10/11(火) 15:48:32.23 ID:tqWqShHx
>>35
大河の公式で時代考証の小和田氏が家康が江に宛てた「二月二十五日付お江宛の家康訓誡状」が紹介されているね。
この中で家康は江に対して国松偏愛をやめるよう戒めているのと、徳川家の家督相続者は竹千代であることを徹底せよということが書かれてあるらしい。
これを読むと、秀忠夫妻と家光の確執は事実だったのかとも思うけど。
http://www9.nhk.or.jp/go/story/gom40.html
大河の公式で時代考証の小和田氏が家康が江に宛てた「二月二十五日付お江宛の家康訓誡状」が紹介されているね。
この中で家康は江に対して国松偏愛をやめるよう戒めているのと、徳川家の家督相続者は竹千代であることを徹底せよということが書かれてあるらしい。
これを読むと、秀忠夫妻と家光の確執は事実だったのかとも思うけど。
390: 人間七七四年 2011/10/11(火) 17:29:21.43 ID:ydb406MZ
>>389
その訓戒状は家康が書いたものじゃない、という説が有力になってきていると聞く
理由は
・この訓戒状は浅草のとある古本屋で見つかった可能性あり
・冒頭部分が、家康が生きていた頃の時代の書き方にそぐわない
・あの当時、堪忍って言葉あったっけ?
・慶長十七年、秀頼がまだ生きているのに、信じられないこと書いてる
「太閤様は古今に珍しいほどの大気の持ち主であったが、あまりにも大気だったため、身の程を知るということが出来なかった(あまり大気故、分限の堪忍破れ候)」
・関ヶ原の戦いの時、お江に宛てた家康の手紙と同じような文面がある(井伊直政のこと)
関ヶ原の頃なら直政生きているけど、慶長十七年頃はもう死んでいるのに、直政を頼れと書いてる
なので、この手紙は井伊家の人が書いたかもしれないとの疑い
等々
自分も本で読んだけど、正直何が言いたいのかよく分からないなあの訓戒状
まだ毛利訓戒状の方が理解できたかな
その訓戒状は家康が書いたものじゃない、という説が有力になってきていると聞く
理由は
・この訓戒状は浅草のとある古本屋で見つかった可能性あり
・冒頭部分が、家康が生きていた頃の時代の書き方にそぐわない
・あの当時、堪忍って言葉あったっけ?
・慶長十七年、秀頼がまだ生きているのに、信じられないこと書いてる
「太閤様は古今に珍しいほどの大気の持ち主であったが、あまりにも大気だったため、身の程を知るということが出来なかった(あまり大気故、分限の堪忍破れ候)」
・関ヶ原の戦いの時、お江に宛てた家康の手紙と同じような文面がある(井伊直政のこと)
関ヶ原の頃なら直政生きているけど、慶長十七年頃はもう死んでいるのに、直政を頼れと書いてる
なので、この手紙は井伊家の人が書いたかもしれないとの疑い
等々
自分も本で読んだけど、正直何が言いたいのかよく分からないなあの訓戒状
まだ毛利訓戒状の方が理解できたかな
40: 人間七七四年 2011/07/25(月) 01:15:34.77 ID:ABYYpIVc
乱紋読んでて、関が原後の戦後処理を秀忠がしてたとあったけどそうだっけ?
終了後の秀忠ってそんな仕事任されるような立ち位置だったっけか
終了後の秀忠ってそんな仕事任されるような立ち位置だったっけか
41: 人間七七四年 2011/07/25(月) 03:50:43.33 ID:RRQLHXSE
慶長六年正月からの秀忠の動き
(この直前にあの有名な後継ぎ決定イベントが記載)
六年正月
御父子とも大坂の西城にましまし。大小の政事を沙汰し給ふ。
三月三 日豐臣中納言秀頼大坂城の西城に。御父子を迎へ奉り。申樂を設け饗し奉らる。かへらせ給ひて後秀頼西城二丸にまかりて。御父子の御來臨を謝せら る。
廿四日 公には大坂二丸を出て伏見に移り給ふ。廿七日 公ならびに秀頼。ともに大納言にのぼり給ふ。(一 に廿八日につくる。)
廿九日 公御參 ありて拜賀し給ふ。御同母弟下野守忠吉朝臣も。この日從四位下侍從に叙任したまふ。
九月晦日公第二 君。(珠君。)を加賀中納言利長の弟猿千代利 常。(後中納言。)に嫁し給ふ。此月 公伏見を出て江 の城にかへらせ給ふ。(台徳院御実紀)
後継ぎに無事決定した秀忠は戦が終わった後も上方に一年近く滞在して親父と政務をこなしたようですね
(この直前にあの有名な後継ぎ決定イベントが記載)
六年正月
御父子とも大坂の西城にましまし。大小の政事を沙汰し給ふ。
三月三 日豐臣中納言秀頼大坂城の西城に。御父子を迎へ奉り。申樂を設け饗し奉らる。かへらせ給ひて後秀頼西城二丸にまかりて。御父子の御來臨を謝せら る。
廿四日 公には大坂二丸を出て伏見に移り給ふ。廿七日 公ならびに秀頼。ともに大納言にのぼり給ふ。(一 に廿八日につくる。)
廿九日 公御參 ありて拜賀し給ふ。御同母弟下野守忠吉朝臣も。この日從四位下侍從に叙任したまふ。
九月晦日公第二 君。(珠君。)を加賀中納言利長の弟猿千代利 常。(後中納言。)に嫁し給ふ。此月 公伏見を出て江 の城にかへらせ給ふ。(台徳院御実紀)
後継ぎに無事決定した秀忠は戦が終わった後も上方に一年近く滞在して親父と政務をこなしたようですね
42: 人間七七四年 2011/07/25(月) 20:10:29.88 ID:ABYYpIVc
ありがとう やはり戦後処理が一番忙しいんだなあ
九月晦日ってことはほぼ10月上旬にようやく江戸に帰れたのか
だから勝姫から初姫生まれるまで年の開きがあるんだな
それ以外はほぼ毎年、お江さん子供産んでるし(ただ史料によってまちまちだけど)
九月晦日ってことはほぼ10月上旬にようやく江戸に帰れたのか
だから勝姫から初姫生まれるまで年の開きがあるんだな
それ以外はほぼ毎年、お江さん子供産んでるし(ただ史料によってまちまちだけど)
62: 人間七七四年 2011/08/06(土) 07:47:52.46 ID:CQa9yuH7
仕事に対する姿勢と、すっぴんの秀忠はイメージが違う。
親しい人にはかなり情のある男に見える。仕事面では容赦ない感じ。家康と違う自分を良く知って、幕府の体制を整えるためにあえて厳しかった。
子供の頃のお習字、のびのびした気持ちの良い手蹟だと思った。数え七歳なら今の5~6歳くらいか。残っている手紙なんかも全体的に雰囲気が柔らかく優しい。
前に徳川美術館で秀忠のいろいろを見たが、なんとなく巷のイメージと違って違和感があった。本当に凡庸な人には思えなかった。
自分が書道で生きてるからかもしれないが、文字で人を見てしまう。
誰か秀忠のイメージを払拭する小説を書いてくれないかな。
親しい人にはかなり情のある男に見える。仕事面では容赦ない感じ。家康と違う自分を良く知って、幕府の体制を整えるためにあえて厳しかった。
子供の頃のお習字、のびのびした気持ちの良い手蹟だと思った。数え七歳なら今の5~6歳くらいか。残っている手紙なんかも全体的に雰囲気が柔らかく優しい。
前に徳川美術館で秀忠のいろいろを見たが、なんとなく巷のイメージと違って違和感があった。本当に凡庸な人には思えなかった。
自分が書道で生きてるからかもしれないが、文字で人を見てしまう。
誰か秀忠のイメージを払拭する小説を書いてくれないかな。
96: 人間七七四年 2011/08/15(月) 21:06:00.10 ID:XHN+qBTJ
月が描かれた扇子を持った秀忠が描かれた浮世絵?があるけど
あの絵の秀忠ってちょっとかっこいいな
あの絵の秀忠ってちょっとかっこいいな
99: 人間七七四年 2011/08/15(月) 22:13:52.96 ID:XHN+qBTJ
>>96
築土神社のサイトで見れるぞ
築土神社のサイトで見れるぞ
徳川秀忠像(揚洲周延筆、築土神社蔵)
100: 人間七七四年 2011/08/15(月) 22:19:15.42 ID:LNrrdclm
>>99
見れた ありがとう 確かにあれ格好いいよね
これ鎧着てるから、合戦の時を描いたのかな 上田合戦と大阪の陣どっちだろう
見れた ありがとう 確かにあれ格好いいよね
これ鎧着てるから、合戦の時を描いたのかな 上田合戦と大阪の陣どっちだろう
67: 人間七七四年 2011/08/06(土) 20:47:36.53 ID:FGRJ6Vq0
ところで
http://www1.e-hon.ne.jp/content/sp_0031_taidan_201103.html
小和田氏によると
「秀忠は多くの史料から、大人しく頼りない感じを受けますが」
「竹千代が冷遇されているので、家康が自分で引き取り、養子にしようと考えていたらしい、という資料」だそうだが、具体的にどんな史料なんだ?
http://www1.e-hon.ne.jp/content/sp_0031_taidan_201103.html
小和田氏によると
「秀忠は多くの史料から、大人しく頼りない感じを受けますが」
「竹千代が冷遇されているので、家康が自分で引き取り、養子にしようと考えていたらしい、という資料」だそうだが、具体的にどんな史料なんだ?
69: 人間七七四年 2011/08/06(土) 21:07:48.61 ID:uXmvWPl2
>>67
家光に関しては東照大権現祝詞だろ
君をするがへよび御申候て、ごんげんさまの御こにあそはされ、三代せうぐんにこれあるへきと上意御さ候間、やうやくするかへ御のほり候ハんかと下々もよびし申うちに、ごんけんさませんげあり
という一文がある
秀忠の性格に関しては知らない
というかよくわからない
家光に関しては東照大権現祝詞だろ
君をするがへよび御申候て、ごんげんさまの御こにあそはされ、三代せうぐんにこれあるへきと上意御さ候間、やうやくするかへ御のほり候ハんかと下々もよびし申うちに、ごんけんさませんげあり
という一文がある
秀忠の性格に関しては知らない
というかよくわからない
114: 人間七七四年 2011/08/18(木) 18:31:11.00 ID:w+1rTGCd
秀忠江夫婦は、仲が良いという風には解釈されないよね
秀忠は側室は持たなかったわけだけど、江を愛したわけじゃなく、ただ江を恐れて側室を持たなかっただけの恐妻家って大体されるし
ここらの時代を著わすのに、単に仲が良いでは面白くないからか、春日局にしたってバトルがあった事にする方が受けるからかな
秀忠は側室は持たなかったわけだけど、江を愛したわけじゃなく、ただ江を恐れて側室を持たなかっただけの恐妻家って大体されるし
ここらの時代を著わすのに、単に仲が良いでは面白くないからか、春日局にしたってバトルがあった事にする方が受けるからかな
115: 人間七七四年 2011/08/18(木) 18:46:58.82 ID:94lWaVIw
そんなに仲悪かったら、家光生まれた時点でもう床は共にしないと思うんだけどな
家光生まれた時点で、お江さんもう30過ぎだし
それでもその後に忠長・和子と産んでる辺り、普通に夫婦生活は良好だったと見えるけど
そもそも、秀忠の数々の逸話見る限り、この人絶対女性の尻に惹かれるような性格してないと思うわ
家光生まれた時点で、お江さんもう30過ぎだし
それでもその後に忠長・和子と産んでる辺り、普通に夫婦生活は良好だったと見えるけど
そもそも、秀忠の数々の逸話見る限り、この人絶対女性の尻に惹かれるような性格してないと思うわ
120: 人間七七四年 2011/08/18(木) 21:11:56.78 ID:w+1rTGCd
江さんが6つも年上で、秀忠と婚儀あげるまで二度の結婚歴あり、子供1人ありって身なのが
特に近代入って処女性重んじられてきたし、そんな女に惚れこむなんて有り得ねー
江を恐れていたからに違いない、ってもなったのかな???
でも特に歴史研究家なら、秀忠が権力失った豊臣の養女にいつまでも遠慮してた、ヘコヘコしてた、って解釈するのが変だとは思わないのかって思うんだけど
特に近代入って処女性重んじられてきたし、そんな女に惚れこむなんて有り得ねー
江を恐れていたからに違いない、ってもなったのかな???
でも特に歴史研究家なら、秀忠が権力失った豊臣の養女にいつまでも遠慮してた、ヘコヘコしてた、って解釈するのが変だとは思わないのかって思うんだけど
121: 人間七七四年 2011/08/18(木) 23:19:34.18 ID:4CeaXw4/
豊臣との関係の変化に着目してないことが多いかな
あとお江の火葬の件もどうにかならないのか
あとお江の火葬の件もどうにかならないのか
122: 人間七七四年 2011/08/18(木) 23:27:06.04 ID:94lWaVIw
お江さんの火葬は毒殺されたのを隠すためとか、それこそミステリーの読みすぎと失笑したもんだ
お江さんはゆっくりゆっくり、体調崩していって、寝込んだ上での崩御だし、当時の火葬がどれほど手間暇と金かかるか知らないんかな
この火葬の様子が詳しく書かれているのを読んでも、豪華な火葬だなと分かるのに
お江さんはゆっくりゆっくり、体調崩していって、寝込んだ上での崩御だし、当時の火葬がどれほど手間暇と金かかるか知らないんかな
この火葬の様子が詳しく書かれているのを読んでも、豪華な火葬だなと分かるのに
134: 人間七七四年 2011/08/20(土) 21:01:28.88 ID:MS6G4J51
>>122
やっぱりあまり間をおかずに出産を繰り返してたから、体調も崩れていったのかも。
もしかしたら和子の後あたりから体調崩していったのかな~?
この二人ならあと2人くらいはいてもおかしくなさそうだから
やっぱりあまり間をおかずに出産を繰り返してたから、体調も崩れていったのかも。
もしかしたら和子の後あたりから体調崩していったのかな~?
この二人ならあと2人くらいはいてもおかしくなさそうだから
123: 人間七七四年 2011/08/19(金) 12:59:01.83 ID:Ibqfp+ws
恐妻家だというのが正しいとして、側室持ちたかったのに我慢してたとかなら、江が死んだ後、側室置いたりして、せっせと女に入れ込んでるでるだろうに
124: 人間七七四年 2011/08/19(金) 13:34:23.80 ID:vSpXtfY8
それどころか側室もおかずに、晩年は(江が眠る)増上寺に埋葬しろと指示して、享年が江と同じ54歳だなんて これだけでロマンを感じる
この夫婦は今までの通説などなければ、普通に仲の良い夫婦だったと言われてもおかしくない要素が沢山あるのに、本当に勿体無いなあと思う
この夫婦は今までの通説などなければ、普通に仲の良い夫婦だったと言われてもおかしくない要素が沢山あるのに、本当に勿体無いなあと思う
136: 人間七七四年 2011/08/21(日) 00:05:56.59 ID:ucfN/SHp
『東福門院和子の涙』の和子出産の時は難産描写だったけど、実際はどうだったんだろう 家光生まれた時は安産だったと書いてあったような
138: 人間七七四年 2011/08/21(日) 08:50:12.71 ID:WzjVxArq
>>136
徳川実紀に書いてある
台徳院殿御実紀 巻六
>醫官今大路延壽院道三こたびの御産。ことさら御なやみつよくわたらせ給ひしを。
>よく治療し奉りたりとて劔製の短刀を給ふ。
徳川実紀に書いてある
台徳院殿御実紀 巻六
>醫官今大路延壽院道三こたびの御産。ことさら御なやみつよくわたらせ給ひしを。
>よく治療し奉りたりとて劔製の短刀を給ふ。
141: 人間七七四年 2011/08/21(日) 12:26:41.78 ID:ucfN/SHp
>>138
おお、徳川実紀には書いてあったんだ
じゃあ和子産んだ後子供作らなかったのは、これ以上の出産は危険だと判断したからかな
確かに歳が歳だしね
おお、徳川実紀には書いてあったんだ
じゃあ和子産んだ後子供作らなかったのは、これ以上の出産は危険だと判断したからかな
確かに歳が歳だしね
140: 人間七七四年 2011/08/21(日) 09:12:50.37 ID:7CnGMOMW
>>136
家光は平産だったんだろ
ソースは当代記どっちか
家光は平産だったんだろ
ソースは当代記どっちか
146: 人間七七四年 2011/08/22(月) 12:33:00.45 ID:FkwtDu1v
>>140
家光出産のときには姉淀殿の手紙にも
「江戸にても若君をやすやすと安産されたとのこと」という一説があったね
江は産に命を懸ける時代に子供8人産んでも54歳まで生きることができたから、世間一般から見れば安産体質だったと思うけどね
家光出産のときには姉淀殿の手紙にも
「江戸にても若君をやすやすと安産されたとのこと」という一説があったね
江は産に命を懸ける時代に子供8人産んでも54歳まで生きることができたから、世間一般から見れば安産体質だったと思うけどね
154: 人間七七四年 2011/08/23(火) 19:19:01.49 ID:bgcvNuHW
家光が秀忠を嫌っていたとかそんな話目にするけど、嫌っていたような逸話ってあったっけ?
伊達政宗が死んだ時、家光は父親が死んだ以上に悲しんだという話はあるけど、別にだからと言ってそれで父親嫌ってたと結論づけるのはおかしいし
伊達政宗が死んだ時、家光は父親が死んだ以上に悲しんだという話はあるけど、別にだからと言ってそれで父親嫌ってたと結論づけるのはおかしいし
155: 人間七七四年 2011/08/23(火) 23:56:39.84 ID:my2kj1xu
よく言われるのは、家光が持ってたお守りだかなんだかの「二世しょうくん」だっけ
この二世しょうくん=家光自身という解釈は正しいのか?
この二世しょうくん=家光自身という解釈は正しいのか?
156: 人間七七四年 2011/08/24(水) 00:14:08.45 ID:9y9AbisY
>>155
家光の場合、ことあるごとに夢に出てきた家康を描かせたりとか、そういう病的なまでに家康に入れ込んでいるエピソードが多い分、父母との関係がどうにも陰に隠れがちな印象を受ける。
二世しょうくんの「二世」てのは生まれ変わり、再来の意味(夫婦の契りは二世の縁、の二世に近いニュアンス)だという話だけど、たしか三世云々と書かれたものもあるとか。
家光の場合、ことあるごとに夢に出てきた家康を描かせたりとか、そういう病的なまでに家康に入れ込んでいるエピソードが多い分、父母との関係がどうにも陰に隠れがちな印象を受ける。
二世しょうくんの「二世」てのは生まれ変わり、再来の意味(夫婦の契りは二世の縁、の二世に近いニュアンス)だという話だけど、たしか三世云々と書かれたものもあるとか。
157: 人間七七四年 2011/08/24(水) 00:23:40.09 ID:3LEPh/kC
つまり、生まれ変わってもまた家康お祖父様の孫として生まれますよーにって意味でもあるのかな。本当に尊敬していたんだなあ
質素倹約を旨とする家康の孫が、日光東照宮なんてもの作るってのもなんだかなあと思っていたけど、それは置いといて、一つの建造物としてみればあれは素晴らしいものだよね
質素倹約を旨とする家康の孫が、日光東照宮なんてもの作るってのもなんだかなあと思っていたけど、それは置いといて、一つの建造物としてみればあれは素晴らしいものだよね
159: 人間七七四年 2011/08/24(水) 06:49:59.69 ID:aaEnaGiM
>>157
秀忠スレ住人としては秀忠が造った地味な日光東照宮も見てみたかったが
家光が建て直したんだもんね
秀忠スレ住人としては秀忠が造った地味な日光東照宮も見てみたかったが
家光が建て直したんだもんね
162: 人間七七四年 2011/08/24(水) 17:01:46.28 ID:3LEPh/kC
>>159
ああ、それも見てみたい 何か絵とか図面とか残ってないのかな
子も孫も初代を崇拝していたからこそ、江戸幕府は完成したんだろうなあ
家康の話になると、どちらも聞く前に身なりを正したというから、そういう所はやはり親子だなあと思う
ああ、それも見てみたい 何か絵とか図面とか残ってないのかな
子も孫も初代を崇拝していたからこそ、江戸幕府は完成したんだろうなあ
家康の話になると、どちらも聞く前に身なりを正したというから、そういう所はやはり親子だなあと思う
163: 人間七七四年 2011/08/24(水) 17:24:24.81 ID:B3VdY9ya
>>162
太田の世良田東照宮が、家光改築前の日光にあった東照宮を移築したものらしいよ。
太田の世良田東照宮が、家光改築前の日光にあった東照宮を移築したものらしいよ。
169: 人間七七四年 2011/08/29(月) 19:59:04.53 ID:r4l1vYHG
今wikiでおよつ御寮人事件読んでて、和子の入内をすすめてた秀忠と江が、およつが親王を生んだと知って激怒って書いてあってなんかワロタw
100%政治的圧力だってのはわかってるんだけど、
「うちの娘が嫁に行くって言ってるのに後水尾凸!和子、お父さんは怒ったぞ~!」
なんて想像してしまったw
疲れてるのかな、自分w
100%政治的圧力だってのはわかってるんだけど、
「うちの娘が嫁に行くって言ってるのに後水尾凸!和子、お父さんは怒ったぞ~!」
なんて想像してしまったw
疲れてるのかな、自分w
およつ御寮人事件(およつごりょうにんじけん)は、元和5年(1619年)に江戸幕府が後水尾天皇の側近である公家6名を処罰した事件。最も重い責任を問われた権大納言・万里小路充房入道の名を採って万里小路事件(までのこうじじけん)とも称する。
170: 人間七七四年 2011/08/29(月) 21:06:39.94 ID:6ZcuOGUM
家康には言えないセリフ
171: 人間七七四年 2011/08/29(月) 21:53:46.76 ID:UzoNqSOP
うーんどうかね
「入内前」にやっちゃった
ということを問題にすれば家康でも言えるんじゃね
風紀の乱れを指摘することと、武家が朝廷との婚姻をいちゃもんつけて白紙にするという前代未聞のことをやることで、幕府の力を思いしらせるのが目的だよね
「入内前」にやっちゃった
ということを問題にすれば家康でも言えるんじゃね
風紀の乱れを指摘することと、武家が朝廷との婚姻をいちゃもんつけて白紙にするという前代未聞のことをやることで、幕府の力を思いしらせるのが目的だよね
172: 人間七七四年 2011/08/29(月) 22:00:45.20 ID:G7S70noy
月宮の人はそこら辺うまいこと書いてたなあ
秀忠が側室持たない理由も、全ては徳川の娘を入内させた上に、幕府の脅威を朝廷に思い知らせることにあったんだよ!
みたいな内容だったような
秀忠が側室持たない理由も、全ては徳川の娘を入内させた上に、幕府の脅威を朝廷に思い知らせることにあったんだよ!
みたいな内容だったような
173: 人間七七四年 2011/08/29(月) 22:35:02.34 ID:UzoNqSOP
月宮の人が和子が生んだ若君を梅宮が殺害したような描かれ方がしてあって背筋が寒くなった覚えが
杉本の作品は冷徹すぎるw
杉本の作品は冷徹すぎるw
182: 人間七七四年 2011/09/02(金) 23:16:56.24 ID:ABPMEbJ9
秀忠ってエピソード聞いてるとどっか冷たい印象を受けるな。
側室をもたなかったというけど、正室と特別仲が良かったという話もないし、長丸母とも続かなかったみたいだし、静や正之に対する扱いも酷いし。
単に父親に従順、規則として家庭を守るだけで、実のところ女なんて誰でもいい、愛し方も知らない情の薄い人なんでは?
だから三度目の年上妻でもOKなのかも。
側室をもたなかったというけど、正室と特別仲が良かったという話もないし、長丸母とも続かなかったみたいだし、静や正之に対する扱いも酷いし。
単に父親に従順、規則として家庭を守るだけで、実のところ女なんて誰でもいい、愛し方も知らない情の薄い人なんでは?
だから三度目の年上妻でもOKなのかも。
183: 人間七七四年 2011/09/02(金) 23:31:09.44 ID:/tsr3TT+
知恵伊豆との逸話で、仲の良い夫婦話があるじゃん
将軍になったばかりの頃、浅井家の菩提寺に寄贈したり、お江さんが病気になったと聞いて、仕事中なのに帰ってきたり、お江さんが亡くなった後は、壮大な火葬してあげたり、遺言で(お江さんが眠ってる)増上寺に埋葬しろと言ったり、普通に仲良かったと思うんだけどな
秀忠は私生活をあまり表に出さない人だったんじゃないの?
それかそういう逸話が残されなかった可能性もある
将軍になったばかりの頃、浅井家の菩提寺に寄贈したり、お江さんが病気になったと聞いて、仕事中なのに帰ってきたり、お江さんが亡くなった後は、壮大な火葬してあげたり、遺言で(お江さんが眠ってる)増上寺に埋葬しろと言ったり、普通に仲良かったと思うんだけどな
秀忠は私生活をあまり表に出さない人だったんじゃないの?
それかそういう逸話が残されなかった可能性もある
185: 人間七七四年 2011/09/03(土) 05:03:49.37 ID:e2o79MRO
あと夫婦仲なんてどこの夫婦も実際はわからんと思うぞ
解釈とイメージ次第でなんとでもなる
子沢山や側室がいないのを仲の良い証拠ととらえられている夫婦もいれば、妻が嫉妬深い証拠だとか旦那が尻に敷かれていてとかとらえられる夫婦もいてぶっちゃけ不公平
家譜などに載ってる正室との仲良し逸話とかも憲章のための創作かもしれんし
186: 人間七七四年 2011/09/03(土) 06:46:33.32 ID:jYasK1lH
自分は仲良しさんだったとは思うけどね
秀忠は冷たいばかりだとは思えないんだよね、初姫亡くなった時の激怒ぶりとか
大奥法度も結局、家族と一緒にいたかったからかな~とか勝手に思ったりしてる
秀忠は冷たいばかりだとは思えないんだよね、初姫亡くなった時の激怒ぶりとか
大奥法度も結局、家族と一緒にいたかったからかな~とか勝手に思ったりしてる
引用元: ・徳川秀忠 その2