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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 22:25:05 ID:LLssZ0AR0
有名な赤壁の戦い


実際はどんなものだったんでしょうか?









5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 23:25:51 ID:CIdK8T8W0
演義における赤壁
『三国志演義』における赤壁の戦いは以下の通りである。
『三国志演義』では、朱元璋が陳友諒の水軍を火計で打ち破った鄱陽湖の戦いをベースにしている部分があるので注意が必要である。
 
208年、華北を制した曹操が江南を平らげようと7月に50万の兵を率いて南下を開始した。ちょうどそのころ劉表が亡くなり、劉琮と後見人に付いた蔡瑁は、曹操に降伏してしまう。曹操は荊州の兵を会わせ「百万」と号した。諸葛亮の意見を取り入れず荊州を奪う事を諦めた劉備は曹操軍に追われ、ひたすら南に逃げるが大量の領民を引き連れたために進軍速度が上がらず長坂坡で追いつかれてしまう。
この危機を趙雲と張飛の活躍で逃れると、夏口の劉琦の下へ落ち延びる。一方、江東に勢力を伸ばしていた孫権は、この報に驚き、文官武官を集めて、降伏するか戦うかの会議を始めた。文官のほとんどは降伏を主張していたが、そのころ劉備の軍師だった諸葛亮が訪問し、魯粛も主戦論に偏っていたためにこれを利用し、孫権の説得を始める。
兄孫策の義兄弟でもある周瑜も後からやってきて主戦論を主張したために孫権は降伏派を一蹴し戦うことを決める。当初、周瑜は魏に降伏する考えであったが、諸葛亮から曹操が作った詩で「二喬」(自分と義兄弟の孫策の妻)を欲しがっていると聞かされ、怒って孫権に対して戦うようにと主戦論を主張した。
 
両軍は、長江に沿う赤壁で対峙した。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し、周瑜は計略を使い、荊州水軍の要である蔡瑁を謀殺する。蔡瑁謀殺後に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の甥の蔡中・蔡和に対して偽情報を曹操軍に流させるなど大いに利用した。そして、苦肉の計を用いて、黄蓋に偽の降伏を申し出させ曹操軍内に下らせた。
また、火計を効果的にするために、当時在野にいた龐統を使い、曹操に対して船上ですぐに酔ってしまう兵士達のためにと船同士を鎖でつなげる「連環の計」を進言し実行した。問題は、当時の季節-10月には東南の風が吹かないと言う事だった。
この方向に風が吹かないと、火計を用いた場合自分達の水軍にも被害が下る恐れがあったのである。諸葛亮は東南の風を吹かせると言い、祭壇を作り祈祷すると、どこからか東南の風が吹く(民間伝承には、諸葛亮はこの時期に東南の風が吹く日があるのを初めから知っていたと言う話やドジョウを使って東南の風を吹く日を知ったなどの話がある)。
機は熟したとばかりに黄蓋が藁を積んだ船に火をつけさせ火計を実行、「連環の計」で互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上する。更に東南の風で地上に配していた陣にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られた。
なお周瑜が自分を殺そうとしている事を察知した諸葛亮は、東南の風が吹いた直後にその風を利用して劉備の下へ逃げ去った。

一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかけた。しかし諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、殺す事は不可能であろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、あえて関羽が曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認した。

こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、以後劉備と孫権の係争地となる。

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/08(金) 09:04:20 ID:VNtD4jwa0
演義の方は、基本的に鄱陽湖の戦いのパクリのようだけど、よくあれだけ盛り上がる話に仕立てたなと、作者の創作力に感心するよ。
鄱陽湖の戦い(はようこのたたかい)は、1363年の中国で起こった朱元璋と陳友諒の間の湖上戦。この戦いで陳友諒は戦死し、朱元璋は西方の憂いを無くした。

『三国演義』の著者・羅貫中は朱元璋・陳友諒と元末の覇を争った張士誠に仕えたとされ、朱元璋が陳友諒を打ち破った鄱陽湖の戦いを元に赤壁の戦いを書いたという説がある。


10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/08(金) 23:51:17 ID:BeJpTZIs0
魏、蜀、呉のそれぞれで見方が違うからな。
あんまりよく分からん戦い。

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 09:13:27 ID:vmGpwu3U0
結局のところ、歴史上特筆するべき重要な戦いだったと言えるのかな?
三国時代の数ある戦いのうち、わりと大きな戦いの1つ、といったところ?

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23:01:31 ID:KEDMqu3x0
でも曹操の南下は頓挫したんでしょ

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 15:34:07 ID:l0aaeB/B0
曹操の軍勢で疫病が流行ったのは事実。

それが撤退の最大の理由だろう。

17: 「正史」からの引用 2006/12/15(金) 19:58:45 ID:Vd8GYiEq0
「北岸はおびただしい数の焼死者、溺死者により埋め尽くされた・・・」
とのこと。すさまじいね。
ところで三国時代は人口激減期で「演義」の兵力数は歴史と異なる。
赤壁での兵力は曹操軍が22、3万といったところなのに80万と誇張されている。
小説だから数字は歴史と同じである必要は無いが無理が多い。
例えば弱小国の蜀が背後に魏という大敵を抱えながら呉に75万の兵力で侵攻したり、南方に50万の兵力を出したり。それでいて主敵の魏には最大で30万程度しか出していない。これって矛盾だよね。
正史によると263年の滅亡時に蜀は人口94万、兵力10.4万。
呉は280年の滅亡時に人口230万、兵力23万。

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 22:19:07 ID:JEeyU0e40
正史の人口記録だと、後漢最盛期に比べて三国時代はほぼ10分の1に減っているけど、実際は王朝の人口把握能力の低下によるところが大きく、そこまで極端な減り方はしていないと思う。
大きく人口が減少したことは事実にしても。

兵力の誇張は、古今東西どこでも同じだね。
三国時代は、実際のところ、最大でどれぐらいの兵力を動員できたんだろう?

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 03:36:02 ID:+xrZH3t7O
信憑性があるかは分からないサイトか何かで当時の資料やらから夷稜の戦いで劉備が動員した総数はおおよそ13~15万ではないかと検証してたな。
捕虜逃走を含め帰国出来たのは半数程で、これが滅亡の遠因になる程の戦力低下に繋がっているとすら書かれてたな。

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 16:56:34 ID:OXdeiF4b0
ずっと後の時代の、サルフの戦いでの、明軍も47万と号して、実数は10万ぐらいだったらしいからね。

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 12:23:55 ID:PnKMZmIa0
結局、疫病とか、補給などの問題があって、ちょっと小競り合いをやっただけで、曹操は兵を退いたんだろう。

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 13:10:48 ID:6Nu581c8O
>>26
なんでわざわざ長江を下ってまでこぜりあいするの?

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 22:41:38 ID:OKqabo840
示威ともとれる行動。
でも失敗した、ということか?

32: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/22(金) 02:41:22 ID:rZkQtVy90
曹操の軍勢と孫権の軍勢との間で戦いはあった。
近くで劉備がうろうろしていた。
曹操の軍勢では疫病が流行っていた。
曹操の軍勢は北へ引き揚げた。

分かっているのはこんな感じか

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/22(金) 03:21:37 ID:Dj0q6domO
>>32
孫権は江陵を占領した
劉備は荊州南部を占領した

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/23(土) 01:13:11 ID:mK3Ct0x+0
呉郡から赤壁の戦いがあった近辺って結構遠いね。
曹操はこの戦役で完全な勝利を収めて荊州を平定した後でも、江東の平定まではまたかなり時間を要したんじゃないかな。

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/23(土) 23:10:42 ID:P0JO1hrE0
意識としてはどうなんだろう?
やっぱ辺境の江南でも、平定しないと、天下を取った気になれない感じかな。

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/24(日) 00:17:11 ID:xcijv007O
辺境っても荊州も呉も蜀も秦が最初に統一した時から中原王朝の版図だからね
完全に独立されたままでは天下を統一したとは言えないよ

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/24(日) 23:38:06 ID:WvVZ3I2C0
江南に漢民族が入植して本格的に開発が始まったのは東漢以降。
西漢時代には、まだ未開の、非漢民族居住地域の色合いが強かった。

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/29(金) 16:06:03 ID:hcv+uacn0
まだ荊州のあたりは、漢民族化が進んでいたのかな。

呉にいた山越という異民族って、どんな風習の民族だったんだろう。

51: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/07(日) 02:17:17 ID:qlgOQugU0
中国版wikiの「赤壁之戦」
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A3%81%E4%B9%8B%E6%88%98

参戦兵力は、曹操側が約25万人、孫権・劉備側が約5万人にされている。

56: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/16(火) 17:24:40 ID:qOFH/A8b0
朱元璋対陳友諒の水戦以前の時代の講談における赤壁ってどんな扱いなんだろうか。

57: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/16(火) 23:31:48 ID:bfRcKxn80
宋代なんかには、説話とかで三国志が語られていて、それを基に三国演義が作られていたんだよね。

どんなふうに語られていたのかな。

58: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/17(水) 07:55:52 ID:eVt7gI520
宋代では主に五代だな。
李存孝、周徳威、王彦章とくれば、民衆の大人気。それが昂じて、李存孝などニセモノのキャラが実物だと誤認され・・・
三国志関連は東晋頃から、街路や酒家で語られていた… だったと記憶するが。
「さぁさぁ、本日は劉公が逆臣曹瞞を華容に追い詰める話だよ。聞かないと損するよ」

東晋はどうかしらないけど、南宋のときは蜀漢を正統王朝としたがっていた。十八史略もそう。

62: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/17(水) 22:52:41 ID:8L1XOCrm0
でも、演義の赤壁の戦いは素晴らしいと思う。
あの時代に、これだけわくわくする展開の戦いを書けたんだから。

赤壁の戦いがなかったら、演義の魅力も半減だろう。

63: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/17(水) 23:05:39 ID:wQIWigPE0
同感
赤壁までの盛り上げ方も凄く良い
どんどん強くなるライバル、自分の国すらない主人公
それが軍師を得て、ついに一矢報いる

64: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 12:49:01 ID:l3w9KF/y0
<クイズ>
皆さんは知っていますか、日本にもある「小赤壁」其処には孔明が祈る祭壇まであるらし。

66: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 14:08:32 ID:e7feaU810
小赤壁は、兵庫県姫路市木場の瀬戸内海木場港から海岸沿いに燈籠地山・姫御前山を経て東へ連なる高さ50m、長さ約1kmの絶壁。石英粗面岩からなる景勝地として、小赤壁公園になっている。
1979年(昭和54年)、ノジギクや桜の名所として知られる木庭山を含めた磯周辺と共に、姫路市の緑の十景のひとつに制定された。「小赤壁」の名は、1825年に頼山陽がこの地に訪れた際、中国の赤壁に似ているとして命名したことによる。

頼山陽は、中国へ行ったことないだろうw

68: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 18:21:39 ID:l3w9KF/y0
一度言って見たいです。
他にも有るようですよ。

日本にもある三国志名勝 (秩父赤壁)
埼玉県の長瀬駅(秩父鉄道)から歩いて直ぐの所らしい。
私自身は行った事がないので正確な事は分からないが、荒川になるらしい。
ライン下りもあり、秋の紅葉時分は大変な賑わいだそうだ。
高さ30メートル幅500メートルもある断崖が中国湖北省の赤壁に似ていることから名づけられ、長瀬の観光名所の一つになっている。
夏の西日が断崖をうっすらと赤く染める光景からもそう呼ばれるようになったらし。

74: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/25(木) 23:25:16 ID:UuLzHOlr0
今、赤壁と呼ばれている場所と、実際に戦った場所は別なんでしょ。

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/26(金) 11:28:21 ID:54Bij6RE0
さあ?
後世の詩人が訪れ、赤壁の戦いを妄想して詩作してみた場所が有名になったけど、そこが実は場所違いだったという話を聞いたことがあるけど。
その早とちりした場所が「今、赤壁と呼ばれている場所」のことかな。

78: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/30(火) 12:46:45 ID:uOw3Xu9i0
曹操が取り込んだ荊州の水軍ってのはそんなに大きな規模だったのかな。

79: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/01(木) 14:43:58 ID:VRwp1TmI0
実際は大したものじゃなかったと思うけどね。
二十万人全員が水上に布陣することもなかっただろうし。

80: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 13:29:47 ID:ru5o6rh90
荊州を占領した軍勢の一部を、呉の方へ差し向けたが敗北、荊州に留まっていた本隊にも疫病が流行り、この戦に利なしと判断した曹操が撤退した、ってところかな。

81: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 04:18:16 ID:Zl3lejos0
撤退しただけで何で統一に絶対必要な江陵まで落とされちゃうんすかね
何で囲まれた曹仁への援軍が李通とかチョボチョボと送るだけなんすかね

87: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 10:35:00 ID:mmcvybp30
せっかく手に入れた艦船を失ったと言っても、撤収するにあたって持ち帰れないから焼却処分したと、後に孫権へ伝えているが

89: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 17:51:18 ID:oCOFF/Pi0
>>87
撤退しただけならすぐに動けばいいのにそれから1年も何してたんすか?
曹仁さんもほぼ放置っすよね?

93: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/04(日) 21:17:51 ID:YJqtZCqx0
惨敗したにしては将校の戦死者がゼロだし
ただ撤退したにしては撤退しすぎ

国内でなんか異変があったのか?

95: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/07(水) 16:50:45 ID:HlkdvDTQ0
>>93
曹操は襄陽までは陥としたが、江陵はその先。
要するに出征した先で敗れたのだから、撤退するのに特に理由を必要としないんじゃないか?
その後、曹仁を置いて1年ほど粘らせたのだから上出来だと思う。

117: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/09(月) 23:18:10 ID:vDJpyU4W0
荊州にあった水軍の規模って実際はどんなものだったんだろうか?

118: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/08/16(木) 10:46:43 ID:V3c6qb9S0
実際の戦いではそれほど水軍は用いられていないかもね。
長江の近くまで南下したところで、疫病が流行り、戦線も膠着したために撤退って感じ?

128: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/01(木) 00:22:02 ID:wDIUvIK+O
曹操が赤壁で決戦しなければいけない理由ってあったのかな?
大河での戦いは艦船、武将共に呉に有利で、曹操は赤壁という地の研究を怠り、特質な天候の事も知らなかった
天地人全ての利を相手に預けて戦に望んだ訳だから負けは予測できそうなのだが、反対する部下はいなかったのか?

わざわざハイリスクな戦いをしなくても、まず蜀を占領して益州あたりから長江を渡河すれば水上戦をしなくてすんだはず


慢心は怖いな

129: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/01(木) 00:33:34 ID:zYtMhxVp0
>>128
曹操は赤壁で決戦したかったわけじゃないと思うよ。
曹操はまず劉備を滅ぼしにいったんだろうから(その後は孫権かもしれんが)、劉備をスルーして孫権を狙うとは思えない。
慢心には変わりないんだが、曹操は劉備を狙ってる内は孫権が侵攻(赤壁は荊州側であり孫権は自領を超えて来ている)してくるとは思ってなかったんだろ。
孫権軍に進撃を阻まれ江夏郡にまともに上陸もできないなんて想定してなかったんだろう。

劉表とは仇敵、家臣には慎重論が強く、主の孫権は若輩者、という呉が劉備と手を結んで自分に真っ向から立ち向かってくるということ自体を計算していなかった。
赤壁のような地で阻まれると思ってなかったんだから、研究もしてなかっただろうね。
脅しの文書送れば黙ってるはずだ、ってね。
曹操陣営では程イクとカクはそのあたりの危険性を承知していたんだが、曹操は取り上げなかった。

132: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/02(金) 00:17:19 ID:X+0CgBeZO
>>129
うん呉の進軍は曹操の誤算だった
呉がきたから戦略的な撤退という選択肢は無かったのかな
慢心+覇王の面目っていうのもあったんだろうか

133: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/02(金) 01:55:29 ID:Ok/5R5GQ0
これで孫氏も撃破できたら、一気に天下統一へ、って思って欲を出したのかも

147: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/03/15(土) 05:56:58 ID:CJ6BK9pd0
赤壁では疫病が酷かったというが…

正直、万単位で集まって戦争する事自体に無理が有ったんじゃねぇかと思うんだよな。
当時、万単位の会戦が起きるたびに疫病起こってるじゃん。

「敗戦の痛手隠し」と言ってる人もいるけど、戦役に加わった各将軍の伝と照らし合わせても、彼等の討ち取った、討ち取られた合計と、疫病による死者数とを比べれば、かなりの差異が有る。
濡須戦なんかでは司馬朗などが防疫を担当した記述が有るし、竹林の七賢など高級官僚も死んでる。
呉書伝を紐解けば、江南の賊討伐の中で死体処理をした程普が病死してる。

多数の人間が集まった時の汚物・廃棄物・死体処理、それに対する公衆衛生の管理。
紀元2世紀の文明レベルで会戦やってた事が、疫病を頻発させたとしか思えんぜ。

148: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/18(日) 06:20:01 ID:nudS+/0L0
赤壁の戦いって、あったかどうかも疑わしいという学説があるって、何かの本で読んだことあるよ(「諸葛孔明の生涯」だったかな?)。
出師の表に曹操の敗戦が書き連ねてあるのに、赤壁だけ無いとか。
あの戦いの周瑜の武勲は相当大きいのに、褒美がほとんど無いとか。
けど、陳寿の史書には書いてあるから、無いとは言い切れないと凄い曖昧な結論だったがww

149: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/18(日) 08:41:06 ID:D9dRjlWo0
ほんとにそんな大会戦だったとすれば、この戦いで死んだ魏側の武将が少なすぎるからね。
同じような状況の夷陵の戦いでは蜀漢の武将がバタバタ死んでるのにね。

150: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/18(日) 09:01:44 ID:9b+FICqg0
>>149
大会戦という可能性は非常に低い。
曹操軍は行動線の限界と気候風土の違いで、赤壁付近で疫病にかかって停滞していた
そこで攻勢をしかけてきた(諸葛亮の差し金で孫権がやる気になった)周瑜軍を厭って、長江北岸に撤収したが、南岸の周瑜は持久戦を捨てて、黄蓋の進言に従い例の偽って投降させ、火船をもって北岸の曹操陣営を焼く作戦を実行した。
その結果、強風も手伝って、曹操陣営を燃やし人馬に被害を与えた。
ために曹操は南郡(江陵)を保ちつつ、軍を引き上げさせた。

というのが、周瑜伝にあるのだけど、両軍ガチンコではなく、限界を感じていた曹操が引き際を計っていたときに、周瑜の速戦があって、いらぬ損害を出してしまったという感じにみえる。

>>夷陵の戦いでは蜀漢の武将がバタバタ死

それはやはり、夷陵での蜀漢軍が突出しすぎていたからじゃないだろうか。
高級将校が討ち死にしまくるっていうのは、ほとんど逃げ道を閉ざされた縦深に取りこめられたからとも思えるが。

151: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/18(日) 10:28:19 ID:S8NObewT0
夷陵のが死にすぎてるんだろうね、どちらかというと

赤壁については、大会戦であろうがなかろうが、結果として周瑜と劉備は一気に江陵まで攻め込み、曹操は迎え撃たずに北へ戻った
その後も孫権と劉備が荊州でいさかいさえ起こしているのに荊州に再度攻め込むことはなかった
更に曹操自身もあとちょっとで劉備の火計の餌食になるところだったという話さえ残っている
曹操の大敗北であった事実は揺るがない

153: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/21(水) 21:33:09 ID:rEHbL0490
火計死んだのは旧劉表と袁紹軍の降兵であり、曹操軍自体は疫病による被害の方が大きく、撤退に成功したと見た方がいい。

154: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/21(水) 21:52:25 ID:LHgCRYIn0
>>153
それは史料的根拠は特にないと思うが、まあそれは別としても・・・
袁氏の兵は、冀州を第二の本拠としている曹操としてみれば主力と言っても過言ではない
これが多数死んだのであれば被害甚大であったことに違いは無い
どっちかというと「成功したのは撤退だけ」、と表現するべきだろう

155: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/22(木) 15:28:44 ID:bMXMjFaK0
曹姓か夏候姓の連中に死者が皆無だからねえ。
一族に軍団を統率させてる筈なのに。

あんまりたいしたこと無い戦いだったのかなあ。

引用元: ・赤壁の戦いの真実


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