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1: 日本@名無史さん 投稿日:2006/07/16(日) 19:13:04
平安時代の貴族といえば「源氏物語」の光源氏みたいな風流な貴公子をまず想像するでしょう。
しかし実際には暴行や恐喝事件、果ては殺人事件を起こすような光源氏とはほど遠い貴公子もいたわけです。
ここではそんなDQNな貴族を語っていきましょう。








3: 日本@名無史さん 投稿日:2006/07/17(月) 13:11:17
平安時代のDQN貴族といえばやはり藤原伊周と隆家兄弟だな
花山法王が自分の女の所へ通っていると勘違いして法王の家臣を殺して結果的に法王に
刃向かった結果になったバカ兄弟
自分から墓穴を掘って政治の世界から転がり落ちた珍しい例ですな


30: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/04(日) 07:50:35
藤原定家は宮中で、ある貴族とガチの殴り合いをして一時出入り禁止

31: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/07(水) 10:55:46
平安時代は入浴する習慣がなく、せいぜい蒸気で体をたまに蒸す程度という。
艶やかな十二一重の襟首は垢で真っ黒だったそうだ。臭いのポテンシャルもハイで、たまらないので香を焚いたとのこと。
白粉は鉛が含有され、シラミやダニが寄生し、それはそれは厳しい生活環境のだったらしい。
ただ、当日とすれば、それが当たり前な生活だから果たしてホントに苦痛だったのかどうから知らない。

32: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/07(水) 11:20:23
>>31
まあ俺たちも後世の人間から見たら耐えられない環境に身を置いてそうだな。

33: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/07(水) 13:30:59
いや、案外そこまで汚くなかったって話を聞いたことある。
今より空気がきれいだから雑菌の繁殖が抑えられるってのと、髪や肌は毎日洗う方が臭くなりやすいらしい。
しょっちょう洗わないほうが、身体の自浄作用が高くなるんだってさ。

34: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/08(木) 07:31:40
屋敷の外には腐乱死体が並んでいたのに?

41: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/10(土) 18:15:16
>>34
死体は犬が食うから腐乱死体は並んでないと思う。

インドがまさにその状態で、植物性のゴミは牛が食うし、動物性のゴミは犬が食うから案外街にゴミは少ない。

36: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/08(木) 19:03:32
屋敷に死体が入り込むと、平安貴族の病的な側面が現れて来るわけだが。

43: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/10(土) 20:50:18
内裏でも腕をくわえた犬が儀式の最中に走り回ったと記録にあるからな

44: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/11(日) 00:13:26
タフな時代だな。お姫様なんかもタフなんだろうな。

45: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/11(日) 00:38:23
むしろタフなのは庶民であって王朝貴族は穢れにおののく怖がりな人たち。

47: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/11(日) 22:52:28
鎌倉か室町時代かでも、ある天皇があぼんしたが葬儀の費用が無く、49日あたりまで布団に放置プレイされたことがあったらしい

49: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/12(月) 15:32:56
それは、後土御門天皇(1442-1500、位1465-1500)でしょ。
1467年に応仁の乱が起こるから、最悪なときに在位していた。

50: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/12(月) 15:37:03
確か、花山天皇の皇女(女王)が、盗賊に拉致されて、裸で都大路に放り出されて凍死した上、遺体は犬に食い散らかされるという痛ましい事件が今昔物語集に出ていた。

70: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/17(土) 22:08:53
>>50
それって首謀者は藤原道雅っぽいんでしょ?

59: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/16(金) 09:32:38
「平安貴族」って聞くと優雅さを連想するが、一方で道に死体ゴロゴロ、ホームレスゴロゴロ、都からちょっと離れたら盗賊ゴロゴロとしてる社会でもある。
このギャップがたまらないね。

62: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/16(金) 15:54:13
野糞は仕方ないとして、どうやって尻を清めていたんだろうか?
葉っぱ? 縄? それとも糞がついたまま放置?

63: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/16(金) 16:23:37
>>62
板状のちっさい木じゃね?割り箸サイズの。
昔なんかの本で、昔の人はこういう木の板でふいていたというのを見たことがある。

ただ下痢の時はどうするんだろうな

66: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/16(金) 21:57:42
>>62
「餓鬼草紙」「病草紙」に排便の場面が描かれているお。
Gaki-Zoushi


Diseases_and_deformities


65: 山野野衾 ◆CXSSL1llHI 投稿日:2007/02/16(金) 21:57:14
近代まで、民間では木のへらが使用されていました。
平安京では、平安後期には紙が使用されています。

107: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/23(金) 14:10:28
平安時代の貴族の邸宅はトイレが無く、男も女も木のオマルにしていて、召使かが夜にこっそり捨てにいくと何かで読んだんだが、大きい方は大丈夫でも小なら木のオマルだと漏れないか?
それとも小は別のにしたか、そこらの影でやっていたのかな

108: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/23(金) 22:38:58
下水道とかの発想は無かったのかな

109: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/24(土) 01:40:22
藤原京だったかの模型の写真では、邸宅横の道路の水の流れた溝を邸宅内にも引き入れて、その上に木の板を二本置いてトイレにしているのは見たことがある。
溝には水が流れているから排泄物はそのまま邸宅から外の溝に再び流れるって仕組みだった。

だけどこれって水が少ない時や大雨とかで溝の水位があがった時とか危ないな。

113: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/24(土) 19:34:35
>>109
藤原京→平城京遷都の理由の一つはそれ。
藤原京は都の中央部が大内裏でしかも低地だったから、大雨のとき溢れた糞尿混じりの水が御所へ・・・・

114: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/24(土) 23:17:56
日本一高貴な場所が糞尿まみれか(笑)
想像しただけでも凄いからなー(笑)

124: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/28(水) 20:27:22
平安時代の公家が使用してたオマルなんか現存してたら国宝になるのかな?
どうよ文化庁

125: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/01(木) 11:43:30
>>124
そらなるだろ。
重要な歴史的資料だ。

126: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/01(木) 21:46:03
実際に国宝オマルはあるのかな?

129: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/02(金) 22:20:53
>>126
オマルとして使用されていた壷がいつの間にか別の用途に使われてて、気付かないうちに国宝になってたなんてことはあるかも。

確か、家康に蒔絵の便器が献上されたけど家康が「バカバカしい」といってぶち壊した。
壊さないでとっておいたら今頃「家康の弁当箱」として重要文化財になってたかも。

127: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/01(木) 22:37:03
マジレスして悪いが、国宝っつのは概ね美術的価値、ないしは美術史的価値によって決められると思うんだが、上代以前のものは、確かに美術的に大した価値なくても史料的価値で認定されるんだよね。
美術的国宝と史料的国宝とに分けた方がわかり易いとおもう。

128: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/02(金) 07:37:46
国宝にはならんだろ
重要文化財になら指定されるだろうが

72: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/18(日) 20:11:08
麗しい貴族の姫君も風呂に入ってなかったの?
マジ?

74: 山野野衾 ◆CXSSL1llHI 投稿日:2007/02/18(日) 21:59:04
>>72
物詣前の洗髪ぐらいですかね。病気の際に「茹で」と称して、今日の風呂のように湯船に入れることはありました。
当時風呂といえば蒸し風呂、やや下って打たせ湯ですが。

75: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/18(日) 22:00:57
>>74
温泉にも入らなかったんですか?

76: 山野野衾 ◆CXSSL1llHI 投稿日:2007/02/18(日) 22:20:43
温泉自体、あまり知られていませんね。
当時から有馬の湯は知られており、湯治もありましたが、いちいち行く所でもなし。
院政期の『東山往来』に、温泉とは何故生まれるのかという質問が出ており、あまり知られているものではなかったようです。
なお、返答は「地下の火輪に暖められた水が湧き出しているものであり、塩辛い湯が出ているものは、地獄に通じているもの」というものでした。火輪云々は、仏教的世界観に基づいた説明です。

77: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/18(日) 22:35:22
>>76
つまりそれほど贅沢なものでは無かったということでしょうか。
清少納言か誰かが、玉造、榊原、有馬を挙げてたのでそれなりに当時から湯治は知られてたものかと。

78: 山野野衾 ◆CXSSL1llHI 投稿日:2007/02/18(日) 22:42:12
贅沢というか、行くだけで大変ですよ。当時は。
病関連でよほど思う所でもないと行かないでしょう。
とりわけ女性はそうです。
『枕草子』にも玉造は出て来ますが、本文に混乱がある箇所です。
しかし、少なくとも温泉を指したものではないらしい。

79: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/18(日) 22:45:44
温泉が出るところに住んでいた百姓は温泉に入っていたかも。

82: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/18(日) 23:21:33
日本に温泉が無かったら風呂に入るという習慣も生まれなかっただろうな。

105: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/23(金) 01:18:09
貴族の平均寿命はどれくらいだったんですか?

106: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/23(金) 03:46:01
昔は幼児死亡率が高いのと病気になると死ぬことが多いんで、平均寿命はかなり短くなるけど長命な人は90歳以上生きてるから、何事もなければ現代人と同じくらい生きる

133: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/06(火) 10:48:33
当時のご馳走って何だろうか?
知ってる人いる?

134: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/06(火) 14:34:05
「王朝絵巻」(毎日新聞社 1990)という本の中で貴族の食生活が見開き2ページ写真入りで紹介されている。
とびきり超高級食品は「蘇」(牛乳を煮詰めて固形にしたもの)だったみたい。
推定復元した食事のお膳がカラー写真で紹介されているが、結論を言うと詳しいことはわからないようでつ。

137: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/06(火) 21:07:10
平城京の貴族はそれなりのものを食べていたが、平安貴族はろくなものを食べてないってイメージはあるな。
仏教の影響で肉を食べなくなったってことも有るんだろうけど。

140: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/07(水) 04:49:22
若い奴はこっそり肉を食ってたんじゃないかと思うけどな

147: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/07(水) 22:44:54
>>140
藤原兼家は毎朝に鶏を締めて食ってたぞ。
もっともそれは貴族の間では非常に評判の悪い行為だったが。

ついでに兼家は妻が3人いて、「三目錐」と呼ばれていた。
つまり「三人の女に穴を開ける」という意味。

148: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/07(水) 22:48:52
ちなみのその三人の妻のうちの一人が「かげろう日記」で有名な藤原道綱母だな。

149: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 00:04:20
古典の平安時代の日記なんかをみると、虱や蚤が全盛のようです。
また死者の供養の最中に、口や鼻や下の方から、回虫・真田蟲がうじゃうじゃとか・・・腹中蟲は、その人を操るとか陰陽師では真剣に議論されてましたよ。

当時はお金のかかる火葬は皇族・貴人がほとんどで、京都でも風葬が普通でしたからね。市内でも化野や鳥辺野や「野」がつく地名のところは、よく今でもザクザクでますが、西行法師はその辺に出かけては骨を揃えて返魂術とかしていたらしいです。夏はすごい臭いだったとか。
またいまはデートスポットですが、千年に渉って処刑場であった三条・四条の鴨川の河原には白骨が散乱していたとか・・・
内裏に人の腕を咥えた犬が迷い込んで、宮中行事が中止になった記録もあります。

150: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 08:20:10
土葬にはしなかったんですかね
埋めるだけなら大して金もかからないし、今の感覚なら遺族としては野ざらしは耐えられないですね
伝染病を予防するために、戦闘後の忙しい軍隊ですら埋葬はすると思うんですが

151: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 14:27:50
>>150
多分遺族すらいない境遇の人が多かったと思う。
貴族の娘で若い頃ブイブイいわせてたのも、息子がいないと晩年悲惨な境遇におちいるし。

あの小生意気な清少納言なんかも晩年は惨めだったとか。

153: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 22:01:35
それよか、道長の墓さえどこにあるかわからない
木幡のあたりらしいけど、子孫が現代まで続いてもこの有様

154: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 22:05:40
それは天皇でさえ一時期そのような状況だったから墓に関しては致し方ない。

157: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/09(金) 17:53:23
あれじゃね?道長の墓とかわからなくなったのって

(1)鎌倉時代以降徐々に摂関家の勢威が落ちてきて、管理に手が回らなくなった   
(2)藤原氏自体がいくつかに分裂(近衛や九条とか)して、平安時代含、以前の先祖の管理はおざなりになった
(3)意外にも余り古い先祖のお墓の管理には頓着しなかった

というのが挙げられるんじゃね?

(3)では、平安時代の中頃に天皇陵を調べた人がいたそうで、
「まだ100年ぐらいしか立ってないのに、嵯峨天皇の墓が分からない」
という記録を残している人がいるそうだ。

159: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/10(土) 02:35:40
>>157
平安時代って先祖を祀る習慣が薄かったんじゃないの?
墓を作ってお参りして先祖に感謝という現代の形式は儒教が一般的になってからのやりかたで、平安時代は死者が成仏してしまえばそれで終わりみたいな。

160: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/10(土) 02:47:34
もう一つ言うと当時は通い婚で、息子は妻の実家で育つから、父子の間が疎遠で情が湧かないというのもあるかもね。

195: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/12(月) 22:02:57
芋粥食いてー

196: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/12(月) 22:12:44
俺も芋粥むっちゃ食いたくなったことがあったんだけど、実際食ったら美味しくなかったよ。
子供の頃だから今とは味覚が違うかも知んないけどもう食いたいとは思わん
芋見ただけでおなかいっぱい

197: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/12(月) 22:23:46
>>196
正に説話通りだなw

199: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/13(火) 09:03:59
今昔物語の芋粥の貧乏な五位は基経の時代の人ってことになってるけど、あの時代の五位はまだそれなりに価値があって、貧乏な五位ってのはリアリティに欠けるんじゃないのか?
物語が書かれた時代ならいくらでも居ただろうけど。


200: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/13(火) 09:59:18
説話だから、時代設定等は書かれた時代で良いと思われる。

人形浄瑠璃で、八幡太郎義家が江戸時代の服装とかしてるのと同じ。

202: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/13(火) 10:52:15
時代は道長の頃、芋粥を食わせるのが頼光くらいなら本当にありそうな気がする。

203: 山野野衾 ◆CXSSL1llHI 投稿日:2007/03/13(火) 23:25:03
>貧乏な五位
 
「年来になりて所得たる五位の侍」で、長年勤めた功で前年に叙爵していたということですが、こんな説明からして、成り立てだったのでしょう。
とはいえ、なったばかりでも五位の人物には違いない。
若い頃は一の人に仕えて、後に田舎で「勢徳ノ者ノ聟」となって財産を築いていたが、京都から離れていた利仁が、中央の権門に直接仕えて、五位になったばかりでまだ困窮していた(今後の見込みがある)人物との間にパイプを築こうとしたという解釈もあります。

単なる親切心から出た行動ではなく、「接待」だったという。
芋粥を食えなくなったことに対して、「嘲り合へり」とありますが、陰口であったと思われ、その後一月間も「万ヅ楽キ事無限」という思いをし、牛馬まで得て帰ったという話ですし、ただで出費して返したものかどうか。
(歴史的事実ではないにせよ、当時の行動を反映したと見た場合の話)
湯たんぽ代わりか夜伽役か、寝ている時に女まで来ていますね。

204: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/14(水) 19:50:00
「パイプを築こうとしたという解釈」は非常に説得的ですね。
ただどうしても時代的に五位と困窮が結びつかないんですよね。
食うに困るほどではないけど、五位の下級貴族としての対面を維持するのは相当に苦しい。
つまり相対的な問題で、五位ないし下級貴族という階層の中では貧しい方だったでも考え
れば良いんでしょうか?

205: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/14(水) 22:53:38
中央貴族に対して、地方貴族の中には経営手腕を発揮して成功するような例もあったよね。藤原三代等はよい例。

207: 山野野衾 ◆CXSSL1llHI 投稿日:2007/03/15(木) 19:55:53
>貧しい方だった

京都では山芋の入手が難しかったのかもしれませんね。
越前の丘の上で、周辺の下人に呼びかけてちょうどよい長さ・大きさを指定して集めさせていますが、今のようにスーパーで同じ大きさの、それも本来は山中にあるべきものを手にとる訳にはいかない。
そもそも、部屋住みで仕えているのですから、庭や台所を勝手に占拠して大わらわの状態にも出来なかったでしょうし。
好き勝手の出来る空間がなかったのが問題だったのかもしれません。
同じ五位でも、自邸に住んでいたり、国司として赴任しているような人物であれば、叶えられた筈です。


>藤原三代
>地方貴族

五位の藤原経清の後裔ですが、母方が俘囚の安倍氏の出身で、藤原氏も同類扱いされており、貴種の後裔とは見做されなかったようです。
後白河院への批判もあるでしょうが、秀衡が鎮守府将軍に就任するという時には、『玉葉』があんな俘囚を任じられるとはと、メタメタに書いている。
また、12世紀前半までの軍事貴族は、都にも屋敷地などの一定の基盤を持っているのが普通でしたが、それにも当て嵌まりません。

『今昔物語集』の作者というか、編者がよく分かりませんね。
北嶺あたりの僧侶で、前身は藤原三家か大江か菅原出身の文人貴族でしょうか。
そうだとしても、俗人だった頃の地位はやはり五位くらいになりますか。

220: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/25(日) 13:18:40
ホントに平安貴族には入浴の習慣が無かったの?
栄花物語で、娘の危篤を知らされた道長は「入浴中」だったのでは?

源氏物語でも、確か「箒木」で女官が入浴に行くシーンがあったような。
(その間に源氏が女をゲット)

221: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/25(日) 13:48:52
師輔が子孫に残した書き置きによると、入浴は日を選んで5日に1回とある。
ただし1日に入浴すると短命、8日は長命、18日に入ると盗賊に会うとか、寅辰午戌は入試手はだめとかいろいろあって、さあ実際は何日入浴できたでしょう?
以上山口博著「王朝貴族物語」講談社現代新書より。

227: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/26(月) 21:41:25
>>220
生活習慣としての入浴はまだこの頃ありませんでした。

一種の娯楽(海水浴の類)・治療(湯治の類)でした。

当時の家屋は木造で耐火性に乏しく、火を寝殿で日常的に使うことは非常に危険でした。夜も蝋燭や油で火で明り取りに使うのは贅沢な高級貴族だけの特権でした。
ほとんどは、まっくらの中で暮らしていたのです。

231: 日本@名無史さん 投稿日:2007/04/17(火) 01:56:43
>>227
>生活習慣としての入浴はまだこの頃ありませんでした。

>>221に「入浴は日を選んで5日に1回」とあるのは何?
少なくとも貴族層には、あったと言うことにはならないの?

253: 日本@名無史さん 投稿日:2007/07/03(火) 09:13:36
>>231
平安時代には、現在のような、
「湯船につかる」という入浴方法がなかったということ。
当時は蒸し風呂で、板の合間から出てくる湯気で汗をかき、その後に汗をふき取とっていた。
現在のように、湯船にお湯を張り、体を浸すようになるのは江戸時代から。
もっとも、武家や庶民に広まったこの入浴方法も、公家には広まらず、公家は江戸時代を通して蒸し風呂だった。




229: 山野野衾 ◆CXSSL1llHI 投稿日:2007/03/28(水) 00:53:20

物詣の際には最低でも洗髪は行っていましたが、一番衛生的だったのは寺院でしょうね。温室(うんしつ)と呼ばれるサウナ風呂があり、経典にも僧侶に温室を施す功徳が記されているため、施す人が多かった。
師輔の遺誡は、日本思想大系で読めますが、実資や宗忠は律儀に守っていたようです。他も大きな逸脱は無かった筈ですが。
実資といえば、『小右記』に上述の牛乳の記事があります。

228: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/27(火) 00:56:02
さすがに平安時代ともなると、庶民も床がある家に住んでたの?

231: 日本@名無史さん 投稿日:2007/04/17(火) 01:56:43
>>228
>庶民も床がある家に住んでたの?

おそらく経済状態によって、
1.全面床張り、2.土座住居で寝床部分のみが床張り、3.全面土座、と分かれるでしょう。
明治中期でも、新潟のある地方では3分の1が、土座住居という記録が残っています。

229: 山野野衾 ◆CXSSL1llHI 投稿日:2007/03/28(水) 00:53:20
>228
地域によりますが、京都なら板床付きの筈。
空き屋敷や荒れた門に勝手に住んでいた人や、乞食や病者のようにまともな住居のない人もいましたが。





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