1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/09(金) 21:21:59 ID:CodGqyiB0
どぞ!語ってちょ!








3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/09(金) 22:25:02 ID:HhHRD/n70
最後は植木職人って本当の話なのか

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/10(土) 03:58:45 ID:BjNXROzu0
>>3
たしか映画ラストエンペラーと火龍にそういうシーンあったよ。

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/10(土) 11:19:13 ID:OLRv8shV0
植木職人というよりは国営の公園だか植物園だかで管理人してたって感じだったが。

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/10(土) 03:58:45 ID:BjNXROzu0
最期に食べたのチキンラーメンだってね。

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/10(土) 12:49:41 ID:LIOqc8GF0
予備校の日本史の先生の親戚が愛新覚羅家の人と心中したと言う話を聞かされた。

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/10(土) 14:03:00 ID:BjNXROzu0
>>9
溥傑の娘でえいせいさんだと思います。

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/17(土) 22:56:53 ID:paeea8/q0
愛新覚羅一族の名君輩出率は異常。
まあそうでもないと圧倒的多数の漢民族の上に王朝なんて維持できないだろうが。

図書館に『康熙王朝』のビデオ全巻入ってるんで頑張って見ている所。

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/31(土) 02:34:02 ID:scNx+x0I0
名君排出率が高いのは長男相続じゃないっていうのが大きいんじゃないかな。
皇太子を立てないことで切磋琢磨してみんな頑張るだろうし。
清朝没落は咸豊帝が幼い男子一人しか残さないで死んじゃって、その母西太后の聴政するようになってからだな。
もちろん西洋の侵略とかいろいろあるけど。

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 09:34:44 ID:3WYOWWal0
>>22
>清朝没落は咸豊帝が幼い男子一人しか残さないで死んじゃって、その母西太后の聴政するようになってからだな。
>もちろん西洋の侵略とかいろいろあるけど。
 
それはどうだろ?
清朝の疲弊は、西太后前から進んでいたと思うが。

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 10:03:04 ID:00FJSOum0
アヘン戦争あたりからそろそろ始まってたと思う。
アヘン弛禁論なんてのが重臣から出てくるあたりもうダメだろと。
太平天国も正規軍では抑えられなかったし。

24: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/03(火) 04:41:04 ID:Q1dQh90D0
この前横浜高島屋の故宮博物院展行ってきた。
西太后と溥儀の縁のものがいろいろ展示してあった。

25: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/05(木) 08:17:42 ID:eUUrqeQhO
故宮展って言っても台湾からの出展じゃないの?
中国側には大した物はない。
建物は中国、中身は台湾なのだから。

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 05:50:22 ID:wdUTRFSn0
>>25
いや、北京故宮博物院と明記されてたぞ。
中国側には大したものはないたって、皇帝が使っていた品々が結構あったぞ。
蒋介石が持ち逃げしたのは歴代皇帝のコレクションとかで、溥儀が使ってた中古自転車とかは持っていってもしょうがないしな。

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 07:55:02 ID:00FJSOum0
北京にも結構文化財が残ってるよ、所謂ハイクラスの美術品は少ないけど。
皇帝や后達が実際に使用してた日常品、家具ってのもそれなりに興味深いよ。
あと各国から送られたからくり時計のコレクションも面白い。
上手く時間を合わせて行くと、それらが実際に動く所を見せてもらえる。

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 17:27:02 ID:WC9LNQ7s0
あの火事が無かったら北京にももっと色々あったのだろうか?

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 15:12:20 ID:Uyb8NTRZ0
溥儀は何度妻帯しようと完璧な男色家だったが、清朝歴代の皇帝や王族・親王家・貴族らは、どの程度「男色好き」だったのでしょうか?
戦前の支那関聯書を読むと、日本よりも役者買いが流行っていたようなのですが。

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 23:02:19 ID:Lx7l30gY0
あっちの人は子孫を絶やさない事に重きを置くから、ガチで男色好きでも結婚して子供は作ったと思う。

清朝の「紅楼夢」なんかだとわりと普通稚児だとか陰間とかそういうのが出てくるし、女好きの不良息子も女性マンセーの主人公も、そっちの方も好きみたいなんで、「色好み」=どっちもおっけーな感じな気がする。
むしろ未婚の男女は話どころか顔もろくに見られないような状態だったから、まあちょっと顔のいい、なよっぽい男にはそれなりの相手が寄ってきたみたい。

182: 名無しさん@お腹いっぱい。 2024/07/01(月) 20:59:34.43 ID:PcFPhz910
男色は日本の戦国時代とかも多かったけど、権力者は跡継ぎを作ることも大切な義務で仕事だからね。

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/13(金) 12:29:03 ID:drk1fNbF0
なれば歴代皇帝では誰が一番の男色好きでありましたかの?
もちろん溥儀は除いて

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/14(土) 07:39:50 ID:/REeL0WW0
乾隆帝と和珅はできていたのだろうか。
やつはただの寵臣にしては可愛がられすぎだからな。

和珅は乾隆帝の初恋の人の生まれ変わりとかいう説話がある。
乾隆帝が少年時代、父の妃のひとりに思いを寄せたが、それに気づいた皇太后により妃は死を賜った。
自分のせいで初恋の人を死なせてしまったと後悔した乾隆帝であったが、十数年後、側近の青年の中に妃に似ている者を発見した。
しかも妃と同じ位置にあざがある。それが和珅だった。
乾隆帝は和珅を初恋の人の生まれ変わりと信じ、彼の言うことは何でも聞き、欲しがるものは何でも与えたという。
ヘシェン(和珅、乾隆15年5月28日(1750年7月1日) - 嘉慶4年1月18日(1799年2月22日))は清朝の政治家。字は致斎(ちさい)。乾隆帝の母方である満洲正紅旗のニオフル氏(鈕祜禄氏)出身。

乾隆帝、嘉慶帝の二帝に仕えたが、莫大な収賄によって中国史上最大の富豪となり、正一品文華殿大学士・軍機大臣として専横の限りを尽くした。太上皇帝となっていた乾隆が崩御すると、親政を行おうとする嘉慶帝によって賜死となった。


37: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/14(土) 15:10:05 ID:oziVG6Xd0
和珅が擁正帝の妃の生まれ変わりだという伝承は、『清室遺聞』にも書かれて居ります。
「哀帝と董賢の如し」とある故、二人は男色関係があった模様。
また、和珅自身も俳優の某を愛人にしています。

39: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/15(日) 03:08:26 ID:MDupf4l80
京劇役者はパトロンの貴族と大抵男色関係にある。
映画『さらばわが愛覇王別姫』でも主人公がパトロンにそうゆう関係を迫られてた。
男色もたしなみの一つと考えられていた。

45: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/15(日) 20:38:28 ID:VbbU/nYM0
和珅が擁正帝の妃の生まれ変わりと信じていた場合、傍から観れば男色だろうが、乾隆帝的にはあくまで初恋の人(女)のことが好きなので、男色家とは言い切れないような気が

47: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/18(水) 01:18:36 ID:JYjRiNQH0
和珅といえば… 乾隆帝の初恋の人の生まれ変わりという伝承があるくらいだから女性的な容姿の美形だと思い込んでいたのに、中国でやっていたドラマでは和珅役を太ったおっさんが演じていてがっかりした覚えが…

乾隆帝は男色家だったのだろうか
十全老人なら、きっと両刀だったと信じている

48: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/22(日) 13:11:01 ID:PUJBkvJ00
実は和坤は女だった説を提唱

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/22(日) 13:14:31 ID:Pl34Nfg60
女ならわざわざ宦官になんぞならんでも、堂々と寵愛を受けて皇子でも産めば、よっぽど権力を握れると思う

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/23(月) 00:01:15 ID:Qc3hdqVm0
和珅は宦官じゃない。
満洲族の側近青年だったところを乾隆帝に見初められただけ。

52: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/24(火) 04:11:45 ID:zwndiJ9O0
和珅の息子は乾隆帝の公主を嫁にもらっているね。
もとは貧乏旗人だったが、乾隆帝に気に入られてからは軍機大臣にまで登りつめた。
しかし、乾隆帝の死後、嘉慶帝に嫌われていたため自殺に追い込まれ家産没収。
汚職により蓄えられていた財産は莫大なものであったという。

ぐぐったら宦官と勘違いしている人が結構いたけど、旗人は宦官になったりしない。

56: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/20(日) 02:54:11 ID:pjwA5iey0
>>52
和珅は確かに宦官ではないが、旗人なのに宦官となった奴もいる。
清末には貧乏旗人が自宮するということがあり、道光帝だか咸豊帝だかが、旗人の自宮を禁止する詔を出している。

57: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/08(日) 07:51:46 ID:WhgwOPvY0
旗人って国から土地を支給されていたけど、手放して困窮してしまう者が多かったあたり、やっぱり商売とか下手だったんだろうな。

58: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/11(水) 19:51:14 ID:KGce+vvT0
旗人はそもそも商売を禁止されていた。
旗人は国家の要、八旗軍隊の兵士となることが期待されたから。
しかし、清の中期以降、増えすぎた旗人を養うだけの兵士ポストを国が用意できなくなった。
旗人はみんな給金を支給されているのではなく、兵士になれた者にだけ給料を支給する。
人口は増加したが、それに見合うポストはなく、当然職にあぶれた者が出てくる。
兵士は選抜制で弓や騎馬の技術を試験され、パスした者は晴れて兵士になれて給料支給されるが、これは倍率が高い難関だ。
一般旗人は貴族のように優雅な生活をしていたわけではない。
武術ができて兵士になるか、勉強ができて科挙に合格して文官になるかして就職できればよいが、就職できず嫁も取れずに家族のやっかいになっている未婚男性も多かった。
(まるで現代のようだな)
就職しやすかったのは皇帝直属の上三旗の満洲などの旗人で、下五旗や漢軍では就職率が低かった。
あぶれた者は生活が困窮し、禁止されていても旗地を売ったり質入したり、商売に手をだしたり犯罪に走るものもいたようだ。

60: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/13(金) 22:26:00 ID:+ib6r3Xq0
満洲八旗は三藩の乱の時にはすでに弱体化が始まっていたらしい
嘉慶帝の頃に四川で起きた白蓮教の乱の時には、まったく役に立たないので要らないとまでいわれた

62: 黄帝 2007/07/15(日) 15:15:49 ID:dsSCprSt0
清朝は嘉慶帝のころから衰退が始まったのではないかと思う

68: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/08/04(土) 21:10:00 ID:edDD0dJk0
現在愛新覚羅一族の庶流・傍流に当たる家の人々の中には芸術を生業としている人が多いとのこと

72: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/03(月) 23:57:56 ID:xuEecXAr0
>>68
清朝の皇族は、多才な人が多かったけど、その血は受け継がれているんだね

69: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/08/04(土) 22:13:15 ID:OtbnPR5w0
惇親王家は有名な溥佐などを排出して画家が多い。
世紀風雪の著者恒懿も画家で惇親王家から養子に出た端郡王家出身。

醇親王家は溥傑の書と溥儀の妹たちの画が有名。

恭親王家は毓嶦の書と溥儒の画が有名。

粛親王家は川島芳子の甥の連経が画壇で活躍している。

栄親王家は啓孮、ウルヒチュン父娘が出て満洲語、女真語学者の家として有名。

王家の書画や家学の伝統は現在も受け継がれているようです。

110: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/10(日) 17:54:25 ID:i8sWZhCN0
四品王家?愛新覚羅 啓功 清雅な書風であった。

112: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/18(月) 11:45:59 ID:B7ZtN3PAO
>>110
宣統帝の弟が書家で北京の故宮に常駐してるね。
この一族は書が得意な人が多いのかな?

116: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/11/06(土) 08:25:11 ID:mJQOtbNPO
>>112
実弟の溥傑は既に逝去。
今居るのは溥儀と同字輩(同世代)の一族。
だけど何故か愛親覚羅一族は芸術にやたら巧みな人を輩出しやすい。

115: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/11/06(土) 00:02:03 ID:3aaNKOP30
確か一族って今でも北京に住んでいたような気がする
頭首が習字の先生やっていたような

123: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/05/28(土) 17:27:55.42 ID:CbhBAksuO
135 名前:
「知ってるつもり」で聞いたエピソードなんだけど 、老後、植木職人になった溥儀さんが住んでた所は、大雨が降るとマンホールの蓋を外しとくって習慣があるんだって。
その日は大雨で溥儀さんの家の前にもマンホールがあって、仕事帰りの奥さんが、誤って落ちるんじゃないかと心配で、溥儀さんは奥さんが帰って来るまで、マンホールの前で傘さしてず~っと待ってた・・・って話を聞いたんだけどマジで泣けた。

124: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/06/13(月) 19:54:26.25 ID:Y+EYW5sRO
>>123
冷たい人かと思ってた。
優しかったんだ、本当は。

132: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/10(日) 09:42:33.90 ID:PBjclJCLO
>>124
ただし後妻の李淑賢は所謂気性の激しい猛妻な所があって、溥儀はすっかりビビって極端な恐妻家になってしまったとも言われており
そうしないと淑賢にドヤされはしないかと恐れる余り待っていた可能性もアリ。

128: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/06/17(金) 21:13:20.27 ID:VGOdUXYR0
立命館の衣笠キャンパスは溥儀の寄付だよ。

145: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/07/13(金) 14:12:29.71 ID:UEngoxGdO
フギって関東大震災のときに義援金代わりに宮廷内の宝石ありったけ送ったんだってね

148: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/07/18(水) 20:38:43.78 ID:xmmEc8PA0
愛新覚羅家の現当主、というか溥儀の死後の愛新覚羅家の当主って誰?
溥儀に一番血縁が近いのは弟の溥任だけど。

149: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/07/19(木) 07:49:25.31 ID:RRy9XqRJO
本来は宗室での祭祀継承者が当主なんだろうが、今の中共では単に跡取りになるのだろう。
でもご存知の通り溥儀は児無しだったし、弟の溥傑も男子はいなかった。基本女子は跡取りと考えないから日本にいる娘さんは関係無い。
李氏朝鮮の宗室は宗室会の中で継承者を決定したし、孔子宗室はちゃんと前当主の孫が継承した。
これは継承ルールの決定機関が存在し、ルールをきちんと運用を行っているからスムーズに出来てた訳で、これが確立していなかった漢の張魯の末裔の張天師家は、先代没後三年経て今尚対立候補が乱立している。
どうも愛親覚羅家は家族会レベルの集まりはあるらしいが、機関という程ではないらしい。
多分ナアナアな感じで長老の溥任辺りが担ってるんじゃないかな。

150: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/08/26(日) 04:34:21.64 ID:JBFFfo7s0
漢・唐・宋・明・清の皇族はなんとか子孫が残っているね
秦・晋・隋・元の血統は断絶してしまったが

159: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/09/20(土) 09:50:42.73 ID:Ao78zR4f0
保慶帝こと愛新覚羅溥儁の直系の子孫は今アメリカに住んでいるとテレビで放送してたが、本物かねえ?

160: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/10/17(金) 19:39:43.49 ID:RtdpG9DyO
>>159
単なる王家の後裔は結構散っていても残るにゃ残ってるけど、溥儁はどうかなあ。
確かに溥儁はガキの頃から女に手を出す手癖の悪い人だったが、若くして亡くなってるってのが。

引用元: ・【ラストエンペラー】愛新覚羅【華麗なる一族】