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1: 日本@名無史さん 2007/09/08(土) 18:24:17
平 清盛の五男にして、勇猛心あふれる平家の大将の一人だったと伝えられる平 重衡について語ろう。








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平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。

平氏政権の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。治承・寿永の乱(源平合戦)においては墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり、鎌倉へ護送された。

平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。




2: 日本@名無史さん 2007/09/08(土) 18:34:54
東大寺焼き討ちを指揮したので鎌倉からの送還後、坊主にリンチ処刑された。

4: 日本@名無史さん 2007/09/08(土) 18:57:29
>>2
『平家物語』によれば、皮肉にも処刑のために鎌倉から護送される道中で、生別した妻の輔子(壇ノ浦で入水するも救出された)と、再会したそうだが…

3: 日本@名無史さん 2007/09/08(土) 18:51:58
安徳帝を守って戦ったので大逆罪にも当たらない。
死刑にされる理由は無かった。

9: 日本@名無史さん 2007/09/08(土) 22:29:41
当時、寺院勢力を敵に廻すことは マスコミ+政治団体+マフィアを敵に廻すようなもの。

11: 山野野衾 ◆CXSSL1llHI 2007/09/09(日) 00:54:07
焼き討ちというか、意図せぬ延焼だったようですが。
意図的に鎮護国家の大寺院(の大仏)に火をかけるようなことはしないでしょう。

98: 日本@名無史さん 2009/01/24(土) 21:15:59
南都攻めは夜の戦いだから、「照明弾」のつもりで奈良に火を放ったんだろ?
東大寺殲滅の意思はなかった。
しかし烈風時、火を放てばどうなるかわからんのか。
せめて昼間の戦いだったらねぇ。

もっとも、天平建築の東大寺大仏殿は当時の技術では相当無理をした建築だったらしいから、南都攻めが無くとも倒壊しただろうが。

12: 日本@名無史さん 2007/09/09(日) 02:11:51
平三位中将は解官されぬまま処刑されたのか?

13: 日本@名無史さん 2007/09/09(日) 17:54:44
平氏一門の都落ちからほどなく、寿永2(1183)年の8月6日に他の公達と同時に解官されてます

15: 日本@名無史さん 2007/09/10(月) 11:06:22
平家は一族の人材は申し分ないのだが、郎党の層が薄い。
動員兵力の大小が極端。富士川や倶利伽羅峠で十万人単位で戦死しているはずはないのに。

18: 日本@名無史さん 2007/09/10(月) 11:55:18
>>15
国衙を通して動員された兵が多かったんだよね。

26: 日本@名無史さん 2007/09/11(火) 10:28:52
>>15
平家の場合は組織化された家臣団というより、個人に関係する地域の豪族が付くという感じだな。
九州に落ちたときに豊後大神氏の棟梁・緒方惟栄に協力を仰ごうと関係の深かった重盛の息子二人を遣わしたけど、緒方惟栄はさらりと断っているんだよね。
肝心の重盛が故人だというのが、大きかったようだ。

16: 日本@名無史さん 2007/09/10(月) 11:14:24
屋島や壇ノ浦での平家落人ではなく、それ以前の戦線離脱者はその後どうなったのか?
まさか鎌倉殿御家人に納まった輩もいたのでは?

20: 日本@名無史さん 2007/09/10(月) 18:40:08
>>16
鎌倉御家人ではないが 後の北条得宗家御内人に平頼綱らがいる。
子孫なのか真偽のほどは定かではないが・・・

17: 日本@名無史さん 2007/09/10(月) 11:37:41
頼盛(池ノ大納言)系や時忠(平大納言)系は都落ちしなかったはず

24: 日本@名無史さん 2007/09/10(月) 23:03:25
時忠は都落ちして捕らえられ、能登に流されてるはずだぞ。
子孫は能登で名家として存続し、二つに分れたらしいが今でも当主がいる。
数ある平家落人伝説の中では、比較的確度の高いほう。

29: 日本@名無史さん 2007/09/11(火) 21:40:22
>>24
時忠の栄華なんてほんの一瞬。
桓武帝の時代から時忠までの平氏の歴史と比べてさえ、時忠が配流されてから現在までの時の方がはるかに長い。
そう考えると、いまだに「時忠の子孫」をアイデンティティーとする一族が存在するってかなり不思議だよね。

27: 日本@名無史さん 2007/09/11(火) 11:54:26
鎌倉殿は本気で平家落人狩りをやったとは思えない。
守護・地頭の設置の理由は義経探索だし、平家シンパの豪族は西国(特に九州)に存続している。
大友・島津の東国下り衆も元寇までは現地に根付いていない。

31: 日本@名無史さん 2007/09/12(水) 00:59:12
重衡は知力と武力のバランスの取れた武将だったと思う。
ただ運がなかったのは惜しい。
南都鎮圧に禍根を残し、一の谷で生け捕られたのが運の尽きだった。
以仁王の挙兵を鎮圧したが、八条院を追求出来なかったことに彼の詰めの甘さがある。
早死にした兄重盛のように徹底していれば・・・
詰めの甘さでその手から運がこぼれ落ちる。

38: 日本@名無史さん 2007/09/16(日) 01:13:57
宗盛と重衡は同腹の兄弟と思えぬキャラクターだ。

39: 日本@名無史さん 2007/09/19(水) 18:08:43
木津川の処刑は数千人の群集の前での公開処刑であったという。
坊主には武士の情けの欠片も無い。
復讐心のみでのデモンストレーションは仏のしもべの所業とは思えない。

41: 日本@名無史さん 2007/09/20(木) 00:55:13
平家バッシングには南都宗教勢力の仕業が見て取れる。

42: 日本@名無史さん 2007/09/20(木) 00:58:11
この国では仏教に敵対するほど厄介なことは無い。

50: 日本@名無史さん 2007/09/24(月) 18:42:08
宗盛ではなく、この人か知盛が当主になっていれば面白かったんだろうけどね。

51: 日本@名無史さん 2007/09/24(月) 20:34:11
>>50
その場合も外された宗盛派の内部撹乱により衰退は必至。

61: 尾州男児 ◆7VELMWok.E 2008/04/09(水) 01:11:56
平 重衡公を主人公に据えた、平家物語をNHK大河ドラマ化しても良いと思う。
特に妻の輔子との再開を果たす場面など映像作品化する価値はあると思うが

63: 日本@名無史さん 2008/04/18(金) 23:28:26
重衡には子供いなかったの?
相当輔子に惚れてたんだね

69: 日本@名無史さん 2008/04/20(日) 19:29:14
>>63
壇ノ浦後の「平孫狩り」で重衡の遺児が処刑されている
(ただし名前は不明)。
ソースは角田文衛先生『平家後抄』。

71: 日本@名無史さん 2008/04/21(月) 20:02:51
>>69 
重衡にも愛妾がいたわけですね

84: 日本@名無史さん 2008/10/03(金) 07:12:04
>>71
恩賞目当てで、親が否定しても平家の子とでっちあげて殺された子も多かったらしいしあまりあてにならないかも

78: 日本@名無史さん 2008/04/29(火) 22:13:57
>>63
千住前との恋愛悲話がある以上、妻一筋というわけではなかったんじゃ?
この時代一夫多妻が「当たり前」だし。
ただ平家物語を信じれば、妻をこよなく愛していたとは思うけど。


千手の前

千手の前(せんじゅのまえ、永万元年(1165年) - 文治4年4月25日(1188年5月23日))は平安時代末期の女性。千手は源頼朝の官女となり、後に北条政子付きの女房となった。温和な性格の女性だった。

寿永3年(1184年)3月27日、一ノ谷の戦いで捕虜になった平重衡が伊豆国府に到着した。
4月20日、沐浴を許され、夜になると頼朝のはからいで藤原邦通、工藤祐経(宗茂の従兄弟)そして官女の千手が遣わされ、徒然を慰めるために宴が催された。夜が更けて、千手たちが帰ろうとすると、重衡はこれを引き留めて盃を進めさせ、朗詠し、漢楚の故事をひいて「燭が暗くなるのは虞美人(項羽の妻)の涙、夜が更けるのは四面楚歌の声さ」と言った。

翌日、邦道は頼朝に宴の様子を「芸能、言動ともにとても優れた方でした」と報告した。頼朝は世間体を憚って宴に同席しなかったのを悔いた。頼朝は千手に夜具の着物を持たせて重衡のもとへ遣いさせ、祐経に「田舎の女もよいものですよ」と伝えさせた。こうして、千手は虜囚の重衡に仕えることになった。

重衡と千手との生活は長くは続かず、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後の元暦2年(1185年)6月9日、重衡は南都大衆の強い要求により、引き渡されることになり鎌倉を去った。同月23日、重衡は木津川にて斬首された。

その3年後の文治4年(1188年)4月22日、政子の女房として仕えていた千手は失神し、しばらくして蘇生するが、3日後の25日にわずか24歳で死去した。鎌倉の人々は千手が亡き重衡を朝夕恋慕し、その嘆きが積み重なって病になったのだろうと噂した(『吾妻鏡』)。


83: 日本@名無史さん 2008/09/20(土) 20:43:35
千手の前ってガチで重衝のこと、好きだったんじゃないの?

85: 日本@名無史さん 2008/10/04(土) 20:00:50
>>83 
イケメン貴公子で明るい性格なんやから坂東の女もそら惚れるわ


87: 日本@名無史さん 2008/10/27(月) 04:23:22
下世話な話だけど、平家物語の中の千住前のくだりは結局重衝と性的な関係はあったの? 
なんとなくそういう関係を匂わせてはいるけどはっきりとは書かれてないよね。 
新平家物語だと完全にそういう関係があった、となっているけど。 

実際のところどう解釈すべきなんだろう?

97: 日本@名無史さん 2009/01/24(土) 21:06:41
>>87 
一応頼朝サイドとしては「そういうつもり」で千手前を傍に侍らせていたんだろうし、当時の貴人の慰め方としてはそういう関係でもおかしくはないと思うけど。 

重衡と関係があった女は、正室の輔子と、千手前、あとは中将の君、中納言の君、ととりあえず4人ほど確認は出来るね。 

100: 日本@名無史さん 2009/01/24(土) 21:53:58
>>97 
平家物語で有名な祇王と祇女が史実上確認できないように平家物語には架空の女性も含まれているので。とりあえず正室の輔子は確実だけど。 
重衡には子がなかったし。
 

72: 日本@名無史さん 2008/04/21(月) 21:25:12
男子の名前が伝わってないのが惜しいね。まあ元服はしてなかったんだろうけど。

74: 日本@名無史さん 2008/04/22(火) 15:49:16
維盛の長男は幼名六代だけど後に高清と名乗ったね。
長女もいたと思ったけどどうなったのかね?

76: 日本@名無史さん 2008/04/23(水) 17:43:18
>>74 
維盛の娘夜叉御前(平家物語の一部の伝本による)は、父維盛没、兄六代出家後、母が権大納言藤原経房と再婚したことにより母に伴われる。

夜叉御前は、義父経房の外孫に当たる権大納言藤原実宣と結婚。
しかし、夫実宣は、実父を失っている夜叉御前を離縁し、北条時政の娘と再婚した。
一方、最初の実宣と別れた夜叉御前は、建永元年(1206)、蔵人頭皇后宮亮平親国(平時子の甥)と再婚。
しかし、2度目の夫親国とはこの2年後に死別する。
それ以降の消息は明らかではない。

77: 日本@名無史さん 2008/04/25(金) 21:19:55
>>76 
なんか薄幸だね
妙覚も頼朝の死と前後して殺されたし

80: 日本@名無史さん 2008/06/06(金) 19:27:08
重衡って女にもてもてだったんだろ?
嫌いだ、こんな奴

81: 日本@名無史さん 2008/06/18(水) 19:58:30
愛嬌があるというかな
よく冗談を言って女官達を笑わせてたり

そういう奴は今も昔もモテるわけだ

86: 日本@名無史さん 2008/10/04(土) 22:19:56
平家物語の中の人たちってみんな魅力的だよね。
平氏にとっては敵である源氏もそれなりに魅力的に描かれているし。
私は重衝も好きだけど維盛も好きだな。

88: 日本@名無史さん 2008/11/08(土) 19:49:32
重盛、宗盛は重衝の引き立て役だな

91: 日本@名無史さん 2008/12/08(月) 18:07:25
順当なら平家の後継者は重盛→維盛のラインが妥当だっただろうけど結局それが宗盛に移ってしまったのは、母親の存在と同腹の兄弟の多さという一門内のパワーバランスが働いたからでは?
義仲や頼朝が挙兵した時に、討伐の大将が維盛という人事にしても一門の嫡男に対する扱いとしては相応しくないように思うし
イジメといっては言い過ぎだけど、年齢経験からいってももっと他に適任者がいたような気がする。


92: 日本@名無史さん 2008/12/08(月) 18:09:20
まぁしかし、そこで大勝利でもおさめていれば、維盛も一気に立場を逆転させる好機でもあったわけだよね。
ピンチをチャンスにかえて立身出世した秀吉のように。
厳しいけど。

93: 日本@名無史さん 2008/12/15(月) 13:22:19
そう言えば、富士川の戦いで維盛は兵士を落ち着かせようとしたけど兵士が言うこと聞かなくて逃げ出して総崩れになったとか言うのもあるよね?
まぁ、説は複数あるみたいだけど。
なんかそう言うの読んでたら維盛って本当にツイてなかったんだなぁ・・・と思う。

96: 日本@名無史さん 2009/01/22(木) 20:38:15
建礼門院右京大夫集読むと人あたりも良く、右京大夫ら女性たちとも親しかったことが分かるな
そんな重衡がどうして、乳母子の後藤兵衛盛長に裏切られてしまったのか
人気者への嫉妬とかあったのだろうか…




重衡主従の馬は大変な駿馬だったので、敵の追撃を振り切り逃げ延びていったが、梶原源太景季(かじわらげんだ かげすえ)の遠矢が重衡の馬「童子鹿毛(どうじかげ)」を射る。

後藤兵衛盛長は、主人の馬が射られた以上、自分の馬を進上させられるだろうと考え、重衡を見捨てて逃亡する。

残された重衡は、みぎわに降り、自害しようとするが、そこへ敵の庄の四郎高家が走ってきて、自害を踏みとどまらせると、自分の馬に重衡を乗せ、味方の陣へ連れ帰った。

平家物語 百四十 重衡生捕(しげひらいけどり)

102: 日本@名無史さん 2009/01/25(日) 19:18:04
>>96
重衡個人との関係がどうこうってよりも、その乳母子本人の問題という気がする。
人間土壇場になると、本性が見えるというけど、まさに盛長もその典型ともいうべき人間で、土壇場の時に自分の命が惜しくなっただけじゃないのかな。
重衡個人への感情とかそういう問題じゃなく、自分の命が大切で逃げ出したんじゃないかと思う。

引用元: ・平 重衡



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