1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/24(火) 01:58:33 ID:MrQnEw320
中国史上屈指の乱世五代十国時代。
栄華を誇った大唐帝国が崩壊し、秩序が失われた中原で群雄が覇を競い、異民族が侵入した戦乱の時代。
この激動の時代を駆け抜けた英雄たちを語れ。
栄華を誇った大唐帝国が崩壊し、秩序が失われた中原で群雄が覇を競い、異民族が侵入した戦乱の時代。
この激動の時代を駆け抜けた英雄たちを語れ。
12: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/24(火) 22:25:41 ID:1mQzRoWo0
五代
後梁(907年 - 923年)
建国者は朱全忠(朱温、朱晃)
後唐(923年 - 936年)
建国者は李存勗だが、事実上の建国者は父親の李克用。突厥の沙陀部族出身。
後晋(936年 - 946年)
建国者は石敬瑭。
後漢(946年 - 950年)
建国者は劉知遠。
後周(951年 - 960年)
建国者郭威。
十国
呉(902年 - 937年)
南唐(937年 - 975年)
呉越(907年 - 978年)
閩(909年 - 945年)
荊南(907年 - 963年)
楚(907年 - 951年)
南漢(909年 - 971年)
前蜀(903年 - 925年)
後蜀(934年 - 965年)
北漢(951年 - 979年)
他に河北で燕王を称した劉仁恭、陝西で岐王を称した李茂貞など
後梁(907年 - 923年)
建国者は朱全忠(朱温、朱晃)
後唐(923年 - 936年)
建国者は李存勗だが、事実上の建国者は父親の李克用。突厥の沙陀部族出身。
後晋(936年 - 946年)
建国者は石敬瑭。
後漢(946年 - 950年)
建国者は劉知遠。
後周(951年 - 960年)
建国者郭威。
十国
呉(902年 - 937年)
南唐(937年 - 975年)
呉越(907年 - 978年)
閩(909年 - 945年)
荊南(907年 - 963年)
楚(907年 - 951年)
南漢(909年 - 971年)
前蜀(903年 - 925年)
後蜀(934年 - 965年)
北漢(951年 - 979年)
他に河北で燕王を称した劉仁恭、陝西で岐王を称した李茂貞など
13: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/24(火) 22:26:15 ID:1mQzRoWo0
前蜀(903年 - 925年)
黄巣の乱鎮圧に功績があり、唐から蜀王に封じられていた王建が、唐が滅ぼされると四川で自立して皇帝を称する。925年に後唐に攻め滅ぼされる。
後蜀(934年 - 965年)
前蜀を滅ぼした後唐より四川に派遣された孟知祥が叛乱を起こして自立し、後唐蜀王に封じられた後、934年に皇帝を称して後唐から離れる。965年に宋に攻め滅ぼされる。
呉(902年 - 937年)
開祖楊行密は群盗出身だが、唐に帰順して節度使にまで伸し上がり、江南に勢力を築く。902年に唐より呉王に封じられる。
自立はしても唐の臣下の立場を貫き、後梁と争った。楊行密死後は、部下の徐温に実権を握られ、徐温の死後跡を継いだ徐知誥に禅譲する形で滅亡。
南唐(937年 - 975年)
呉の実権を握った徐温の死後、その養子徐知誥が跡を継ぎ、呉から禅譲される形で建国。当初は国号を斉としたが、唐に変更。
江南に強大な勢力を誇り、文化的・経済的に大いに繁栄したが、北方を統一した後周の圧迫を受け、続いて宋に攻め滅ぼされる。
呉越(907年 - 978年)
無頼出身で、唐から節度使に封じられて浙江に勢力を築いた銭鏐が、後梁より呉越王に封じられる。西隣の南唐と度々抗争するが、南唐が宋に攻め滅ぼされると、宋に投降する。
黄巣の乱鎮圧に功績があり、唐から蜀王に封じられていた王建が、唐が滅ぼされると四川で自立して皇帝を称する。925年に後唐に攻め滅ぼされる。
後蜀(934年 - 965年)
前蜀を滅ぼした後唐より四川に派遣された孟知祥が叛乱を起こして自立し、後唐蜀王に封じられた後、934年に皇帝を称して後唐から離れる。965年に宋に攻め滅ぼされる。
呉(902年 - 937年)
開祖楊行密は群盗出身だが、唐に帰順して節度使にまで伸し上がり、江南に勢力を築く。902年に唐より呉王に封じられる。
自立はしても唐の臣下の立場を貫き、後梁と争った。楊行密死後は、部下の徐温に実権を握られ、徐温の死後跡を継いだ徐知誥に禅譲する形で滅亡。
南唐(937年 - 975年)
呉の実権を握った徐温の死後、その養子徐知誥が跡を継ぎ、呉から禅譲される形で建国。当初は国号を斉としたが、唐に変更。
江南に強大な勢力を誇り、文化的・経済的に大いに繁栄したが、北方を統一した後周の圧迫を受け、続いて宋に攻め滅ぼされる。
呉越(907年 - 978年)
無頼出身で、唐から節度使に封じられて浙江に勢力を築いた銭鏐が、後梁より呉越王に封じられる。西隣の南唐と度々抗争するが、南唐が宋に攻め滅ぼされると、宋に投降する。
14: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/24(火) 22:26:47 ID:1mQzRoWo0
閩(909年 - 945年)
節度使王審知が、後梁に入朝して閩王に封じられる。王審知死後は内紛が続き、933年には独立して皇帝を称するも、内紛は止まず、南唐に攻め滅ぼされる。
荊南(907年 - 963年)
後梁から荊南節度使に封じられた高季興が自立。弱小国であったため、後唐や後周、呉、南漢、後蜀のほとんどの周辺国に対して臣を称して安全を保った。963年に統一を進める宋に投降する。
楚(907年 - 951年)
唐の湖南節度使馬殷が、後梁に入朝して楚王に封じられる。その後、後唐、後晋、後漢、後周と五代の各国に対して臣を称し続けた。馬殷死後は内紛が続き、951年に南唐に攻め滅ぼされる。
南漢(909年 - 971年)
唐の節度使で広東広西に勢力を持つ劉隠が後梁から南平王、続いて南海王に封じられる。跡を継いだ劉龑が913年に皇帝を称して完全に自立、国号は当初の越から漢に。971年に宋に攻め滅ぼされる。
北漢(951年 - 979年)
後漢の創始者劉知遠が劉崇が、後漢の滅亡と後周の建国の際に太原で自立。北方の遼の援助を受けて、後周、宋に対抗する。
979年に宋に攻め滅ぼされる。
節度使王審知が、後梁に入朝して閩王に封じられる。王審知死後は内紛が続き、933年には独立して皇帝を称するも、内紛は止まず、南唐に攻め滅ぼされる。
荊南(907年 - 963年)
後梁から荊南節度使に封じられた高季興が自立。弱小国であったため、後唐や後周、呉、南漢、後蜀のほとんどの周辺国に対して臣を称して安全を保った。963年に統一を進める宋に投降する。
楚(907年 - 951年)
唐の湖南節度使馬殷が、後梁に入朝して楚王に封じられる。その後、後唐、後晋、後漢、後周と五代の各国に対して臣を称し続けた。馬殷死後は内紛が続き、951年に南唐に攻め滅ぼされる。
南漢(909年 - 971年)
唐の節度使で広東広西に勢力を持つ劉隠が後梁から南平王、続いて南海王に封じられる。跡を継いだ劉龑が913年に皇帝を称して完全に自立、国号は当初の越から漢に。971年に宋に攻め滅ぼされる。
北漢(951年 - 979年)
後漢の創始者劉知遠が劉崇が、後漢の滅亡と後周の建国の際に太原で自立。北方の遼の援助を受けて、後周、宋に対抗する。
979年に宋に攻め滅ぼされる。
3: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/24(火) 02:03:27 ID:MrQnEw320
五代の戦乱の幕開けに位置づけるべきは、唐朝に致命的な打撃を与えた黄巣の乱だと思う。
であるからして、五代の英雄たちを語るなら、まずは黄巣の乱に参加した黄巣、王仙芝、後に唐朝を滅ぼすことになる朱温、黄巣の乱鎮圧に当たった元祖独眼龍こと、李克用らを、まず語らなければなるまい。
であるからして、五代の英雄たちを語るなら、まずは黄巣の乱に参加した黄巣、王仙芝、後に唐朝を滅ぼすことになる朱温、黄巣の乱鎮圧に当たった元祖独眼龍こと、李克用らを、まず語らなければなるまい。
6: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/24(火) 11:02:36 ID:ls0BDsa60
李克用(858~908年)
突厥沙陀部朱邪氏の出身で、朱邪赤心の子。片目が異様に小さく、独眼竜と呼ばれた。黄巣の乱の討伐に参加して功績があり、唐朝から雁門節度使に任じられ、続いて河東節度使へ上った。乾寧二年(895年)には晋王に封ぜられる。
黒鴉軍と呼ばれる軍勢を率い、唐朝を簒奪した朱全忠とは河北三鎮をめぐって争い、後唐王朝の基礎を築いた。太原で病没し、 後に後唐の太祖と追尊された。
突厥沙陀部朱邪氏の出身で、朱邪赤心の子。片目が異様に小さく、独眼竜と呼ばれた。黄巣の乱の討伐に参加して功績があり、唐朝から雁門節度使に任じられ、続いて河東節度使へ上った。乾寧二年(895年)には晋王に封ぜられる。
黒鴉軍と呼ばれる軍勢を率い、唐朝を簒奪した朱全忠とは河北三鎮をめぐって争い、後唐王朝の基礎を築いた。太原で病没し、 後に後唐の太祖と追尊された。
7: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/10/24(火) 11:45:02 ID:D4HbLrDN0
李克用について。
この辺はまだ、資料が充実しているから、わりに詳細に語れるけど、後代になると怪しい…
まぁ、生暖かい目をもっていきましょうか。
沙陀磧という砂漠付近で遊牧していたトルコ族(テュルク=突厥)のこの集団は、沙陀(シャーダ)と呼ばれ、首領に沙陀尽忠および、朱邪執儀などがいたそうです。
彼ら沙陀は(本来、シャーダあるいはサダとするのが正しいのですが、漢字表記の「沙陀」のほうがかっこいいし、のちに漢字圏に入るので漢字で表記しないとかえっておかしい。契丹はキタイ。)ウイグルと吐蕃との間で揺れ動いていました。
安録山の乱のときにも、唐に与力している、傭兵みたいな集団。のちに吐蕃の追撃を受け、沙陀尽忠は戦死し、生き残った朱邪執儀が部族をまとめ、雁門へとやってきます。
そう、この方が李克用のおじいさんにあたるわけですね。
で、それなりに唐との誼もあるので、ほうくんの乱等では一線級の活躍をするわけです。
このとき朱邪赤心とともに、15歳の若き李克用は参陣しており、「飛虎子」とあだ名されました。
李姓をもらったあと、沙陀は朔州に鎮したのですが、王仙之・黄巣の乱を契機に、唐に叛旗を翻します。
理由のほどは、まだそこまでつっこんでないので知りませんが、卑しい傭兵風情とか差別でもされていたのだろうか、近隣の藩鎮に。
2回ほど挙兵して、両方とも鎮圧され、あげく韃靼領にまで逃げ込まないといけない状態になりました。
さらにその韃靼でも、雲州の赫連澤の計略で首領を殺し独立しようとしていると噂され、あわや韃靼首領の手によって殺されかけるところでした。
しかしそこで李克用は、その韃靼首領の前で得意の弓術を披露しました。
100歩離れたところに、針とか木の葉とか小さい的を置き、それを百発百中させ、
「今朝廷は黄巣の賊に京師を呑まれようとしている。もし陛下がお許しくださるなら、わたしは陛下の御ために黄巣の賊を討つであろう。このような北の果てにいて、どうして大功がたてられようか!」
と言いました。
韃靼での叛意はないと見た首領は李克用の弓術に度肝を抜かれたこともあり、許すのです。
このあと、朝廷からの招安がきて、李克用は晴れて勤皇軍となり、唐朝廷のために尽力します。
が、行く先々ではDQNな行動で、いろいろ迷惑かけたそうな… しっかりしろよ。
この辺はまだ、資料が充実しているから、わりに詳細に語れるけど、後代になると怪しい…
まぁ、生暖かい目をもっていきましょうか。
沙陀磧という砂漠付近で遊牧していたトルコ族(テュルク=突厥)のこの集団は、沙陀(シャーダ)と呼ばれ、首領に沙陀尽忠および、朱邪執儀などがいたそうです。
彼ら沙陀は(本来、シャーダあるいはサダとするのが正しいのですが、漢字表記の「沙陀」のほうがかっこいいし、のちに漢字圏に入るので漢字で表記しないとかえっておかしい。契丹はキタイ。)ウイグルと吐蕃との間で揺れ動いていました。
安録山の乱のときにも、唐に与力している、傭兵みたいな集団。のちに吐蕃の追撃を受け、沙陀尽忠は戦死し、生き残った朱邪執儀が部族をまとめ、雁門へとやってきます。
そう、この方が李克用のおじいさんにあたるわけですね。
で、それなりに唐との誼もあるので、ほうくんの乱等では一線級の活躍をするわけです。
このとき朱邪赤心とともに、15歳の若き李克用は参陣しており、「飛虎子」とあだ名されました。
李姓をもらったあと、沙陀は朔州に鎮したのですが、王仙之・黄巣の乱を契機に、唐に叛旗を翻します。
理由のほどは、まだそこまでつっこんでないので知りませんが、卑しい傭兵風情とか差別でもされていたのだろうか、近隣の藩鎮に。
2回ほど挙兵して、両方とも鎮圧され、あげく韃靼領にまで逃げ込まないといけない状態になりました。
さらにその韃靼でも、雲州の赫連澤の計略で首領を殺し独立しようとしていると噂され、あわや韃靼首領の手によって殺されかけるところでした。
しかしそこで李克用は、その韃靼首領の前で得意の弓術を披露しました。
100歩離れたところに、針とか木の葉とか小さい的を置き、それを百発百中させ、
「今朝廷は黄巣の賊に京師を呑まれようとしている。もし陛下がお許しくださるなら、わたしは陛下の御ために黄巣の賊を討つであろう。このような北の果てにいて、どうして大功がたてられようか!」
と言いました。
韃靼での叛意はないと見た首領は李克用の弓術に度肝を抜かれたこともあり、許すのです。
このあと、朝廷からの招安がきて、李克用は晴れて勤皇軍となり、唐朝廷のために尽力します。
が、行く先々ではDQNな行動で、いろいろ迷惑かけたそうな… しっかりしろよ。
9: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/24(火) 15:52:23 ID:WJXOjL0Z0
>>7
その説明を読むと、李克用の軍団は、三十年戦争のヴァレンシュタインの傭兵軍団を彷彿とさせるね。
李克用の軍団も掠奪しまくっていただろうし。
その説明を読むと、李克用の軍団は、三十年戦争のヴァレンシュタインの傭兵軍団を彷彿とさせるね。
李克用の軍団も掠奪しまくっていただろうし。
11: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/10/24(火) 21:20:57 ID:D4HbLrDN0
>>9
その本質はそれに近いものがあるんでしょうねぇ。
でもだんだんと、そのDQNぶりが愛しくみえてしまうから困ったものです。
李克用は17000の兵とともに雁門あたりから長安目指して南下するわけですが、黄河を西に渡河したとき、黄巣軍と初めて戦端を開き、15万の黄巣軍相手に一方的勝利を収めました。
そのあとも連戦連勝なもんで、すっかり増長するんですよね。
その頃朱温は、河中の重鎮・王重栄に働きかけ、唐への帰順をとりなしてもらい、官軍側へと転身していました。
朱温は黄巣軍にあって目立つ将だったので、唐朝廷は喜び「全忠」の名を賜りました。
一方で、強すぎる李克用の対抗馬のような立ち位置だったようです。
李・朱ふたりの活躍で長安に戻ってこれた僖宗皇帝は、李克用を河東節度使とし太原(=晋陽)に置き、朱全忠を宣武節度使としべん梁に置きました。
このときくらいに、後の前蜀高祖・王建は、田令孜の仮子となっていたと思います。
それ以前は楊復光という名宦官の徴募に応じて黄巣軍と戦い、その功績を認められ仲間5人ともども「随賀五都」と呼ばれ、楊復光の死後(このあとすぐ亡くなる。軍中の兵士はその死を惜しんで皆泣いたそうな)皇帝直属の禁軍である神策軍に編入されました。
その神策軍を田令孜(宦官。悪人w)が統括していた、というわけ。
楊行密はすでに揚州(江都)にあり、これまた前時代の名臣・高駢のもとで淮南道あたりで辣腕を振るっていました。
そういう状況下、まだ黄巣の残存軍があったわけですが、なにせ元祖流賊。 拠点を失ったほうがしぶといという…
長安から脱出した黄巣は、華南あたりを東に荒らしまわりながら移動していきました。
たぶん、故郷へ還ることを考えていたのでしょう。
で、その黄巣の討伐に手を焼いた朱全忠は(なにせ、彼の領域近くに接近してきましたから、大慌て)李克用に助力を要請しました。
李克用は再び南下し、中原にて黄巣を打ち破りました。
朱全忠は李克用の功労を讃え、宴会を開きましたが、李克用の高飛車な態度にマジギレしてしまい、李克用が泥酔したところを夜討ちしました。
この「上源駅の夜襲」は、李・朱を不倶戴天の敵同士にする決定的瞬間でした。
李克用は泥酔のまま、史敬思の尋常ならざる奮戦によって逃げ延びることができ、すぐさま軍をもって朱全忠を討つ! と息巻くものの、奥さんである劉氏になだめられ、太原へと帰っていきました。
その本質はそれに近いものがあるんでしょうねぇ。
でもだんだんと、そのDQNぶりが愛しくみえてしまうから困ったものです。
李克用は17000の兵とともに雁門あたりから長安目指して南下するわけですが、黄河を西に渡河したとき、黄巣軍と初めて戦端を開き、15万の黄巣軍相手に一方的勝利を収めました。
そのあとも連戦連勝なもんで、すっかり増長するんですよね。
その頃朱温は、河中の重鎮・王重栄に働きかけ、唐への帰順をとりなしてもらい、官軍側へと転身していました。
朱温は黄巣軍にあって目立つ将だったので、唐朝廷は喜び「全忠」の名を賜りました。
一方で、強すぎる李克用の対抗馬のような立ち位置だったようです。
李・朱ふたりの活躍で長安に戻ってこれた僖宗皇帝は、李克用を河東節度使とし太原(=晋陽)に置き、朱全忠を宣武節度使としべん梁に置きました。
このときくらいに、後の前蜀高祖・王建は、田令孜の仮子となっていたと思います。
それ以前は楊復光という名宦官の徴募に応じて黄巣軍と戦い、その功績を認められ仲間5人ともども「随賀五都」と呼ばれ、楊復光の死後(このあとすぐ亡くなる。軍中の兵士はその死を惜しんで皆泣いたそうな)皇帝直属の禁軍である神策軍に編入されました。
その神策軍を田令孜(宦官。悪人w)が統括していた、というわけ。
楊行密はすでに揚州(江都)にあり、これまた前時代の名臣・高駢のもとで淮南道あたりで辣腕を振るっていました。
そういう状況下、まだ黄巣の残存軍があったわけですが、なにせ元祖流賊。 拠点を失ったほうがしぶといという…
長安から脱出した黄巣は、華南あたりを東に荒らしまわりながら移動していきました。
たぶん、故郷へ還ることを考えていたのでしょう。
で、その黄巣の討伐に手を焼いた朱全忠は(なにせ、彼の領域近くに接近してきましたから、大慌て)李克用に助力を要請しました。
李克用は再び南下し、中原にて黄巣を打ち破りました。
朱全忠は李克用の功労を讃え、宴会を開きましたが、李克用の高飛車な態度にマジギレしてしまい、李克用が泥酔したところを夜討ちしました。
この「上源駅の夜襲」は、李・朱を不倶戴天の敵同士にする決定的瞬間でした。
李克用は泥酔のまま、史敬思の尋常ならざる奮戦によって逃げ延びることができ、すぐさま軍をもって朱全忠を討つ! と息巻くものの、奥さんである劉氏になだめられ、太原へと帰っていきました。
10: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/24(火) 17:01:01 ID:p6hSK/du0
南唐って、経済力の中心地である江南を押さえていたわけだし、英君が現れて、本気で富国強兵に取り組んでいたら、天下を望むことはできたのかな?
15: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/10/25(水) 01:08:32 ID:ldm+WpPM0
>>10
南唐が経済的に優れていた事情のひとつに、淮南の領有があった。
ここは湿地で豊潤であるうえに、海岸線もあり古来より官塩の産地だった。
塩は前漢武帝のときに、国家専売となってより貴重な財源で、しかも法外な値段で売りさばいていた。
塩の密売人が出るのも、その辺が理由。
しかしながら、南唐は西暦953年に大飢饉が発生し、そのせいで国家財政が大きく傾き、淮河の防衛「把浅」を撤廃したことから、後周の攻撃を受けることとなってしまった。
後周の征淮南は、足掛け4年にわたり、南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取ったのです。
驚くことに、後周の水軍が長江にまで進出してきており、南唐は風前の灯状態。
この時点で南唐は大国から弱小国へと転落し、「唐」という国号も返上し以後、江南国と呼ばれるようになりましたとさ。
南唐が経済的に優れていた事情のひとつに、淮南の領有があった。
ここは湿地で豊潤であるうえに、海岸線もあり古来より官塩の産地だった。
塩は前漢武帝のときに、国家専売となってより貴重な財源で、しかも法外な値段で売りさばいていた。
塩の密売人が出るのも、その辺が理由。
しかしながら、南唐は西暦953年に大飢饉が発生し、そのせいで国家財政が大きく傾き、淮河の防衛「把浅」を撤廃したことから、後周の攻撃を受けることとなってしまった。
後周の征淮南は、足掛け4年にわたり、南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取ったのです。
驚くことに、後周の水軍が長江にまで進出してきており、南唐は風前の灯状態。
この時点で南唐は大国から弱小国へと転落し、「唐」という国号も返上し以後、江南国と呼ばれるようになりましたとさ。
16: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/10/25(水) 01:17:28 ID:ldm+WpPM0
このときの趙匡胤の奮戦ぶりと、後周世宗の激烈ぶりは後世の語り草となっています。
また、その後周軍の攻撃を約1年半持ちこたえた、寿州城の将劉仁贍もかなり鮮烈な印象を与えてくれます。
また、その後周軍の攻撃を約1年半持ちこたえた、寿州城の将劉仁贍もかなり鮮烈な印象を与えてくれます。
17: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/25(水) 08:53:45 ID:n7udpV/20
>>15
淮南の塩って、この当時も重要だったんだね。
元末の戦乱の時も、河南の紅巾の乱への対応は動きが鈍かった元朝が、張士誠が淮南で反乱を起こすや、即座に丞相率いる討伐軍を送っているあたりを見ても、官塩ってすごい財源なんだね。
淮南の塩って、この当時も重要だったんだね。
元末の戦乱の時も、河南の紅巾の乱への対応は動きが鈍かった元朝が、張士誠が淮南で反乱を起こすや、即座に丞相率いる討伐軍を送っているあたりを見ても、官塩ってすごい財源なんだね。
18: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/25(水) 12:27:08 ID:XhJDrIvq0
そもそも五代の乱世を呼び起こした黄巣や王仙芝も山東の塩賊ですぜ
塩賊は時の朝廷を脅かすほどの力を持つ
塩賊は時の朝廷を脅かすほどの力を持つ
19: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/25(水) 12:43:04 ID:U6V65n6EO
白居易の塩商婦でも塩が儲けれるんだと分かるな。需要が多く供給が少なかったんだろう。
20: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/25(水) 13:03:41 ID:XhJDrIvq0
と言うか、朝廷が専売する塩の値段が、あまりに高かった。
塩という生活必需品にとんでもない消費税がかかっている状態。
だから、闇塩というものが生まれ、塩賊が暗躍した。
塩なんて、原価自体は大したこともないので、例えば朝廷が売る官塩の半額で売ったとしても、物凄い利益を生み出すことになる。
庶民からすれば、闇塩も決して安くはないけれども、官塩よりはずっと安いのでありがたがる。
塩賊も莫大な利益を得て力をつける。
塩という生活必需品にとんでもない消費税がかかっている状態。
だから、闇塩というものが生まれ、塩賊が暗躍した。
塩なんて、原価自体は大したこともないので、例えば朝廷が売る官塩の半額で売ったとしても、物凄い利益を生み出すことになる。
庶民からすれば、闇塩も決して安くはないけれども、官塩よりはずっと安いのでありがたがる。
塩賊も莫大な利益を得て力をつける。
21: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/10/25(水) 14:58:13 ID:ldm+WpPM0
この頃の華南の生産力は興味深い。
これまでだったら、華南に群雄が並立するのは、一時的なものを除けばせいぜい2ヶ国か3ヶ国だったのが、7ヶ国の並立というカオスなことになっている。
淮南を得て領土的にも大きい呉~南唐、領土は狭いながら海上貿易と中国の兵糧庫・浙江を抑えた呉越。
海の玄関口である福州と泉州を地味に抑えたビン、湖南の豊かな土地を開発して茶を輸出した楚。
交通の要衝で貿易黒字を出したと思われるw南平(荊南)、よく知らんけど異国っぽい雰囲気をかもし出すような南漢。
あといわずと知れた、芙蓉の城(成都)にイメージされる豊かさを誇った前後蜀。
領土面積や支配のおよぶ地域でみると、どれも六朝には劣り、矮小なイメージを拭えないが、これら勢力が並立しても長く政権を維持できるほどの底力が、このときの華南にはあった。
対して華北は…
後周太祖、世宗の登場で急速に国力が回復しつつあったとはいえ、強国の南唐を力尽くで首根っこを押さえ込めたのは、ひとえに後周世宗の偉能のなせる業としか思えない。
これまでだったら、華南に群雄が並立するのは、一時的なものを除けばせいぜい2ヶ国か3ヶ国だったのが、7ヶ国の並立というカオスなことになっている。
淮南を得て領土的にも大きい呉~南唐、領土は狭いながら海上貿易と中国の兵糧庫・浙江を抑えた呉越。
海の玄関口である福州と泉州を地味に抑えたビン、湖南の豊かな土地を開発して茶を輸出した楚。
交通の要衝で貿易黒字を出したと思われるw南平(荊南)、よく知らんけど異国っぽい雰囲気をかもし出すような南漢。
あといわずと知れた、芙蓉の城(成都)にイメージされる豊かさを誇った前後蜀。
領土面積や支配のおよぶ地域でみると、どれも六朝には劣り、矮小なイメージを拭えないが、これら勢力が並立しても長く政権を維持できるほどの底力が、このときの華南にはあった。
対して華北は…
後周太祖、世宗の登場で急速に国力が回復しつつあったとはいえ、強国の南唐を力尽くで首根っこを押さえ込めたのは、ひとえに後周世宗の偉能のなせる業としか思えない。
22: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/26(木) 00:23:13 ID:0ZZNTNDE0
呉越なんか、地図で見る限りじゃ、よくあんな形で独立国を保てたなと思えるね。
あっという間に南唐に飲み込まれそうに見えるし。
にしても、華南の国々はそれぞれ個性が豊かだね。
あっという間に南唐に飲み込まれそうに見えるし。
にしても、華南の国々はそれぞれ個性が豊かだね。
25: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/10/26(木) 20:02:27 ID:e12cwApx0
さて、爆弾投下。
河東太原(=晋陽)の李克用、汴梁(陳留の近く)の朱全忠、あと河中に王重栄、易定に王処存、四川には陳敬瑄等々が、実力者として目される状況。
そういう中で、唐皇帝僖宗は長安に帰ってこれたけど、その腹心である田令孜(宦官)が、官塩の利権から王重栄、王処存らと対立するようになりました。
王重栄は李克用に助力を請い、田令孜を威圧します。
一方、李克用もくだんの朱全忠が不意打ちした非を朝廷に奏上したにも関わらず、李克用をなだめるだけに終始していた態度に鬱屈していた事情もあって、王重栄を後押しします。
これに対し田令孜は邠州の朱玫と鳳翔の李昌符をもって対抗しますが、さすがに李克用には敵わなかった。
ビビった田令孜は、またしても僖宗を伴って逃げます。
朱玫はこの期に李克用と手を組み、皇帝を保護し実権を得ようと奸策しますが、田令孜の逃げ足は脱兎のごとく、襄陽王をどうにか保護できただけにとどまりました。
そのとき、王重栄や寝返った朱玫の追撃はすさまじく、皇帝と田令孜は鳳翔から桟道をとおり蜀へ抜けようとしました。
李昌符が桟道を焼き、どうにか追っ手を防いだものの、前回以上の災難だったので、僖宗はすっかり気弱(もともとだけど)になり、ずっと泣いているわけです。
そこで、神策軍に編入されていた王建が先導し、僖宗を馬に乗せ煙や火の粉を払いつつ進み、一夜の宿では膝枕(ごつい男の…)をしてやって、はじめて僖宗は安心したそうな。
そうやってようやく、興元(漢中)に着き、やがて田令孜の兄が治める成都に行くわけです。
朱玫は僖宗を得ることができなかったので、かわりに襄陽王をして帝位につかせ、また李克用とも共闘しようとしましたが、本来李克用は皇帝そのものには忠であるので、拒否りました。
味方のいない朱玫はやがて自滅し、長安近辺には再び平和が戻ってきたのでした。
そのあと僖宗は長安に帰りますが、帰着後ほどなくして亡くなります。 次に立つのが昭宗。
王建はそのまま蜀に残り、西川節度使陳敬瑄と事を構えるようになりました。
また、なりを潜めた朱全忠は、実はウラで蔡州の反乱者・秦宗権と戦い破り(ちなみに、この秦宗権の徴兵に応じて、木工の馬殷兄弟が参じている)、また謀略をもって山東方面を平定し、着実に力を蓄えていました。
河東太原(=晋陽)の李克用、汴梁(陳留の近く)の朱全忠、あと河中に王重栄、易定に王処存、四川には陳敬瑄等々が、実力者として目される状況。
そういう中で、唐皇帝僖宗は長安に帰ってこれたけど、その腹心である田令孜(宦官)が、官塩の利権から王重栄、王処存らと対立するようになりました。
王重栄は李克用に助力を請い、田令孜を威圧します。
一方、李克用もくだんの朱全忠が不意打ちした非を朝廷に奏上したにも関わらず、李克用をなだめるだけに終始していた態度に鬱屈していた事情もあって、王重栄を後押しします。
これに対し田令孜は邠州の朱玫と鳳翔の李昌符をもって対抗しますが、さすがに李克用には敵わなかった。
ビビった田令孜は、またしても僖宗を伴って逃げます。
朱玫はこの期に李克用と手を組み、皇帝を保護し実権を得ようと奸策しますが、田令孜の逃げ足は脱兎のごとく、襄陽王をどうにか保護できただけにとどまりました。
そのとき、王重栄や寝返った朱玫の追撃はすさまじく、皇帝と田令孜は鳳翔から桟道をとおり蜀へ抜けようとしました。
李昌符が桟道を焼き、どうにか追っ手を防いだものの、前回以上の災難だったので、僖宗はすっかり気弱(もともとだけど)になり、ずっと泣いているわけです。
そこで、神策軍に編入されていた王建が先導し、僖宗を馬に乗せ煙や火の粉を払いつつ進み、一夜の宿では膝枕(ごつい男の…)をしてやって、はじめて僖宗は安心したそうな。
そうやってようやく、興元(漢中)に着き、やがて田令孜の兄が治める成都に行くわけです。
朱玫は僖宗を得ることができなかったので、かわりに襄陽王をして帝位につかせ、また李克用とも共闘しようとしましたが、本来李克用は皇帝そのものには忠であるので、拒否りました。
味方のいない朱玫はやがて自滅し、長安近辺には再び平和が戻ってきたのでした。
そのあと僖宗は長安に帰りますが、帰着後ほどなくして亡くなります。 次に立つのが昭宗。
王建はそのまま蜀に残り、西川節度使陳敬瑄と事を構えるようになりました。
また、なりを潜めた朱全忠は、実はウラで蔡州の反乱者・秦宗権と戦い破り(ちなみに、この秦宗権の徴兵に応じて、木工の馬殷兄弟が参じている)、また謀略をもって山東方面を平定し、着実に力を蓄えていました。
27: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/27(金) 14:47:50 ID:QqkfSyI30
十国の方は、創業者が死んだ後内紛ってパターンが多いな。
28: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2006/10/27(金) 22:48:00 ID:hvFQTrUF0
王を名乗るのもおこがましい勢力が多いしね。
29: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/28(土) 00:45:09 ID:8MqGbLgJ0
荊南なんか、あんな場所に小さい国でよく半世紀余りも続いたな。
周りの国全てに臣従したと言うが、巧みな外交がなければ、独立を維持できなかっただろう。
周りの国全てに臣従したと言うが、巧みな外交がなければ、独立を維持できなかっただろう。
31: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/10/28(土) 20:32:06 ID:UGCmZhxn0
>>29
高季興(高季昌)は梁の一部だったので、この頃はまだよかった。
問題は後唐が前蜀を伐ったあと。
そもそも「前蜀を伐つのが易しい」とか吹き込んだ(つか、前蜀は頑健で攻めても後唐では勝てないと思っていたから誘導した)のが高季興なわけだけど、思いのほか前蜀はもろく滅んじゃったのです。
あせった高季興はいろいろと画策し、あげく後唐の討伐を受けます。
ま、これは後唐も本気ではなく討伐軍の司令官に高季興の幼馴染をあてるなどしていました。示威行動ととれますかね…
以来、中原王朝とも微妙な関係となり、高季興の息子、高従誨は四方の強国相手に同盟離反を繰り返し、時の人に「やつは表裏常なく、油断がならん!」と言われ、「高無頼」とあだ名されるほど、外交がたくみでした。
日本で言うところの真田昌幸を彷彿とさせますなぁ。
高季興(高季昌)は梁の一部だったので、この頃はまだよかった。
問題は後唐が前蜀を伐ったあと。
そもそも「前蜀を伐つのが易しい」とか吹き込んだ(つか、前蜀は頑健で攻めても後唐では勝てないと思っていたから誘導した)のが高季興なわけだけど、思いのほか前蜀はもろく滅んじゃったのです。
あせった高季興はいろいろと画策し、あげく後唐の討伐を受けます。
ま、これは後唐も本気ではなく討伐軍の司令官に高季興の幼馴染をあてるなどしていました。示威行動ととれますかね…
以来、中原王朝とも微妙な関係となり、高季興の息子、高従誨は四方の強国相手に同盟離反を繰り返し、時の人に「やつは表裏常なく、油断がならん!」と言われ、「高無頼」とあだ名されるほど、外交がたくみでした。
日本で言うところの真田昌幸を彷彿とさせますなぁ。
32: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2006/10/28(土) 21:08:41 ID:1OIh1RIN0
流れを読むだけなら陳舜臣「中国の歴史」文庫版の4巻が簡単でおすすめ。
33: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/29(日) 15:19:36 ID:elOC5wip0
この時代の代表者を選ぶなら、馮道だな。
馮道
馮 道(ふう どう、中和2年(882年) - 顕徳元年4月17日(954年5月21日))は、中国の五代十国時代(10世紀)の政治家。生涯で11人の君主(五朝八姓十一君)に仕えた。
五代十国時代には皇帝・王朝が激しく入れ替わったが、その中で馮道は後梁を除いた五代王朝の全て(後唐・後晋・後漢・後周)と、後晋を滅ぼして一時的に中原を支配した契丹族王朝の遼に仕え、常に高位にあった。馮道は自分の仕えた主君たちを「五朝八姓十一君」と称している。
馮道のその世渡り上手な生き方は、後世において、厳しく断罪する声が多い。
特に朱子学的見地からは売国奴、変節漢と呼ばれ、司馬光なども「貞女は二夫に従わず、忠臣は二君に仕えず」と痛切に批判している。その際に非難の的となったのが、馮道が「五朝八姓十一君」に仕えたことである。
しかし一方で、馮道は当時の人々には大いに尊敬された。また後世の歴史家の中でも、馮道を弁護する者がいる。中でも異端の歴史家といわれる李卓吾は「孟子は『社稷を重しと為し、君主を軽しと為す』と言っている。馮道はこれを体現し、民衆を安寧にした」と絶賛している。ただし「これは五代のような時代だから許されることであって、他の時代の変節漢がこれを言い訳としてはいけない」とも述べている。
馮 道(ふう どう、中和2年(882年) - 顕徳元年4月17日(954年5月21日))は、中国の五代十国時代(10世紀)の政治家。生涯で11人の君主(五朝八姓十一君)に仕えた。
五代十国時代には皇帝・王朝が激しく入れ替わったが、その中で馮道は後梁を除いた五代王朝の全て(後唐・後晋・後漢・後周)と、後晋を滅ぼして一時的に中原を支配した契丹族王朝の遼に仕え、常に高位にあった。馮道は自分の仕えた主君たちを「五朝八姓十一君」と称している。
馮道のその世渡り上手な生き方は、後世において、厳しく断罪する声が多い。
特に朱子学的見地からは売国奴、変節漢と呼ばれ、司馬光なども「貞女は二夫に従わず、忠臣は二君に仕えず」と痛切に批判している。その際に非難の的となったのが、馮道が「五朝八姓十一君」に仕えたことである。
しかし一方で、馮道は当時の人々には大いに尊敬された。また後世の歴史家の中でも、馮道を弁護する者がいる。中でも異端の歴史家といわれる李卓吾は「孟子は『社稷を重しと為し、君主を軽しと為す』と言っている。馮道はこれを体現し、民衆を安寧にした」と絶賛している。ただし「これは五代のような時代だから許されることであって、他の時代の変節漢がこれを言い訳としてはいけない」とも述べている。
35: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/29(日) 21:09:21 ID:ZcoQeanY0
北朝側で、民衆にそれほど迷惑かけていない政権交代といえば…
後唐末帝のときと後周建国くらいか?
末帝のときは、おもいっきり馮道が絡んでいるなぁ。
混乱を最小限に抑えた功績(になるかはわからんけど)は、ひとえに馮道の見切りのよさだったわけだね。
おかげで後世からはボロカスに言われるようになったけど。当時の人にとってはカミ。
後唐末帝のときと後周建国くらいか?
末帝のときは、おもいっきり馮道が絡んでいるなぁ。
混乱を最小限に抑えた功績(になるかはわからんけど)は、ひとえに馮道の見切りのよさだったわけだね。
おかげで後世からはボロカスに言われるようになったけど。当時の人にとってはカミ。
36: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/29(日) 21:35:12 ID:LBzfWgEK0
「馮道 乱世の宰相」って本もなかなか良かったぜ。
37: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/29(日) 22:20:26 ID:Ys3lDyyvO
乱世の宰相としてよく馮道と諸葛亮は比較されるね
39: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/29(日) 22:54:01 ID:ZcoQeanY0
>>37
どういう比較?
似たもの比較ってこと?
どう見ても、正反対の宰相だと思うよ。
どういう比較?
似たもの比較ってこと?
どう見ても、正反対の宰相だと思うよ。
40: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/29(日) 23:11:20 ID:zkM7UMpAO
>>39
正反対だからこそ比較じゃない?
斜陽の国を軍事行動に駆り立てることによって支えた宰相と戦乱が無意味に広がるのを避けるため首のすげかえをあっさりしちゃう宰相
正反対だからこそ比較じゃない?
斜陽の国を軍事行動に駆り立てることによって支えた宰相と戦乱が無意味に広がるのを避けるため首のすげかえをあっさりしちゃう宰相
43: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/31(火) 22:07:41 ID:GOhR1eMxO
仮子の制度はこの時代だけに見られる特殊なものなの?
仮子(かし)もしくは義児(ぎじ)は、唐から五代十国時代にかけて現れた養子の形態の一つである。地方の群雄や節度使・宦官などの有力者が自らの側近など親近にある個人もしくは集団と擬制的親子関係を結んだものである。
仮子・義児の形式としては大きく分けて2つの形式がある。一つは有力者を仮父として配下の部隊のメンバー全員をそっくり仮子として部隊(仮子隊・義児軍)を丸ごと一種の親衛隊として整備する方法である。もう一つは有力者を仮父として個人を仮子とすることで重く取り立てるもので、非血縁者である配下との既存の主従関係の強化(血縁者とは正式な養子縁組もしくは猶子縁組をする場合が多い)もしくは敵の降将を取り込んで主従関係を形成するために行われるようになった。
仮子になった者は唐初の段階では必ずしも姓名を改められるものではなかったが、安史の乱以降には姓は仮父のものに改めて場合によっては名も仮父の実子(またはそれと同世代の血縁者)の輩行に則したものに改称する場合もあった。
仮子・義児の形式としては大きく分けて2つの形式がある。一つは有力者を仮父として配下の部隊のメンバー全員をそっくり仮子として部隊(仮子隊・義児軍)を丸ごと一種の親衛隊として整備する方法である。もう一つは有力者を仮父として個人を仮子とすることで重く取り立てるもので、非血縁者である配下との既存の主従関係の強化(血縁者とは正式な養子縁組もしくは猶子縁組をする場合が多い)もしくは敵の降将を取り込んで主従関係を形成するために行われるようになった。
仮子になった者は唐初の段階では必ずしも姓名を改められるものではなかったが、安史の乱以降には姓は仮父のものに改めて場合によっては名も仮父の実子(またはそれと同世代の血縁者)の輩行に則したものに改称する場合もあった。
44: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/31(火) 22:20:14 ID:NbqxvkQw0
唐玄宗期あたりから顕著になった。
もとは宦官がシンパをつくるためにやったことだという。
もとは宦官がシンパをつくるためにやったことだという。
45: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/31(火) 23:23:15 ID:GOhR1eMxO
なるほど宦官が発祥なのね
五代では百人近く仮子がいた人もいるらしいね
五代では百人近く仮子がいた人もいるらしいね
46: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/31(火) 23:39:50 ID:NbqxvkQw0
任侠の、親分子分をもっと縛りいれた状態が仮子。
李克用、王建などがいい例なんだけど、その王建自体も田令孜という僖宗期の悪宦官の仮子だった。
田令孜を特に悪と書いたけど、この頃の唐は牛李の党争に代表される、宦官と官僚との衝突を引きずっていた。
基本的に、皇帝近辺の権力を握っているのが宦官で、禁軍の総大将を兼ね、また皇帝の生死すら操っていた。
そういう宦官全部が憎むべき存在なのだけど、特に僖宗の後見的な立場にいて信頼もされ、再三皇帝を蒙塵させた無策っぷりということで田令孜が悪の代名詞。
権力はあれど、宦官は子を作ることができないので、血縁による派閥が作れない。
そういうときに、擬制的血縁関係を強制できる仮子が流行したってわけ。
李克用、王建などがいい例なんだけど、その王建自体も田令孜という僖宗期の悪宦官の仮子だった。
田令孜を特に悪と書いたけど、この頃の唐は牛李の党争に代表される、宦官と官僚との衝突を引きずっていた。
基本的に、皇帝近辺の権力を握っているのが宦官で、禁軍の総大将を兼ね、また皇帝の生死すら操っていた。
そういう宦官全部が憎むべき存在なのだけど、特に僖宗の後見的な立場にいて信頼もされ、再三皇帝を蒙塵させた無策っぷりということで田令孜が悪の代名詞。
権力はあれど、宦官は子を作ることができないので、血縁による派閥が作れない。
そういうときに、擬制的血縁関係を強制できる仮子が流行したってわけ。
47: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/31(火) 23:42:40 ID:801cTNPH0
唐代後期は、宦官は皇帝の生殺与奪権さえ握っていたようだけど、明代の場合は、どれだけ権勢を極めた宦官でも、皇帝の絶対独裁権力を越えることはできなかったようだね。
48: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/31(火) 23:53:04 ID:NbqxvkQw0
もともと唐も、初期の段階では宦官に実権など与えなかった。
その禁をやぶったのが、玄宗。
彼は高力士という宦官を個人的に信任していて、楊貴妃の件など他人には言えないような世話を焼いてもらったので、権力を与えてしまった。
高力士個人ならそれもおkなんだけど、結局権力を利用したい宦官がこれを前例として官位についてしまったことから、おかしくなった。
後漢末期も、清流派官僚と濁流派宦官・外戚との党争が、国家衰亡を招いたけど、唐も同じ轍を踏んでしまったようだ。
その禁をやぶったのが、玄宗。
彼は高力士という宦官を個人的に信任していて、楊貴妃の件など他人には言えないような世話を焼いてもらったので、権力を与えてしまった。
高力士個人ならそれもおkなんだけど、結局権力を利用したい宦官がこれを前例として官位についてしまったことから、おかしくなった。
後漢末期も、清流派官僚と濁流派宦官・外戚との党争が、国家衰亡を招いたけど、唐も同じ轍を踏んでしまったようだ。
49: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/02(木) 03:22:31 ID:xE+PIBDz0
おーい、外戚はむしろ清流派なんだが。
後漢王朝ってのは、豪族士大夫層を母体にした外戚と、それに対抗するために宦官をつかった皇帝の権力抗争。
後漢王朝ってのは、豪族士大夫層を母体にした外戚と、それに対抗するために宦官をつかった皇帝の権力抗争。
51: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/02(木) 22:52:53 ID:i5NbPt+/0
水滸伝に出てくる銭振鵬や馬万里って、確か五代の地方政権の末裔だったはず。
趙匡胤は投降してきた地方の王族は全く殺していない。後にその子孫が宋王朝の危機に忠臣として働くわけだからかしこい選択だな。
趙匡胤は投降してきた地方の王族は全く殺していない。後にその子孫が宋王朝の危機に忠臣として働くわけだからかしこい選択だな。
53: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/03(金) 02:34:34 ID:GL7QLwdl0
>>51
馬氏も銭氏も、後周時代すでに親交があった。
馬氏は南唐李氏に滅ぼされ、金陵に連行されていたけど、後周世宗の南征のおり、大義名分の一つに馬氏の救出があった。
驚いた南唐中主は馬氏を送ったけど、それ以外にも罪を並べられ、結局討伐を受けた。
呉越銭氏は呉や南唐と拮抗するため、中原王朝を頼っていた。
後周世宗の南征のときは進んでこれに協力したし、独自の年号を使うこともなかったくらいのシンパ。
湖南周氏、荊南高氏、南漢劉氏はそれぞれ趙匡胤に保護されたけど、後蜀の孟昶は開封に連れられてすぐに死んだそうだ。
殺したわけではないとは思うが、疑惑があったりする。
後蜀平定戦では、略奪も激しかったようだけど、江南平定のときは略奪を許さなかったあたり、趙匡胤という人柄が見て取れる。
陣頭の猛将のイメージが強い太祖だけど、柴栄のように常に陣頭指揮をしたわけでもないようなんだな。
禁軍将軍の兵権を取るところや、王彦超ら節度使をお涙頂戴などで謀反させる気を削ぐところなど、太祖にしかできない芸当だけど、統一事業は基本、柴栄の敷いた線に沿っているんだと思う。
馬氏も銭氏も、後周時代すでに親交があった。
馬氏は南唐李氏に滅ぼされ、金陵に連行されていたけど、後周世宗の南征のおり、大義名分の一つに馬氏の救出があった。
驚いた南唐中主は馬氏を送ったけど、それ以外にも罪を並べられ、結局討伐を受けた。
呉越銭氏は呉や南唐と拮抗するため、中原王朝を頼っていた。
後周世宗の南征のときは進んでこれに協力したし、独自の年号を使うこともなかったくらいのシンパ。
湖南周氏、荊南高氏、南漢劉氏はそれぞれ趙匡胤に保護されたけど、後蜀の孟昶は開封に連れられてすぐに死んだそうだ。
殺したわけではないとは思うが、疑惑があったりする。
後蜀平定戦では、略奪も激しかったようだけど、江南平定のときは略奪を許さなかったあたり、趙匡胤という人柄が見て取れる。
陣頭の猛将のイメージが強い太祖だけど、柴栄のように常に陣頭指揮をしたわけでもないようなんだな。
禁軍将軍の兵権を取るところや、王彦超ら節度使をお涙頂戴などで謀反させる気を削ぐところなど、太祖にしかできない芸当だけど、統一事業は基本、柴栄の敷いた線に沿っているんだと思う。
54: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/03(金) 13:56:03 ID:D1sg34l30
蜀を平定した時は、かなり掠奪もやっちゃったから、住民の間に反宋感情が生じて、なかなか安定しなくなったみたいだね。
江南の方は、掠奪を控えたおかげか、後々首都まで持って行っている。
江南の方は、掠奪を控えたおかげか、後々首都まで持って行っている。
55: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/03(金) 23:29:39 ID:rDJaeMND0
曹彬のおかげ
56: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/03(金) 23:34:03 ID:OIBoELB20
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E5%BD%AC
曹彬(931年 - 999年)は後周・北宋の軍人。字は国華。諡は武恵。江南(南唐)攻略など数々の功績を挙げた宋初の名将
で、北宋建国の元勲の一人。
真定郡霊寿県(河北省)の人。後周では太祖の妻・張貴妃の甥として重用され、趙匡胤が恭帝から禅譲を受けて北宋が建国すると、そのまま北宋へ仕える。 その後は将軍として契丹・北漢・後蜀・江南の諸国と歴戦し、数々の武勲を挙げた。
965年の後蜀攻略戦においては征伐軍による攻略後の暴行を制止しきれず、諸将とともに太祖から譴責を受けたが、975年の江南攻略戦では被害を最小限に留め、南唐の優れた文化を北宋へ受け継がせることができた。
その後は枢密使・同平章事を歴任して軍事面の責任者として貢献し、一時は北漢討伐戦の敗戦責任を負って左遷されたものの、後に枢密使に復帰している。
清廉篤実な人物として知られ、幾つかのエピソードが伝わっている。
曹彬が後周の茶酒を司る役人だった頃、まだ後周の将軍だった太祖・趙匡胤に管理下の酒を要求されたことがあった。曹彬は公の酒を与えることを断り、自ら酒を購って趙匡胤に与えた。後に太祖は、曹彬の篤実な勤務ぶりを称揚したという。
江南の金陵包囲戦中、曹彬は攻城前に仮病を使って寝込んだ。そして見舞いに訪れた諸将から、病を治す代償として略奪・暴行を行なわない旨の誓約を受けた後に金陵を攻略したため、被害を最小限に留めることができたという。
曹彬(931年 - 999年)は後周・北宋の軍人。字は国華。諡は武恵。江南(南唐)攻略など数々の功績を挙げた宋初の名将
で、北宋建国の元勲の一人。
真定郡霊寿県(河北省)の人。後周では太祖の妻・張貴妃の甥として重用され、趙匡胤が恭帝から禅譲を受けて北宋が建国すると、そのまま北宋へ仕える。 その後は将軍として契丹・北漢・後蜀・江南の諸国と歴戦し、数々の武勲を挙げた。
965年の後蜀攻略戦においては征伐軍による攻略後の暴行を制止しきれず、諸将とともに太祖から譴責を受けたが、975年の江南攻略戦では被害を最小限に留め、南唐の優れた文化を北宋へ受け継がせることができた。
その後は枢密使・同平章事を歴任して軍事面の責任者として貢献し、一時は北漢討伐戦の敗戦責任を負って左遷されたものの、後に枢密使に復帰している。
清廉篤実な人物として知られ、幾つかのエピソードが伝わっている。
曹彬が後周の茶酒を司る役人だった頃、まだ後周の将軍だった太祖・趙匡胤に管理下の酒を要求されたことがあった。曹彬は公の酒を与えることを断り、自ら酒を購って趙匡胤に与えた。後に太祖は、曹彬の篤実な勤務ぶりを称揚したという。
江南の金陵包囲戦中、曹彬は攻城前に仮病を使って寝込んだ。そして見舞いに訪れた諸将から、病を治す代償として略奪・暴行を行なわない旨の誓約を受けた後に金陵を攻略したため、被害を最小限に留めることができたという。
57: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/04(土) 20:25:15 ID:lbZjwsjF0
まあ、戦争で掠奪暴行の類を完全になくすのは無理
58: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/04(土) 21:28:35 ID:QtFYSzy50
唐末五代であれば、略奪行為はむしろ普通。
このあたり、こちら側の見識をチェンジしておかないと、まともについていけない。
それくらい狂った時代。
秋毫も犯さず? そんないい子ちゃんが生き残れるような、甘っちょろさはないといってもいいくらい。
だけど、絶無ではないところが、懐の深さ。 また面白さ。
このあたり、こちら側の見識をチェンジしておかないと、まともについていけない。
それくらい狂った時代。
秋毫も犯さず? そんないい子ちゃんが生き残れるような、甘っちょろさはないといってもいいくらい。
だけど、絶無ではないところが、懐の深さ。 また面白さ。
59: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/05(日) 23:42:29 ID:5JIBRMye0
唐末五代に限らず、昔の戦乱期で掠奪のない時ってないだろう。
63: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/13(月) 14:33:24 ID:pPzZ7iUb0
呉越は、国号が「呉越」の二字?
皇帝は称していなかったようだから、形の上では常にどっかに従属していたのかな?
皇帝は称していなかったようだから、形の上では常にどっかに従属していたのかな?
64: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/13(月) 18:06:41 ID:XTCBwEus0
>>63
もともとは黄巣の乱のときに結成された自治組織のようなもの。
董昌という人が編成した杭州八都という軍団があり、その都将として銭鏐がいたと思えばいいわけ。
で、董昌のもとで勢力を広げてゆき、杭州・越州を手中にした。
唐昭宗期では杭州節度使とされたけど、董昌がかなりヘンになったのでこれを倒し、彭城郡王に封じられた。
さらに、西暦902年に「越王」、西暦904年に「呉王」に封じられ、朱全忠が梁を建国したとき(西暦907年)、「呉越王」兼淮南節度使とされた。
王号をもって「呉越」と判別するけど、実際には冊封ということで、より独立性の強い政権であって、厳密に「国」というわけではない。
年号も基本、中原王朝のそれを用い独自のものは作らなかった。
この時期、そういう政権は多いので、ひとつの国とみても差し支えはないはず。十国と言われるゆえんだし。
独立し皇帝を名乗ることもできる国力はあったろうけど、お隣の呉~南唐が、それ以上のちからを有していたので、生き残るためには中原王朝と親密にするのが上策だったのだろう。
もともとは黄巣の乱のときに結成された自治組織のようなもの。
董昌という人が編成した杭州八都という軍団があり、その都将として銭鏐がいたと思えばいいわけ。
で、董昌のもとで勢力を広げてゆき、杭州・越州を手中にした。
唐昭宗期では杭州節度使とされたけど、董昌がかなりヘンになったのでこれを倒し、彭城郡王に封じられた。
さらに、西暦902年に「越王」、西暦904年に「呉王」に封じられ、朱全忠が梁を建国したとき(西暦907年)、「呉越王」兼淮南節度使とされた。
王号をもって「呉越」と判別するけど、実際には冊封ということで、より独立性の強い政権であって、厳密に「国」というわけではない。
年号も基本、中原王朝のそれを用い独自のものは作らなかった。
この時期、そういう政権は多いので、ひとつの国とみても差し支えはないはず。十国と言われるゆえんだし。
独立し皇帝を名乗ることもできる国力はあったろうけど、お隣の呉~南唐が、それ以上のちからを有していたので、生き残るためには中原王朝と親密にするのが上策だったのだろう。
67: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/22(水) 22:55:12 ID:lYP8weru0
五代の各王朝の官制は、だいたいは唐朝のものを模倣したものだったのかな?
68: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/23(木) 17:16:35 ID:cJLOjJ4M0
踏襲といってくれ…
69: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/23(木) 22:51:20 ID:uT7wtS330
五代十国で、唐制とは大きく違った独特な官制を持った政権ってある?
70: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/24(金) 00:41:04 ID:B1vF3gof0
そもそも、短命政権ばっかりで政権参加者の個人能力の比重が大きいから、独自色を議論するほど安定政権みたいに官制が機能していたかどうかすら怪しい。
72: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/29(水) 15:44:23 ID:SWEfWNpO0
もったのは創業者の代だけで、二代目以降はがたがたの政権多いしね
76: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/12(火) 00:28:43 ID:tW/rumWw0
この時代って、たとえ皇后でも、再婚した女が多いね。
戦乱続きで、貞節なんかにあまり構っていられない感じだったのかな。
戦乱続きで、貞節なんかにあまり構っていられない感じだったのかな。
77: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/12(火) 23:50:55 ID:+4RDTDB80
唐の時代も再婚が多い。
宋の時代になってから、上流階級の女性の再婚が減った。
宋の時代になってから、上流階級の女性の再婚が減った。
78: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/12(火) 23:56:50 ID:HLe/yRfl0
人口=国力という一面があるからね。
一般庶民には再婚を奨励したり、何歳か以上で未婚の場合は税金をかけたり、という時代もあるぐらい。
一般庶民には再婚を奨励したり、何歳か以上で未婚の場合は税金をかけたり、という時代もあるぐらい。
79: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/14(木) 01:14:26 ID:vl/vrafc0
人口=国力。
唐律における、均田制-租庸調-府兵制のトリニティは、まさに把握できる戸数に拠っているわけで、それが崩壊してしまった唐末では中央の国力はガタガタ。
両税法と官塩と茶税の暴利によって、なんとか持ちこたえた感じ。
そこは五朝もさほど変わらない。
後周にはいってようやく、まともな国づくりに向かったというから、庶民層の生活はとんでもなかったろうね。
>>貞節なんかにあまり構っていられない
それを強く認識し強要(というのもヘンだが)しだしたのは、宋代だから…
馮道も、五朝乱世ならああいう生き方は是とされるが、安定した王朝では単なる無節操とされるゆえん。
唐の頃は、遊牧民的な気質もあり、男女の開放感はあったとされる。 五朝のうち三朝は突厥系沙陀で、その政権下で生きた後周二皇帝もその気風は受け継いでいたようだ。
唐律における、均田制-租庸調-府兵制のトリニティは、まさに把握できる戸数に拠っているわけで、それが崩壊してしまった唐末では中央の国力はガタガタ。
両税法と官塩と茶税の暴利によって、なんとか持ちこたえた感じ。
そこは五朝もさほど変わらない。
後周にはいってようやく、まともな国づくりに向かったというから、庶民層の生活はとんでもなかったろうね。
>>貞節なんかにあまり構っていられない
それを強く認識し強要(というのもヘンだが)しだしたのは、宋代だから…
馮道も、五朝乱世ならああいう生き方は是とされるが、安定した王朝では単なる無節操とされるゆえん。
唐の頃は、遊牧民的な気質もあり、男女の開放感はあったとされる。 五朝のうち三朝は突厥系沙陀で、その政権下で生きた後周二皇帝もその気風は受け継いでいたようだ。
80: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/16(土) 22:56:26 ID:1crxYZKJ0
この時代は、四川とか江南の方が安全かな。
中原は何だか、戦続きだし。契丹人の侵入もあったし。
中原は何だか、戦続きだし。契丹人の侵入もあったし。
81: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/18(月) 15:50:08 ID:DS06TSR40
地方は地方で戦乱が多いし。
南漢とか長期政権だし、治安がいいかも。
南漢とか長期政権だし、治安がいいかも。
82: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/20(水) 11:25:53 ID:PnKMZmIa0
長安の貴族文化人は、四川に逃れた者が多かったみたいだね。
よそから侵入を受けない限り、四川の情勢は安定していたと思う。
よそから侵入を受けない限り、四川の情勢は安定していたと思う。
84: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 00:44:12 ID:fXLV+qUg0
四川は、考えてみれば黄巣の乱の被害にあってない。
ここは、唐中期に反側の節度使がいたけど鎮圧されてから、あとは皇帝の逃げ場となって割りに安定していたようす。
乱を起こしたのはまさに王建で、異民族を多数引き入れもしたけど、国家作りもしっかりしていたので、中国王朝から離脱することはなかったみたいね。
そこは唐の知識人や中堅クラスの官僚たち(あるいはその方がかなりまともな良識をもった官僚だったかも)が中心となっていたからだろう。
それでも後唐が王師を派遣すると、もろくも滅び去ったけどね…
ここは、唐中期に反側の節度使がいたけど鎮圧されてから、あとは皇帝の逃げ場となって割りに安定していたようす。
乱を起こしたのはまさに王建で、異民族を多数引き入れもしたけど、国家作りもしっかりしていたので、中国王朝から離脱することはなかったみたいね。
そこは唐の知識人や中堅クラスの官僚たち(あるいはその方がかなりまともな良識をもった官僚だったかも)が中心となっていたからだろう。
それでも後唐が王師を派遣すると、もろくも滅び去ったけどね…
85: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/30(土) 23:58:05 ID:kRR1OPEt0
でも、最後に、宋が天下統一の過程で蜀を征服した時は、結構派手に掠奪をやらかして、その結果、反宋感情を根づかせてしまい、天下統一後もなかなか情勢が安定しなかったとか。
86: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 01:48:20 ID:pMUQdnVW0
ほぉ。それはなかなか興味深い事柄だね。
蜀での略奪がひどすぎて、江南攻めのときには特に注意したほどという話だし。
反宋感情の背景に、反側の気風がそれに関わっているとすると、北宋の政策も完全とはいかなかったと取れるな。
どうなんだろう。
蜀での略奪がひどすぎて、江南攻めのときには特に注意したほどという話だし。
反宋感情の背景に、反側の気風がそれに関わっているとすると、北宋の政策も完全とはいかなかったと取れるな。
どうなんだろう。
87: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 22:37:06 ID:YR7Y/NKW0
だから宋初には蜀だけ特別な経済地域として扱ったんだっけ・・・
鉄銭の使用と、それに続いて初めて紙幣の原型を導入したはず・・・
鉄銭の使用と、それに続いて初めて紙幣の原型を導入したはず・・・
89: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/05(金) 17:51:36 ID:XIePyQBl0
李茂貞が岐王に封じられるのは、旧唐書と旧五代史では違うのな。
旧唐書のとおりだと、景福元年(892)となって、朱全忠が東平郡王に封じられた3年後で、李克用の晋王より3年早いことになる。
そのころの唐は、まず朱玫を筆頭に、李克用・王重栄・新たに鳳翔節度使に抜擢された李茂貞らで、長安付近は嵐の只中だった。
朱全忠は秦宗権討伐で、徐州や淮西・淮南方面に勢力を伸張していた。
中央の荒れっぷりを横目に… という感じだけど、実際には秦宗権という害虫の駆逐に顔を真っ赤にしていたに違いない。
やがて朱玫の天下も終わり、ようやく長安に帰ってきた僖宗は、憐れにも死んでしまい昭宗が跡を継ぐ(がされる)。
で、李克用討伐令発布。→官軍ボロ負け。
西川では王建が平定しつつある。
李茂貞は兵力を温存していた。→興元(漢中)を取る。
この時点で長安に一番近い李茂貞が、二鎮を有し最強の勢力をもっていた。
朱全忠は山東を圧していたけど、遠い。
あるとすれば、この時点で岐王に封じたか。
しかし翌2年(893)、李茂貞は朝廷の討伐を受ける。しかし李克用のときと違って、ほとんど誰も加勢しなかった…
その後も、一応討伐令は継続していたようなので、岐王の号は令とともに削除されただろう。
で次、清流派たち(宰相や官僚)は朱全忠の武力を当てにし、皇帝擁する宦官に対抗しようとした。
そこで朱全忠がこれ幸いにと、長安まで軍を進め(このとき宦官をおもくそ殺している)たので、宦官らは皇帝を伴って鳳翔に逃げた。
皇帝を保護した李茂貞が、岐王返り咲きを強要したのだろう。
だから、『資治通鑑』ではこの年天復元年(901)に岐王になったとしている。
また『旧五代史』では光化中(898~900あるいは901)としている。
一旦削除されて戻ったとするほうが自然だろうか? これ以上は今はまだわかんない。
李茂貞の絶頂期はまさにここまでで、虢県の戦いで朱全忠にわやくちゃに負けてしまい、以後は消えゆく残り火となる。
のくせに、後梁建国後、李茂貞は岐王府を開き独立国となった。
本来、五代十国には入らないけど、初期鳳翔を中心にあった国「岐」はここが始まり。
それ以前のほうが勢いあったのに、なんとも英雄になれなかったお人…
旧唐書のとおりだと、景福元年(892)となって、朱全忠が東平郡王に封じられた3年後で、李克用の晋王より3年早いことになる。
そのころの唐は、まず朱玫を筆頭に、李克用・王重栄・新たに鳳翔節度使に抜擢された李茂貞らで、長安付近は嵐の只中だった。
朱全忠は秦宗権討伐で、徐州や淮西・淮南方面に勢力を伸張していた。
中央の荒れっぷりを横目に… という感じだけど、実際には秦宗権という害虫の駆逐に顔を真っ赤にしていたに違いない。
やがて朱玫の天下も終わり、ようやく長安に帰ってきた僖宗は、憐れにも死んでしまい昭宗が跡を継ぐ(がされる)。
で、李克用討伐令発布。→官軍ボロ負け。
西川では王建が平定しつつある。
李茂貞は兵力を温存していた。→興元(漢中)を取る。
この時点で長安に一番近い李茂貞が、二鎮を有し最強の勢力をもっていた。
朱全忠は山東を圧していたけど、遠い。
あるとすれば、この時点で岐王に封じたか。
しかし翌2年(893)、李茂貞は朝廷の討伐を受ける。しかし李克用のときと違って、ほとんど誰も加勢しなかった…
その後も、一応討伐令は継続していたようなので、岐王の号は令とともに削除されただろう。
で次、清流派たち(宰相や官僚)は朱全忠の武力を当てにし、皇帝擁する宦官に対抗しようとした。
そこで朱全忠がこれ幸いにと、長安まで軍を進め(このとき宦官をおもくそ殺している)たので、宦官らは皇帝を伴って鳳翔に逃げた。
皇帝を保護した李茂貞が、岐王返り咲きを強要したのだろう。
だから、『資治通鑑』ではこの年天復元年(901)に岐王になったとしている。
また『旧五代史』では光化中(898~900あるいは901)としている。
一旦削除されて戻ったとするほうが自然だろうか? これ以上は今はまだわかんない。
李茂貞の絶頂期はまさにここまでで、虢県の戦いで朱全忠にわやくちゃに負けてしまい、以後は消えゆく残り火となる。
のくせに、後梁建国後、李茂貞は岐王府を開き独立国となった。
本来、五代十国には入らないけど、初期鳳翔を中心にあった国「岐」はここが始まり。
それ以前のほうが勢いあったのに、なんとも英雄になれなかったお人…
90: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/06(土) 14:02:21 ID:17GBGVst0
一つ間違えれば、朱全忠と李茂貞で立場が逆転したかもね。
91: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/11(木) 01:23:41 ID:++Wd0zej0
うーん、李茂貞はどうかな。
朱全忠は一流の武将ではないにせよ、度胸や根回しは相当長けているからなあ。
朱全忠は一流の武将ではないにせよ、度胸や根回しは相当長けているからなあ。
92: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/11(木) 17:32:13 ID:fGiIe/xn0
李茂貞は李克用に勝てたためしがないから、朱全忠と立場変わったら、西で李克用が暴れまくるだろう。
しかしその李克用とて、新王朝を築くには至らないかもしれない。
両者とも、唐朝の権威よりの立場だし、粗末な扱いはするにしても手にかけるかどうかは怪しいところ。
やはり、朱全忠というハカイダーがいないことには、腐った貴族官僚や宦官どもが、いつまでものさばり続けるだろう。
>>朱全忠は一流の武将ではないにせよ
皇帝就任以前では、十分一流の部類に入ると思うが。
しかしその李克用とて、新王朝を築くには至らないかもしれない。
両者とも、唐朝の権威よりの立場だし、粗末な扱いはするにしても手にかけるかどうかは怪しいところ。
やはり、朱全忠というハカイダーがいないことには、腐った貴族官僚や宦官どもが、いつまでものさばり続けるだろう。
>>朱全忠は一流の武将ではないにせよ
皇帝就任以前では、十分一流の部類に入ると思うが。
94: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/16(火) 11:08:35 ID:eqnoPpCV0
朱全忠が皇帝になる時、反対したのは兄一人だけじゃなかったっけ。
95: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/17(水) 14:16:28 ID:eVt7gI520
>>94
そう。
朱全忠ってやつは、息子の嫁さんにも手を出して、しかも息子はそれを容認していたという異常家庭の持ち主。
息子のほうは嫁が寵愛されれば、もしかして自分が太子になるかもと企んだわけだな。
朱全忠は、政戦両略のある逸材ではあるが、個人としては粗野な盗賊とさして変わらない。
その辺が、梁という国を保てなかった原因ではないかと思う。
次の代になると、朱全忠に従った有能な臣下たちは遠ざけられてしまったし。
翻って李存勗は、李克用以来の部下たちを120%コキ使って、梁を圧倒している。
そう。
朱全忠ってやつは、息子の嫁さんにも手を出して、しかも息子はそれを容認していたという異常家庭の持ち主。
息子のほうは嫁が寵愛されれば、もしかして自分が太子になるかもと企んだわけだな。
朱全忠は、政戦両略のある逸材ではあるが、個人としては粗野な盗賊とさして変わらない。
その辺が、梁という国を保てなかった原因ではないかと思う。
次の代になると、朱全忠に従った有能な臣下たちは遠ざけられてしまったし。
翻って李存勗は、李克用以来の部下たちを120%コキ使って、梁を圧倒している。
102: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/09(金) 12:08:42 ID:Wo6NbtdZ0
秦宗権(?~889年)
蔡州上蔡の人。初め許州の牙将となった。
広明元年(880年)、趁軍の乱により蔡州に拠った。同年、黄巣の乱が起こると、宗権は蔡州の軍により黄巣を討った。後に敗れて黄巣に降り、蔡州節度使と称した。陳州を攻めたが、刺史の趙犨の堅守のため、落とすことができなかった。
中和二年(882年)、黄巣が敗死すると、宗権は蔡州で帝を称し、四方を劫掠し、暴虐の限りを尽くした。
光啓三年(887年)、汴州に進攻したが、朱全忠に敗れ、勢力が衰えた。龍紀元年(889年)、部将の郭璠に捕らえられ、朱全忠のもとに送られ、長安で斬られた。
蔡州上蔡の人。初め許州の牙将となった。
広明元年(880年)、趁軍の乱により蔡州に拠った。同年、黄巣の乱が起こると、宗権は蔡州の軍により黄巣を討った。後に敗れて黄巣に降り、蔡州節度使と称した。陳州を攻めたが、刺史の趙犨の堅守のため、落とすことができなかった。
中和二年(882年)、黄巣が敗死すると、宗権は蔡州で帝を称し、四方を劫掠し、暴虐の限りを尽くした。
光啓三年(887年)、汴州に進攻したが、朱全忠に敗れ、勢力が衰えた。龍紀元年(889年)、部将の郭璠に捕らえられ、朱全忠のもとに送られ、長安で斬られた。
108: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/10(土) 23:28:22 ID:q7om0rGq0
秦宗権も皇帝を称したみたいだけど、国号は何にしたのかな?
蔡州節度使だから、「蔡」とか?
蔡州節度使だから、「蔡」とか?
109: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/11(日) 20:44:15 ID:UVxD9MB40
旧唐書にはとくに国号については書いてないね。
春秋戦国の頃の国号と対応するから、汝南といえば…
やっぱり「蔡」か?
春秋戦国の頃の国号と対応するから、汝南といえば…
やっぱり「蔡」か?
110: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/11(日) 23:47:31 ID:Wp3sCcEh0
大蔡皇帝
何だか新鮮な響きだ。
何だか新鮮な響きだ。
111: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/12(月) 00:35:55 ID:x+uje/tP0
皇帝といわずとも、この頃は春秋戦国の地域名で呼んでいる部分が多い。
一貫してそうなんだけどね、現在でも。
独立した節度使は、実際に封じられてなくても王のようなイメージだったと思える。
幽州は燕(実際に大燕と号したけど)、鎮州は趙あるいは常山(真定というときも。節度使王鎔は趙王に封じられているが)。
宋州なんかも、単に宋とか。
あと地名で太行山脈以東の邢、洺、磁は山東と書いたり。
現在の山東省とは違うのでややこしい。
一貫してそうなんだけどね、現在でも。
独立した節度使は、実際に封じられてなくても王のようなイメージだったと思える。
幽州は燕(実際に大燕と号したけど)、鎮州は趙あるいは常山(真定というときも。節度使王鎔は趙王に封じられているが)。
宋州なんかも、単に宋とか。
あと地名で太行山脈以東の邢、洺、磁は山東と書いたり。
現在の山東省とは違うのでややこしい。
112: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/12(月) 00:47:33 ID:5zSj65DP0
節度使の館って、王に封じられていなくても宦官を置いたりしたところも、あったりしたんだろうか。
113: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/12(月) 16:25:59 ID:x+uje/tP0
朱全忠が発布した、全国宦官抹殺キャンペーンに順じた連中は、たぶん以後も宦官をおくことはなかったのじゃないだろうか。
荘厳な宮殿みたいなのをもった節度使といえば、まっさきに幽州盧龍軍の劉仁恭が思い浮かぶけど、宦官がどうとかは知らない。
後唐になって荘宗が唐制の復活で宦官をまわりにべったり置きまくったから、またもとに戻ったろうね。
で、やっぱりその宦官のせいで郭崇韜のような名臣を敢えて殺すはめになっている。
荘厳な宮殿みたいなのをもった節度使といえば、まっさきに幽州盧龍軍の劉仁恭が思い浮かぶけど、宦官がどうとかは知らない。
後唐になって荘宗が唐制の復活で宦官をまわりにべったり置きまくったから、またもとに戻ったろうね。
で、やっぱりその宦官のせいで郭崇韜のような名臣を敢えて殺すはめになっている。
114: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/13(火) 01:43:32 ID:U7s5wC/i0
李茂貞の岐、劉仁恭の燕は、十国に入れてもらえないのな
115: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/13(火) 12:03:27 ID:oaPTJ0hi0
たまに勘違いされているけど、劉仁恭は正確には王でも皇帝でもなく、節度使どまり。
皇帝を称して国号を燕としたのは、息子の劉守光。
劉仁恭は、城攻めのとき穴を穿って地下道から攻めることを得手としていたので、「劉窟頭」という渾名が付くくらい勇猛な武将だった。
あるとき夢で、「49歳にして節度使となる」と書かれた幟を見たことから、不逞な野心を蔵するようになった。
この時代、「節度使になる」は、日本の戦国時代でいう「一国一城の主」に匹敵すると思う。
で、最初は幽州を我がものとしようとしたけど失敗し、のち、李克用(わりに近いところの大節度使だったから?なにかパイプでもあったのだろうか…そこまではまだ知らない)に援助を請うた。
当時の幽州盧龍軍節度使を追い落とし、幽州を占領した後節度使を自称したわけだ。
大安山に帝王さながらの屋敷を設け、美女をはべらせ、国内にはそこらへんの芝を茶と称して売りさばき、国外から流入する銅銭は一切流通させず、かわりに粘土で通貨を作り、むりに流通させたorz
李克用の後押しを得て幽州を領有したものの、その目付けとして順州という幽州にほど近い、あるいはその動きを牽制できる位置にある州に、李克用の武将が配された。
それは当然のことだったけど、劉仁恭としては目障りこの上なかった。
やがて朱全忠が李克用の羽翼をもぎとる意味あいと、幽州を我がものとした劉仁恭への懲罰のため北伐を開始する。
当然ながら劉仁恭は李克用に泣きつき、李克用は朱全忠と対するものの、肝心の劉仁恭はいきなり順州を攻めたorz
順州の刺史は郭簡といい、この戦いで戦死することになり、ある人物の生涯に大きな転機を与えている。
つまり、郭簡とはのちの後周太祖郭威の実父だったわけだ。
2歳で孤児となった郭威は苦労してやがて劉知遠とめぐり合うわけだけど、その出発点をこしらえたのが劉仁恭とも言える。
背反が日常化している劉仁恭だけど、対朱全忠という論点からは李克用の味方と言え、この背信があっても李克用は攻めなかった。
ただし、死に際李存勗に三本の矢を差出し、「この一矢で汝は劉仁恭を討て。次の一矢で汝は契丹を撃て。最後の一矢で汝は朱温を滅ぼせ」と遺言している。
劉仁恭はこのあとはあんまり活躍しなくなり(というか、大安山に籠もって酒宴に明け暮れていた?)、朱全忠が皇帝になった直後攻められ、為すところがなかったけど、それを果敢に撃退したのが劉守光。
劉仁恭の次男で、父の愛妾と密通した咎で蟄居させられていたけど、幽州の危機に軍を指揮して後梁軍を撃退した。
そこで、この劉守光が父を幽閉して、西暦の911年、幽州と滄州というふたつの藩鎮を領有し、大燕皇帝と号するようになったわけ。
ただし、913年早くも李存勗に滅ぼされたから、たぶん十国に入るほどでもないと断じられたのだろう。
しかし、この幽州軍閥には、契丹で漢人体制を作った韓延徽や、かの馮道などがいたあたり、割合重要な藩鎮ではあります。
皇帝を称して国号を燕としたのは、息子の劉守光。
劉仁恭は、城攻めのとき穴を穿って地下道から攻めることを得手としていたので、「劉窟頭」という渾名が付くくらい勇猛な武将だった。
あるとき夢で、「49歳にして節度使となる」と書かれた幟を見たことから、不逞な野心を蔵するようになった。
この時代、「節度使になる」は、日本の戦国時代でいう「一国一城の主」に匹敵すると思う。
で、最初は幽州を我がものとしようとしたけど失敗し、のち、李克用(わりに近いところの大節度使だったから?なにかパイプでもあったのだろうか…そこまではまだ知らない)に援助を請うた。
当時の幽州盧龍軍節度使を追い落とし、幽州を占領した後節度使を自称したわけだ。
大安山に帝王さながらの屋敷を設け、美女をはべらせ、国内にはそこらへんの芝を茶と称して売りさばき、国外から流入する銅銭は一切流通させず、かわりに粘土で通貨を作り、むりに流通させたorz
李克用の後押しを得て幽州を領有したものの、その目付けとして順州という幽州にほど近い、あるいはその動きを牽制できる位置にある州に、李克用の武将が配された。
それは当然のことだったけど、劉仁恭としては目障りこの上なかった。
やがて朱全忠が李克用の羽翼をもぎとる意味あいと、幽州を我がものとした劉仁恭への懲罰のため北伐を開始する。
当然ながら劉仁恭は李克用に泣きつき、李克用は朱全忠と対するものの、肝心の劉仁恭はいきなり順州を攻めたorz
順州の刺史は郭簡といい、この戦いで戦死することになり、ある人物の生涯に大きな転機を与えている。
つまり、郭簡とはのちの後周太祖郭威の実父だったわけだ。
2歳で孤児となった郭威は苦労してやがて劉知遠とめぐり合うわけだけど、その出発点をこしらえたのが劉仁恭とも言える。
背反が日常化している劉仁恭だけど、対朱全忠という論点からは李克用の味方と言え、この背信があっても李克用は攻めなかった。
ただし、死に際李存勗に三本の矢を差出し、「この一矢で汝は劉仁恭を討て。次の一矢で汝は契丹を撃て。最後の一矢で汝は朱温を滅ぼせ」と遺言している。
劉仁恭はこのあとはあんまり活躍しなくなり(というか、大安山に籠もって酒宴に明け暮れていた?)、朱全忠が皇帝になった直後攻められ、為すところがなかったけど、それを果敢に撃退したのが劉守光。
劉仁恭の次男で、父の愛妾と密通した咎で蟄居させられていたけど、幽州の危機に軍を指揮して後梁軍を撃退した。
そこで、この劉守光が父を幽閉して、西暦の911年、幽州と滄州というふたつの藩鎮を領有し、大燕皇帝と号するようになったわけ。
ただし、913年早くも李存勗に滅ぼされたから、たぶん十国に入るほどでもないと断じられたのだろう。
しかし、この幽州軍閥には、契丹で漢人体制を作った韓延徽や、かの馮道などがいたあたり、割合重要な藩鎮ではあります。
116: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/14(水) 02:16:47 ID:ohJwvZzT0
>銅銭は一切流通させず、かわりに粘土で通貨を作り、むりに流通させた
おいおい……w
おいおい……w
117: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/15(木) 14:06:40 ID:nQ1yPcdZ0
なんか、領民が逃げないように焼印を入れたのも
たしかこの軍閥だったな
たしかこの軍閥だったな
118: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/15(木) 15:19:01 ID:w4+afH9A0
酷すぐる…
119: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/15(木) 23:58:55 ID:+El2VFbQ0
乱暴な政権だなあw
この時代じゃ、節度使でこういうのは珍しくなかったのかも知れないけど。
この時代じゃ、節度使でこういうのは珍しくなかったのかも知れないけど。
引用元: ・■■■五代群雄伝■■■
馮道―乱世の宰相 (中公文庫BIBLIO)
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日本で言えば室町時代みたいな時代