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1: 日本@名無史さん 2009/01/06(火) 21:43:22
一条天皇とその后である藤原定子。
及びその親兄弟姉妹や周辺人物について語りましょう!








2: 日本@名無史さん 2009/01/06(火) 21:49:40
定子様は一条天皇最愛の后!!

9: 日本@名無史さん 2009/01/08(木) 13:13:23
一条天皇の辞世の句は定子様へのもの。
一条天皇

辞世の歌は

『御堂関白記』によれば
「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」

ただし『権記』では「事ぞ悲しき」で結び、初二句は『新古今集』巻第八哀傷歌収録では「秋風の 露の宿りに」となっている。


10: 日本@名無史さん 2009/01/09(金) 08:41:59
定子は頭が悪い

12: 日本@名無史さん 2009/01/09(金) 20:16:58
頭が悪いかどうかはともかく定子に政治力がなかったのは事実。
学才はあったけど政争に負けた伊周を見ると、兄妹そろって教養はあっても政治に関する才能はなかったのかも。
でも、だからこそ定子は愛される女だったと思う。
男はちょっとお馬鹿な女の方が好きって言うけど、一条天皇も政治に翻弄されるだけの定子の頼りなげなところに惹かれてより深く愛した。
実資が賢后と言った彰子は確かに賢くて政治能力あったんだろうけど、なんか地味というか面白みのない女って感じ。

賢しいだけのつまらない女よりも、政治に疎くても明るくて朗らかな定子が愛されるのは当然。

14: 日本@名無史さん 2009/01/09(金) 20:54:07
>>12
一条天皇は定子が去るとすぐに新しく後宮に入ってきた女性たちとなじみ
退出した元子には優しい言葉もかけていたっけ
定子は東三条院に呼び戻されるまで一条天皇に放置されていたのだし、特に一条天皇がお馬鹿な定子をほかの誰よりも愛したとは思わない
晩年には彰子の退出を惜しみ産後間もない彰子の産所へ先例をやぶって押しかけたくらいだし
賢帝と言われた一条天皇はやはり賢后彰子と言われたことをもちろん愛していたと思うよ

23: 日本@名無史さん 2009/01/11(日) 17:24:11
定子と違い、彰子は現在の天皇家の直接の先祖、つまり皇祖母

24: 日本@名無史さん 2009/01/11(日) 17:39:36
道長の悪行でそうなったんだから

26: 日本@名無史さん 2009/01/11(日) 18:00:17
>>24
道長の悪行じゃないだろ、彰子の息子達が即位したのは一条天皇の意思。
だから、敦康親王が東宮から漏れた時に叔父の隆家が一条天皇を「人非人」と非難した。
道長の所為ならば、隆家は天皇ではなく道長に対して言っていた。

28: 日本@名無史さん 2009/01/11(日) 18:14:49
>>24
中関白家は定子をはじめ人望のないもの揃いだった。
敦康親王が即位できなかったのは自業自得。
彰子に養育されたおかげで内裏に住めただけでも感謝しないと。

27: 日本@名無史さん 2009/01/11(日) 18:06:03
気骨のあった隆家の性格からして道長が権力者だから何も言えず、代わりに一条天皇に苛立ちをぶつけたなんてことはないだろう。
権力者に阿るような隆家じゃないし。

29: 日本@名無史さん 2009/01/12(月) 14:35:05
一条天皇は敦康親王を秘蔵っ子のようにかわいがってたから周囲の環境上泣く泣く親王の将来を考えたんだろう。
敦康親王は幾人かいる光源氏のモデルの1人ともされてるから。

31: 日本@名無史さん 2009/01/12(月) 18:58:21
>>29
「源氏物語」で桐壺帝は母を亡くした光君を「母親のいない子に免じて可愛がってほしい」と妃たちの局へ一緒に連れて行ったというが、敦康親王もそんな感じなのではなかったのかな。
敦康親王の魚味始めは中宮彰子が、脩子内親王の袴着は女御尊子がそれぞれ後見を務めているが、すでに母親を失っているこれらの皇子女たちを、それ以外の妃たちが死んだ母親のことは無視して後見を務めた感じがする。
ただ単に一条天皇の意思というのではなくてね。
里の失脚している敦康親王が即位できる可能性は限りなく低く、東宮だった三条天皇の四皇子のほうが可能性としては高かったために、むしろ皇位から遠いこれらの皇子女たちは他の妃たちから同情を買ったのかも。
一条天皇が泣く泣く敦康親王に帝位を譲らなかったというのではないだろう。
一条天皇が伊周を退けた時点で敦康親王の立太子はありえないものになっていたから。

30: 日本@名無史さん 2009/01/12(月) 14:53:45
別に天皇に即位することが敦康親王の幸せとは限らないしね。
中関白家としてはそりゃ即位して貰いたかっただろうけど、父親の一条天皇としては後見のない息子が即位したところで・・・と 逆に即位させたくなかったのかもしれん。
皇統は後見の強い彰子の息子達に託し、一品宮の敦康親王は政争に巻き込まれることなく一宮家として幸多い生涯を、そう思うのもまた親心だよな。
天皇に即位することが必ずしも幸せではないと一条天皇自身も分かっていただろうし。

32: 日本@名無史さん 2009/01/13(火) 00:21:34
一条天皇も成人後には花山天皇退位の経過とか分かっただろうし、だからこそ敦康親王の即位を望まなかった気がする。例え東宮にしても引きずり降ろされるかもしれないし、しかもその時には自分はいないから守ってもやれない。
だったら最初から東宮レースから降ろしてしまった方が安全。
一条天皇は結構気苦労が多かったようだから我が子が可愛いと思えば天皇として即位=幸せとは考えられなかっただろうね。
むしろ彰子に息子が産まれてほっとしたんじゃないかな、確かな後見のある親王なら心おきなく東宮に出来るから。

33: 日本@名無史さん 2009/01/13(火) 10:58:25
敦康親王の妻にもっと有力なのを早めに複数投入して欲しかった。
定子様の孫がいっぱい出来ただろうに。

34: 日本@名無史さん 2009/01/13(火) 11:38:50
多くの女性と関係しても世間が妻と認めるのは一人ないし二人。
たくさん女を侍らせていればそれでいいと言うものではない。
もっとも敦康親王は奥さん一筋で真面目な人柄だった。
実資もその死にあたって「好色な冷泉院の皇子達のようだったら、その死を世間も同情しなかった」と言っているからかなり品性方向な宮様。

ついでに当時の有力貴族といえば道長くらいしかないんだが。
まぁ四女のうち二人しか子を得なかった(うち一人は妊娠したまま死亡)道隆の娘と違って道長の娘は誰一人の例外もなく最低一人の子供は産んでいたから、敦康親王の妻となればもっとたくさんの子を残してくれたかもね。

35: 日本@名無史さん 2009/01/13(火) 20:22:14
>>33>>34
敦康親王は数え19歳で没。
この頃、体の発育は遅く、彰子も定子もこの年までに子供を産んでいない。
若年死した敦康親王が好色だったところでさほど子孫は残せなかっただろう。
後ろ盾のない宮さまの子は、男子は軒並み寺に入れられて出家させられ根絶やしにされることも多いし。
嫄子はまだ女性であったことで俗世に置かれても使い道があっただけ。
これが男子だったら、賜姓源氏ですぐに受領階級にまで落ち、子孫はのこらなかった可能性も高い。

36: 日本@名無史さん 2009/01/13(火) 21:51:00
>>35
でも早世した敦康親王の遺児が道長の孫だったら、そこまで粗略にはされないんじゃないかな?
例え男児だったとしても小一条院と道長孫娘との間に産まれた源基平程度の官位は与えられそう。

結局のところ敦康親王の一番の後見は父親の一条天皇だから、その父親がいないと頼りない身の上なんだよね。
彰子が敦成親王を産む前に一条天皇が三条天皇に譲位して、敦康親王をその東宮にしてしまえば良かったのにそれもしないし、一条天皇にとって敦康親王は可愛い我が子であっても、帝位につけるには後見の無さもあって不適正だったのかな。

37: 日本@名無史さん 2009/01/13(火) 22:05:06
>>36
あなたが思っているほど敦康親王は帝位に近くなかったと思うんだよね。
敦康親王の外戚の見事なまでの失脚ぶりは、世の人がこの皇子を振り返ることなどないようにしてしまうに十分だった。
一条天皇が生前譲位して敦康親王を東宮に立てるなんて不可能だったし、一条天皇が生前譲位するなら三条天皇の四人の皇子に帝位がいっていた可能性が高い。敦康親王が道長の娘をめとるには相当帝位に近いことが条件だったと思うが、敦康親王はそれに該当しないために道長の娘を妃にすることはなかった。

あなたが例に挙げた源基平だが、この人は参議。
娘の基子は後三条天皇の寵愛を受け、本来更衣とされるべきところを特別に大納言以上の息女のみに与えられる女御にされたとありけして帝位に近い人ではなかった。
基平の後は受領階級になってしまっている。
敦康親王と正室の間の子が男子なら、子の代は参議程度、孫の代で受領かな。
基平の子は出家させられた者が多く、途中で絶えてしまっている。

38: 日本@名無史さん 2009/01/13(火) 22:18:33
なるほど、敦康親王の外戚の弱さはそのまま帝位への距離だったんだ。
一条天皇が譲位しても敦康親王が東宮となる可能性は低かったのかな。
でも三条天皇の皇子達も、生母藤原娍子の父は既に亡く、しかも大臣になってなかったから、後見の弱さでは敦康親王とどっこいどっこいな気がする。
一条天皇・三条天皇共に東宮に立てるだけの皇子がいなかったから、一条天皇は敦成親王誕生までは譲位しなかったってこと?

39: 日本@名無史さん 2009/01/13(火) 22:30:27
>>38
たしかに藤原娍子の父は大納言のまま亡くなっていたが失脚することも貴族社会に恨みを買うこともなかった人。
これまでにも即位時に外戚が大臣以下であった天皇はいたし天皇になれば外祖父や外祖母に贈位することは通例だったから、外戚が内裏にすら参内できない敦康親王とは比べ物にならなかっただろう。

もっとも、一条天皇の後宮には現役三大臣の娘(左大臣道長の娘彰子、右大臣顕光の娘元子、内大臣公季の娘義子)があったのであり、彼女らの所生ならば東宮に立つのに何の支障もない。
また、一条天皇がむやみに彼女らの可能性を奪って譲位をしようものなら娘を入内させている3大臣の恨みを買うことにもなっただろう。
結果的に左大臣道長の娘彰子が第二皇子敦成親王を産むこととなり、一条天皇は彰子の皇子を東宮に立てることを条件に三条天皇に譲位している。

40: 日本@名無史さん 2009/01/13(火) 22:42:57
>>38
藤原顕光などは長女元子を一条天皇に入内させる一方、次女延子を早くも三条天皇の長子敦明親王に入れている。
藤原隆家が敦明親王の同母弟敦儀親王と長女を結婚させようとしたところ道長の不機嫌のために延期されたなどという記録もあり、三条天皇の四皇子は早くから目をつけられた存在だったんだね。

一方、敦康親王の嫁の選び先は養母彰子が頼通に養女との結婚を要請したのみで貴族たちが敦康親王の後宮に娘を入れたがった様子は全く見受けられない。
将来有望であると貴族たちに目をつけられる存在ではなかったようだ。

41: 日本@名無史さん 2009/01/13(火) 22:43:38
別に皇子を産むのは彰子ではなく義子でも元子でも良かった。
敦康親王は東宮には不適正だけど、彼女らの皇子ならOKだったってことか。
一条天皇が敦康親王を即位させたければ、外戚の中関白家及び高階一族を復権させれば良く、そうしなかったのは、他ならぬ一条天皇自身が敦康親王の即位を望んでいなかったからとなるね。

ならどうして彰子は敦康親王立太子を阻んだと父道長を恨んだり、行成が「敦康親王は伊勢に不敬のあった高階一族の血を引くから~」とか言ったんだろう?
一条天皇の意思が敦康親王にないことは身近にいた二人なら分かっていただろうに。

44: 日本@名無史さん 2009/01/14(水) 19:45:05
>>41
彰子が道長を恨んだというのは確かに疑問が残る。
自分が皇子を産めばその子が敦康親王を越えて即位することは最初から分かり切っていたことで、一条天皇と彰子はそれを十分承知の上で子づくりに励んでいたのだろうから。
継母の彰子がなさぬ仲の敦康親王のためにわが子すら差し置いて、というのはどうも矛盾が多く、「栄華物語」の一説は彰子を美化するために付け加えた一説だと見ることもできる。

また、一条天皇は行成に対して「帥宮(敦康親王)をどうすべきか」と尋ねており、別段敦康親王を東宮に立てるために知恵を貸せなどと言っているわけではない。
行成が道長との間を奔走して一品が与えられることになったことで一条天皇は十分満足しており、これ以上敦康親王に何も望まなかった気がする。
むしろ、敦康親王の将来について期待することが大きかったのは、一条天皇ではなくむしろ親中関白家であった行成のほうだろう。「権記」によれば、行成が敦康親王と脩子内親王姉弟の方違えに頻繁に奉仕している様子が見える。
さすがに世間がわからないわけではない行成は彰子が敦成親王を産むと生後半年の敦成親王の顔を初めて見たときの感想として「帝王の相がある」などと日記に書き付けているわけだが、行成はもともと敦康親王の身辺にあった人物。
行成は期待を寄せて世話をしてきた敦康親王が立太子できないのをどうにもできない高階氏の血のせいにでもしなければやってられなかったのかも。
実際には後の世に多少遠いが高階氏の血を引く天皇や高階氏出身の寵妃を侍らせた天皇はいるのだし、母親が高階氏の定子も入内・立后する際にそれがとがめられることは一切なかったので別段敦康親王の祖母が高階氏であることと敦康親王が太子になれないことに因果関係はないのだが。

45: 日本@名無史さん 2009/01/15(木) 13:07:37
行成(字が上手い)は、道長の犬だけど。

46: 日本@名無史さん 2009/01/15(木) 19:55:03
>>45
行成が道長の犬になったのは後一条天皇即位後だろ。
道長の六男長家を長女の婿にするために奔走、長家に不憫な生活はさせられないと自ら志願して太宰権帥になったりしている。

「権記」を読んで御覧。
定子が敦康親王を産んだとき「天気快然(一条天皇の機嫌がことのほか良かった)」と書いたり、中関白家を称賛する言葉が並んでいるよ。

56: 日本@名無史さん 2009/01/18(日) 20:48:38
四の君と定子様は似ていたんだろう、定子様の面影が強くある四の君を定子様のことを恋しく思い出し、恋人にして妊娠させたんだろうね。
御匣殿(みくしげどの、生年不詳 - 長保4年6月3日(1002年7月15日)は、平安時代中期の女性。一条天皇代の後宮の女官で、皇后定子の御匣殿別当。本名は不詳。関白藤原道隆の四女、母は高階成忠の娘・正三位貴子。

母を同じくする長姉定子(一条天皇皇后)に御匣殿別当として仕え、『枕草子』にも幾たびか登場する。『栄花物語』「鳥辺野」の巻によれば、死を予感した定子より姪の脩子内親王・媄子内親王、甥の敦康親王の養育を託され、長保2年(1000年)12月に定子が亡くなったのち、3人の遺児の母代となった。

皇子女たちの世話をしているうちに、皇后定子を失った一条天皇の心を捉え、やがて寵を受け懐妊した。同母兄の伊周・隆家らは皇子誕生を願って喜んだが、里に退出した彼女は身重のまま没した。美しく控えめな性格の女性であったといい(『大鏡』『栄花物語』)、天皇は定子に続く彼女の死にいたく落胆した。


57: 日本@名無史さん 2009/01/18(日) 21:03:21
妊娠させたところで女官の子なら認知されずに僧にされるか受領になるだけなのにね。

58: 日本@名無史さん 2009/01/21(水) 10:52:31
四の君は定子様の妹だから子供が出来ていたら親王、内親王にはなれたよ。

60: 日本@名無史さん 2009/01/21(水) 19:36:38
>>58
四の君が里へ帰るときには兄の伊周らが恥を忍んでこっそり退出させたとあり、一条天皇は知らん顔だった。失脚した定子の皇子女ですらなかなか親王・内親王宣下を受けられなかったのに、一条天皇は女官腹の子を認知することすらなかっただろう。
一条天皇の子後冷泉天皇も女官に手をつけてしまったことがあったが、こっそり受領の養子に出されていて、一生親子名乗りなどできず子も受領として一生を終えた。

61: 日本@名無史さん 2009/01/21(水) 20:25:02
一条天皇は四の君寵愛の頃は四の君がNO1の恋人だったと思う。

62: 日本@名無史さん 2009/01/21(水) 21:20:26
恋人だろうがなんだろうが、賢帝である一条天皇は道理に合わないことはしないよ。
罪人である兄伊周を匿った定子は蟄居させ続けたし、女官の四の君が子供を身籠もっても認知しない。

公私(政治と恋愛)の区別はしっかりつけていた。

64: 日本@名無史さん 2009/01/22(木) 08:57:28
>>62
その時までに帝の子を宿していたのは中関白家の娘だけだよね。

66: 日本@名無史さん 2009/01/22(木) 14:51:52
>>64
中関白家ではない元子も妊娠してるよ。
藤原 元子(ふじわら の げんし(もとこ)、生没年不詳)は、平安時代中期、左大臣藤原顕光の長女。母は盛子内親王(村上天皇皇女)。一条天皇の女御。

長徳2年(996年)11月14日一条天皇に入内、同年12月2日女御宣下を受ける。長保2年(1000年)8月20日従三位、寛弘2年(1005年)1月13日従二位に叙される。

長徳3年(997年)10月、懐妊の兆候が見られたため、同年暮れに堀河院へ退出。このとき退出の一行が弘徽殿の細殿を通るのを、弘徽殿女御である藤原義子(藤原公季の娘)の女房達が群がり、御簾越しに見物していた。元子の女童がこれを見て、「簾のみ孕みたるか」(女御は懐妊せず、簾のみが膨らんでいる)と言って嘲弄した。弘徽殿の女房達はこれを聞き、悔しい思いをしたという。

しかし翌長徳4年(998年)6月、体内から水のみが出てきただけでこの妊娠は終わった。


67: 日本@名無史さん 2009/01/22(木) 17:51:20
>>66
妊娠してないけど(女御としては)帝以外の男の子供は妊娠したけど

69: 日本@名無史さん 2009/01/22(木) 18:31:52
>>67
元子は結果的に水を産んだわけだから本当に妊娠したかは定かではないけど、あの時代の人間、夫・一条天皇を含めた人々は彼女の妊娠を疑わなかった。
ついでにそれは間違いなく一条天皇の種だった。

四の君は妊娠したまま死んでしまったから本当のことは分からないけど、解剖してみたら案外想像妊娠だった可能性もあるし、元子のように水を産んだ可能性もある。
実際に子供が産まれてみなければ本当の意味で妊娠の有無は分からない。

結果的に一条天皇の子供を産んだのは、定子と彰子のみ。

70: 日本@名無史さん 2009/01/22(木) 19:50:52
>>67
元子は女御時代、妊娠を発表しているよ。
藤原顕光と盛子内親王(村上天皇第五皇女)の長女として誕生した元子は、長徳2年(996年)11月13日、一条天皇に入内。同12月1日、女御宣下を受け、与えられた殿舎の名から承香殿女御と呼ばれた。
翌長徳3年、元子は一条天皇の子を懐妊したことを発表、当時ともに一条天皇の後宮にあった義子の女房らの羨望のまなざしの中、大々的に退出。
ところが産み月になっても元子に出産する気配はなく、父顕光とともに太秦の広隆寺におこもりしたところ、寺で産気づくが、水が流れ出るばかりで子はまったく出てこなかった。(水を産む云々は栄花物語のみにある話なのでぼやかした言い回しになってるかもしれないが)
この事件により元子は一条天皇の内裏に戻れなくなり里がちになってしまったらしい。

おたくが言っているのは一条天皇の没後、元子が源頼定との間に娘を産んだという話でしょ。
頼定との間にはたしかに娘が生まれたらしいから元子が頼定との子を産んだのは確実だけど、元子は女御時代にも一条天皇の子を懐妊したと発表したことはあるって話。

73: 日本@名無史さん 2009/01/22(木) 22:37:08
元子は、京大の有名な学者さんが、腹水のたまる婦人科系の病気か、それに伴う流産だったんじゃないかって書かれてる。
高貴の女御について、小さい赤ちゃんが死産で出て来た、とはあからさまに当時流布させられないだろう。
その後普通にお産されてるから、医学らしい医学の無い当時で、自然にリカバー可能な病気だったんだろうけどね。

75: 日本@名無史さん 2009/01/23(金) 19:45:40
>>73
死産は記録に残っているよ。
同時代でも、後冷泉天皇の女御藤原歓子(のちに皇后)が、永承4年(1049年)3月14日、男子を死産したことが記録に残っている。
また、流産も記録に残っており、康和元年(1099年)4月4日、堀河天皇の女御藤原苡子が流産した(性別不明)記録が残る。

死産した歓子や流産した苡子がその後天皇のもとへ戻れなくなったということはありえず、栄花物語にこのことが原因で里がちになってしまったという元子の状態が流産や死産と異なるのは明らかで、ようするに胎児を懐胎していなかったのだろう。
想像妊娠でも生理が止まり、腹が膨れることがあるそうなので、そもそも妊娠すらしていなかった可能性がある。
婦人系の病気持ちだとはいっても、元子は一条天皇が没した後、そこそこの高齢出産で源頼定の娘を安産しているので、当時20代前半ぐらいの元子が重い婦人病を患っていたとも思えないし。

88: 日本@名無史さん 2009/04/07(火) 18:58:50
水を産んだってのは、確か寺だか神社だかじゃなかったっけ?

寺とか神社とかで出産(しかも死産)てのは当時はケガレ深い、って考えられて、公表できなかった、とは考えにくいかな?

89: 日本@名無史さん 2009/04/08(水) 20:17:13
>>88
元子が産気づいたのは広隆寺ね。
寺で産をするのがそんなに縁起が悪いならそんなことをそもそも元子が寺で産気づいたことを載せんだろ。

それに、元子は産み月になっても全く産をする気配がなく、月日は過ぎ、あまりにもおかしいので仏にすがるしかない、と父顕光と一緒に広隆寺にお籠りすることになったはず。
臨月に出産していれば元子はたとえ死産だろうが自宅で出産していた。
元子の妊娠に何らかのおかしい点があったために異例の妊婦姿での寺へのお籠りという事態になったということをまず考えるべきだろう。

91: 日本@名無史さん 2009/04/09(木) 19:56:04
>>89
妃が産をするときには天皇から女官が遣わされてくる。
「紫式部日記」などには彰子が敦成親王(後一条天皇)を産む際の詳細な記録が残っているが、彰子が苦しんでいる几帳のすぐ外には宮中から使わされてきた女官たちが控えて逐一宮中に産の進み具合を報告する義務を負っていた。
一件の後、一条天皇からも東三条院からも女官が遣わされたようだし、嘘の報告を宮中にするほうが罰当たりだと思われる。
流産、死産はこの時代今よりもはるかに多くあり、流産、死産したからと言ってそれが原因で妃が宮中に永久に戻れなくなることなどなかった。
産も汚れだが、妃は2~3か月自宅で療養したあとその汚れた我が子を抱いて宮中へ戻るわけだし。
顕光は、道長の娘彰子が幼い今、元子が男子を産めば第一の東宮候補で一躍政界のトップに躍り出ることができ、死産や流産なら元子は宮中に戻って次の子を狙えるのに、あえて水を産んだために娘を宮中に戻れなくするのは意味はない。

一条天皇は汚れを関係ないと思っていた、というのは誤り。
定子の産んだ皇子女たちは母定子の喪が明けるまで参内できなかった。
当時の風習を守ることが帝王の務めでもあったしね。
死産や流産なら元子はまた産の汚れがとれ、喪が明ければ宮中に戻れる。
元子がそれ以来里がちになりずっと宮中に戻れなかったのはけがれのためではなく女房たちまでがあれほど得意気になって退出したのに水を産むというおかしな事態になって宮中で笑い物になっていたためだよね。


90: 日本@名無史さん 2009/04/09(木) 09:47:07
えーと、というか、縁起が悪いとかそういう類でもなくて。
あくまで、説明しにくいけど、ケガレ(死・血・出産)思想関連で。
天皇の女御ともあろう人が、寺で出産(ケガレ)・しかも死産(ケガレ)。
それを隠そうとして、なかなかそんな病気はないんじゃないか、的な、水を産んだ、というかなり無理がある説明になっちゃったんじゃないかな?筆者も元子を守ろうとして。

だから元子も自分がケガレているから参内するのを自重して、それを一条が大丈夫だよ、戻ってきなよ、という流れだったのかな?と。

定子が亡くなったときも、一条は、我が御幸ともしずやあるらむ、と詠んでるし、ケガレなんて関係ない、と思ってたのかな、とエスパー。


引用元: ・定子様と中関白家を語ろう


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『源氏物語の時代』一条天皇と后たちのものがたり (朝日選書) 単行本 – 2007/4/10 山本 淳子 (著)