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1: 日本@名無史さん 2024/02/17(土) 20:10:52.65
かたれる奴はいるか







享徳の乱(享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した。

現代の歴史研究において、享徳の乱は、関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている。




6: 日本@名無史さん 2024/02/18(日) 02:35:38.79
上杉一族が死にすぎな乱

8: 日本@名無史さん 2024/02/18(日) 03:05:21.63
>>6
慥かに庁鼻和性順、扇谷顕房、小山田藤朝、犬懸憲顕、扇谷政真等上杉一門の非運は目立つが、それに限らず管領方も御所方も二十九年間に戦死を含めて激しく世代交代した。
乱勃発当初の主役たちが長尾景仲、扇谷持朝、上杉房定、武田信長、里見義実等永享ノ乱以来の古参であったことを改めて想起されたい。
乱終結時のビッグネームたち、山内顕定、扇谷定正、太田道灌、長尾景春、千葉孝胤等は当時ほんの若輩者かガキに過ぎなかったことを思うと目眩さえ覚える。

その中で殆ど唯一人、最初から最後まで戦闘的に戦い抜いた古河成氏の化物ぶりが際立っている。
床屋政談的な人物談義の好きな連中が何故この化物をもっと語らないのか、不思議でならない。

9: 日本@名無史さん 2024/02/18(日) 17:02:34.61
里見義実て実在したとみていいの?
稲村の変での歴史書き換えと系図書き換えで作られた架空人物だと言う説もあるそうだけど

10: 日本@名無史さん 2024/02/18(日) 18:19:50.05
>>9
架空説も根強いな。
実在説の論者間でも出自については諸説紛々。
但し「古河成氏の意向により安房國に侵入して管領方勢力を掃討した里見某なる者」の物理的実在は争う余地が無い。

もちろん某の実名が義実であったか、その史実としての事蹟が軍記や系図の伝承と整合するか、と云うことはまた別の問題だ。
或いは里見某についても伊勢宗瑞の如くいつか実像解明の日が来るかもしれない。

11: 日本@名無史さん 2024/02/18(日) 21:34:19.27
最初から最後まで公方側についていたのはどの家だっけか
小山や宇都宮は途中で幕府側に転向したんだよね

13: 日本@名無史さん 2024/02/19(月) 00:41:10.10
>>11
すぐ思い付く所では簗田、野田、一色、真里谷、そして議論の余地はあるが里見と云った辺りが一貫して御所方。
千葉は「人」に主体を置くと乱序盤の内訌から管領方に転じたと云えるが、「家」主体では御所方であり続けた。
むしろ最後は御所が千葉を切り捨てたわけだが。

15: 日本@名無史さん 2024/02/19(月) 01:03:49.33
千葉は和平には反対し続けたから御所とも手切れとなったという認識でいいか?

17: 日本@名無史さん 2024/02/19(月) 01:54:41.52
>>15
だと思う。
それ以外の考察は見たことがない。

政治目的達成の為に党派中枢が敵と妥協しつつ味方の尖鋭分子を切り捨てる事例は古今東西珍しくないわけで…。

23: 日本@名無史さん 2024/02/23(金) 20:59:50.45
>>13
桐生佐野氏は直臣なのに何故寝返ったの

28: 日本@名無史さん 2024/02/24(土) 22:35:53.30
>>23
桐生佐野大炊助直綱のことなら、一般には先に管領方に寝返った近隣の岩松等からの激しい攻勢に堪えかねて…と云う。
 
しかし私見では、文正元年(1466)という時期からみて寛正大飢饉の余波としての事案ではないかと考えている。
もともと享徳ノ乱に於いては各氏の内訌に御所vs管領の大構造を引き込む事例が頻発するが、論外の大飢饉を受けて各氏の所有する社会資源の総量が年々縮減する中、宗家と庶流の紛争は「ゼロサムゲーム未満」、つまり縮むパイを取り合う陰惨熾烈の度合を高めて行ったと推測される。
この生物学的危機の前に「直臣」なる共同幻想は平時の重味を喪失していたことだろう。
佐野氏一門にもこの波が及んだとは考えられないだろうか。
宗家が古河方を維持する状況で桐生は管領方に転じてその支援の下に一門のパイ全てを獲得せんとしたのではないか。

素人の想像ではあるが時代の一般原理に基づく考察は無意味ではないと思っている。

29: 日本@名無史さん 2024/02/25(日) 01:45:19.73
しかし佐野も実に解りづらい。
 
桐生の動向とは別に文明三年(1471)には室町将軍足利義政の調略を受けて宗家も管領方に変わったようだ。
但しその当主の実名が解らない。
そして翌年には早くも御所方に出戻ったがその経緯が解らない。
この間の宗家と桐生の関係が解らない。
「佐野伯耆守盛綱」なる名前は認められるが乱勃発の頃の驍勇「佐野伯耆守」「佐野宮内少輔」との関係が解らない。
しかも実名が盛綱である当主は時代を変えて複数いるから余計に解らない。
 
しっかり理解している賢者の教えを請いたい所だ。

31: 日本@名無史さん 2024/02/27(火) 00:35:28.18
黒田基樹氏によると享徳ノ乱から長享ノ乱に関わる時代の桐生佐野の当主は
直綱-重綱-助綱-直綱-重綱

一方、同時代と見られる宗家佐野の当主は
盛綱-秀綱-泰綱-豊綱
…辺りのようだが盛綱の父或いは祖父に重綱があり、江戸時代初期に直参旗本となった者に盛綱があると云う。
 
お前らやる気あんのかよ真面目にやれよと小一時間問い詰めたい。

35: 日本@名無史さん 2024/03/01(金) 12:12:17.10
桐生佐野の一門は小弓公方家に臣従して娘から豊臣秀吉側室を得て喜連川藩成立の礎になるんだな
子孫は喜連川藩家老となる

18: 日本@名無史さん 2024/02/20(火) 16:46:57.82
幕府の力や権威が嘉吉の乱で義教が暗殺されてから落ちていたのだろうか
いくら動乱が各地の家にあったからと言っても、永享の乱では南部氏の出陣の形跡まであるのに、従ったのは越後の上杉と今川ぐらいとかなあ

19: 日本@名無史さん 2024/02/20(火) 22:08:38.88
>>18
端的に云うと「それどころじゃねえんだよ後にしてくれよ」ってことだろう。

災害飢饉年表など調べてみるとよく解るんじゃないか。
「動乱が各地の家にあった」ことの、更にその根本原因がより深刻化していたからだと推測される。

22: 日本@名無史さん 2024/02/23(金) 04:13:08.41
初期の上杉勢の敗勢を覆して、講和の仲介となった上杉房定と、中盤古賀公方を圧倒して古賀を一時でも占領した長尾景信はもっと注目されるべき
太田道灌は長尾景春の乱鎮圧では目立ったが享徳の乱ではあくまで景信らの配下

25: 日本@名無史さん 2024/02/23(金) 21:31:06.48
>>22
戦争の表面的な経緯だけを追えばその見方も解らないではない。
しかし享徳ノ乱の構造的本質、即ち「権力構造の変革」に関して担った機能を考察すれば太田道灌家宰期扇谷権力体の画期性は疑いを容れない。
長尾景信は山内権力体の地域権力化についてはむしろ反動として機能したと思われる。
上杉房定や太田道灌と同列に論じられるものではないだろう。

24: 日本@名無史さん 2024/02/23(金) 21:03:58.49
上条上杉とか能登畠山とか長尾臣下になっていったのは幸せだろうな
結城氏とかももはや家名の存続のみ願うようになっていった感がある

34: 日本@名無史さん 2024/03/01(金) 11:46:05.37
イフを考えてもしょうがないが鎌倉公方が関東をガッチリ平定して徳川家康みたいに大勢力として割拠できたのかどうか
大抵は継承戦争で弱体化していってるけれども
酷いときには親子間でさえ内紛起こしてるし

36: 日本@名無史さん 2024/03/02(土) 23:20:19.86
>>34
享徳ノ乱を通じて古河は利根川左岸に根付いた地域権力として確立しかかっていたが、当時の自然環境条件、生産技術、交通技術、経済状況、暴力装置の規模、…、等々から考えてその先の展望は開き難かったのではないか。
足利と徳川の間には百四十年の時間が横たわっている。
現代なら容易なことが明治前期にはどうだったかと云うことだろう。

37: 日本@名無史さん 2024/03/03(日) 17:49:44.03
>>36
もしイフを立てるとしても享徳の乱後では関東支配が限定的になり過ぎて無理なんだろうな

38: 日本@名無史さん 2024/03/03(日) 23:21:54.04
関東抑えたとしても後継者争いの規模が大きくなるだけ
執権北条氏の争いや他氏排斥事件は標的の暗殺や急襲による比較的小規模で短期間の戦いで終わってたが、足利氏の内紛は長期化、大規模化しやすい

40: 日本@名無史さん 2024/03/04(月) 15:20:09.09
内乱が大体の原因と思うな
領土紛争も継承争いも内乱の一種かなと

やっぱ江戸幕府の強制力は凄かった
紛争全部強制力で治めてくれる
江戸幕府自らが継承争いしてたら260年も平和は続かなかったろうな

しかし足利義政期は将軍自体の継承争いは無かった
なのに強制力は弱かったね 斯波氏も言うこと聞かないし
年少だったからか義教暗殺の余波なのか

42: 日本@名無史さん 2024/03/04(月) 20:30:16.92
>>40
ではその「内乱」が何故あれほど長期にわたって頻発したのか、と。
享徳ノ乱だけでも三十年。
ヒトが生物である以上は余程の理由が無ければそんなに自らの個体生命と遺伝子を断絶の危険に曝し続けたりはしない。
そこが根本だろう。

43: 日本@名無史さん 2024/03/05(火) 07:03:06.62
>>42
やっぱ強制力は大きいと思うよ
今も強制執行できる警察力あるし江戸幕府もあった
紛争を解決できる司法と言えるものも存在する

一方室町時代の執行力は地域限定的

41: 日本@名無史さん 2024/03/04(月) 19:46:15.91
室町幕府は京都の将軍の権威=統治力という体制だったからな
足利義教のような強い人物が将軍で無ければ統治力が失われてしまう
これは韓国や中国といった中央集権体制を整えた国々からみたら丸で政府の体をなしていない

44: 日本@名無史さん 2024/03/05(火) 07:11:01.96
国民はルールが恣意的(不平等)と見なせば言うことを聞かなくなって紛争の解決を国に委ねず個々にやりだす
室町時代はおそらくは国のトップの将軍(あるいは管領などのナンバー2)がそう見えたので戦乱が続いたのだと思うわ

45: 日本@名無史さん 2024/03/05(火) 07:17:01.40
1番恣意的に見えるのは国のトップが継承争いをすることで、南北朝の先例や将軍自身の継承戦争、管領、諸勢力の継承戦争については片方に肩入れし成功すればひっくり返せる

46: 日本@名無史さん 2024/03/05(火) 07:21:21.44
斯波家一つを見るだけで二つの派閥が片方優勢にはなるがある時期を越えるともう片方が優勢になるを繰り返している
劣勢でもいつか勝てると思ってたら諦めない
状況がコロコロ変わり戦乱が終わらないわけだ
これは細川家、将軍家にも言える
鎌倉公方家も相手を関東管領に変えたり身内に変えたりして続けている

56: 日本@名無史さん 2024/03/08(金) 03:47:43.39
幼主の場合は重臣同士で争いがおきやすい
三人そろえば派閥ができるというように
派閥同士で争ってしまう

57: 日本@名無史さん 2024/03/08(金) 10:55:09.08
派閥で勝ったほうが主家を操れるし重臣が幼君の叔父などの一門ならば上手くいけば下剋上できるしな

代わりに家宰家は幼君では務まらないから最年長者相続制で持ち回ったりしてるな

162: 日本@名無史さん 2024/03/30(土) 17:47:06.11
戦国板の或る古いスレッドを流し読みしていたら、
「古河御所なんて田舎の小勢力、享徳ノ乱なんて地方の騒乱。幕府が本気を出していたらすぐに鎮圧できていた筈。」
などと云う書込があった。
2010年ぐらいの書込だったが、その当時でもこれは認識不足としか云いようが無い。
 
幕府が本気になって関東はもちろん甲信越駿遠、更に南奥の大名や國衆にも大号令を発して「武家御旗」「天子御旗」まで下したのに鎮圧できず、却ってその余波で応仁ノ乱が勃発してしまったぐらいの大規模重要事案なのだが…。
 
明応政変の過大評価も併せて中央偏重・京都偏向の歪んだ史観がどうにも抜き難くて困惑する。

163: 日本@名無史さん 2024/03/30(土) 19:15:28.49
今川、越後上杉は動いたがあとの小笠原や奥州諸豪族は笛吹けど踊らずで

164: 日本@名無史さん 2024/03/30(土) 19:32:14.14
>>163
更に斯波に至ってはそもそも幕命を奉ずる気さえない、と。
本気本腰でその状態だったわけだから、それが幕府の「最大限」だったと断定して可だろう。
 
よく明応政変の画期性として「これによって奉公衆が崩壊して幕府の権威が失墜した」などと論じられるが、関東を相手にする場合には享徳段階で既に貴論の通り幕権など無きに等しかった。
荒廃して行く社会状況に何ら有効な政策を打ち出せない以上は当然だが。

165: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 01:59:27.50
義教の時は皆従ったのにね
義政ではダメだったか

166: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 02:01:26.53
義政は義満の真似事で慈照寺建てたり、義教の真似事で関東対策をやったりと、一応方針らしきものはあるがオリジナリティは無かったか

167: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 03:34:26.95 BE:412670722-2BP(1000)
義教が殺されたときにすでに幕府の権威と力は落ちていたとか
本当に享徳の乱のときの大名は内部抗争や疲弊で動けないところが多かったとかあるかもしれない
斯波は論外だが

168: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 07:51:43.17
だが義教生存のころ、特に永享の乱鎮圧直後幕府権力は相当高かったはず
将軍の死は権威を下げる一因にはなっただろうが、何故次世代はそうならなかったのか

169: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 12:01:50.83
他ならぬ足利義教将軍期の幕政そのものが将軍権威失墜の種を蒔いた。
どの大名領国の在地も災害・飢饉に喘ぐ時代、中央権力がやらなければならなかったのは窮民救済と防災対策だったのに、実際にやったのは度重なる遠方への動員命令と恐怖政治。
その政策がもたらしたのは在地の更なる疲弊・荒廃だった。
誰が将軍の命令なんぞ聞くかよ馬鹿馬鹿しい、ということになる。
 
義教が殺されたから失墜したのではなくて、失墜が進行していたから殺された。
次代以下はそのツケを払わされたと云うのが真実だろう。
 

170: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 13:50:30.56
義政期の諸勢力の動静は完全に「利になりそうなら動く」
なので指摘は正しいと言うならそうだが、義満期でさえ動員&討伐の動乱は繰り返していたはず
義詮以前は動乱が常態だったし
義教期と義満期でやってることにそう差は無いようにも見えるが
これは義満の守護大名の操縦が上手かったのか?

171: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 19:44:32.44
>>170
> 義満の守護大名の操縦が上手かったのか?
 
義教の粗雑、義政の拙劣と比べればそれは慥かにあるかもしれない。
力づくで叩き潰したり人の神経を逆撫でしたりすれば収まるものも収まらない。
 
その他、
在地の疲弊荒廃の進行度が累積的に作用したこと、
荒廃の強度そのものが亢進して行ったこと、
等に注目している。
『日本中世気象災害史年表稿』に拠りつつ義満から義尚までの各将軍在位期間中に於ける気象災害記事件数と年平均件数を算出すると以下の通り。
・義満:37件 年平均1.37件
・義持:51件 年平均1.75件
・義量:02件 年平均0.67件
・空位:09件 年平均1.50件
・義教:39件 年平均3.00件
・空位:03件 年平均0.50件
・義勝:11件 年平均5.50件
・空位:26件 年平均4.33件
・義政:63件 年平均2.42件

172: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 20:19:03.66
まー豊かだったら分家作って分割相続出来たものが継承戦争だらけだもんなあ
それだけ土地が荒廃していたことの裏返しと取れなくもないか
江戸期も普通に宗家争いあるけど分家作るか幕府に裁定してもらっているけどそれが無くなったか

58: 日本@名無史さん 2024/03/09(土) 19:45:47.95
軍事面でのメルクマールとなった、文明三年から四年(1471~1472)にかけての古河争奪。
 
管領方は敵の本拠地を攻落占拠するという大戦果を上げながら僅か八箇月で御所方による奪還を許している。
詳細経緯は史料不足で不明とのことだが本当に不可解としか云いようがない。
それこそ五十子陣を空にしてでも総力を挙げて古河を確保し続けなければいけない局面だし、小山、佐野、宇都宮までもが管領方になった情勢下では不可能ではなかった筈なのだが…。
 
同年に旱魃飢饉の記録が激増していることから見て軍勢の維持が困難になったかとも思えるがそれは御所方も同じこと。
軍事/政治意識の上で利根川を「超えられなかった」のか。
それとも『太田道灌状』に散見される管領方戦争指導部内の不協和音がここでも響いたのか。

59: 日本@名無史さん 2024/03/11(月) 10:17:49.42
足利荘とか新田荘が維持できなくて背後から補給線断たれる可能性を考慮したんじゃないの
これが大将の邪推なのか古河方の策略なのかは知らないけれど

60: 日本@名無史さん 2024/03/13(水) 02:02:17.56
>>59
黒田基樹氏の著書に拠ると、古河攻略に先立つ文明元年(1469)八月には新田庄、翌文明二年(1470)五月には足利庄及び佐貫庄を管領方が制圧。
周囲の小山、佐野、宇都宮、桐生、岩松、…は管領方に転向済。

一見磐石に思えるが支配維持を困難にする要因が何かあったのかな。
それとも既に地域権力化していた古河御所をその地域=経済基盤から切断してしまえば早晩立ち枯れるだろうと踏んだか。

61: 日本@名無史さん 2024/03/13(水) 03:55:47.56
というか帰還は鎌倉でなくて古賀なんだな
鎌倉のほうがちかいのに

63: 日本@名無史さん 2024/03/13(水) 18:56:51.22
>>61
そもそも足利成氏が乱の初期から古河を本拠地として選んだのは何故か。
それを考えれば容易に解る。

鎌倉に還っても経済基盤が殆ど無い。
周辺に御所直轄領が集中所在しているわけでもない。
國衆化した奉公衆が周囲を固めている強味もない。

軍事的には、鉄板の管領方地盤である相模國で鎌倉と云う「点」だけ占拠しても防御困難。
自然地形が致命的に悪い。強固な城館も無い。
史実でも五度、「成氏が鎌倉を奪還した」と云う仮構を構えれば「六度」も陥落している。
 
鎌倉を拠有しても広域的水陸交通掌握の利得が無い。
利根川水運と陸上要路を押さえ得る古河~関宿ラインとは比較さえできない。

65: 日本@名無史さん 2024/03/13(水) 20:11:24.39
失敬。
史実の鎌倉陥落は六度だった。

・元弘ノ乱(北條高時←新田義貞 他)
・中先代ノ乱(足利直義←北條時行)
・南北朝動乱(足利義詮←北畠顕家)
・上杉禅秀ノ乱(足利持氏←犬懸禅秀)
・永享ノ乱(足利持氏←山内憲実 他)
・享徳ノ乱(足利成氏[不在]←扇谷持朝 他)

62: 日本@名無史さん 2024/03/13(水) 11:50:02.68
鎌倉は今川と近いしね
まだ早雲も今川方だし
武田や斯波の侵攻可能性もある

64: 日本@名無史さん 2024/03/13(水) 19:23:19.56
>>62
享徳ノ乱に於ける管領方の鎌倉制圧当時(文明三年[1471])、伊勢新九郎盛時は荒廃の京都を彷徨う十六歳のガキであって未だ何者でもない。
やっと元服したかどうかの時期だ。
その生活には「関東」など1μmも存在していなかったろう。
盛時の駿河下向は長享元年(1487)を俟たなければならない。

67: 日本@名無史さん 2024/03/14(木) 08:22:09.99
>>64
そんな若造が長尾景春と共闘するとこれが面白いな

74: 日本@名無史さん 2024/03/17(日) 02:41:55.96
乱初期の享徳四年(1455)段階で島河原、分倍河原と惨敗して、特に後者では将領クラスが壊滅した管領方が、同年のうちに大袋原、三宮原、更に穂積原と連勝して巻き返したのは殆ど越後上杉の関東進撃に拠るものだった。
この時点で享徳ノ乱の実態は純軍事的には利根川左岸vs越後上杉の構図になっていたとさえ云える。しかもその主宰者上杉房定は関東介入の傍ら本国に於いては「戦国大名」権力構造の確立をも果たしている。
後年の房定子息顕定の山内入嗣まで併せて房定期越後権力体の画期性やこの大乱に於ける存在意義はもっと広く深く議論されなければならないものだと強く思う。
 
尤も、当時の壊滅的な生産状況下ではかなり無理も重ねたのだろう、次代上杉房能期に至って在地の憤懣を糾合した長尾為景の蹶起を招いてしまったのは皮肉と云うべきか。
それともメタ的にそこまで含めて「戦国」の象徴と評するべきなのだろうか。

75: 日本@名無史さん 2024/03/17(日) 04:30:24.66
後代長尾氏に傀儡擁立されたりするスキがある間は戦国大名化に成功と言うには難しい気もするけど
生産性が低いと平和裏に分家を新設する余裕が無くて家督争いが発生しやすいのかもしれん

引用元: ・戦国時代の始まり?享徳の乱について


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享徳の乱と戦国時代 (1) (列島の戦国史 1) 単行本 – 2020/5/29 久保 健一郎 (著)