1: 世界@名無史さん 2007/01/08(月) 20:39:54 0
かねてから言われていた始皇帝の悪政=万里の長城、阿房宮の建設、焚書坑儒、法律の乱発などで国民の反発をかって滅亡したというのはなんか単純なきがするんですが
漢の武帝も宮殿は作るは、匈奴戦争を半世紀も続けるは始皇帝以上に悪政だったのに漢はずっと続いたし、もっと他に理由があるんじゃないかなと
漢の武帝も宮殿は作るは、匈奴戦争を半世紀も続けるは始皇帝以上に悪政だったのに漢はずっと続いたし、もっと他に理由があるんじゃないかなと
9: 世界@名無史さん 2007/01/10(水) 21:18:50 0
函谷関以東の新領地での法治の導入が性急すぎたんだよ。
10: 世界@名無史さん 2007/01/10(水) 21:27:19 0
「中華の統一王朝」
じゃなく
「秦が周辺諸国を征服して大きくなった国」
なのでもともと不安定だったから、とか。
じゃなく
「秦が周辺諸国を征服して大きくなった国」
なのでもともと不安定だったから、とか。
11: 原長頼入道養嶽 ◆.J.A.P.4.U 2007/01/10(水) 21:28:02 0
統一政権の後継者育成を考えてなかったからだろ。
16: 世界@名無史さん 2007/01/11(木) 15:20:10 0
>>11
始皇帝は自分の死がこれほど早く来ると思ってなかったんでしょうね。
始皇帝は自分の死がこれほど早く来ると思ってなかったんでしょうね。
12: 世界@名無史さん 2007/01/10(水) 21:38:45 0
大陸の東西南北で文化が違いすぎたからじゃない?
13: 世界@名無史さん 2007/01/10(水) 21:56:12 0
始皇帝の死が早すぎたのと長城建設を急ぎすぎ、強制動員で秦の支配が安定せず人心が動揺し反乱が頻発した。
14: 世界@名無史さん 2007/01/10(水) 23:20:32 0
はじめてやることには先例がないから、どういう政策が丁度いいか加減がわからず、それで失敗したんでしょう。つまり、急激に膨張しすぎた。
漢やマウリヤ朝は段階的に拡大したし、アケメネス朝は、メディアやアッシリアなど広域支配国家という先例があった。
漢やマウリヤ朝は段階的に拡大したし、アケメネス朝は、メディアやアッシリアなど広域支配国家という先例があった。
17: 世界@名無史さん 2007/01/12(金) 03:41:47 0
急激に中央集権化を進めすぎたことかな。
秦の失敗のおかげで、漢以降は比較的このへんをうまく匙加減できたわけで。
秦の失敗のおかげで、漢以降は比較的このへんをうまく匙加減できたわけで。
27: 世界@名無史さん 2007/05/05(土) 16:30:24 0
ローマのアウグストゥスに当たる人材が現れなかったからだな。
28: 世界@名無史さん 2007/05/15(火) 01:14:17 0
具体的に言うとどんな人材なんだ?
30: 世界@名無史さん 2007/05/15(火) 20:58:16 0
>>28
初代の後をついで磐石な体制をつくり、次代へ引き継ぐような人材ってことでしょう?
初代の後をついで磐石な体制をつくり、次代へ引き継ぐような人材ってことでしょう?
32: 世界@名無史さん 2007/05/15(火) 23:57:54 O
郡県制と農民をこき使い過ぎたせいだな
秦代の郡県制
秦の国内では、紀元前4世紀の孝公の時代に郡県制が実施されていた。孝公は商鞅を登用して、咸陽を中心に41県を配置した。郡は、秦においては他国を併合した際にその領域を称することが多く、県を置くのはその後であり、それゆえ、秦の郡県制は当初から郡・県が上下の統属関係として設けられたわけではない。これを整備したのが始皇帝であり、彼は全国を36郡(のち48郡)に分け、郡の下に県を置き、皇帝任命の官吏を派遣した。
郡の行政長官は郡守と呼ばれ、警察担当として郡尉、監察担当として郡監が置かれた。県の長官は大県は令(県令)、小県は長(県長)と呼ばれた。県の警察担当として県尉、監査役ないし県令の補佐役として県丞が置かれた。
秦の国内では、紀元前4世紀の孝公の時代に郡県制が実施されていた。孝公は商鞅を登用して、咸陽を中心に41県を配置した。郡は、秦においては他国を併合した際にその領域を称することが多く、県を置くのはその後であり、それゆえ、秦の郡県制は当初から郡・県が上下の統属関係として設けられたわけではない。これを整備したのが始皇帝であり、彼は全国を36郡(のち48郡)に分け、郡の下に県を置き、皇帝任命の官吏を派遣した。
郡の行政長官は郡守と呼ばれ、警察担当として郡尉、監察担当として郡監が置かれた。県の長官は大県は令(県令)、小県は長(県長)と呼ばれた。県の警察担当として県尉、監査役ないし県令の補佐役として県丞が置かれた。
33: 世界@名無史さん 2007/05/16(水) 00:27:31 0
史記に書かれている以外のことは推測以上には言えんな。
戦国末~秦末~前漢初期の混乱で多くの記録は焼失しているだろうし、前漢期にすでに歴史の書き換えは多くが終わっていただろうし。
戦国末~秦末~前漢初期の混乱で多くの記録は焼失しているだろうし、前漢期にすでに歴史の書き換えは多くが終わっていただろうし。
38: 世界@名無史さん 2007/05/18(金) 03:54:09 0
長城建設などの賦役を課せられた人たちが、天候などの理由で期日に間に合わない
↓
間に合わなかったら死刑
↓
どうせ死刑になるなら反乱をおこしてやるぜ!
↓
間に合わなかったら死刑
↓
どうせ死刑になるなら反乱をおこしてやるぜ!
41: 世界@名無史さん 2007/05/19(土) 23:31:13 0
生え抜きの軍隊が全土を制圧するには少なすぎだったからじゃないか?
他の六国も一国ずつならともかく連合された状態じゃ手が出せなかったわけだし、全土を掌握するには少なすぎたんだろう。
他の六国も一国ずつならともかく連合された状態じゃ手が出せなかったわけだし、全土を掌握するには少なすぎたんだろう。
42: 世界@名無史さん 2007/05/20(日) 00:25:58 0
単に兵力の多少の問題ではないと思うが(もちろん軍事力は要だが)。
「史記」によると七雄時代の秦の兵力は100万人。
漢が統一を決めた「四面楚歌」の時の兵力は30万人。
実数かどうかは解らないが、比率はそんくらいと考えてもいいと思う。
「史記」によると七雄時代の秦の兵力は100万人。
漢が統一を決めた「四面楚歌」の時の兵力は30万人。
実数かどうかは解らないが、比率はそんくらいと考えてもいいと思う。
47: 世界@名無史さん 2007/05/21(月) 12:29:12 0
「泰を滅ぼすのは胡なり」と予言されているのに始皇帝が息子の胡亥を偏愛した。
49: 世界@名無史さん 2007/05/21(月) 13:26:53 0
>>47
所詮は後知恵かと。改名すれば解決した問題でもなかろう
所詮は後知恵かと。改名すれば解決した問題でもなかろう
48: 世界@名無史さん 2007/05/21(月) 13:21:44 0
漢は秦の制度を引き継いだわりに長続きするよね。
これは単純に始皇帝と高祖の人徳の差によるものだろうか?
これは単純に始皇帝と高祖の人徳の差によるものだろうか?
49: 世界@名無史さん 2007/05/21(月) 13:26:53 0
>>48
高祖の方がより辛辣で周囲に余計な幻想を持たなかったという事でしょ
高祖の方がより辛辣で周囲に余計な幻想を持たなかったという事でしょ
50: 世界@名無史さん 2007/05/21(月) 14:12:16 0
李斯列伝を読む限りでは二世皇帝が余りにも愚か且つ残虐。
52: 世界@名無史さん 2007/05/21(月) 21:13:28 0
>>50
後の大義名分論というか正統観と同じように「滅ぼされるのは天命」な感じで書き換えられていると思うけどな
後の大義名分論というか正統観と同じように「滅ぼされるのは天命」な感じで書き換えられていると思うけどな
53: 世界@名無史さん 2007/05/22(火) 01:51:48 0
史記の、胡亥を後継者にするために李斯と趙高の二人きりの陰謀、まるでみていたかのように書かれているけど誰が見てたんだろう…
気になって夜も眠れません…
気になって夜も眠れません…
54: 世界@名無史さん 2007/05/22(火) 02:23:04 0
皇帝の子である扶蘇が後継者として、後を継いでも秦は滅亡したのかな?
55: 世界@名無史さん 2007/05/22(火) 02:36:30 0
>>54
胡亥に亡国の責任を被せるためにも史記では扶蘇が賢明であるに描かれているようだけど、実際にそうだったかは闇の中だからねえ。
胡亥が宗族を大量に殺したのは事実のようだけど、扶蘇にしろ他にしろみんなそう易々と殺られるもんなんだろうか。
他の王朝の例からすれば一族間の血で血を洗う内乱があってもよさそうなもんだけど。
胡亥に亡国の責任を被せるためにも史記では扶蘇が賢明であるに描かれているようだけど、実際にそうだったかは闇の中だからねえ。
胡亥が宗族を大量に殺したのは事実のようだけど、扶蘇にしろ他にしろみんなそう易々と殺られるもんなんだろうか。
他の王朝の例からすれば一族間の血で血を洗う内乱があってもよさそうなもんだけど。
65: Ryuju ◆RlujhF6VrA 2007/09/07(金) 23:58:09 0
>>55
後世(秦を倒した漢)の人間にとって、扶蘇を美化する必要があるのか?と思う。
胡亥を叩くのは当然としても、扶蘇も所詮は秦の皇族なわけで。
正直、「始皇帝の子供は全員バカだった」とされて、同様に叩かれてもおかしくない存在だ。
まともに書かれるだけの理由が、扶蘇にはあったと思う。
後世(秦を倒した漢)の人間にとって、扶蘇を美化する必要があるのか?と思う。
胡亥を叩くのは当然としても、扶蘇も所詮は秦の皇族なわけで。
正直、「始皇帝の子供は全員バカだった」とされて、同様に叩かれてもおかしくない存在だ。
まともに書かれるだけの理由が、扶蘇にはあったと思う。
62: 世界@名無史さん 2007/08/04(土) 21:01:44 0
やはり法律で何でも縛ってればいいという安易な考えが元凶だったと思う
厳しい法律のアンチテーゼの形で始皇帝亡き後各地で反乱が起こったといってもいいだろう
厳しい法律のアンチテーゼの形で始皇帝亡き後各地で反乱が起こったといってもいいだろう
77: 世界@名無史さん 2008/05/10(土) 20:47:59 0
>>62
それはちょっと違うと思う。
厳しい法治体制で秦が強国になったのは間違いの無い所。
法治体制自体に問題があるなら、秦が強国になるまでの間国が持つわけがない。
それはちょっと違うと思う。
厳しい法治体制で秦が強国になったのは間違いの無い所。
法治体制自体に問題があるなら、秦が強国になるまでの間国が持つわけがない。
78: 世界@名無史さん 2008/05/10(土) 20:55:45 0
>>77
秦の法治体制は100年以上かけてゆっくりと発展していったもので、その独自に発展した法体系をいきなりそのままの形で他国に導入すれば、当然拒絶反応が起こるだろ。
秦の法治体制は100年以上かけてゆっくりと発展していったもので、その独自に発展した法体系をいきなりそのままの形で他国に導入すれば、当然拒絶反応が起こるだろ。
79: 世界@名無史さん 2008/05/10(土) 20:58:31 0
>>78
他国の征服は一朝一夕に成したものではないし、秦の支配下になって導入されたのは法治制度だけではないですよね。
度量衡しかり、字体しかり。
他国の征服は一朝一夕に成したものではないし、秦の支配下になって導入されたのは法治制度だけではないですよね。
度量衡しかり、字体しかり。
71: 世界@名無史さん 2007/10/14(日) 23:41:04 0
戦国時代から数えても300年超えて存続しているわけで、統一したころには王朝の末期症状が来ていたとおもう
87: 世界@名無史さん 2008/05/20(火) 01:50:22 0
織田信長がすぐ滅亡したのと同じ理由
始皇帝はキ〇ガイ過ぎる
始皇帝はキ〇ガイ過ぎる
88: 世界@名無史さん 2008/05/20(火) 23:22:57 0
キ〇ガイじゃなきゃ天下統一できねーんだろ
さらにそれを維持させるには、劉邦・家康タイプじゃないといかん
さらにそれを維持させるには、劉邦・家康タイプじゃないといかん
89: 世界@名無史さん 2008/05/20(火) 23:49:32 0
それはどうかな?
劉秀や李世民や朱重八は基地外だろうか?
…ごめん最後は余計だった
劉秀や李世民や朱重八は基地外だろうか?
…ごめん最後は余計だった
100: 世界@名無史さん 2008/05/24(土) 02:21:13 O
>>89
朱重八に関しては、明王朝自体は存続したものの、死後すぐに靖難の役が起きて南京政権が倒れているから、体制が長続きしたとは言えない気がするが。
朱重八に関しては、明王朝自体は存続したものの、死後すぐに靖難の役が起きて南京政権が倒れているから、体制が長続きしたとは言えない気がするが。
93: 世界@名無史さん 2008/05/22(木) 03:59:09 0
>>1
始皇帝があまりにも天才過ぎて、その意義と功業が定着できる時間が無いまま崩御したから。
始皇帝があまりにも天才過ぎて、その意義と功業が定着できる時間が無いまま崩御したから。
98: 秦は滅亡しなかった! 2008/05/23(金) 20:17:44 0
秦は滅亡しなかった。
ただ王様と国号が変わっただけ。
という解釈はどうだ。
秦の構築した国家システムの上に、劉王朝が乗っかった。
史記にも、劉邦が秦を攻め滅ぼしたとき、部下の・・誰だったかな、とにかくそいつが秦の文書を保存させた、という記述がある。
つまり、秦の国家システムを保存し存続させたわけだ。
ただ王様と国号が変わっただけ。
という解釈はどうだ。
秦の構築した国家システムの上に、劉王朝が乗っかった。
史記にも、劉邦が秦を攻め滅ぼしたとき、部下の・・誰だったかな、とにかくそいつが秦の文書を保存させた、という記述がある。
つまり、秦の国家システムを保存し存続させたわけだ。
99: 世界@名無史さん 2008/05/24(土) 00:02:24 0
旧秦の王族貴族で漢に仕えた人間はいたの?
120: 世界@名無史さん 2008/06/05(木) 02:48:47 0
>>99
積極的に採用している
有名なのは李信将軍の子孫かな
積極的に採用している
有名なのは李信将軍の子孫かな
101: 世界@名無史さん 2008/05/24(土) 09:24:28 0
秦は異民族だったからだろ。
国家が崩壊滅亡したというより異民族から漢民族へ政権の移行が起こっただけ。
国家が崩壊滅亡したというより異民族から漢民族へ政権の移行が起こっただけ。
105: 世界@名無史さん 2008/05/24(土) 21:38:42 0
>>101
劉邦の出身国の楚や燕辺りも漢民族かと言うと微妙な位置だと思うんだが。
劉邦の出身国の楚や燕辺りも漢民族かと言うと微妙な位置だと思うんだが。
106: 世界@名無史さん 2008/05/24(土) 23:51:18 0
>>101
あの当時は漢民族なんて概念も無く
漢族の劉ほうもまた中原に割拠する一民族の出身でしかなったはず
まあ、孤立してた秦族とくらべて、 大多数の少数民族を味方に付けた部分は大きいけどな
あの当時は漢民族なんて概念も無く
漢族の劉ほうもまた中原に割拠する一民族の出身でしかなったはず
まあ、孤立してた秦族とくらべて、 大多数の少数民族を味方に付けた部分は大きいけどな
121: 世界@名無史さん 2008/06/05(木) 04:32:06 0
一応、史記に書いてあることを真に受けると
秦&項羽
厳しすぎ
劉邦
ゆるゆるが民衆に大ウケ
という感じだが
秦&項羽
厳しすぎ
劉邦
ゆるゆるが民衆に大ウケ
という感じだが
122: 世界@名無史さん 2008/06/05(木) 09:38:44 0
>>121
民衆ではなく、現実に社会に影響力を持っている領主、貴族層にゆるい、ってのが正しい認識だと思うがな>劉邦
足利尊氏みたいなもんだ。
民衆ではなく、現実に社会に影響力を持っている領主、貴族層にゆるい、ってのが正しい認識だと思うがな>劉邦
足利尊氏みたいなもんだ。
129: 世界@名無史さん 2008/06/24(火) 04:12:21 0
秦は戦いに使ったエネルギーをそのまま阿房宮やら驪山稜の建設にまわしたから、平和を望んだ民衆の怒りが募る
これがあっての陳勝・呉広の乱が起こる+始皇帝が死んで胡垓&張高じゃ手に負えない
こんな感じじゃね
これがあっての陳勝・呉広の乱が起こる+始皇帝が死んで胡垓&張高じゃ手に負えない
こんな感じじゃね
130: 世界@名無史さん 2008/06/24(火) 06:52:24 0
秦の章邯では楚の項羽や漢の韓信にとても対抗できなかったから。
133: 世界@名無史さん 2008/06/24(火) 19:46:44 0
巨鹿の戦いでの敗戦が契機となってそれまでの優勢が一気に逆転、滅亡まで追い込まれた。
鉅鹿の戦い(きょろくのたたかい)は、中国陳勝・呉広の乱直後の紀元前207年に項羽の楚軍と章邯の秦軍との間で鉅鹿(現在の河北省邢台市平郷県)で行われた戦い。
兵力で劣る項羽の楚軍が勝利したことにより、項羽の下には諸侯の兵が集まり始めた。章邯の秦軍はその後九度に及ぶ項羽の諸侯連合軍との会戦に全て敗北し、最終的に章邯が部下の司馬欣・董翳の説得に応じて楚軍に降伏して秦は継戦能力を事実上失うこととなった。
兵力で劣る項羽の楚軍が勝利したことにより、項羽の下には諸侯の兵が集まり始めた。章邯の秦軍はその後九度に及ぶ項羽の諸侯連合軍との会戦に全て敗北し、最終的に章邯が部下の司馬欣・董翳の説得に応じて楚軍に降伏して秦は継戦能力を事実上失うこととなった。
134: 世界@名無史さん 2008/06/25(水) 04:36:20 0
農民が反乱するとは思わなかったんじゃね?
陳勝・呉広の乱が中国史上初の記録された民衆反乱だし
陳勝・呉広の乱が中国史上初の記録された民衆反乱だし
引用元: ・どうして秦は短期間で滅亡したのか